国立・府中・稲城旅行記(ブログ) 一覧に戻る
台風接近で天候が危ぶまれてきましたが、何とか曇り空の中、歩いて来ました。<br /><br />「下高井戸宿」<br />天保14年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると下高井戸宿の宿内家数は183軒、うち本陣1、問屋1、旅籠3軒で、宿内人口は約900人。上高井戸宿とは合宿(あいじゅく)で問屋業務は月のうち上十五日を勤めました。<br /><br />布田5宿<br /><br />府中宿:かつては武蔵国の国府がおかれた場所で政治、文化の中心地であったが、鎌倉幕府の崩壊で衰退。江戸時代に甲州街道の宿場として賑わいを取り戻した。

甲州街道徒歩旅No2.高井戸(2)から布田5宿(3)を経て、府中宿(4)へと西進する

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2011/05/26 - 2011/05/26

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ムッシュ

ムッシュさん

台風接近で天候が危ぶまれてきましたが、何とか曇り空の中、歩いて来ました。

「下高井戸宿」
天保14年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると下高井戸宿の宿内家数は183軒、うち本陣1、問屋1、旅籠3軒で、宿内人口は約900人。上高井戸宿とは合宿(あいじゅく)で問屋業務は月のうち上十五日を勤めました。

布田5宿

府中宿:かつては武蔵国の国府がおかれた場所で政治、文化の中心地であったが、鎌倉幕府の崩壊で衰退。江戸時代に甲州街道の宿場として賑わいを取り戻した。

同行者
社員・団体旅行
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 下高井戸の交差点を過ぎると、【宗源寺】がある。<br />http://www.sougenji.org/<br />宗源寺には不動堂があり、かつて高台にあった不動堂が”高井堂”と呼ばれ、それが起源で、現在の地名”高井戸”になったと言われてル。<br />慶長年間(1596~1614)、畠山重忠の末裔、江戸遠守太郎判官重永の末孫吉田宗利の開基とあり、その法名宗源を寺名としたとのこと。<br />境内にある不動堂は、この近くにあった修験道の本覚院(明治5年廃寺)にあり、高台にあったことから「高井堂」と呼ばれていた。これが高井戸の地名の起原とのことである。<br /><br />叡昌山宗源寺は、十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺です。  <br /> 当寺の檀家であった有名な地質学者志賀重昻(じゅうこう)が記した「宗源寺開祖碑」によると、当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族江江戸遠江守太郎判官重永の孫で甲斐国(山梨県)吉田郷に住した吉田宗利であり、宗利が法華宗に帰依して法名「宗源」と称したのにちなみ、末孫の日善がこの地に一寺を開いて寺名としたと伝えます。そして、その時期は慶長(1596~1614)初年の頃とされています。<br />  境内の不動堂は、もとこの近くにあった修験道の本覚院(明治五年廃寺)のものでしたが、明治四十四年に現在地に移し、昭和四十二年に改築したものです。<br />  なお、この不動堂はかつて高台にあったため、「高井堂」と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もあります。<br />  当寺蔵の文化財としては、南北朝初期の板碑や滝沢救馬(1713没)の筆になる釈迦涅槃図が保存されています。<br /><br />     昭和五十五年二月二十日  杉並区教育委員会

    下高井戸の交差点を過ぎると、【宗源寺】がある。
    http://www.sougenji.org/
    宗源寺には不動堂があり、かつて高台にあった不動堂が”高井堂”と呼ばれ、それが起源で、現在の地名”高井戸”になったと言われてル。
    慶長年間(1596~1614)、畠山重忠の末裔、江戸遠守太郎判官重永の末孫吉田宗利の開基とあり、その法名宗源を寺名としたとのこと。
    境内にある不動堂は、この近くにあった修験道の本覚院(明治5年廃寺)にあり、高台にあったことから「高井堂」と呼ばれていた。これが高井戸の地名の起原とのことである。

    叡昌山宗源寺は、十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺です。  
     当寺の檀家であった有名な地質学者志賀重昻(じゅうこう)が記した「宗源寺開祖碑」によると、当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族江江戸遠江守太郎判官重永の孫で甲斐国(山梨県)吉田郷に住した吉田宗利であり、宗利が法華宗に帰依して法名「宗源」と称したのにちなみ、末孫の日善がこの地に一寺を開いて寺名としたと伝えます。そして、その時期は慶長(1596~1614)初年の頃とされています。
      境内の不動堂は、もとこの近くにあった修験道の本覚院(明治五年廃寺)のものでしたが、明治四十四年に現在地に移し、昭和四十二年に改築したものです。
      なお、この不動堂はかつて高台にあったため、「高井堂」と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もあります。
      当寺蔵の文化財としては、南北朝初期の板碑や滝沢救馬(1713没)の筆になる釈迦涅槃図が保存されています。

         昭和五十五年二月二十日  杉並区教育委員会

  • 【橋場跡と地蔵様】<br />地蔵様は下山一族により建立。<br />*明和八年(1771年)に地頭名主を勤めた下山家が造立した下山地蔵があります、身代わり地蔵とも出世地蔵とも呼ばれている。

    【橋場跡と地蔵様】
    地蔵様は下山一族により建立。
    *明和八年(1771年)に地頭名主を勤めた下山家が造立した下山地蔵があります、身代わり地蔵とも出世地蔵とも呼ばれている。

  • 現代の大橋場<br />仙川に架かる大川橋を渡ると、長かった東京の区部から現在の調布市に入る。

    現代の大橋場
    仙川に架かる大川橋を渡ると、長かった東京の区部から現在の調布市に入る。

  • 【仙川一里塚碑】江戸日本橋より数えて5里目です。<br />仙川駅口の右側コンビニ(セブニレブン)の前に、仙川一里塚跡碑がある。<br />かつては、ここが甲州道中と三鷹街道の交差点であった。<br /><br />【仙川一里塚跡】 市史跡(昭和46年2月10日指定) <br />  この地は、仙川一里塚の跡である。江戸に日本橋を起点にして五里(約二〇キロメートル)の距離にあり、甲州街道と三鷹街道の交差点にあたる。この塚は、徳川家康が天下を平定してから主要街道に一里塚の制度ができ、慶長七年(1602)江戸・甲府間に甲州街道が完成した後に築かれたものである。<br /> 一里塚は、街道をゆく旅人が、正確な里程を知る目じるしとして築かれたのである。塚は普通五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)の規模で、エノキが植えられたが、地方によってはマツやケヤキを植えたところもある。エノキの実は甘く、若芽も食べられることから、旅人にとっては空腹をいやしたり木陰のもとで疲れをとる場所でもあった。<br />  この手前の一里塚は上北沢で、次が小島一里塚となる。現在昔のおもかげは全くみられないが、土地の人は今でもこのあたりを塚と呼んでおり、地名に当時の名残をとどめている。<br />                   平成六年三月 調布市教育委員会

    【仙川一里塚碑】江戸日本橋より数えて5里目です。
    仙川駅口の右側コンビニ(セブニレブン)の前に、仙川一里塚跡碑がある。
    かつては、ここが甲州道中と三鷹街道の交差点であった。

    【仙川一里塚跡】 市史跡(昭和46年2月10日指定) 
      この地は、仙川一里塚の跡である。江戸に日本橋を起点にして五里(約二〇キロメートル)の距離にあり、甲州街道と三鷹街道の交差点にあたる。この塚は、徳川家康が天下を平定してから主要街道に一里塚の制度ができ、慶長七年(1602)江戸・甲府間に甲州街道が完成した後に築かれたものである。
     一里塚は、街道をゆく旅人が、正確な里程を知る目じるしとして築かれたのである。塚は普通五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)の規模で、エノキが植えられたが、地方によってはマツやケヤキを植えたところもある。エノキの実は甘く、若芽も食べられることから、旅人にとっては空腹をいやしたり木陰のもとで疲れをとる場所でもあった。
      この手前の一里塚は上北沢で、次が小島一里塚となる。現在昔のおもかげは全くみられないが、土地の人は今でもこのあたりを塚と呼んでおり、地名に当時の名残をとどめている。
                       平成六年三月 調布市教育委員会

  • 【滝坂旧道道標】 <br />「馬宿 川口屋」とも刻まれている。この川口屋は昭和初期まで営業されてた。<br />旧道口には標石「瀧坂旧道 馬宿川口屋」があります、一旦雨になると瀧のように流れる急坂の難所でした、ここには馬宿川口屋がありました。<br />旧甲州街道分岐から旧道になっています。<br />*ここにはかつて断崖があって、甲州街道の難所として知られていた。明治天皇が、行幸の際にここで落馬しそうになって、その後坂を切り崩してなだらかにする工事が行われた。

    【滝坂旧道道標】 
    「馬宿 川口屋」とも刻まれている。この川口屋は昭和初期まで営業されてた。
    旧道口には標石「瀧坂旧道 馬宿川口屋」があります、一旦雨になると瀧のように流れる急坂の難所でした、ここには馬宿川口屋がありました。
    旧甲州街道分岐から旧道になっています。
    *ここにはかつて断崖があって、甲州街道の難所として知られていた。明治天皇が、行幸の際にここで落馬しそうになって、その後坂を切り崩してなだらかにする工事が行われた。

  • 滝坂にある薬師如来さん。傍らには首の欠けた地蔵菩薩立像があります

    滝坂にある薬師如来さん。傍らには首の欠けた地蔵菩薩立像があります

  • 木陰のある下り坂、滝坂です。20号線の騒音から離れて静かな雰囲気。

    木陰のある下り坂、滝坂です。20号線の騒音から離れて静かな雰囲気。

  • 【金龍寺山門】<br />真っ赤な姿が艶やかに印象的。<br />曹洞宗大雲山金龍寺。建永元年(1206)栄西禅師の開基。慶安二年(1649)徳川三代将軍家光が鷹狩りの際に、当寺で休息した。<br />境内には大閻魔像、貞享元年(1684)建立の青面金剛像庚申塔、復元高札場等があります。<br /><br />http://www.kinryu.com/

    【金龍寺山門】
    真っ赤な姿が艶やかに印象的。
    曹洞宗大雲山金龍寺。建永元年(1206)栄西禅師の開基。慶安二年(1649)徳川三代将軍家光が鷹狩りの際に、当寺で休息した。
    境内には大閻魔像、貞享元年(1684)建立の青面金剛像庚申塔、復元高札場等があります。

    http://www.kinryu.com/

  • 金龍寺の境内には、閻魔大王さまが鎮座してる。<br /><br />調布市の西つつじヶ丘2丁目、旧街道右側にある大雲山金龍寺。<br />曹洞宗で、建永元年(1206年)の創建で、本山は永平寺総持寺である。<br />旧金子村の寺院で、義経一行が陸奥に落ちる時に立ち寄り、ここで前途の無事を祈ったと伝えられている。<br /><br />又、境内にある閻魔十王の石像は、源頼朝の祈願によるもので、今でも十王街道(川越から鎌倉街道に出る拠点)の名称が残っている。<br />慶安2年(1649年)、家光が狩猟の途次、ここで休憩し「深谷山」の号を附し、寺領13石4斗の朱印状を与えている。<br />なお、寛文5年の再建の時に、山号を現在の大雲山に改めている。<br />赤い山門は当時からあるものとか。

    金龍寺の境内には、閻魔大王さまが鎮座してる。

    調布市の西つつじヶ丘2丁目、旧街道右側にある大雲山金龍寺。
    曹洞宗で、建永元年(1206年)の創建で、本山は永平寺総持寺である。
    旧金子村の寺院で、義経一行が陸奥に落ちる時に立ち寄り、ここで前途の無事を祈ったと伝えられている。

    又、境内にある閻魔十王の石像は、源頼朝の祈願によるもので、今でも十王街道(川越から鎌倉街道に出る拠点)の名称が残っている。
    慶安2年(1649年)、家光が狩猟の途次、ここで休憩し「深谷山」の号を附し、寺領13石4斗の朱印状を与えている。
    なお、寛文5年の再建の時に、山号を現在の大雲山に改めている。
    赤い山門は当時からあるものとか。

  • 徳川家位牌、高札が残っています。

    徳川家位牌、高札が残っています。

  • 【菊野台交番の先に妙円地蔵】<br />金子村に嫁いできた女性が盲目となり出家し、寿量妙円尼と号しました。文化二年(1805)浄財をもとに地蔵菩薩像を造立し、文化14年(1817年)念仏を唱えながら往生した。<br /><br />妙円尼は、俗名を熊といい、武蔵国多摩郡酒井(境)村の六右衛門の長女として生まれ、金子村(現西つつじヶ丘、菊野台)の新助に嫁いだが、夫が若死にし、その弟と再婚した。<br />しかし、恵まれない境遇からか、両眼を失明してしまう。これを機に、深大寺より寿量妙円という法号をもらい尼となる。<br />路傍で鐘を鳴らし念仏を唱え、集まった浄財で文化2年(1805年)に地蔵を作り、村人たちの安穏を祈り、念仏往生を遂げたようだ。<br />以後、この地蔵は妙円地蔵と呼ばれるようになった。<br />妙円がたどった運命は、滝沢馬琴の「玄同放言」に詳しく紹介され、一躍有名になった。なお、妙円の墓は深大寺の三味堂に残されている。

    【菊野台交番の先に妙円地蔵】
    金子村に嫁いできた女性が盲目となり出家し、寿量妙円尼と号しました。文化二年(1805)浄財をもとに地蔵菩薩像を造立し、文化14年(1817年)念仏を唱えながら往生した。

    妙円尼は、俗名を熊といい、武蔵国多摩郡酒井(境)村の六右衛門の長女として生まれ、金子村(現西つつじヶ丘、菊野台)の新助に嫁いだが、夫が若死にし、その弟と再婚した。
    しかし、恵まれない境遇からか、両眼を失明してしまう。これを機に、深大寺より寿量妙円という法号をもらい尼となる。
    路傍で鐘を鳴らし念仏を唱え、集まった浄財で文化2年(1805年)に地蔵を作り、村人たちの安穏を祈り、念仏往生を遂げたようだ。
    以後、この地蔵は妙円地蔵と呼ばれるようになった。
    妙円がたどった運命は、滝沢馬琴の「玄同放言」に詳しく紹介され、一躍有名になった。なお、妙円の墓は深大寺の三味堂に残されている。

  • 野川を馬橋で渡ると【布田五ケ宿の国領宿】に到着。<br /><br />布田五ケ宿は国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿の五宿で構成された合宿。江戸日本橋から5里32町余り(約23.5km)と近く、本陣、脇本陣は無く、旅籠9軒と小宿。<br />5宿は、月に6日ごとに交代する当番制であった。

    野川を馬橋で渡ると【布田五ケ宿の国領宿】に到着。

    布田五ケ宿は国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿の五宿で構成された合宿。江戸日本橋から5里32町余り(約23.5km)と近く、本陣、脇本陣は無く、旅籠9軒と小宿。
    5宿は、月に6日ごとに交代する当番制であった。

  • 【円福寺の六地蔵】が旅人を見守る。<br />人が死ぬと行く六道すなわち天上界、人間界、修羅、餓鬼、畜生、地獄には地蔵菩薩がいて人間をすくってくれるという六地蔵信仰。<br />【浄土真宗本願寺派本誓山圓福寺】<br />当初鎌倉の切通に創建され、武田信玄が中興開基した。参道口の六地蔵は天明五年(1785)の造立です。<br /><br />

    【円福寺の六地蔵】が旅人を見守る。
    人が死ぬと行く六道すなわち天上界、人間界、修羅、餓鬼、畜生、地獄には地蔵菩薩がいて人間をすくってくれるという六地蔵信仰。
    【浄土真宗本願寺派本誓山圓福寺】
    当初鎌倉の切通に創建され、武田信玄が中興開基した。参道口の六地蔵は天明五年(1785)の造立です。

  • 調布駅北口をさらに北に進む、布多天神社につながる商店街。<br /><br />水木しげるの妖怪フィギュアがあちこちに。

    調布駅北口をさらに北に進む、布多天神社につながる商店街。

    水木しげるの妖怪フィギュアがあちこちに。

  • 【布多天神社】の入口<br /><br />

    【布多天神社】の入口

  • 【布多天神社】   http://www.fudatenjin.or.jp/<br />この神社は延長5年(927年)に造られた。1000年以上の歴史を持つ由緒ある神社。江戸時代に甲州街道が作られ、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができ、布田五宿と呼ばれました。当時、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。<br />平安時代初期、この地の長者が布多天神のお告げにより木綿織りを習得し、この布を多摩川に晒し、朝廷に貢物(調)として献上したところ、天皇はこの布を調布(てづくり)と命名。以来調布の里と呼ばれた。<br /><br />

    【布多天神社】   http://www.fudatenjin.or.jp/
    この神社は延長5年(927年)に造られた。1000年以上の歴史を持つ由緒ある神社。江戸時代に甲州街道が作られ、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができ、布田五宿と呼ばれました。当時、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。
    平安時代初期、この地の長者が布多天神のお告げにより木綿織りを習得し、この布を多摩川に晒し、朝廷に貢物(調)として献上したところ、天皇はこの布を調布(てづくり)と命名。以来調布の里と呼ばれた。

  • 布多天神社が多摩川の洪水を避けて1477年に現在の場所に移り、その時に、もともとの御祭神に菅原道真を配祀したと言われてる。<br />この「牛の像」は「布多天神社御神牛」と呼ばれ、菅原道真が元々「牛」を大切にしていた事で、亡くなった後、送葬の途中に柩車の牛が道真の事を想い悲しみのあまり臥して動かなくなったと言う。その逸話より作られた「像」と言われてる。

    布多天神社が多摩川の洪水を避けて1477年に現在の場所に移り、その時に、もともとの御祭神に菅原道真を配祀したと言われてる。
    この「牛の像」は「布多天神社御神牛」と呼ばれ、菅原道真が元々「牛」を大切にしていた事で、亡くなった後、送葬の途中に柩車の牛が道真の事を想い悲しみのあまり臥して動かなくなったと言う。その逸話より作られた「像」と言われてる。

  • 【源正寺六地蔵】六道輪廻の思想から生まれた六地蔵さん。<br />臨済宗建長寺派金剛山源正寺は、太田道灌の弟資忠(すけただ)の子孫太田対馬守盛久の創建です。<br />参道口の祠内には六地蔵、庚申塔等が安置され、並びの大乗妙典日本廻国供養塔は天明3年(1783年)の建立。

    【源正寺六地蔵】六道輪廻の思想から生まれた六地蔵さん。
    臨済宗建長寺派金剛山源正寺は、太田道灌の弟資忠(すけただ)の子孫太田対馬守盛久の創建です。
    参道口の祠内には六地蔵、庚申塔等が安置され、並びの大乗妙典日本廻国供養塔は天明3年(1783年)の建立。

  • 【天台宗長谷山西光寺】<br />境内には近藤勇坐像があります。<br />上石原宿の中心部にあり、家光より慶安2年(1649年)に14石2斗の御朱印状を賜っている。<br />本尊は阿弥陀如来三尊だ。開山は応永2年(1396年)である。

    【天台宗長谷山西光寺】
    境内には近藤勇坐像があります。
    上石原宿の中心部にあり、家光より慶安2年(1649年)に14石2斗の御朱印状を賜っている。
    本尊は阿弥陀如来三尊だ。開山は応永2年(1396年)である。

  • 【新撰組局長の近藤勇の座像】が境内にあります。<br />*新選組局長近藤勇は布田5宿内、天保5(1834)年に上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、幼い頃より武芸に親しみ、後に天然理心流近藤周助に師事し、近藤家の養子となってその流派を受け継いだとある。<br />*京都の新撰組で鳥羽伏見の戦いに敗れた江戸に戻った。<br />*徳川慶喜は上野寛永寺に恭順、幕府総裁勝海舟は官軍との間で江戸城無血開城を模索する中、過激分子の新選組が府内にいるのではまとまる話もまとまらないと一計を案じました。近藤勇を大名格の若年寄、土方歳三を旗本格の寄合席に取立て、軍資金と武器を与え甲府城の死守を命じました、慶応3(1867)年3月一党は甲陽鎮撫隊を組織し江戸を勇躍出立しました。甲州街道を甲府に向けて出陣した。その途中この西光寺に立寄った。<br /><br />調布市上石原の西光寺山門脇に大きな近藤勇坐像がある。平成13年、地元の新選組研究団体「近藤勇と新選組の会」によって建立されたものだ。<br />慶応4年(1868年)近藤勇が甲陽鎮部隊を率いてこの地より甲府に向かった。<br />その時、氏神である上石原若宮八幡宮に戦勝を祈願し、西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家の歓待を受けた。<br /><br />甲州街道沿いの西光寺に、その近藤勇の坐像があった。<br />真一文字に結んだ口元が、近藤勇のイメージ通りだ。<br />近くにあった説明板によると、彼は、天保5(1834)年に上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、幼い頃より武芸に親しみ、後に天然理心流近藤周助に師事し、近藤家の養子となってその流派を受け継いだとある。<br />彼は最期に甲陽鎮撫隊を編成して、ここから故郷の村人に見送られながら、甲州街道を西に向けて出陣していったらしい。<br />板橋で処刑された後、会津藩主・松平容保が贈った法号に、彼の生涯と人となりがしのばれる。<br />その法号は、「貫天院殿純忠誠義大居士」という。<br /><br />*【新撰組組長 近藤勇】 <br /> 近藤勇は天保五年(1834)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1-6)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼いころより武芸に親しみ、嘉永元年天然 理心流宗家近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で、襲名披露の野試合を行った。<br />  文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年六月浪士隊が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。<br />  然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。<br /> その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出発し村境まで歩いた。<br />  天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることができたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに破れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月二十五日江戸板橋で刑死、時にわずか三十五歳波瀾万丈の生涯を閉じた。<br />  会津藩主、松平容保は「貫天院殿純忠義大居士」の法号も贈りその功績をたたえている。<br />  調布市「近藤勇と新撰組の会」は、没後百三十年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。<br />  奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の 招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。<br />              平成13年10月8日 近藤勇座像建立委員会<br /><br /><br />

    【新撰組局長の近藤勇の座像】が境内にあります。
    *新選組局長近藤勇は布田5宿内、天保5(1834)年に上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、幼い頃より武芸に親しみ、後に天然理心流近藤周助に師事し、近藤家の養子となってその流派を受け継いだとある。
    *京都の新撰組で鳥羽伏見の戦いに敗れた江戸に戻った。
    *徳川慶喜は上野寛永寺に恭順、幕府総裁勝海舟は官軍との間で江戸城無血開城を模索する中、過激分子の新選組が府内にいるのではまとまる話もまとまらないと一計を案じました。近藤勇を大名格の若年寄、土方歳三を旗本格の寄合席に取立て、軍資金と武器を与え甲府城の死守を命じました、慶応3(1867)年3月一党は甲陽鎮撫隊を組織し江戸を勇躍出立しました。甲州街道を甲府に向けて出陣した。その途中この西光寺に立寄った。

    調布市上石原の西光寺山門脇に大きな近藤勇坐像がある。平成13年、地元の新選組研究団体「近藤勇と新選組の会」によって建立されたものだ。
    慶応4年(1868年)近藤勇が甲陽鎮部隊を率いてこの地より甲府に向かった。
    その時、氏神である上石原若宮八幡宮に戦勝を祈願し、西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家の歓待を受けた。

    甲州街道沿いの西光寺に、その近藤勇の坐像があった。
    真一文字に結んだ口元が、近藤勇のイメージ通りだ。
    近くにあった説明板によると、彼は、天保5(1834)年に上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、幼い頃より武芸に親しみ、後に天然理心流近藤周助に師事し、近藤家の養子となってその流派を受け継いだとある。
    彼は最期に甲陽鎮撫隊を編成して、ここから故郷の村人に見送られながら、甲州街道を西に向けて出陣していったらしい。
    板橋で処刑された後、会津藩主・松平容保が贈った法号に、彼の生涯と人となりがしのばれる。
    その法号は、「貫天院殿純忠誠義大居士」という。

    *【新撰組組長 近藤勇】 
     近藤勇は天保五年(1834)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1-6)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼いころより武芸に親しみ、嘉永元年天然 理心流宗家近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で、襲名披露の野試合を行った。
      文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年六月浪士隊が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
      然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
     その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出発し村境まで歩いた。
      天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることができたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに破れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月二十五日江戸板橋で刑死、時にわずか三十五歳波瀾万丈の生涯を閉じた。
      会津藩主、松平容保は「貫天院殿純忠義大居士」の法号も贈りその功績をたたえている。
      調布市「近藤勇と新撰組の会」は、没後百三十年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。
      奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の 招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。
                  平成13年10月8日 近藤勇座像建立委員会


  • 【西光寺の仁王門】<br />大僧都弁雄が宝永年間に建てたと記録がのこる。<br />仁王門は2階に銅鐘が吊るされた鐘楼仁王門です。<br /> 市指定文化財に指定されており、調布市HPでは、「市内に残る唯一の仁王門で、寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(1704~10)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである」としています。<br /> 釣鐘の銘には、「西光蘭若、(略)、享保二丁酉天十一月吉日 願主 辨雄法印、長谷山聖天院西光寺、當寺務 本願施主 恭辨法印、下野国佐野天明町鋳師大工 長谷川弥市 藤原吉半 橋想兵衛、(略)」とあり、釣鐘は61世弁雄(?-1705)の願いにて享保二年(1717) 62世恭弁(?-1725)の時に完成されたと解釈できます。<br /> 佐野天明鋳物は平安時代の天慶2年(939)に、下野国の豪族であった藤原秀郷が、河内国から5人の鋳物師(いもじ)を連れてきたのが始めといわれ、室町時代になると茶の湯の世界で筑前の芦屋の釜と並んでその名を知られました。<br /> 長谷川弥市作のものは、ほかにも下記などがあります。<br />  埼玉県加須市・不動ケ岡不動尊總願寺倶利伽羅不動剣 (1739年)<br />  群馬県太田市鳥山上町・西慶寺梵鐘 (1742)<br />  群馬県太田市細谷町・教王寺(真言宗)梵鐘 (1748年)

    【西光寺の仁王門】
    大僧都弁雄が宝永年間に建てたと記録がのこる。
    仁王門は2階に銅鐘が吊るされた鐘楼仁王門です。
     市指定文化財に指定されており、調布市HPでは、「市内に残る唯一の仁王門で、寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(1704~10)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである」としています。
     釣鐘の銘には、「西光蘭若、(略)、享保二丁酉天十一月吉日 願主 辨雄法印、長谷山聖天院西光寺、當寺務 本願施主 恭辨法印、下野国佐野天明町鋳師大工 長谷川弥市 藤原吉半 橋想兵衛、(略)」とあり、釣鐘は61世弁雄(?-1705)の願いにて享保二年(1717) 62世恭弁(?-1725)の時に完成されたと解釈できます。
     佐野天明鋳物は平安時代の天慶2年(939)に、下野国の豪族であった藤原秀郷が、河内国から5人の鋳物師(いもじ)を連れてきたのが始めといわれ、室町時代になると茶の湯の世界で筑前の芦屋の釜と並んでその名を知られました。
     長谷川弥市作のものは、ほかにも下記などがあります。
      埼玉県加須市・不動ケ岡不動尊總願寺倶利伽羅不動剣 (1739年)
      群馬県太田市鳥山上町・西慶寺梵鐘 (1742)
      群馬県太田市細谷町・教王寺(真言宗)梵鐘 (1748年)

  • 仁王門

    仁王門

  • 【行人塚】 飛田給薬師堂があり、境内に行人塚。<br />仙台藩典医の松前意仙(いせん)は薬師如来に帰依礼拝の心篤く、諸国遍歴の末に貞享三年(1686)この地に留まり、石造瑠璃光薬師如来立像を彫り上げ、墓穴を掘り、村人に「鉦のやんだときは、わが命のつきたときである・・・」といい残し、元禄15年(1702)に入定した。死後村人によって塚が築かれ行人塚と呼び、薬師堂には意仙が彫った石造瑠璃光薬師如来立像を安置した。<br /><br />街道左側にある瑠璃光寺薬師堂。<br /><br />ここの薬師如来は、貞享3年(1686年)に元仙台藩医師で、<br />仏門に帰依した松前意仙が彫ったとのことだ。<br /><br />境内には、その松前意仙の墓(行人塚)があり、調布市の史跡に指定されている。<br />なお、意仙は自ら石造の薬師如来像を彫り、大願成就の後、薬師像の傍に穴を掘り、中に入って、鉦をたたきながら、お経を唱えて、そのまま入定(死去)したと伝えられている。<br /><br />【行人塚】 市史跡(昭和49年7月12日指定) <br />  この塚は、仙台の人松前意仙の入定塚である。伊達藩主にして医師であった意仙は、薬師如来に帰依礼拝の心があつく、各地の仏閣廻拝の末ここに足をとどめた。その後、意仙は石仏説明のとおり、薬師如来像をつくり、大願成就後、自ら墓穴を掘り、村人に「鉦のやんだときは、わが命のつきたときである・・・。」と言い残してその中に入り、端座叩鉦誦結三昧の末、元禄十五年(1702)一月十二日に入定したという。<br /> その死後、村人によって塚が築かれて「行人塚」と呼ばれている。<br /> 意仙の感化は、里人はもとより近郷にもおよび、その慈悲の深さに人々は敬拝し、碑を建てて信仰に励んだといわれている。郷土の民間信仰史上三百年の長い間にわたり、今日なお大きな宗教的感化を残している。<br />  現在の塚は、昭和四十七年に改築されたもので、この工事の際に専門家が発掘し、遺骨の存在が確認された。<br />            昭和六十三年三月二十四日 調布市教育委員会

    【行人塚】 飛田給薬師堂があり、境内に行人塚。
    仙台藩典医の松前意仙(いせん)は薬師如来に帰依礼拝の心篤く、諸国遍歴の末に貞享三年(1686)この地に留まり、石造瑠璃光薬師如来立像を彫り上げ、墓穴を掘り、村人に「鉦のやんだときは、わが命のつきたときである・・・」といい残し、元禄15年(1702)に入定した。死後村人によって塚が築かれ行人塚と呼び、薬師堂には意仙が彫った石造瑠璃光薬師如来立像を安置した。

    街道左側にある瑠璃光寺薬師堂。

    ここの薬師如来は、貞享3年(1686年)に元仙台藩医師で、
    仏門に帰依した松前意仙が彫ったとのことだ。

    境内には、その松前意仙の墓(行人塚)があり、調布市の史跡に指定されている。
    なお、意仙は自ら石造の薬師如来像を彫り、大願成就の後、薬師像の傍に穴を掘り、中に入って、鉦をたたきながら、お経を唱えて、そのまま入定(死去)したと伝えられている。

    【行人塚】 市史跡(昭和49年7月12日指定) 
      この塚は、仙台の人松前意仙の入定塚である。伊達藩主にして医師であった意仙は、薬師如来に帰依礼拝の心があつく、各地の仏閣廻拝の末ここに足をとどめた。その後、意仙は石仏説明のとおり、薬師如来像をつくり、大願成就後、自ら墓穴を掘り、村人に「鉦のやんだときは、わが命のつきたときである・・・。」と言い残してその中に入り、端座叩鉦誦結三昧の末、元禄十五年(1702)一月十二日に入定したという。
     その死後、村人によって塚が築かれて「行人塚」と呼ばれている。
     意仙の感化は、里人はもとより近郷にもおよび、その慈悲の深さに人々は敬拝し、碑を建てて信仰に励んだといわれている。郷土の民間信仰史上三百年の長い間にわたり、今日なお大きな宗教的感化を残している。
      現在の塚は、昭和四十七年に改築されたもので、この工事の際に専門家が発掘し、遺骨の存在が確認された。
                昭和六十三年三月二十四日 調布市教育委員会

  • 【観音院の6体のお地蔵様】<br />甲州街道右側、府中市白糸台3丁目にある【神明山金剛寺観音院】<br />。<br />かつては染屋村にあったため、染谷観音として、今も親しまれている。<br />寛永8年(1631年)に深大寺第54世良明法印の法弟、良雲和尚によって開山された。<br />当時は、深大寺の隠居寺として、高僧が住職をしていた。<br />門前に多くの石仏が集めらてあった。左端の石塔は馬頭観世音である。

    【観音院の6体のお地蔵様】
    甲州街道右側、府中市白糸台3丁目にある【神明山金剛寺観音院】

    かつては染屋村にあったため、染谷観音として、今も親しまれている。
    寛永8年(1631年)に深大寺第54世良明法印の法弟、良雲和尚によって開山された。
    当時は、深大寺の隠居寺として、高僧が住職をしていた。
    門前に多くの石仏が集めらてあった。左端の石塔は馬頭観世音である。

  • 【下染屋石碑】<br />下染屋(しもそめや)は現在の白糸台3丁目の旧甲州街道沿いに集落の中心があった。<br />幕末の地誌には、民戸37軒が甲州街道沿いに並んでいた。地名の起こりは、調布の布を染めたところで、鎌倉時代には染殿があった所といわれている。<br />もともとは染屋村であったが、その後、上下2村に分かれたが、その時期は不明とのこと。<br />寛永12年(1635年)の検地帳には、下染屋となっている由。なお、染屋の地名は、南北朝時代の資料にも載っている。

    【下染屋石碑】
    下染屋(しもそめや)は現在の白糸台3丁目の旧甲州街道沿いに集落の中心があった。
    幕末の地誌には、民戸37軒が甲州街道沿いに並んでいた。地名の起こりは、調布の布を染めたところで、鎌倉時代には染殿があった所といわれている。
    もともとは染屋村であったが、その後、上下2村に分かれたが、その時期は不明とのこと。
    寛永12年(1635年)の検地帳には、下染屋となっている由。なお、染屋の地名は、南北朝時代の資料にも載っている。

  • 【染屋不動尊】<br />小さな上染屋八幡神社宝物殿があり、中には国宝”金銅阿弥陀如来立像”が納められている。北条と新田義貞の分倍河原の戦いの際、元上州八幡庄にあった像を里見城主が陣中守護のため持ってきたもの。<br />本尊の阿弥陀如来像は国の重要文化財

    【染屋不動尊】
    小さな上染屋八幡神社宝物殿があり、中には国宝”金銅阿弥陀如来立像”が納められている。北条と新田義貞の分倍河原の戦いの際、元上州八幡庄にあった像を里見城主が陣中守護のため持ってきたもの。
    本尊の阿弥陀如来像は国の重要文化財

  • 【上染屋石碑】<br />  上染屋(かみぞめや)の集落はもともと多摩川のほとり、小字でいえば、龍ヶ島・亀沢・鶴代の辺りにありましたが、度重なる洪水を避けて、現在の甲州街道沿いの白糸台一丁目の一部に移ったものといわれています。<br />  地名の起こりは、俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所とか、鎌倉時代に染殿があった所とかいわれ、染屋の名は南北朝時代の資料にも見えます。<br />  古くは、染屋という一つの村落であったものが、時期は不明ですが上染屋と下染屋に分かれたものです。嘉永十二年(1635)の地検帳には、上染屋の名が記録されています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「甲州街道の村にて、民戸五十三軒、往還の左右に並居」とあります

    【上染屋石碑】
      上染屋(かみぞめや)の集落はもともと多摩川のほとり、小字でいえば、龍ヶ島・亀沢・鶴代の辺りにありましたが、度重なる洪水を避けて、現在の甲州街道沿いの白糸台一丁目の一部に移ったものといわれています。
      地名の起こりは、俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所とか、鎌倉時代に染殿があった所とかいわれ、染屋の名は南北朝時代の資料にも見えます。
      古くは、染屋という一つの村落であったものが、時期は不明ですが上染屋と下染屋に分かれたものです。嘉永十二年(1635)の地検帳には、上染屋の名が記録されています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「甲州街道の村にて、民戸五十三軒、往還の左右に並居」とあります

  • 【常久石碑】<br /> 常久(つねひさ)は、現在の若松町一丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。<br /> 幕末の地誌には「民家甲州街道の左右に並居、凡三十七軒」(『新編武蔵風土記稿』)とあります。もともとは多摩川のほとりに集落がありましたが、洪水によって流され万治年間(1658~61)に、ハケ上に移動したと伝えられています。<br />  地名の起こりは、人名によるようで、古くは常久(恒久あるいは経久とも)という人を名主とする名田であったようです。『新編武蔵風土記稿』には「村名の起こりを尋ぬるに、むかし常久と云いし人居住せしによりて唱えしと云、今村内の農民嘉右兵衛門なるものはその子孫なりと云」とあります。

    【常久石碑】
     常久(つねひさ)は、現在の若松町一丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。
     幕末の地誌には「民家甲州街道の左右に並居、凡三十七軒」(『新編武蔵風土記稿』)とあります。もともとは多摩川のほとりに集落がありましたが、洪水によって流され万治年間(1658~61)に、ハケ上に移動したと伝えられています。
      地名の起こりは、人名によるようで、古くは常久(恒久あるいは経久とも)という人を名主とする名田であったようです。『新編武蔵風土記稿』には「村名の起こりを尋ぬるに、むかし常久と云いし人居住せしによりて唱えしと云、今村内の農民嘉右兵衛門なるものはその子孫なりと云」とあります。

  • 京王線東京競馬場駅前(東府中)に”黄金の馬”が輝いてます。<br /><br />馬券が当たれば、黄金に出会えるかも!!

    京王線東京競馬場駅前(東府中)に”黄金の馬”が輝いてます。

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  • 次の日曜日には、日本ダービ-が開催。何万の人が集まってくる。

    次の日曜日には、日本ダービ-が開催。何万の人が集まってくる。

  • 【大国魂神社】入り口<br />大國魂神社は、第12代景行天皇の御代に創建された古社で、645年の大化の改新以降は、ここに武蔵国の国府が置かれた。社殿は古社特有の風格があり、東京都と埼玉県の全域、そして神奈川県の一部をその領域とする、武蔵の国の守り神として、この神社はその役割を果たそうとしている。<br /><br />http://www.ookunitamajinja.or.jp/<br />御鎮座1900年の歴史を誇る神社。境内は一万坪超え。周囲1km。<br /><br />入口の真向いのけやき通り<br />ここのケヤキ並木は国の天然記念物になっていて、1062年、源頼義・義家父子が、「前九年の役」で奥州を平定した戦勝報告のために大國魂神社に寄り、けやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。

    【大国魂神社】入り口
    大國魂神社は、第12代景行天皇の御代に創建された古社で、645年の大化の改新以降は、ここに武蔵国の国府が置かれた。社殿は古社特有の風格があり、東京都と埼玉県の全域、そして神奈川県の一部をその領域とする、武蔵の国の守り神として、この神社はその役割を果たそうとしている。

    http://www.ookunitamajinja.or.jp/
    御鎮座1900年の歴史を誇る神社。境内は一万坪超え。周囲1km。

    入口の真向いのけやき通り
    ここのケヤキ並木は国の天然記念物になっていて、1062年、源頼義・義家父子が、「前九年の役」で奥州を平定した戦勝報告のために大國魂神社に寄り、けやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。

  • 【大国魂神社】<br />武蔵國総社で武蔵國の鎮守でした、徳川幕府の崇敬が篤く、武蔵國最大の500石を寄進された。<br />大國魂神社の例大祭くらやみ祭は関東三大祭のひとつ、毎年5月3日から行われ、御輿渡御(みこしとぎょ)では八基の御輿が暗がりの街を練り歩き、御輿還御(みこしかんぎょ)では全ての御輿が神社参道に揃います。<br />甲陽鎮撫隊は府中宿に宿陣し、この大國魂神社に戦勝を祈願し、額を奉納した。しかし後に甲陽鎮撫隊が惨敗してしまうと、神社は官軍の手前奉納額を密かに処分したといいます。

    【大国魂神社】
    武蔵國総社で武蔵國の鎮守でした、徳川幕府の崇敬が篤く、武蔵國最大の500石を寄進された。
    大國魂神社の例大祭くらやみ祭は関東三大祭のひとつ、毎年5月3日から行われ、御輿渡御(みこしとぎょ)では八基の御輿が暗がりの街を練り歩き、御輿還御(みこしかんぎょ)では全ての御輿が神社参道に揃います。
    甲陽鎮撫隊は府中宿に宿陣し、この大國魂神社に戦勝を祈願し、額を奉納した。しかし後に甲陽鎮撫隊が惨敗してしまうと、神社は官軍の手前奉納額を密かに処分したといいます。

  • 【鼓楼】<br />その昔は、時刻や緊急事態を知らせるための太鼓を置いた建物である。<br />寺の鐘楼に対して、神社では太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれる。<br />慶長年間の造営の際に、三重の塔と相対して建設された。<br /><br />時刻や緊急事態を知らせるため、太鼓を置いた。寺の鐘楼に対し、神社で太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれた。<br />正保3年(1646年)に火災で消失したものを、嘉永7年(1854年)に再建した。<br /><br />【大国魂神社鼓楼】 府中市指定文化財(昭和56年10月指定)  <br />  鼓楼は太鼓を懸け時報を報ずるための建物で、元来中国で発達し、わが国へは鎌倉時代に移入され、主として寺院に設けられた。そして江戸時代になると鐘楼と相対して作られることが多く、宇治の万福寺や日光東照宮のものがよく知れれている。<br />  大国魂神社では慶長年間の造営の際に、三重塔と相対して建てられたが、正保三年(1646)の大火で焼失。200年余たった嘉永七年(1854)に再建されたのがこの鼓楼である。この鼓楼は、現存するその再建連社板によると、府中はじめ日野・多摩・町田の各市域の十七名の人々によって寄進されたことがわかる。<br />  その後、三回程度修理が加えられているが、よく当初の原型を保っており、神社では数少ない貴重な建築物である。<br />                  昭和58年12月 府中市教育委員会<br /><br />

    【鼓楼】
    その昔は、時刻や緊急事態を知らせるための太鼓を置いた建物である。
    寺の鐘楼に対して、神社では太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれる。
    慶長年間の造営の際に、三重の塔と相対して建設された。

    時刻や緊急事態を知らせるため、太鼓を置いた。寺の鐘楼に対し、神社で太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれた。
    正保3年(1646年)に火災で消失したものを、嘉永7年(1854年)に再建した。

    【大国魂神社鼓楼】 府中市指定文化財(昭和56年10月指定)  
      鼓楼は太鼓を懸け時報を報ずるための建物で、元来中国で発達し、わが国へは鎌倉時代に移入され、主として寺院に設けられた。そして江戸時代になると鐘楼と相対して作られることが多く、宇治の万福寺や日光東照宮のものがよく知れれている。
      大国魂神社では慶長年間の造営の際に、三重塔と相対して建てられたが、正保三年(1646)の大火で焼失。200年余たった嘉永七年(1854)に再建されたのがこの鼓楼である。この鼓楼は、現存するその再建連社板によると、府中はじめ日野・多摩・町田の各市域の十七名の人々によって寄進されたことがわかる。
      その後、三回程度修理が加えられているが、よく当初の原型を保っており、神社では数少ない貴重な建築物である。
                      昭和58年12月 府中市教育委員会

  • 【大国魂神社拝殿】<br />景行天皇41年(西暦111年)の創祁と伝えられる都内屈指の古社。御祭神は「大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)」で出雲の「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と同一の神とされる。<br />現在1900年祭がおこなわれる。<br /><br />祭神は大国魂大神で、武蔵国の鎮守として創建され、大化の改新(645年)の時、府中に国府が置かれると武蔵総社となった。<br />この時、武蔵国内の6つの神社(一之宮~六之宮)である、小野、小河、氷川、秩父、金讃、杉山神社が合祀され、「六所宮」とも呼ばれていた。<br /><br />その後、鎌倉幕府を始め、北条、足利氏等古くより武家の間での崇敬が篤く、江戸時代には500石という武蔵国最大級の朱印地を有する大社となった。<br />現在の大国魂神社は、明治18年に改称されたものだ。拝殿は、その時に改築されている。<br />社殿は、家康の命で大久保長安により寛文7年(1667年)に再建されたもので、<br />東京都の有形文化財に指定されている。

    【大国魂神社拝殿】
    景行天皇41年(西暦111年)の創祁と伝えられる都内屈指の古社。御祭神は「大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)」で出雲の「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と同一の神とされる。
    現在1900年祭がおこなわれる。

    祭神は大国魂大神で、武蔵国の鎮守として創建され、大化の改新(645年)の時、府中に国府が置かれると武蔵総社となった。
    この時、武蔵国内の6つの神社(一之宮~六之宮)である、小野、小河、氷川、秩父、金讃、杉山神社が合祀され、「六所宮」とも呼ばれていた。

    その後、鎌倉幕府を始め、北条、足利氏等古くより武家の間での崇敬が篤く、江戸時代には500石という武蔵国最大級の朱印地を有する大社となった。
    現在の大国魂神社は、明治18年に改称されたものだ。拝殿は、その時に改築されている。
    社殿は、家康の命で大久保長安により寛文7年(1667年)に再建されたもので、
    東京都の有形文化財に指定されている。

  • (大国魂神社HPより)<br />  当社のご祭神は、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)を武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。<br />  この大神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神でむかしこの国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えられこの国土を経営されたが、天孫降臨に際してその国土を、天孫瓊々杵(ににぎの)尊にたてまつり、出雲の杵築の大社に鎮座されました神であることは、世に知られるところである。<br /><br /> 当社の起源は、人皇第十二代景行天皇四十一年(111)五月五日大神の託宣に依って創立されたものである。出雲臣天穂日命(のおみあめのほひのみこと)の後裔が初めて武蔵国造(くにのみやつこ)に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれ、その後、孝徳天皇(645~654)の御代に至り、大化の改新(645)のとき、武蔵の国府をこの処に置くようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。又、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、これが即ち武蔵総社の起源である。後に本殿の両側に国内著名の神、六所(ろくしょ)(小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して、六所宮とも称せられるようになった。<br /><br /> 寿永元年(1182)に至り、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、その室、政子の安産の祈願が行われた。<br /> 文治二年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また貞永元年 (1232)二月、将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。<br /><br /> 又、天正十八年(1590)八月、徳川家康が江戸へ入城してからは、武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進され、社殿及びその他の造営に心力をつくされた。<br /><br /> 正保三年(1646)十月、類焼により社殿は焼失したが、寛文七年(1667)将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。 形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであるが、慶応年間に檜皮葺(ひわだぶき)が銅葺に改められた。又、本殿は都文化財に指定されている。<br /><br /> 明治元年(1868)勅祭社に準ぜられ、同七年(1874)県社に列し、 同十八年官幣小社に列せられた。<br /> 本社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降、武蔵の総社となり、又国内著名の神六所を配祀したので、「武蔵総社六所宮」の社号を用いた。ところが明治四年(1871)に、もとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。<br />  当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は、武蔵はもちろん、関東一円に亘っている。<br />  五月五日には例大祭が行われるが、この祭が有名な国府祭で、当夜八基の神輿が古式の行列を整え、消燈して闇夜に御旅所に神幸するので、俗に「闇夜(くらやみ)祭」といわれている。現在では昭和三十六年(1961)より神輿の渡御は夕刻に改められた。

    (大国魂神社HPより)
      当社のご祭神は、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)を武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。
      この大神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神でむかしこの国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えられこの国土を経営されたが、天孫降臨に際してその国土を、天孫瓊々杵(ににぎの)尊にたてまつり、出雲の杵築の大社に鎮座されました神であることは、世に知られるところである。

     当社の起源は、人皇第十二代景行天皇四十一年(111)五月五日大神の託宣に依って創立されたものである。出雲臣天穂日命(のおみあめのほひのみこと)の後裔が初めて武蔵国造(くにのみやつこ)に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれ、その後、孝徳天皇(645~654)の御代に至り、大化の改新(645)のとき、武蔵の国府をこの処に置くようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。又、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、これが即ち武蔵総社の起源である。後に本殿の両側に国内著名の神、六所(ろくしょ)(小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して、六所宮とも称せられるようになった。

     寿永元年(1182)に至り、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、その室、政子の安産の祈願が行われた。
     文治二年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また貞永元年 (1232)二月、将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。

     又、天正十八年(1590)八月、徳川家康が江戸へ入城してからは、武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進され、社殿及びその他の造営に心力をつくされた。

     正保三年(1646)十月、類焼により社殿は焼失したが、寛文七年(1667)将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。 形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであるが、慶応年間に檜皮葺(ひわだぶき)が銅葺に改められた。又、本殿は都文化財に指定されている。

     明治元年(1868)勅祭社に準ぜられ、同七年(1874)県社に列し、 同十八年官幣小社に列せられた。
     本社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降、武蔵の総社となり、又国内著名の神六所を配祀したので、「武蔵総社六所宮」の社号を用いた。ところが明治四年(1871)に、もとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。
      当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は、武蔵はもちろん、関東一円に亘っている。
      五月五日には例大祭が行われるが、この祭が有名な国府祭で、当夜八基の神輿が古式の行列を整え、消燈して闇夜に御旅所に神幸するので、俗に「闇夜(くらやみ)祭」といわれている。現在では昭和三十六年(1961)より神輿の渡御は夕刻に改められた。

  • 【隋神門】

    【隋神門】

  • 【隋神門】

    【隋神門】

  • 旧甲州街道府中宿には古い民家が散在している。<br />写真は店蔵となっている中久米店である。萬延2年(1861年)に建てられたもので、隣は問屋場であった。<br /><br />この辺は、【武蔵府中宿】の中心であった。<br />天保14年(1843)で人口2762名、総家数430軒、本陣 1軒、脇本陣2軒、旅籠屋29軒。<br />  遠く大化の改新(645)の後、現在の東京都、埼玉県の全域と神奈川県の一部を含む広大な地域に武蔵国が誕生しました。その後造営された武蔵国分寺は、全国に類を見ない大伽藍を誇り、武蔵国が東国の要所としていかに重要視されていたかがわかります。この武蔵国の政治、経済、文化の中心が、国府の置かれていた現在の府中市です。<br />  鎌倉に幕府が開かれると、鎌倉と北関東を結ぶ鎌倉街道の要衝として、また江戸時代には、甲州街道の重要な宿場の一つとして大いに栄えました。府中には、これら歴史の名残をとどめる行事や史跡が数多くあります。

    旧甲州街道府中宿には古い民家が散在している。
    写真は店蔵となっている中久米店である。萬延2年(1861年)に建てられたもので、隣は問屋場であった。

    この辺は、【武蔵府中宿】の中心であった。
    天保14年(1843)で人口2762名、総家数430軒、本陣 1軒、脇本陣2軒、旅籠屋29軒。
      遠く大化の改新(645)の後、現在の東京都、埼玉県の全域と神奈川県の一部を含む広大な地域に武蔵国が誕生しました。その後造営された武蔵国分寺は、全国に類を見ない大伽藍を誇り、武蔵国が東国の要所としていかに重要視されていたかがわかります。この武蔵国の政治、経済、文化の中心が、国府の置かれていた現在の府中市です。
      鎌倉に幕府が開かれると、鎌倉と北関東を結ぶ鎌倉街道の要衝として、また江戸時代には、甲州街道の重要な宿場の一つとして大いに栄えました。府中には、これら歴史の名残をとどめる行事や史跡が数多くあります。

  • 【高札場】<br />府中宿の中心で、甲州街道と鎌倉街道の交差するところに高札場があったので、ここは【札の辻】と呼ばれていた。<br />屋根のある札懸けで、ここに6枚ぐらいの高札が架けられた。<br />なお、高札場は江戸時代が最も盛んで、法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、<br />人通りの多い市場や、辻、街道の宿場、村の名主宅前などの目立つところに設置された。<br /><br />【府中高札場】 東京都指定旧跡(昭和4年10月指定)<br /> 法度、掟書、犯罪人の罪状などをしるし、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高札といい、庶民の間に徹底させるためこれら高札を掲げる場所を高札場といった。これらは中世末期からあったが、江戸時代が最も盛んとなり明治三年(1870)廃止された。高札場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など六箇所の大高札場をはじめ三十五箇所に高札場があったという。<br /><br /> 府中の高札場は、府中市において甲州街道と鎌倉街道の交差する所、大国魂神社御旅所の柵内にあり、屋根を有する札懸けで、これに六枚ぐらいの高札が掛けられていた。<br /><br />     昭和六十に年三月二十日建設 東京都教育委員会

    【高札場】
    府中宿の中心で、甲州街道と鎌倉街道の交差するところに高札場があったので、ここは【札の辻】と呼ばれていた。
    屋根のある札懸けで、ここに6枚ぐらいの高札が架けられた。
    なお、高札場は江戸時代が最も盛んで、法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、
    人通りの多い市場や、辻、街道の宿場、村の名主宅前などの目立つところに設置された。

    【府中高札場】 東京都指定旧跡(昭和4年10月指定)
     法度、掟書、犯罪人の罪状などをしるし、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高札といい、庶民の間に徹底させるためこれら高札を掲げる場所を高札場といった。これらは中世末期からあったが、江戸時代が最も盛んとなり明治三年(1870)廃止された。高札場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など六箇所の大高札場をはじめ三十五箇所に高札場があったという。

     府中の高札場は、府中市において甲州街道と鎌倉街道の交差する所、大国魂神社御旅所の柵内にあり、屋根を有する札懸けで、これに六枚ぐらいの高札が掛けられていた。

         昭和六十に年三月二十日建設 東京都教育委員会

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