2010/10/29 - 2010/10/29
171位(同エリア262件中)
ムッシュさん
武佐宿を抜け、野洲から守山宿へ。守山から草津宿は数kmの近さ。一段と京に近づいて来ました。
守山宿 第六十七宿(日本橋より509km)
「京発ち守山泊り」といわれ多くの旅人で賑わった。守山寺の門前町でもあり、守山の名は桓武天皇が東門院行幸のとき「我が山を守り給う寺」という意味から名付けたという。
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鏡口の信号。
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鏡の宿跡。
ここには立場があった。武佐と守山のあいだが長いことから賑やかな立場として栄えた -
国道8号線沿いを進む。
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【源義経元服の池】
源義経が鞍馬山を出て奥州に向かう途中、ここで元服した。ここで前髪を落とした。この元服式は、謡曲「烏帽子折」の前半部分で謡われた。
右手に源義経元服池があります、池の奥には九郎判官源義経元服之池碑があります。
鞍馬寺を脱け出した牛若丸は鏡宿の沢弥伝館に投宿しました、すると平氏の追手が稚児姿の牛若丸を捜していると聞き、ならばと元服を決意しました。
そこで鏡宿の烏帽子屋五郎大夫に源氏の左折れの烏帽子を仕立てさせ、鏡池の石清水を使って前髪を落とし、己の姿を池の水に映したといいます。
鏡神社は義経が元服に使用した源義経元服の盥(たらい)を所蔵しています。 -
平家終焉の地。
壇ノ浦の戦いで義経に捕えられ、この地で首を切られた平家最後の総大将平宗盛・清宗父子は鎌倉に向かうが追い返され、この地で義経に斬首された。この二人の銅像が池の側に立つ。
平家最後の総大将平宗盛は清盛の三男です、壇ノ浦の合戦に敗れ、宗盛、清宗親子は捕らわれ、源義経に護送され、鎌倉に向かいました。しかし兄の頼朝は勝手に朝廷から官位を受けた義経に鎌倉の地を踏ませませんでした。
父子は頼朝の引見後、再び京に護送される途中、頼朝の命により、ここで斬首されました、義経は父子の情を想い、二人の胴を一緒に埋葬しました、ゆえにここは平家終焉の地といわれます、宗盛は享年39歳、清宗17歳でした、父子の首は京の六条河原に晒されました。
【平家終焉の地】
平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちした。西海を漂うこと二年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都に向った。
途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。
父清盛が全盛の時、この地のために掘った祇王井川がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野洲町が日本中のとこよりもやすらぐ安住の地であろう。
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。 野洲市観光物産協会
【蛙不鳴池および首洗い池】
ここより西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦二年(1185)源義経が平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑した時その首を洗った「首洗い池」と続きで、以後、蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、その池の神が日に三度池に影を映されたのに、お帰りを見た事がないとの言われからである。
昔は横一町半(約165m)、長さ二町(約220m)あった。
首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。
最近までその形を留めていた。
野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会 -
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平家終焉の地の説明
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浄勝寺前交差点
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【愛宕山の常夜灯】
紅殻塗りの塀を横目で見ながら緩い上り坂を進むと家棟(やのむね)川手前の右手に寛政6年(1794年)建立の金毘羅大権現常夜燈、そして愛宕山大神、山灯籠が並んでいます。 -
篠原稲荷神社
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外和木の標
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野洲小学校前の交差点の碑
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この先は野洲川です。
「野洲川や身は安からぬさらしうす」の芭蕉句碑がたつ -
守山宿の街並み
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守山宿本陣跡地
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和蝋燭屋
明治時代より和蝋燭を商う「筆忠山中油店」。一部を利用してふれあい広場と資料館にしている。 -
ふれあい資料館の内部。
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今宿一里塚。塚の上に立つエノキは2代目。
中山道全部で129ある一里塚の江戸から128番目。滋賀県唯一の現存一里塚。草津へはあと一里と少しである。
【今宿一里塚】 滋賀県指定史跡 江戸時代
今宿一里塚は五街道の一つである中山道の一里塚で、江戸日本橋から本県草津宿までに129ケ所あった一里塚の128番目にあたります。
一里塚は江戸幕府により慶長九(1604)年に整備されたもので、一里毎に道の両側に五間四方の塚を築き、榎や松を植えて通行の目安としたものです。県内には中山道の他、東海道、朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還などに設置されていましたが、明治以降、交通形態の変化による道路拡幅や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなりました。
今宿一里塚は規模は小さくなっていますが南塚のみ残り、榎が植わっています。先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、脇芽が成長して現在にいたっています。
今宿一里塚は、往事を偲ぶことのできる中山道守山宿の中にあり、近世交通史を知る上で重要な遺跡といえます。
平成十年三月 滋賀県教育委員会 -
芭蕉句碑
「へそむらのまだ麦青し春のくれ」
【芭蕉句碑の由来】
この句碑は、栗太郡内唯一の芭蕉の句碑です。元禄三年(1690年)頃、関東、北陸方面に旅した帰りに綣村の立場に足をとどめ、旅の余韻と惜春の情を托して詠まれた句と云われています。
「へそむらのまだ麦青し春のくれ」 はせを
句意は「ずっとあちこちと旅して歩いてきたが、ここ綣村あたりの麦はまだ青い。種蒔きがおくれたのか、寒かったのだろうか。もうまもなく春も暮れようとしているのに・・・・というものです。芭蕉の句碑は、滋賀県内に九十三本を数えますが、この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていて今後の研究課題の一つとされています。
平成十二年三月(西暦2000年) 創意と工夫の郷づくり事業により移転整備 綣行政区 -
大宝神社にある芭蕉句碑の説明
【芭蕉句碑の由来】
この句碑は、栗太郡内唯一の芭蕉の句碑です。元禄三年(1690年)頃、関東、北陸方面に旅した帰りに綣村の立場に足をとどめ、旅の余韻と惜春の情を托して詠まれた句と云われています。
「へそむらのまだ麦青し春のくれ」 はせを
句意は「ずっとあちこちと旅して歩いてきたが、ここ綣村あたりの麦はまだ青い。種蒔きがおくれたのか、寒かったのだろうか。もうまもなく春も暮れようとしているのに・・・・というものです。芭蕉の句碑は、滋賀県内に九十三本を数えますが、この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていて今後の研究課題の一つとされています。
平成十二年三月(西暦2000年) 創意と工夫の郷づくり事業により移転整備 綣行政区 -
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著作権フリー作品「木曽街道六十九次」の画像を使用してる。
【木曽海道六拾九次之内 守山 (広重)】
守山宿には、町並と川が並行している所はない。広重は意図的に町並を吉川に沿わせて描いたと思われる。背後の山は近江富士(三上山)である。
【守山宿】 日本橋から127里28町(501.8Km)、京へ8里6町(32.1Km)
天保14年(1843)で人口1,700名、総家数415軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋30軒。
この絵(図)は、歌川広重(1797~1858年)の作で、守山宿と加宿今宿の間を流れる境川、通称吉川から描いたものと推定されています。
山桜が咲き誇る春の守山が描かれ、馬に乗る武士や駕篭かき、天秤棒を担ぐ人など街道を行く人々の特徴がよく伝わってきます。
江戸時代の守山は、江戸と京・三条を結ぶ中山道の最終67番目の宿場でした。
近江の中山道は、東海道草津宿から分かれて美濃の国境まで守山・武佐・愛知川・高宮・鳥居本・番場・醒井・柏原の八宿がありましたが、その中で守山は「京たち、守山泊り」と言われ、京都から江戸へと中山道を行く人々が最初の宿泊地としたようです。
木曽海道とは、中山道の別名で、同じく江戸と京都を結ぶ東海道が海側を行くのに対し、中山道が木曽の山々を抜けていくことからこう呼ばれていたのでしょう。
本陣推定地の斜め向かいにある「中山道守山宿にぎわい広場」の展示資料より
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この旅行記へのコメント (2)
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- スーポンドイツさん 2010/11/05 07:22:36
- 守山宿
- ムッシュさん、お久しぶりです。
中山道、いよいよ終着に近づいてきましたね。
わぁ〜い、おとなり旅行記に名前があった〜(*^_^*)
とっても、これほど由緒あるところとは知らず、
美術館だけで帰ってしまいました。
いつかゆっくり訪ねたいです。
すーぽん
- ムッシュさん からの返信 2010/11/05 20:22:53
- RE: 守山宿
- スーポンさんへ ムッシュです
こんにちは。お久です。おとなり旅行記に名前があり奇遇ですね。光栄です。
中山道も、あと草津宿、大津宿でとうとう京の三条大橋に辿り着けそうです。計画では、12月2日(木)昼頃に到着し、万歳ってな予定です。
開始からまる三年。過ぎてみれば短い様な気も。
日本橋スタート直後の関東平野縦断は、都会風で嫌気が有ったが、群馬県の妙義山、碓氷峠に向かうあたりから、日本の里山風景、歴史的建物や文化に、信州路、木曽路、美濃路、近江路の四季を感じながら旧道を進み、沢山の味わい深いものに接してこれました。日本もすてきな場所が多いですね。
歩くことが主体でしたので、寄り道しないで見過ごした場所も多いが。
この間、同じメンバーと飲み語らいながら過ごしたので、結構仲良しになってます。きっと終着を過ぎても、また今後も何か別の計画がありそう。
ムッシュも来春にいくつか区切レルものがあるので、来年は機会を作り、日本と海外と両道で出掛けたいと思ってます。美術系も含めて。
話は変わりますが、来春の桜は、彦根城がきっとお勧めです。
堀も城も、国宝だけあって素晴らしく、堀と桜がマッチしてそう。
ぜひ、確認の上、行って下さい。
小生は見てませんが、近江路ではランクAでは。
これからも、スーポンさんのように元気で飛びます。
>ムッシュさん、お久しぶりです。
> 中山道、いよいよ終着に近づいてきましたね。
> わぁ〜い、おとなり旅行記に名前があった〜(*^_^*)
> とっても、これほど由緒あるところとは知らず、
> 美術館だけで帰ってしまいました。
> いつかゆっくり訪ねたいです。
> すーぽん
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