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2008年6月、国立西洋美術館で始まった「コロー 光と追憶の変奏曲」展<br />では、世界40か所以上から90数点のコローが集まった。<br /> <br />メインを占めたのはルーヴル美術館からの33点だった。<br /> <br />カミーユ・コロー(1796−1875)が1858−68年に制作した<br />「真珠の女」。制作過程の多くは謎とされている。<br /> <br />後からの修正で胸元のブラウスは少しあけられた。<br /> <br />唯一の装飾品は髪の上の葉冠、これが間違って真珠とみなされた。<br /> <br />ただ「モナリザ」と同じポーズ、しかもほぼ同じ大きさだ。<br /> <br />前者が「77X53」、コローの方は「70X55」だ。<br /> <br /> <br /> コローはこの絵に強い愛着を持っていて、決して売らなかったが、<br />晩年にはいく度か、知り合いの芸術家たちやこれを模写<br />させたがった画商たちに貸し与えた。<br /><br />今まで膨大な展示数ゆえにルーヴルには近づかなかったが、今回はコローを見る、そしてブラックの天井画も見たかったのでルーヴルを最優先とした。<br /> <br />コロー展示室があるシュリー翼から逆光のピラミッドを見る。凱旋門が<br />中央右に見えている。<br /> <br /> <br />コロー作品は5,60点はあっただろうか。<br /> <br />東京で見たヴェネツイァ2点、エトルタ1点はルーヴルでは発見できなかった。<br /> <br />ルーヴルにコローだけ見に来ても満足はできるだろう。

カミーユー・コローに会うために    

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2010/08/23 - 2010/09/01

10901位(同エリア16384件中)

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8

etretat

etretatさん

2008年6月、国立西洋美術館で始まった「コロー 光と追憶の変奏曲」展
では、世界40か所以上から90数点のコローが集まった。

メインを占めたのはルーヴル美術館からの33点だった。

カミーユ・コロー(1796−1875)が1858−68年に制作した
「真珠の女」。制作過程の多くは謎とされている。

後からの修正で胸元のブラウスは少しあけられた。

唯一の装飾品は髪の上の葉冠、これが間違って真珠とみなされた。

ただ「モナリザ」と同じポーズ、しかもほぼ同じ大きさだ。

前者が「77X53」、コローの方は「70X55」だ。


コローはこの絵に強い愛着を持っていて、決して売らなかったが、
晩年にはいく度か、知り合いの芸術家たちやこれを模写
させたがった画商たちに貸し与えた。

今まで膨大な展示数ゆえにルーヴルには近づかなかったが、今回はコローを見る、そしてブラックの天井画も見たかったのでルーヴルを最優先とした。

コロー展示室があるシュリー翼から逆光のピラミッドを見る。凱旋門が
中央右に見えている。


コロー作品は5,60点はあっただろうか。

東京で見たヴェネツイァ2点、エトルタ1点はルーヴルでは発見できなかった。

ルーヴルにコローだけ見に来ても満足はできるだろう。

旅行の満足度
4.5

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  • 主催側が「コローのモナリザ」日本初公開と宣伝していた「真珠の女」はさりげなくおさまっていた<br />

    主催側が「コローのモナリザ」日本初公開と宣伝していた「真珠の女」はさりげなくおさまっていた

  • 「モナリザ」と同じポーズ、しかもほぼ同じ大きさだ

    「モナリザ」と同じポーズ、しかもほぼ同じ大きさだ

  • この3枚は揃って「コロー 光と追憶の変奏曲」展に来ていた。<br /> <br /> <br />左の「青い服の婦人」(1874年)は1900年のパリ万博で初公開された。<br />コローの絶頂であり、最も重要な傑作だと認められた。死の1年前の作。<br /> <br /> <br />中央は「モルトフォンテーヌの思い出」(1864年)。この年のサロンに出品され、画家自身がある種の宣言ととらえていたこの作品を、ナポレオン3世が個人で購入しフォンテンブロー宮に飾っていた。第二帝政が崩壊すると、国家のコレクションに入り、それ以降ルーヴルの展示室絵を出ることはなかった。<br /> <br /> <br />右は「甲冑の男、あるいは騎士」(1868年)。この絵のインスピレーションは、コローが敬愛したジョルジョーネ(1477−1510?)の作品からといわれている。<br />

    この3枚は揃って「コロー 光と追憶の変奏曲」展に来ていた。


    左の「青い服の婦人」(1874年)は1900年のパリ万博で初公開された。
    コローの絶頂であり、最も重要な傑作だと認められた。死の1年前の作。


    中央は「モルトフォンテーヌの思い出」(1864年)。この年のサロンに出品され、画家自身がある種の宣言ととらえていたこの作品を、ナポレオン3世が個人で購入しフォンテンブロー宮に飾っていた。第二帝政が崩壊すると、国家のコレクションに入り、それ以降ルーヴルの展示室絵を出ることはなかった。


    右は「甲冑の男、あるいは騎士」(1868年)。この絵のインスピレーションは、コローが敬愛したジョルジョーネ(1477−1510?)の作品からといわれている。

  • この2点も国立西洋美術館の同展に来ていた。<br /> <br />なぜかルーヴルでの展示状況が悪く、窓からの明かりを受けて綺麗に<br />撮れず。もちろん絵もよく見えなかった。<br /> <br /> <br />左は「エデ」(1870−1年)。この作品はバイロンからインスピレーションを得ているように思われる。彼女はドン・ジュアンを乗せた船を長いこと見つめ続ける間に、もはや役に立たなくなったマンドリンを打ち捨て、憂鬱な様子をしている。<br /> <br /> <br />右は「本を読むシャルトル会修道士、あるいは座って本を読む白い修道士」<br />(1850−60年)。<br /> <br />

    この2点も国立西洋美術館の同展に来ていた。

    なぜかルーヴルでの展示状況が悪く、窓からの明かりを受けて綺麗に
    撮れず。もちろん絵もよく見えなかった。


    左は「エデ」(1870−1年)。この作品はバイロンからインスピレーションを得ているように思われる。彼女はドン・ジュアンを乗せた船を長いこと見つめ続ける間に、もはや役に立たなくなったマンドリンを打ち捨て、憂鬱な様子をしている。


    右は「本を読むシャルトル会修道士、あるいは座って本を読む白い修道士」
    (1850−60年)。

  • コロー展示室があるシュリー翼から逆光のピラミッドを見る。凱旋門が中央右に見えている<br />

    コロー展示室があるシュリー翼から逆光のピラミッドを見る。凱旋門が中央右に見えている

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