2010/11/24 - 2010/11/24
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吉備津彦さん
男子校を卒業して神戸の大学に入学、初めてデートしたのが明石公園、思い出の明石城公園散策です。
所在地は兵庫県明石市明石公園。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。天守台は作られたが天守閣は作られていない。平和な時代の築城だったせいか、あるいは幕府への遠慮からか?
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JR明石駅
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堀
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大手門前に立つ銅像
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銅像の説明
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明石公園全図
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苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、1632年(寛永9年)豊前国小倉藩(小倉城)に転封となった。翌1633年(寛永10年)信濃国松本城より 松平康直(戸田氏)が7万石で入城したが、急死したため松平光重が城主となった。しかしその松平光重も1639年(寛永16年) が美濃国加納藩(加納城)に転封となると、大久保忠職が7万石で入城したが、1649年(慶安2年)のわずか10年間で肥前国唐津藩(唐津城)に転封する。
その後丹波国篠山城より松平忠国が7万石で入城、その子松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めた。文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けた。しかしその松平信之も、1679年(延宝7年)大和国郡山藩(郡山城 (大和国))に転封となると、代わりに郡山城 にいた本多政利が6万石で入城する。しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か3年後、苛政を責められ陸奥国岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になった。僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となった。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く2代藩主松平直常の1739年(元文4年)には大修築が行われた。最後の明石城主は松平直致で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城となる。明石公園 (明石城) 公園・植物園
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イチオシ
本丸の西南に天守台の広さは約152坪がある。広さから推察すると5重の天守が築かれる予定だったが、天守は建設されず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設された。『日本城郭大系』によると「坤櫓が天守閣の代用となっている」としている。そのうちの南側の2棟すなわち巽櫓(たつみやぐら、南東側)、坤櫓(ひつじさるやぐら、南西側)が現存し国の重要文化財に指定されている。
明石公園 (明石城) 公園・植物園
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イチオシ
巽櫓/伏見城の移築櫓と言われている
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本丸へ登る石段
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イチオシ
巽櫓
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向こうに見ゆるは明石大橋
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「坤櫓」(ひつじさるやぐら:重要文化財:上&下左)明石城の本丸4隅に建てられていた3層櫓のうち、南西の「坤櫓」が1番大きい。これは伏見城の遺構で、1層に千鳥破風と唐破風が重なっているのが特徴。この櫓のすぐ北西に天守台の石垣があるが、明治維新まで天守は建築されないままに終わった。
明石公園 (明石城) 公園・植物園
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天守台・平和な時代の築城だったからなのか、あるいは幕府への遠慮なのか明石城は天守台はあっても天守閣は1度も建築されていません。
明石公園 (明石城) 公園・植物園
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イチオシ
天守台跡から望む「坤櫓」(ひつじさるやぐら)
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石垣の野菊
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本丸西の石垣
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石垣と紅葉
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貸しボート 君と乗りたい 貸しボート
剛の池
貸しボート料金は600円 -
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時打ち太鼓
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復元された武蔵の庭
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復元された武蔵庭園の説明
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薄暮の堀
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