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世界遺産『トロイ遺跡』や『ミケーネ遺跡』を発掘した、ハインリッヒ・シュリーマンが幕末の江戸を訪れ、旅行記を書いていたことを本屋でたまたま手にし読んだ本で初めて知りました。<br />1865年、43才のシュリーマンは世界漫遊の旅に出かけインドから船で香港へ、そして清国を経て江戸から明治に変わる3年前の激動期の日本へ向かいます。<br /><br />旅行記には、1865年7月1日年から7月4日までの1ヶ月に彼の見た日本の風物や人々の暮らしぶりが客観的に書かれております。<br /><br />6月3日に横浜に上陸した彼が最初に驚いたのは、船から埠頭まで渡してくれた船頭が労賃を吹っかけなかったことであり、税関の役人が賄賂を拒否したことであります。<br />また、日本人は世界中で一番清潔な国民であり、教育はヨーロッパの文明国より優れており、男も女も読み書きできることに驚いております。<br /><br />外国人が江戸に入るには、アメリカ合衆国公使の招待状が必要でしたが、外国の公使やその随員達が幾度も攘夷派の襲撃による生命の危機に遭遇したため多くが江戸を立ち退いており、シュリーマンは臨時大理公使のポートマンの招待状で江戸に入りました。<br /><br />シュリーマンが江戸滞在中に訪れた地を、順を追っていくつかまわって見ることにしましたが、彼は、今回訪ねた場所の他にも浅草浅草寺、団子坂、王子、深川八幡宮、洲崎弁天や八王子等にも行っています。<br />*参考文献 「シュリーマン旅行記 清国・日本」(石井和子訳)講談社学術文庫<br />

幕末の江戸を訪ねた「シュリーマン」その足跡を辿って

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2010/10/13 - 2010/10/13

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カンゲン

カンゲンさん

世界遺産『トロイ遺跡』や『ミケーネ遺跡』を発掘した、ハインリッヒ・シュリーマンが幕末の江戸を訪れ、旅行記を書いていたことを本屋でたまたま手にし読んだ本で初めて知りました。
1865年、43才のシュリーマンは世界漫遊の旅に出かけインドから船で香港へ、そして清国を経て江戸から明治に変わる3年前の激動期の日本へ向かいます。

旅行記には、1865年7月1日年から7月4日までの1ヶ月に彼の見た日本の風物や人々の暮らしぶりが客観的に書かれております。

6月3日に横浜に上陸した彼が最初に驚いたのは、船から埠頭まで渡してくれた船頭が労賃を吹っかけなかったことであり、税関の役人が賄賂を拒否したことであります。
また、日本人は世界中で一番清潔な国民であり、教育はヨーロッパの文明国より優れており、男も女も読み書きできることに驚いております。

外国人が江戸に入るには、アメリカ合衆国公使の招待状が必要でしたが、外国の公使やその随員達が幾度も攘夷派の襲撃による生命の危機に遭遇したため多くが江戸を立ち退いており、シュリーマンは臨時大理公使のポートマンの招待状で江戸に入りました。

シュリーマンが江戸滞在中に訪れた地を、順を追っていくつかまわって見ることにしましたが、彼は、今回訪ねた場所の他にも浅草浅草寺、団子坂、王子、深川八幡宮、洲崎弁天や八王子等にも行っています。
*参考文献 「シュリーマン旅行記 清国・日本」(石井和子訳)講談社学術文庫

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  • 「麻生善福寺」港区元麻布一町目<br /><br />善福寺の山門<br /><br />天長元年(824年)弘法大師・空海により開山された真言宗の古刹で本尊は阿弥陀如来、鎌倉時代に越後に流されていた親鸞が許され京に上る途中に訪れ以後、真言宗から浄土真宗に改宗しました。<br />1859年(安政5年)最初のアメリカ合衆国公使館になり、初代公使として日米通商条約を締結したタウンゼント・ハリスを迎えました。<br />1863年には水戸浪士の放火により書院等が焼失、武装した役人が昼間は200人、夜間は300人以上が警護に当たっていました。<br />シュリーマンは6月25日横浜から善福寺に到着、ここを拠点に各地を見てまわりました。<br />

    「麻生善福寺」港区元麻布一町目

    善福寺の山門

    天長元年(824年)弘法大師・空海により開山された真言宗の古刹で本尊は阿弥陀如来、鎌倉時代に越後に流されていた親鸞が許され京に上る途中に訪れ以後、真言宗から浄土真宗に改宗しました。
    1859年(安政5年)最初のアメリカ合衆国公使館になり、初代公使として日米通商条約を締結したタウンゼント・ハリスを迎えました。
    1863年には水戸浪士の放火により書院等が焼失、武装した役人が昼間は200人、夜間は300人以上が警護に当たっていました。
    シュリーマンは6月25日横浜から善福寺に到着、ここを拠点に各地を見てまわりました。

  • 本堂<br /><br />

    本堂

  • 本堂と後部の高層マンション<br />

    本堂と後部の高層マンション

  • アメリカ合衆国公使館跡 ハリス記念碑<br />公使館として1871年(明治4年)まで使用されました。<br />

    アメリカ合衆国公使館跡 ハリス記念碑
    公使館として1871年(明治4年)まで使用されました。

  • イチョウの大木<br />樹齢700年で都内で最古のイチョウ、親鸞聖人が地に挿した杖から成長したという伝説があるそうです。<br />

    イチョウの大木
    樹齢700年で都内で最古のイチョウ、親鸞聖人が地に挿した杖から成長したという伝説があるそうです。

  • 福沢諭吉のお墓<br />

    福沢諭吉のお墓

  • 「済海寺」港区三田四丁目<br /><br />1859年(安政6年)フランス総領事館、1861年から1874年(明治7年)まで公使館。<br />1861年、アメリカ公使館付の通訳ヒュースケンがこの門前で暗殺された。<br />

    「済海寺」港区三田四丁目

    1859年(安政6年)フランス総領事館、1861年から1874年(明治7年)まで公使館。
    1861年、アメリカ公使館付の通訳ヒュースケンがこの門前で暗殺された。

  • フランス公使館跡地の記念碑<br />

    フランス公使館跡地の記念碑

  • <br />「西応寺」港区芝二丁目<br />1859年(安政6年)オランダ公使館、1867年(慶応3年)の薩摩藩屋敷焼き討ち事件で類焼した。<br />その後「長応寺」が公使館になったが現在では「長応寺」はなくなりマンションになっている。<br />シュリーマンは1865年6月26日、襲撃を恐れたオランダ公使が見捨てた公使館である「長応寺」を訪問しているがつじつまが合いません。<br /><br /><br />


    「西応寺」港区芝二丁目
    1859年(安政6年)オランダ公使館、1867年(慶応3年)の薩摩藩屋敷焼き討ち事件で類焼した。
    その後「長応寺」が公使館になったが現在では「長応寺」はなくなりマンションになっている。
    シュリーマンは1865年6月26日、襲撃を恐れたオランダ公使が見捨てた公使館である「長応寺」を訪問しているがつじつまが合いません。


  • オランダ公使館跡地の記念碑<br />

    オランダ公使館跡地の記念碑

  • 「東禅寺」港区高輪三丁目<br /><br />安政6年(1859年)日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、初代公使ラザフォード・オールコックが駐在した。<br />この寺は二度に渡る血まみれの惨劇の舞台になっている。<br />文久元年(1861年)5月28日、攘夷派浪士がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃し10人を殺害した「第一次東禅寺事件」、翌年の5月29日、臨時公使のオニール大佐を暗殺する目的で忍び込んだ刺客がイギリス兵伍長2人を斬殺したが「第ニ次東禅寺事件」です。<br />この時の刀痕や弾痕が残っているそうですが、今回は見ることは出来ませんでした。<br /><br />東禅寺の山門<br />

    「東禅寺」港区高輪三丁目

    安政6年(1859年)日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、初代公使ラザフォード・オールコックが駐在した。
    この寺は二度に渡る血まみれの惨劇の舞台になっている。
    文久元年(1861年)5月28日、攘夷派浪士がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃し10人を殺害した「第一次東禅寺事件」、翌年の5月29日、臨時公使のオニール大佐を暗殺する目的で忍び込んだ刺客がイギリス兵伍長2人を斬殺したが「第ニ次東禅寺事件」です。
    この時の刀痕や弾痕が残っているそうですが、今回は見ることは出来ませんでした。

    東禅寺の山門

  • イギリス公使館跡地の記念碑<br /><br />

    イギリス公使館跡地の記念碑

  • 本堂<br />

    本堂

  • 庫裡入口・本堂と三重の塔<br />

    庫裡入口・本堂と三重の塔

  • 光林寺」港区南麻布四丁目<br /><br />光林寺は臨済宗のお寺で1861年1月、「済海寺」の門前で暗殺されたアメリカ公使館付の通訳ヒュースケンが埋葬されております。<br />ヒュースケンはアムステルダム生まれのオランダ人で、20才でアメリカに渡りアメリカ国籍を取得、語学力を買われ初代公使タウンゼント・ハリスの通訳として1856年25才の時に来日し「日米修好通商条約」を締結するとき重要な働きをしました。<br />29才の誕生日間近に暗殺された彼の遺体は、外国人の屍体の引取りを躊躇したお寺が多いなか、光林寺住職が引取り手厚く葬ったそうです。<br /><br />光林寺の山門<br />

    光林寺」港区南麻布四丁目

    光林寺は臨済宗のお寺で1861年1月、「済海寺」の門前で暗殺されたアメリカ公使館付の通訳ヒュースケンが埋葬されております。
    ヒュースケンはアムステルダム生まれのオランダ人で、20才でアメリカに渡りアメリカ国籍を取得、語学力を買われ初代公使タウンゼント・ハリスの通訳として1856年25才の時に来日し「日米修好通商条約」を締結するとき重要な働きをしました。
    29才の誕生日間近に暗殺された彼の遺体は、外国人の屍体の引取りを躊躇したお寺が多いなか、光林寺住職が引取り手厚く葬ったそうです。

    光林寺の山門

  • ヒュースケンのお墓<br />シュリーマンが訪れた時には、「お墓は打ち捨てられている」と書いてありましたが綺麗に手入れされおり花も供えられておりました。<br />

    ヒュースケンのお墓
    シュリーマンが訪れた時には、「お墓は打ち捨てられている」と書いてありましたが綺麗に手入れされおり花も供えられておりました。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • pedaruさん 2011/07/11 05:47:50
    シュリーマン
    はじめまして

    シュリーマンが日本を訪れていたとは知りませんでした。 大変興味深く、一気に読ませていただきました。 私も今度、そのあしあとを訪ねたいと思います。
    ありがとうございました。
                                
                                 pedaru

    カンゲン

    カンゲンさん からの返信 2011/07/13 17:33:35
    RE: シュリーマン
    pedaru さん

    ご訪問ありがとうございます。
    シュリーマンについては、子供の頃に読んだ伝記で興味を持っておりました。
    数年前、トロイアを訪れ遺跡を目の当たりにして感動しました。
    たまたま手にした本で、彼が江戸末期に日本に来ていたことを知り足跡を巡った次第です。
    是非、訪ねてみられる事をお勧めします。

    どうぞ良い旅を!!

                               カンゲン

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