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一般的に 横須賀線(よこすかせん)とは東京-逗子-久里浜駅間の路線と思われがちだが、実際は大船-久里浜駅間23.9kmを称する路線である。<br /><br /><br />明治維新以降、帝國海軍は横濱に東海鎮守府を設置したが、敷地狭隘である事と、当時横濱に雑居し仮想敵国たる支那人に対する防諜上とを理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀に移転し、茲に 横須賀鎮守府(よこすか ちんじゅふ)が改称成立する。<br /><br />然し、現在と異なり当時は横浜から横須賀への道路が1本しか存在せず、且つ、当然未舗装な悪路で馬車通行ですら難儀する隘路だった事から、有事勃発時の人員物資等の緊急大量輸送に鑑み、初代横須賀鎮守府長官 中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将(天保8年(1837年)3月30日〜大正5年(1916年)3月30日)(明治17年(1884年)12月15日〜明治22年(1889年)3月8日在任)より輸送手段改善が提議される。<br /><br />更に、明治19年(1886年)6月22日附で陸軍大臣 大山 巌(おおやま いわお)陸軍大将(天保13年(1842年)11月12日〜大正5年(1916年)12月10日)(明治18年(1885年)12月22日〜明治25年(1892年)5月6日在任9、及び、海軍大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)海軍大将(天保14年(1843年)6月1日〜明治35年(1902年)7月18日)(明治18年(1885年)12月15日〜明治23年(1890年)5月17日在任)連署で内閣に対し請議書を提出し鉄道設置が要請される。<br /><br /><br /><br />国立公文書館に於ける該保存文書に、<br /><br /><br />鐵道建設ニ関スル請議書<br /><br />相州横須賀ハ第一海軍区ノ海軍港ニシテ造船所武庫倉庫其他病院兵営練習艦隊等ヲ置キ鎮守府之ヲ管轄シ艦船ノ製造修理、兵員ノ補充ヨリ兵器弾薬被服糧食等ノ供給ニ至ルマテ海軍艦船ニ在リテハ之ヲ此港ニ仰カサルヲ得ス。又観音崎ハ東京湾口ニ斗出スル岬角ニシテ砲台ヲ置キ其防禦ニ充テ、実ニ東京湾防禦ノ要路ニ当ルノミナラス其背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ、是亦陸軍ニ於テ最大枢要ノ地トス。然リ而シテ東京ヨリ横須賀観音崎ヘハ独リ海運ノ便アルノミ神奈川又ハ横濱ヨリハ連岡其間ヲ隔テ、峻坂嶮路車馬ノ途ヲ通セス、陸運ノ便ナキヲ以テ平時ト雖トモ風波ノ為メ輒モスレハ運輸ノ途全ク断絶シ困難ヲ生スルコト尠カラス。況ンヤ一朝事アルニ際シテハ兵器糧食ヲ横須賀ニ運輸シ陸軍軍隊ヲ長井湾地方ニ派遣シテ敵兵ヲ防禦セントスルモ運輸ノ途ナキカ為軍機ヲ失スルコトナキヲ得ス可ラサルニ於オヤ。故ニ此際汽車鐵道ヲ神奈川若ハ横濱ヨリ横須賀又ハ観音崎近傍便宣ノ地へ布設スルハ陸海両軍略上最モ必要オク可ヲラサルノ事項ニシテ大ニ両軍勝敗ノ関係スル所ニ之有之候條、汽車鐵道布設ノ義至急御詮議有之度此段請閣議候也<br /><br />陸軍大臣 伯爵 大 山 巌<br />海軍大臣 伯爵 西 郷 従 道<br /><br />内閣総理大臣 伯爵 伊 藤 博 文 殿<br /><br /><br />の記述が見られ、行間に朝鮮半島を巡る当時の日清間の緊迫感が窺いさせられる。<br /><br />初代第I次内閣総理大臣 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日〜明治42年(1909年)10月26日)(明治18年(1885年)12月22日〜明治21年(1888年)4月13日在任)から、該鉄道建設調査を命ぜられたのが逓信省鐵道局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日〜明治43年(1910年)8月2日)である。<br /><br />井上長官は調査結果を報告書に纏め内閣に回答した。<br /><br /><br />横須賀鐵道線路布設之義ニ附復命<br /><br />右線路ノ撰定及費額調査為致候処横濱ヨリ東海道ヲ戸塚驛ニ至リ此里拾壱里延長合テ弐英里 左折シ鎌倉ニ入リ雪ノ下ヨリ長浦ヲ経横須賀ニ達ス此里程拾壱英里 延長合テ弐拾英里也 又他ノ線路無トキニ非ラスト雖モ難易比較シカ難ク結局該線ヲ以テ最良ノ経路トス 此間著シキ工事ハ隧道ニシテ其延長凡ソ拾弐参町 其他海岸埋築及橋梁ヲ架設スル等一切ノ費額壱英里ニ附凡四萬圓 合計八拾八萬ノ見込ニ有之 乍去横濱戸塚間ハ将来幹線ト見做 夫ヨリ横須賀ニ至るルノ間即チ全ク支線タル分多ク隧道ノ工事等有ルヲ以テ里程八本支等分ト雖モ其支線ノ負フヘキ費額ハ五拾萬圓計ニ可達歟 此ノ概算ニ基キ布設ノ可否御決議ニ相成候ハ直ニ実測取掛リ線路設置等ノ手順可相立右復命候也<br /><br /><br />政府の回答書では、<br /><br />曩ニ陸海軍両大臣ヨリ其筋ヘ建議ノ趣旨ニ基キ同鐵道ヲ布設センカ為実測スル所ノ結果ハ其一端ヲ東海道鐵道戸塚藤澤間両驛間ニ起シ左折鎌倉ニ出テ長浦港ヲ経テ横須賀ニ達スルノ一線ヲ得リ 此間知性峻嶮ニシテ海濱ニ接シ工事極テ易カラス従テ山ヲ鑿チ海ヲ填ムルノ労賃少カラスト雖モ線路ハ稍直行ニ近ク然レト述カ如ク労賃ノ点ニ至リテ猶深ク講窮セサルへカラサルモノ有 他ノ数線ヲ試測スルニ更ニ迂回ニシテ工事一層困難ナルカ上労賃益加リ之ニ比スルニ本線ノ費額多ラスシテ径捷且水雷局所在ノ長浦港ヲ経ルニノ便利有ルニ依リ到底本線ヲ以テ最良ト見込撰定致候 尚横須賀ヲ貫テ便利ヲ計ラント欲セハ同所全体ノ市街ニ大改革ヲ与ヘサルヲ得スシテ其費用ノ多キ僅ニ家屋移転等ノ類ニ非サレハ曾テ確定スル所ノ四拾五萬圓乃至五拾萬圓ノ支持スル能ハサル所に附 目下此儀ハ計画不致候間 本線路ハ暫ク水平営ノ東南端ニ止メ候テモ船渠ノ用品及軍港ノ需要品ヲ運搬スルニ充分ト存候ニ附他ニ異議無ク弥本線ヲ採用スルニ決定セハ同水兵営ヲ経過セサルヲ不得モ幸ニ鑚鑿ノ地形ヲ変更スルニ要セスシテ二線ヲ布設スルニ不過候附 御承認相成リ候 図面相添ヘ此段及御照会候也<br /><br />明治弐拾年十一月弐拾四日<br /><br />逓信省鐵道局長官 子爵 井 上 勝<br /><br />陸軍大臣 伯爵 大 山 巌 殿<br />海軍大臣 伯爵 西郷従道 殿<br /><br /><br />此れらを加味検討した結果、資金不足を根拠に大蔵省の同意が得られず、取敢えず東海道線建設資金内から45万円を流用して建設工事案が設定される。<br /><br />他方、東海道線横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月12日に開業したが、開通当時は戸塚-藤澤駅間に大船駅は存在せず、建設計画当初の予定では藤澤駅を起点に建設する計画だったが、該計画では途中の鵠沼付近人口密集地通過や長大隧道建設を要する事が判明し、横須賀線設置が政府内に於いても日清間に於ける関係低下を懸念し、緊急性を要する存在と認識判断され、明治21年(1888年)11月1日に鎌倉郡小坂村字大船付近に信号所を設置し横須賀方面に分岐させる事に決定し建設工事が開始された。<br /><br />然るに、路線設置先は三浦半島を縦断するものとなり数ヶ所の隧道設置を余儀無くされる。<br /><br />殊に、名越隧道(201m)は掘削開始直後から三浦半島特有の砂岩、疑灰質岩、泥岩等々が混在する劣悪地質に工事は難航を極め、明治21年(1888年)7月30日には掘削工事中に落盤事故が発生し死傷者が生じた。<br /><br />また、当時は明治維新の王政復古から未だ醒めやらぬ過激な国権回復思潮が盛んな時代背景から世間では此れに伴う仏教軽視たる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風が満ち満ちており、古刹たる臨済宗圓覺寺と言えども路線通過の為には例外的存在では無く寺側は有無を言わさず例外は認められず、泣く泣く外苑たる白鷺池(びゃくろち)は過半が埋没させられ池と総門が分離を余儀無くせざるを得ない状況下に置かれた。<br />また、鎌倉も鶴岡八幡宮参道で約600年の歴史有する段葛(だんかずら)をも例外とは成り得ず、壱之鳥居から弐之鳥居に至る区間が撤去整理され跡地は線路に向かう緩い勾配頂点上に八幡踏切が設置された。<br /><br />また、海軍当局は横須賀駅に就いて白浜村(現在の 稲岡町)に設置を希望したが、住宅密集地通過と区画整理とを要する為に逸見村で決着を見る。<br /><br /><br />かくて、大船-横須賀駅間は明治22年(1889年)1月に工事がほぼ竣工し同年6月18日に正式開通した。<br /><br />然し、何事にも例外は存在するもので、横須賀海軍工廠ドックで建造中の国産通報艦 八重山(1600トン 最大戦速20ノット) の進水式に合わせ、明治天皇が進水式に臨席あらせられる事になり、正式開業に先立つ同年3月12日に新橋-横須賀間に御召列車が運転されたが、該御召列車運転が横須賀線列車運転の嚆矢である。<br /><br />開業当初は大船-横須賀間の4往復45分で平均時速21.6キロ運転だったが、同年7月1日に東海道本線全線開業に伴うダイヤ改正で6往復に増発され、更に、明治23年(1890年)1月14日改正で若干スピードアップされ平均時速27.8キロ6往復35分運転となる(平成22年現在、同区間最速列車運転時間は20分)。<br /><br /><br />横須賀線は当時から列車運転本数が多い事から、明治35年(1902年)9月25日に、我が国最初の通票閉塞方式が採用され安全面に於いて寄与する。<br />然るに、明治42年(1909年)1月13日6時47分頃、扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で下り第505旅客列車と上り第2旅客列車同士の正面衝突事故が発生し、機関車2輌、客車2輌が脱線し運転速度が遅かった為に死者こそ出さなかったが乗客乗務員計21名の重軽傷者を出す。<br />事故原因は鎌倉駅信号担当助役が、大船-鎌倉間で下り旅客第505列車が8分遅延運行中たる事を失念し、且つ、肝心な列車時刻確認を怠り通票閉塞機の故障と独断して不正操作し通票を取出し上り旅客第2列車機関手に交付した為で、大正5年(1916年)11月29日には東北本線下田-古間木(現 三沢駅)間で同様の正面衝突事故が発生し多数の死傷者を出す惨事が発生したが、三沢事故は必ずしも鎌倉列車正面衝突事故が該教訓にならなかった事を証明した。<br /><br /><br />現在の江ノ電の前身たる江之島電気鐵道は藤澤停留所を起点として漸次路線を延長させ明治40年(1907年)8月16日に鎌倉大町停留所に達したが、更に、八幡宮弐ノ鳥居前付近まで路線延長と停留所設置を計画し工事資金の点で横須賀線とは平面交差を希望したが、当時の鉄道の監督官庁たる鐵道院と路面軌道線の監督官庁たる内務省とが列車運行の安全面の観点から難色を示し一時は暗礁に乗り上げるかに見えたが、最終的に鐵道院が2/3、残り1/3を江之島電気鐵道が工事資金負担する事で合意し、横須賀線は八幡踏切への勾配と踏切を廃止し立体交差を施し決着を見て、明治43年(1910年)1月に工事起工し僅か4ヶ月で竣工した。<br /><br /><br />鐵道院、鐵道省は新車導入に際し横須賀線で試用する傾向が存在した様で、文豪 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日〜昭和46年(1971年)4月20日) は短編小説 非常汽笛(ひじょう きてき)に、「横須賀線が電車になる前の汽車は、岐線であるのにどう云うわけだか機関車は東海道線の急行列車を索引する當時の一番新らしい型が使用せられ、客車も概して上等で、本線の長距離用に考案されたのが出来ると、先づ横須賀線で使つて見ると云う様な事もあつたらしい。叉岐線の一等車が癈止になつてからは、ただその白線を青く塗り變へただけの二等車を連結したり、二等車の中に特別室を仕切つた贅澤な試験用の車輛を運轉したりした。毎週一回横須賀の海軍機関學校に通つてゐた私と豊島興志雄君とは、帰りの汽車に特別室があると、二人でその中にもぐり込んで晝寝をした(後略)」との記述が見られ、列車に連結されていた車輌は17m級木造客車ナイロ20500型に乗車したものと推定される。<br /><br /><br />横須賀線は開業後、輸送量の増加に拠り複線化が推進される。<br />各区間複線化工事竣工は、<br /><br />大船-鎌倉間  大正 5年(1916年) 9月13日<br />鎌倉-逗子間  大正 6年(1917年) 3月<br />逗子-沼間間  大正 3年(1914年) 8月12日<br />沼間-田浦間  大正 9年(1920年)10月19日<br />田浦-横須賀間 大正13年(1924年)12月25日<br /><br />また、大船-鎌倉間複線化と同時に予てから各方面から切望されていた東京-横須賀間の直通運転が開始され、東京-大船間は東京-國府津間近距離列車に併結切離で運転される。<br /><br /><br />該線は大正13年(1924年)完成を目処に直流1500V電化が決定されたが、明治中期構築の隧道では口径不足の為に架線吊張が困難だった事から、隧道口に臨時信号場を設置して単線運転しながら明治期建築の隧道の側壁を馬蹄型から垂直型に改造しコンクリート形態として口径拡大工事を施行したが、不幸にして工事途中に関東大震災に遭遇する。<br /><br /><br />関東大震災発生時、該線内に於ける被害は、<br /><br />大船駅<br />横須賀線大船駅12時15発横須賀行下り旅客普通第9列車牽引の為に、連結直前で側線待機中だった8850型炭水車附蒸気機関車8854号機(東京機関庫所属)は、地震発生と同時に脱線し、炭水車小破、緩衝器折損被害が生じる。<br /><br />鎌倉駅<br />上り貨物第32列車は該駅構内に於いて入換作業中に地震が発生し、該列車編成32両中、有蓋車3両、無蓋車2両が脱線。<br />構内留置中の有蓋車1両が焼損。<br /><br />田浦-沼間間<br />横須賀線横須賀駅11時50分発東京行上り旅客普通第514列車は、田浦駅を11時55分定刻出発後、沼間隧道内走行中に地震に遭遇し、該列車機関手は激震を感じ直ちに急停車した。<br />該隧道は大船方坑門付近が崩落崩壊し、且つ、該隧道内煉瓦崩落が著しかた事から、該機関車機関手は前進は不可能と判断した事から後退を決意し、該列車後進中に、後部車掌は該隧道横須賀方坑門付近崖が崩落中たる事を現認し、非常弁を動作させたが及ばず、該列車最後尾客車が脱線し、次位客車が乗り上げる形で追突した為に、該乗客3名死亡、6名重軽傷を出す事故となる。<br />因みに、該列車1等車には、海軍水雷学校から帰途の、皇族 海軍少尉 華頂宮博忠(かやのみや ひろただ)王(明治35年(1902年)1月26日〜大正13年(1924年)3月24日)が乗車していたが、該車輌に被害無く無事だった。<br /><br />横須賀駅<br />横須賀線横須賀駅12時50分発大船行上り旅客普通第6列車牽引の為に、側線待機中の8850型炭水車附蒸気機関車8852号機(東京機関庫所属)は、地震発生と共に該駅裏手の見晴山が土砂崩壊した為に、該機関車は埋没した。<br /><br />該線関係では修学旅行で静岡から軍港見学の為に横須賀訪問中の静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)生徒が第511列車に乗車し11時32分に横須賀駅到着後、昼食前の点呼中に傘を忘れ駅に戻った生徒1名を除き集結中の教師生徒200数名と列車から下車直後で崖下を通行中の一般旅客100数名合計300名余の背後に聳える見晴山が高さ30メートル、厚さ20メートル、長さ415メートルに亘り崩壊落して全員生埋になり、市内他所の生存者救出と道路復旧を最優先した為に崩壊現場は約3週間放置され、猛烈な臭気と共に崩壊した土砂上を無数の蠅が蝟集する惨状を呈した。<br /><br />横須賀線は全線に亘り震災被害が生じたが、取敢えず9月5日に大船-横須賀間全線で復旧工事が開始され、漸次単線で復旧された。<br />然し、田浦-横須賀間は側面崩落や第1七釜隧道、及び、吉倉隧道土砂崩壊と坑門破壊等々の被害が著しく他区関より開通が遅延した。<br />此の為に、横須賀線復旧を急ぐ為に鐵道省は海軍省に対し復旧要員を要請し海軍大臣命令に拠り海軍機関学校生徒、及び、横須賀海軍工廠職工300名弱が動員され、此の為に長期間組織的応援に貢献した海軍工廠職工に対する給与補填に、後日、鐵道省は海軍省を通じ海軍工廠に対し賃金相当金額1588円を支払った。<br /><br />此の辺の描写は 内田百間 に依る短編小説 進水式(しんすいしき)の記述に震災前後の横須賀駅前の状況が描かれている。<br /><br />大船-鎌倉間  9月 9日復旧<br />鎌倉-逗子間  9月10日復旧<br />逗子-田浦間  9月13日復旧<br />田浦-横須賀間 9月25日一旦復旧、10月11日豪雨の為に再不通、10月25日再復旧<br /><br /><br />関東大震災復旧を最優先にした為に遅延していた電化工事は大正13年(1924年)4月に再開され翌年4月に完成する。<br />かくて、大正14年(1925年)12月13日の東京発横須賀行最終列車より蒸気機関車前部に電気機関車を連結する電蒸運転が開始された。<br /><br /><br />第123代 大正天皇(たいしょう てんのう)(明治12年(1879年)8月31日〜大正15年(1926年)12月25日)(大正元年(1912年)7月30日〜大正15年(1926年)12月25日御在位)は、度々、葉山御用邸を御静養の際に該線を利用されたが、大正15年(1926年)8月10日に原宿→逗子間運転列車が、大正天皇の生前最後の御召列車である。<br /><br />同年11月11日に宮内省東宮職より鐵道省幹部に対し、天皇重病の為に摂政宮(昭和天皇)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)の佐賀県下陸軍大演習行啓が中止の旨、極秘裏に内報が有った。<br />且つ、大正天皇御容態急変に備え摂政宮が東京→逗子間乗車可能な御召列車運転に対し、運転に至るまで時間を要する大井工場保管の御召列車編成を使用せず、昼間は1時間間隔、夜間に就いても相当の間隔を以って緊急運転可能にすべく、1等車中心編成を使用する列車運転の為に極秘裏にダイヤを設定した。<br />同年11月19日以降、東京駅客車留置線に5両編成、更に、同年12月14日以降は7両編成を用意し、直ちに緊急臨時御召列車として運転可能状態に準備された。<br />更に、前後して同年11月13日に宮内省 白根竹介(しらね たけすけ)(明治16年(1883年)5月25日〜昭和32年(1957年)3月5日)庶務課長より鐵道省に対し、大正天皇御不例の為に葉山から東京への霊柩車輸送の為に準備を密命され、此れを受け、御料車3号を活用する事になり、同年11月17日に改造着手し同月24日に完成した。<br /><br /><br />北鎌倉駅は地元から長年駅設置を求める声が出ていたが、具体的には、大正15年(1926年)4月に、当時の圓覺寺住職 古川慧訓(ふるかわ けいくん)(慶応3年(1866年)4月4日〜昭和31年(1956年)8月29日)、及び、建長寺住職 菅原時安(すがわら じあん)(明治5年(1872年)12月8日〜昭和36年(1961年)3月6日)、両山信徒代表 栗田傳兵衛の連署で鐵道省に対し請訓書が提出された事で具体的動きが始まる。<br /><br />即ち、<br /><br />        請訓書<br /><br />当地ハ大船驛ト鎌倉驛トノ中間ニ位シ其ノ何レニ乗降スルモ廿五町及至廿七町ノ長距離ヲ徒歩或ハ自転車ニ依ラサルヲ得ス其交通不便ノ為ニ夏季休暇ヲ利用シテ建長、圓覺両山ニ参議シ座禅修業セントスル学生ハ年々数百ヲ下ラス 然レトモ鐵道不便ノ為鎌倉ノ一部ノミヲ見テ直チニ江ノ島方面ニ向ツテシマウノテ当村ニ夏ノ間タケテモ簡易停車場ヲ設置サレタク此段図面相添テ請願候也<br />尚圓覺寺ハ横須賀線布設当時多大ノ犠牲ヲ拂フテ同寺境内ノ横貫ヲ承認シ鐵道ハ山門ノ中ヲ通リナカラ鐵道ノ不便ヲ嘆スル事多年縣道モ亦同寺内ヲ貫通スルヲ以テ恰モ付近村落ノ中心点ヲナス是同寺側ヲ以テ停車場ノ最好適地ナリトス<br /><br />文面後半から横須賀線開通の際に於ける圓覺寺側の恨み辛みが読み取れる。<br /><br /><br />北鎌倉駅は紆余曲折を経て昭和2年(1927年)6月1日に乗降場として開設されたが、此の為に小坂村山ノ内の栗田傳兵衛と圓覺寺が所有する土地計72坪を鐵道省に無償寄贈して駅が開設された。<br /><br /><br />昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線は全面電車化されたが、電車化当時は横須賀線専用車輌製造が間に合わず、已む無く、蒲田、及び、東神奈川電車庫から新設された田町電車庫に京濱線用モハ31型やサロ18型を一時転用させ使用したが、客車時代の全車トイレ洗面所附クロスシート車輌に慣れた人々の目線にモハ31型のロングシートは沿線利用者の顰蹙と不評であり、同年10月より此れらは漸次、長距離用クロスシート設置のモハ32型、サロ45型、サロハ46型、クハ47型、サハ48型など横須賀線専用車輌が新製配置され交換運用される。<br />余剰となったED51型、ED53型電気機関車は勾配用に歯車比変更改造され、ED17型形式となり、中央本線浅川(現 高尾)-甲府間に転用される。<br />また、此れと同時に、大森駅停車は京濱線電車に限定され、程ケ谷駅(現 保土ヶ谷駅)、及び、戸塚駅は横須賀線電車専用駅となり東海道本線列車は全列車通過扱になる。<br /><br /><br />東京市民や横浜市民にとって明治期から大正末期まで芝浦、大森、扇島、鶴見等々が手近な海水浴場地とされたが、第一次世界大戦後に於ける我が国の京浜工業地帯成立と共に重化学工業発達に依り此れらの地は大工場林立の場と化し急激な水質悪化と共に海水浴に不適当とされるに至った。<br />他方、代替地として一躍脚光を浴びたのが逗子であり、此の為に横須賀線は盛夏期は海水浴客輸送の為に超満員状態が現出する事態に至り、昭和3年(1928年)7月より東京-逗子間に海水浴臨時列車が運転される様になった。<br />特に軍部は健康増進も兼ね海水浴を奨励した為に、伊勢橿原両神宮参拝と共に戦時中に於ける数少ない公的認定の娯楽対象となり戦争末期の昭和20年(1945年)を除き逗子の街は大混雑を呈する。<br />此れに伴い、湘南逗子地区に於ける新聞発売量が通常時期の50倍を超える事態を生じせしめ、此の膨大な量の朝刊輸送の為に昭和7年(1932年)9月1日より5両編成の専用荷物電車が深夜運転され、モニ3型木造荷物専用電車を電装解除中間車化改造のサニ27型なる横須賀線専用新形式車輌が誕生した。<br /><br /><br />昭和9年(1934年)12月にワシントン軍縮条約失効以降後に於ける新型大型戦艦建造を見越し、横須賀市蠣ヶ浦(かきがうら)に大型ドックが建設される事になり、翌昭和10年(1935年)7月に工事起工し、昭和15年(1940年)5月4日に第6ドックが竣工した。<br />因みに、此のドックが如何に巨大たるか現在でも米巨大原子力空母が極東地区に於いて検査修繕が可能なのは横須賀第6ドック以外存在しない事からも明白である。<br />軍令部作戦課の要求に依り海軍省は46センチ主砲3門9本搭載のポスト・トレッドノート型超大型戦艦4隻建造を決定し、此れに基き 大和、武蔵、信濃、紀伊が建造され、横須賀海軍工廠に於いて 信濃が建造されるが、建造中途にしてミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5日)が勃発し帝國海軍空母4隻を喪失した事から、急遽、戦艦から空母に艦種変更され、昭和19年(1944年)11月19日に竣工し呉に回航する為に11月28日に横須賀を出航するが、翌29日に熊野灘沖に於いて米潜水艦の魚雷攻撃が原因で沈没し僅か10日余の悲運薄命の軍艦として記憶される。<br />此れら対英米戦が想定され横須賀の街は緊迫感が募り、防諜上の理由から横須賀線逗子-横須賀間は横須賀湾内を望見されぬ様、海側の窓の日除けは全部降下させられ車内には制服憲兵が警乗巡回した。<br />同時に田浦-横須賀間で横須賀湾が望見可能該当ヶ所にコンクリート塀が設置され該塀は一部が現存する。<br /><br /><br />第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日〜昭和64年(1989年)1月1日御在位)は、昭和16年(1941年)3月25日に、東京-横須賀間に於いて国有鉄道として初めて御召電車に御乗車された。<br /><br />当日の編成は、<br />東京方                      横須賀方<br />モハ32036 + サロ45004 + クロ49001 + サロ45013 + モハ32003 + モハ320033<br />の6両編成で往還された。<br /><br /><br />帝國海軍聯合艦隊司令長官 山本五十六(やまもと いそろく)(明治17年(1884年)4月4日〜昭和18年(1943年)4月18日)(昭和14年(1939年)8月30日〜昭和18年(1943年)4月18日在任) 海軍大将は、ソロモン諸島方面を前線視察中に米海軍に拠り暗号が解読され予定行動が事前に露見していた事から待伏せに遭い機上に於いて米戦闘機の機銃掃射を受け戦死を遂げる。<br />山本海軍大将の戦死は正式発表まで国家機密として一般国民に対し伏せられ、御霊は聯合艦隊旗艦 戦艦武蔵 に拠り横須賀軍港に搬送され、横須賀到着を待って同年5月21日15時に政府より正式発表され特旨を以って元帥の称号を賜る。<br />翌22日に、横須賀駅から東京駅まで山本元帥の御霊を搬送する特別電車が運転される。<br /><br /><br />横須賀線は横須賀-久里浜間が開通した昭和19年(1944年)4月1日に非常決戦大綱に基づき全国近距離列車への2等車連結を廃止し全列車共に3等車のみの運転となり2等車は3等車4扉サハ78型に改造すべく大井工機部に入場改造中に海軍より将校乗車の為に2等車再連結が要請され4扉化改造工事は即座に中止され同年8月16日から横須賀線電車に2等車連結が復活したが、2扉サロハ46型は全車4扉サハ78型への改造工事着手済だった為に再連結は断念された為に全列車に2等車を連結する事は不可能な状態であり、概ね、3本に1本の割合で2等車が連結された。<br /><br /><br />横須賀鎮守府にとって昭和20年(1945年)8月15日の大東亜戦争終結は横須賀鎮守府にとって根本を揺るがす大事であった。帝國陸海軍はGHQ命令で解体させられ、新たに占領軍が横須賀に駐屯して来たが、進駐と同時に2等車は進駐軍に依り全車接収され、運輸省鉄道総局は昭和21年(1946年)10月2日附で横須賀線の2等車は全車進駐軍専用車として日本人は完全に締め出し乗車不可となる。<br />然し、2等車が絶対的に不足していた為に、関西からクロハ69型を転入整備させた他、些か泥縄的ながら3等車サハ48型をロングシートに改造して代用2等車として使用した。<br /><br />アメリカ軍第3鉄道輸送司令部MRS(Military Railway Service)は、昭和27年(1952年)4月28日にサンフランシスコ対日講和条約発効まで我が国の鉄道輸送の決定権を有した機関であったが、昭和22年(1947年)9月1日より連合軍将兵関係者、及び、連合軍家族の無賃乗車制度が廃止され乗車券購入を要する有料運賃化され、翌10月1日より2等車に空席がある場合に限り日本人の乗車も認められる様になったが、但し、該2等乗車券裏面に「余席が無い時、進駐軍が立っている時は他車に移動する事。その際でも差額は払戻致しません」と言う屈辱的表記が印刷されていた。<br />此れは、2等車に日本人乗車を認めたのは別に終戦後、進駐軍将兵が減ったからでは無く、3等車が常に日本人乗客で超満員状態だったのに対し、2等車乗車率が常にガラガラで、超満員の車輌とガラガラの車輌を併結運転は危険と判断されたからに他ならかった。<br /><br /><br />大東亜戦争終結後、ポツダム宣言に基づき我が国に連合軍が進駐して来たが、此れら進駐軍輸送の為に全国主要駅に対しRTO(Rail Transportion Office)が設置されたが、横須賀線内では<br />鎌倉駅: 昭和23年(1948年)5月4日〜昭和25年(1950年)9月1日<br />逗子駅: 昭和20年(1945年)10月23日〜昭和27年(1952年)3月31日<br />田浦駅: 昭和20年(1945年)10月23日〜昭和27年(1952年)3月31日<br />横須賀駅: 昭和20年(1945年)11月15日〜昭和27年(1952年)3月31日<br />衣笠駅: 昭和24年(1949年)1月29日〜昭和25年(1950年)9月1日<br />久里浜駅: 昭和20年(1945年)10月23日〜昭和27年(1952年)3月31日<br />横須賀線内で当時未開業だった東逗子駅を除けばRTOが設置されなかったのは北鎌倉駅だけで、鎌倉駅を除けば旅客以外貨物扱いに対しても取扱を実施し、殊に、朝鮮動乱(ちょうせん どうらん)(昭和25年(1950年)6月25日〜昭和28年(1953年)7月27日)では、連合軍用弾薬輸送の為に、関門隧道に於ける火薬類輸送禁止令を無視し筑前芦屋駅まで輸送を強行した。<br /><br />横須賀線に一般旅客用2等車が連結されるのは昭和24年(1949年)6月1日からで、此の日から進駐軍用白帯車と一般用青帯車が連結される。<br /><br />終戦直後から激増した乗客と故障が原因で激減した列車本数とに拠り、横須賀線は列車本数の確保すら困難な状況下に在った。<br />電車がモーター故障の為に自走不可能になり、已む無く、電車を電気機関車EF53型機に牽引させ最低運転数を確保する。東京の国電では他では中央本線国立-浅川(現 高尾)間で実施し、有余の車輌の整備を実施する。<br /><br /><br />昭和25年(1950年)に朝鮮半島に於いて朝鮮動乱勃発の頃、三鷹電車区配置の3扉セミクロスシートのモハ51型が関西に転出し、代りに、大阪からモハ42型、及び、モハ43型が田町電車区に転入し横須賀線で使用される。<br />同時に、モハ32型は身延線富士電車区や飯田線豊橋機関区に転出する。<br />また、此の年に、現在も車体塗装が、伝統の痕跡を残す横須賀線色に変更されたが、該塗装色は、昭和15年(1940年)10月に東京で開催予定だった国際オリムピックに於いて使用予定のコーポレートカラーだった。<br /><br />更に、久々に横須賀線専用車として昭和26年(1951年)1月に3扉セミクロスシートのクハ76型、モハ70型、及び、2等車サロ46型(改番後 サロ75型)が新製される。<br /><br /><br />昭和32年(1957年)5月14日17時22分頃、東逗子-逗子間池子弾薬庫前踏切(現 池子踏切)に於いて安全確認を怠り踏切内に進入した米陸軍第18憲兵隊所属トラックが折りしも進行中だった久里浜発東京行7両編成電車と衝突し、先頭車クハ76005型は脱線大破し、米軍兵士2名死亡、乗客乗務員米軍兵士15名が重軽傷する大事故が発生した。<br />大破したクハ76005型は台枠部も損傷し一時は廃車も危ぶまれたが、大井工場に於いて台枠部以上を全金属車体で新製し車号もクハ76351型として再生した。<br />該事故は、前述の明治42年(1909年)1月13日早朝に扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で発生した列車正面衝突事故以来の大事故であり、関東大震災災害を除いた横須賀線内で発生した数少ない列車重大事故である。<br /><br /><br />該線は戦後利用者が上昇の一途を辿るが、東海道本線に導入された111系近郊型電車は昭和39年(1964年)2月から導入され車体色も横須賀線色が継承された。<br />更に、翌昭和40年(1965年)3月に15両編成導入が決定し、同年12月1日よりラッシュ時限定で15両編成で運転された。<br /><br /><br /><br />表紙写真は 第1円覚寺踏切から横須賀線電車を背景に円覚寺境内を見る

横須賀線歴史的痕跡探訪記 〜大船-横須賀間編 明治頌歌〜

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

一般的に 横須賀線(よこすかせん)とは東京-逗子-久里浜駅間の路線と思われがちだが、実際は大船-久里浜駅間23.9kmを称する路線である。


明治維新以降、帝國海軍は横濱に東海鎮守府を設置したが、敷地狭隘である事と、当時横濱に雑居し仮想敵国たる支那人に対する防諜上とを理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀に移転し、茲に 横須賀鎮守府(よこすか ちんじゅふ)が改称成立する。

然し、現在と異なり当時は横浜から横須賀への道路が1本しか存在せず、且つ、当然未舗装な悪路で馬車通行ですら難儀する隘路だった事から、有事勃発時の人員物資等の緊急大量輸送に鑑み、初代横須賀鎮守府長官 中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将(天保8年(1837年)3月30日〜大正5年(1916年)3月30日)(明治17年(1884年)12月15日〜明治22年(1889年)3月8日在任)より輸送手段改善が提議される。

更に、明治19年(1886年)6月22日附で陸軍大臣 大山 巌(おおやま いわお)陸軍大将(天保13年(1842年)11月12日〜大正5年(1916年)12月10日)(明治18年(1885年)12月22日〜明治25年(1892年)5月6日在任9、及び、海軍大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)海軍大将(天保14年(1843年)6月1日〜明治35年(1902年)7月18日)(明治18年(1885年)12月15日〜明治23年(1890年)5月17日在任)連署で内閣に対し請議書を提出し鉄道設置が要請される。



国立公文書館に於ける該保存文書に、


鐵道建設ニ関スル請議書

相州横須賀ハ第一海軍区ノ海軍港ニシテ造船所武庫倉庫其他病院兵営練習艦隊等ヲ置キ鎮守府之ヲ管轄シ艦船ノ製造修理、兵員ノ補充ヨリ兵器弾薬被服糧食等ノ供給ニ至ルマテ海軍艦船ニ在リテハ之ヲ此港ニ仰カサルヲ得ス。又観音崎ハ東京湾口ニ斗出スル岬角ニシテ砲台ヲ置キ其防禦ニ充テ、実ニ東京湾防禦ノ要路ニ当ルノミナラス其背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ、是亦陸軍ニ於テ最大枢要ノ地トス。然リ而シテ東京ヨリ横須賀観音崎ヘハ独リ海運ノ便アルノミ神奈川又ハ横濱ヨリハ連岡其間ヲ隔テ、峻坂嶮路車馬ノ途ヲ通セス、陸運ノ便ナキヲ以テ平時ト雖トモ風波ノ為メ輒モスレハ運輸ノ途全ク断絶シ困難ヲ生スルコト尠カラス。況ンヤ一朝事アルニ際シテハ兵器糧食ヲ横須賀ニ運輸シ陸軍軍隊ヲ長井湾地方ニ派遣シテ敵兵ヲ防禦セントスルモ運輸ノ途ナキカ為軍機ヲ失スルコトナキヲ得ス可ラサルニ於オヤ。故ニ此際汽車鐵道ヲ神奈川若ハ横濱ヨリ横須賀又ハ観音崎近傍便宣ノ地へ布設スルハ陸海両軍略上最モ必要オク可ヲラサルノ事項ニシテ大ニ両軍勝敗ノ関係スル所ニ之有之候條、汽車鐵道布設ノ義至急御詮議有之度此段請閣議候也

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌
海軍大臣 伯爵 西 郷 従 道

内閣総理大臣 伯爵 伊 藤 博 文 殿


の記述が見られ、行間に朝鮮半島を巡る当時の日清間の緊迫感が窺いさせられる。

初代第I次内閣総理大臣 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日〜明治42年(1909年)10月26日)(明治18年(1885年)12月22日〜明治21年(1888年)4月13日在任)から、該鉄道建設調査を命ぜられたのが逓信省鐵道局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日〜明治43年(1910年)8月2日)である。

井上長官は調査結果を報告書に纏め内閣に回答した。


横須賀鐵道線路布設之義ニ附復命

右線路ノ撰定及費額調査為致候処横濱ヨリ東海道ヲ戸塚驛ニ至リ此里拾壱里延長合テ弐英里 左折シ鎌倉ニ入リ雪ノ下ヨリ長浦ヲ経横須賀ニ達ス此里程拾壱英里 延長合テ弐拾英里也 又他ノ線路無トキニ非ラスト雖モ難易比較シカ難ク結局該線ヲ以テ最良ノ経路トス 此間著シキ工事ハ隧道ニシテ其延長凡ソ拾弐参町 其他海岸埋築及橋梁ヲ架設スル等一切ノ費額壱英里ニ附凡四萬圓 合計八拾八萬ノ見込ニ有之 乍去横濱戸塚間ハ将来幹線ト見做 夫ヨリ横須賀ニ至るルノ間即チ全ク支線タル分多ク隧道ノ工事等有ルヲ以テ里程八本支等分ト雖モ其支線ノ負フヘキ費額ハ五拾萬圓計ニ可達歟 此ノ概算ニ基キ布設ノ可否御決議ニ相成候ハ直ニ実測取掛リ線路設置等ノ手順可相立右復命候也


政府の回答書では、

曩ニ陸海軍両大臣ヨリ其筋ヘ建議ノ趣旨ニ基キ同鐵道ヲ布設センカ為実測スル所ノ結果ハ其一端ヲ東海道鐵道戸塚藤澤間両驛間ニ起シ左折鎌倉ニ出テ長浦港ヲ経テ横須賀ニ達スルノ一線ヲ得リ 此間知性峻嶮ニシテ海濱ニ接シ工事極テ易カラス従テ山ヲ鑿チ海ヲ填ムルノ労賃少カラスト雖モ線路ハ稍直行ニ近ク然レト述カ如ク労賃ノ点ニ至リテ猶深ク講窮セサルへカラサルモノ有 他ノ数線ヲ試測スルニ更ニ迂回ニシテ工事一層困難ナルカ上労賃益加リ之ニ比スルニ本線ノ費額多ラスシテ径捷且水雷局所在ノ長浦港ヲ経ルニノ便利有ルニ依リ到底本線ヲ以テ最良ト見込撰定致候 尚横須賀ヲ貫テ便利ヲ計ラント欲セハ同所全体ノ市街ニ大改革ヲ与ヘサルヲ得スシテ其費用ノ多キ僅ニ家屋移転等ノ類ニ非サレハ曾テ確定スル所ノ四拾五萬圓乃至五拾萬圓ノ支持スル能ハサル所に附 目下此儀ハ計画不致候間 本線路ハ暫ク水平営ノ東南端ニ止メ候テモ船渠ノ用品及軍港ノ需要品ヲ運搬スルニ充分ト存候ニ附他ニ異議無ク弥本線ヲ採用スルニ決定セハ同水兵営ヲ経過セサルヲ不得モ幸ニ鑚鑿ノ地形ヲ変更スルニ要セスシテ二線ヲ布設スルニ不過候附 御承認相成リ候 図面相添ヘ此段及御照会候也

明治弐拾年十一月弐拾四日

逓信省鐵道局長官 子爵 井 上 勝

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌 殿
海軍大臣 伯爵 西郷従道 殿


此れらを加味検討した結果、資金不足を根拠に大蔵省の同意が得られず、取敢えず東海道線建設資金内から45万円を流用して建設工事案が設定される。

他方、東海道線横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月12日に開業したが、開通当時は戸塚-藤澤駅間に大船駅は存在せず、建設計画当初の予定では藤澤駅を起点に建設する計画だったが、該計画では途中の鵠沼付近人口密集地通過や長大隧道建設を要する事が判明し、横須賀線設置が政府内に於いても日清間に於ける関係低下を懸念し、緊急性を要する存在と認識判断され、明治21年(1888年)11月1日に鎌倉郡小坂村字大船付近に信号所を設置し横須賀方面に分岐させる事に決定し建設工事が開始された。

然るに、路線設置先は三浦半島を縦断するものとなり数ヶ所の隧道設置を余儀無くされる。

殊に、名越隧道(201m)は掘削開始直後から三浦半島特有の砂岩、疑灰質岩、泥岩等々が混在する劣悪地質に工事は難航を極め、明治21年(1888年)7月30日には掘削工事中に落盤事故が発生し死傷者が生じた。

また、当時は明治維新の王政復古から未だ醒めやらぬ過激な国権回復思潮が盛んな時代背景から世間では此れに伴う仏教軽視たる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風が満ち満ちており、古刹たる臨済宗圓覺寺と言えども路線通過の為には例外的存在では無く寺側は有無を言わさず例外は認められず、泣く泣く外苑たる白鷺池(びゃくろち)は過半が埋没させられ池と総門が分離を余儀無くせざるを得ない状況下に置かれた。
また、鎌倉も鶴岡八幡宮参道で約600年の歴史有する段葛(だんかずら)をも例外とは成り得ず、壱之鳥居から弐之鳥居に至る区間が撤去整理され跡地は線路に向かう緩い勾配頂点上に八幡踏切が設置された。

また、海軍当局は横須賀駅に就いて白浜村(現在の 稲岡町)に設置を希望したが、住宅密集地通過と区画整理とを要する為に逸見村で決着を見る。


かくて、大船-横須賀駅間は明治22年(1889年)1月に工事がほぼ竣工し同年6月18日に正式開通した。

然し、何事にも例外は存在するもので、横須賀海軍工廠ドックで建造中の国産通報艦 八重山(1600トン 最大戦速20ノット) の進水式に合わせ、明治天皇が進水式に臨席あらせられる事になり、正式開業に先立つ同年3月12日に新橋-横須賀間に御召列車が運転されたが、該御召列車運転が横須賀線列車運転の嚆矢である。

開業当初は大船-横須賀間の4往復45分で平均時速21.6キロ運転だったが、同年7月1日に東海道本線全線開業に伴うダイヤ改正で6往復に増発され、更に、明治23年(1890年)1月14日改正で若干スピードアップされ平均時速27.8キロ6往復35分運転となる(平成22年現在、同区間最速列車運転時間は20分)。


横須賀線は当時から列車運転本数が多い事から、明治35年(1902年)9月25日に、我が国最初の通票閉塞方式が採用され安全面に於いて寄与する。
然るに、明治42年(1909年)1月13日6時47分頃、扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で下り第505旅客列車と上り第2旅客列車同士の正面衝突事故が発生し、機関車2輌、客車2輌が脱線し運転速度が遅かった為に死者こそ出さなかったが乗客乗務員計21名の重軽傷者を出す。
事故原因は鎌倉駅信号担当助役が、大船-鎌倉間で下り旅客第505列車が8分遅延運行中たる事を失念し、且つ、肝心な列車時刻確認を怠り通票閉塞機の故障と独断して不正操作し通票を取出し上り旅客第2列車機関手に交付した為で、大正5年(1916年)11月29日には東北本線下田-古間木(現 三沢駅)間で同様の正面衝突事故が発生し多数の死傷者を出す惨事が発生したが、三沢事故は必ずしも鎌倉列車正面衝突事故が該教訓にならなかった事を証明した。


現在の江ノ電の前身たる江之島電気鐵道は藤澤停留所を起点として漸次路線を延長させ明治40年(1907年)8月16日に鎌倉大町停留所に達したが、更に、八幡宮弐ノ鳥居前付近まで路線延長と停留所設置を計画し工事資金の点で横須賀線とは平面交差を希望したが、当時の鉄道の監督官庁たる鐵道院と路面軌道線の監督官庁たる内務省とが列車運行の安全面の観点から難色を示し一時は暗礁に乗り上げるかに見えたが、最終的に鐵道院が2/3、残り1/3を江之島電気鐵道が工事資金負担する事で合意し、横須賀線は八幡踏切への勾配と踏切を廃止し立体交差を施し決着を見て、明治43年(1910年)1月に工事起工し僅か4ヶ月で竣工した。


鐵道院、鐵道省は新車導入に際し横須賀線で試用する傾向が存在した様で、文豪 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日〜昭和46年(1971年)4月20日) は短編小説 非常汽笛(ひじょう きてき)に、「横須賀線が電車になる前の汽車は、岐線であるのにどう云うわけだか機関車は東海道線の急行列車を索引する當時の一番新らしい型が使用せられ、客車も概して上等で、本線の長距離用に考案されたのが出来ると、先づ横須賀線で使つて見ると云う様な事もあつたらしい。叉岐線の一等車が癈止になつてからは、ただその白線を青く塗り變へただけの二等車を連結したり、二等車の中に特別室を仕切つた贅澤な試験用の車輛を運轉したりした。毎週一回横須賀の海軍機関學校に通つてゐた私と豊島興志雄君とは、帰りの汽車に特別室があると、二人でその中にもぐり込んで晝寝をした(後略)」との記述が見られ、列車に連結されていた車輌は17m級木造客車ナイロ20500型に乗車したものと推定される。


横須賀線は開業後、輸送量の増加に拠り複線化が推進される。
各区間複線化工事竣工は、

大船-鎌倉間  大正 5年(1916年) 9月13日
鎌倉-逗子間  大正 6年(1917年) 3月
逗子-沼間間  大正 3年(1914年) 8月12日
沼間-田浦間  大正 9年(1920年)10月19日
田浦-横須賀間 大正13年(1924年)12月25日

また、大船-鎌倉間複線化と同時に予てから各方面から切望されていた東京-横須賀間の直通運転が開始され、東京-大船間は東京-國府津間近距離列車に併結切離で運転される。


該線は大正13年(1924年)完成を目処に直流1500V電化が決定されたが、明治中期構築の隧道では口径不足の為に架線吊張が困難だった事から、隧道口に臨時信号場を設置して単線運転しながら明治期建築の隧道の側壁を馬蹄型から垂直型に改造しコンクリート形態として口径拡大工事を施行したが、不幸にして工事途中に関東大震災に遭遇する。


関東大震災発生時、該線内に於ける被害は、

大船駅
横須賀線大船駅12時15発横須賀行下り旅客普通第9列車牽引の為に、連結直前で側線待機中だった8850型炭水車附蒸気機関車8854号機(東京機関庫所属)は、地震発生と同時に脱線し、炭水車小破、緩衝器折損被害が生じる。

鎌倉駅
上り貨物第32列車は該駅構内に於いて入換作業中に地震が発生し、該列車編成32両中、有蓋車3両、無蓋車2両が脱線。
構内留置中の有蓋車1両が焼損。

田浦-沼間間
横須賀線横須賀駅11時50分発東京行上り旅客普通第514列車は、田浦駅を11時55分定刻出発後、沼間隧道内走行中に地震に遭遇し、該列車機関手は激震を感じ直ちに急停車した。
該隧道は大船方坑門付近が崩落崩壊し、且つ、該隧道内煉瓦崩落が著しかた事から、該機関車機関手は前進は不可能と判断した事から後退を決意し、該列車後進中に、後部車掌は該隧道横須賀方坑門付近崖が崩落中たる事を現認し、非常弁を動作させたが及ばず、該列車最後尾客車が脱線し、次位客車が乗り上げる形で追突した為に、該乗客3名死亡、6名重軽傷を出す事故となる。
因みに、該列車1等車には、海軍水雷学校から帰途の、皇族 海軍少尉 華頂宮博忠(かやのみや ひろただ)王(明治35年(1902年)1月26日〜大正13年(1924年)3月24日)が乗車していたが、該車輌に被害無く無事だった。

横須賀駅
横須賀線横須賀駅12時50分発大船行上り旅客普通第6列車牽引の為に、側線待機中の8850型炭水車附蒸気機関車8852号機(東京機関庫所属)は、地震発生と共に該駅裏手の見晴山が土砂崩壊した為に、該機関車は埋没した。

該線関係では修学旅行で静岡から軍港見学の為に横須賀訪問中の静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)生徒が第511列車に乗車し11時32分に横須賀駅到着後、昼食前の点呼中に傘を忘れ駅に戻った生徒1名を除き集結中の教師生徒200数名と列車から下車直後で崖下を通行中の一般旅客100数名合計300名余の背後に聳える見晴山が高さ30メートル、厚さ20メートル、長さ415メートルに亘り崩壊落して全員生埋になり、市内他所の生存者救出と道路復旧を最優先した為に崩壊現場は約3週間放置され、猛烈な臭気と共に崩壊した土砂上を無数の蠅が蝟集する惨状を呈した。

横須賀線は全線に亘り震災被害が生じたが、取敢えず9月5日に大船-横須賀間全線で復旧工事が開始され、漸次単線で復旧された。
然し、田浦-横須賀間は側面崩落や第1七釜隧道、及び、吉倉隧道土砂崩壊と坑門破壊等々の被害が著しく他区関より開通が遅延した。
此の為に、横須賀線復旧を急ぐ為に鐵道省は海軍省に対し復旧要員を要請し海軍大臣命令に拠り海軍機関学校生徒、及び、横須賀海軍工廠職工300名弱が動員され、此の為に長期間組織的応援に貢献した海軍工廠職工に対する給与補填に、後日、鐵道省は海軍省を通じ海軍工廠に対し賃金相当金額1588円を支払った。

此の辺の描写は 内田百間 に依る短編小説 進水式(しんすいしき)の記述に震災前後の横須賀駅前の状況が描かれている。

大船-鎌倉間  9月 9日復旧
鎌倉-逗子間  9月10日復旧
逗子-田浦間  9月13日復旧
田浦-横須賀間 9月25日一旦復旧、10月11日豪雨の為に再不通、10月25日再復旧


関東大震災復旧を最優先にした為に遅延していた電化工事は大正13年(1924年)4月に再開され翌年4月に完成する。
かくて、大正14年(1925年)12月13日の東京発横須賀行最終列車より蒸気機関車前部に電気機関車を連結する電蒸運転が開始された。


第123代 大正天皇(たいしょう てんのう)(明治12年(1879年)8月31日〜大正15年(1926年)12月25日)(大正元年(1912年)7月30日〜大正15年(1926年)12月25日御在位)は、度々、葉山御用邸を御静養の際に該線を利用されたが、大正15年(1926年)8月10日に原宿→逗子間運転列車が、大正天皇の生前最後の御召列車である。

同年11月11日に宮内省東宮職より鐵道省幹部に対し、天皇重病の為に摂政宮(昭和天皇)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)の佐賀県下陸軍大演習行啓が中止の旨、極秘裏に内報が有った。
且つ、大正天皇御容態急変に備え摂政宮が東京→逗子間乗車可能な御召列車運転に対し、運転に至るまで時間を要する大井工場保管の御召列車編成を使用せず、昼間は1時間間隔、夜間に就いても相当の間隔を以って緊急運転可能にすべく、1等車中心編成を使用する列車運転の為に極秘裏にダイヤを設定した。
同年11月19日以降、東京駅客車留置線に5両編成、更に、同年12月14日以降は7両編成を用意し、直ちに緊急臨時御召列車として運転可能状態に準備された。
更に、前後して同年11月13日に宮内省 白根竹介(しらね たけすけ)(明治16年(1883年)5月25日〜昭和32年(1957年)3月5日)庶務課長より鐵道省に対し、大正天皇御不例の為に葉山から東京への霊柩車輸送の為に準備を密命され、此れを受け、御料車3号を活用する事になり、同年11月17日に改造着手し同月24日に完成した。


北鎌倉駅は地元から長年駅設置を求める声が出ていたが、具体的には、大正15年(1926年)4月に、当時の圓覺寺住職 古川慧訓(ふるかわ けいくん)(慶応3年(1866年)4月4日〜昭和31年(1956年)8月29日)、及び、建長寺住職 菅原時安(すがわら じあん)(明治5年(1872年)12月8日〜昭和36年(1961年)3月6日)、両山信徒代表 栗田傳兵衛の連署で鐵道省に対し請訓書が提出された事で具体的動きが始まる。

即ち、

        請訓書

当地ハ大船驛ト鎌倉驛トノ中間ニ位シ其ノ何レニ乗降スルモ廿五町及至廿七町ノ長距離ヲ徒歩或ハ自転車ニ依ラサルヲ得ス其交通不便ノ為ニ夏季休暇ヲ利用シテ建長、圓覺両山ニ参議シ座禅修業セントスル学生ハ年々数百ヲ下ラス 然レトモ鐵道不便ノ為鎌倉ノ一部ノミヲ見テ直チニ江ノ島方面ニ向ツテシマウノテ当村ニ夏ノ間タケテモ簡易停車場ヲ設置サレタク此段図面相添テ請願候也
尚圓覺寺ハ横須賀線布設当時多大ノ犠牲ヲ拂フテ同寺境内ノ横貫ヲ承認シ鐵道ハ山門ノ中ヲ通リナカラ鐵道ノ不便ヲ嘆スル事多年縣道モ亦同寺内ヲ貫通スルヲ以テ恰モ付近村落ノ中心点ヲナス是同寺側ヲ以テ停車場ノ最好適地ナリトス

文面後半から横須賀線開通の際に於ける圓覺寺側の恨み辛みが読み取れる。


北鎌倉駅は紆余曲折を経て昭和2年(1927年)6月1日に乗降場として開設されたが、此の為に小坂村山ノ内の栗田傳兵衛と圓覺寺が所有する土地計72坪を鐵道省に無償寄贈して駅が開設された。


昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線は全面電車化されたが、電車化当時は横須賀線専用車輌製造が間に合わず、已む無く、蒲田、及び、東神奈川電車庫から新設された田町電車庫に京濱線用モハ31型やサロ18型を一時転用させ使用したが、客車時代の全車トイレ洗面所附クロスシート車輌に慣れた人々の目線にモハ31型のロングシートは沿線利用者の顰蹙と不評であり、同年10月より此れらは漸次、長距離用クロスシート設置のモハ32型、サロ45型、サロハ46型、クハ47型、サハ48型など横須賀線専用車輌が新製配置され交換運用される。
余剰となったED51型、ED53型電気機関車は勾配用に歯車比変更改造され、ED17型形式となり、中央本線浅川(現 高尾)-甲府間に転用される。
また、此れと同時に、大森駅停車は京濱線電車に限定され、程ケ谷駅(現 保土ヶ谷駅)、及び、戸塚駅は横須賀線電車専用駅となり東海道本線列車は全列車通過扱になる。


東京市民や横浜市民にとって明治期から大正末期まで芝浦、大森、扇島、鶴見等々が手近な海水浴場地とされたが、第一次世界大戦後に於ける我が国の京浜工業地帯成立と共に重化学工業発達に依り此れらの地は大工場林立の場と化し急激な水質悪化と共に海水浴に不適当とされるに至った。
他方、代替地として一躍脚光を浴びたのが逗子であり、此の為に横須賀線は盛夏期は海水浴客輸送の為に超満員状態が現出する事態に至り、昭和3年(1928年)7月より東京-逗子間に海水浴臨時列車が運転される様になった。
特に軍部は健康増進も兼ね海水浴を奨励した為に、伊勢橿原両神宮参拝と共に戦時中に於ける数少ない公的認定の娯楽対象となり戦争末期の昭和20年(1945年)を除き逗子の街は大混雑を呈する。
此れに伴い、湘南逗子地区に於ける新聞発売量が通常時期の50倍を超える事態を生じせしめ、此の膨大な量の朝刊輸送の為に昭和7年(1932年)9月1日より5両編成の専用荷物電車が深夜運転され、モニ3型木造荷物専用電車を電装解除中間車化改造のサニ27型なる横須賀線専用新形式車輌が誕生した。


昭和9年(1934年)12月にワシントン軍縮条約失効以降後に於ける新型大型戦艦建造を見越し、横須賀市蠣ヶ浦(かきがうら)に大型ドックが建設される事になり、翌昭和10年(1935年)7月に工事起工し、昭和15年(1940年)5月4日に第6ドックが竣工した。
因みに、此のドックが如何に巨大たるか現在でも米巨大原子力空母が極東地区に於いて検査修繕が可能なのは横須賀第6ドック以外存在しない事からも明白である。
軍令部作戦課の要求に依り海軍省は46センチ主砲3門9本搭載のポスト・トレッドノート型超大型戦艦4隻建造を決定し、此れに基き 大和、武蔵、信濃、紀伊が建造され、横須賀海軍工廠に於いて 信濃が建造されるが、建造中途にしてミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5日)が勃発し帝國海軍空母4隻を喪失した事から、急遽、戦艦から空母に艦種変更され、昭和19年(1944年)11月19日に竣工し呉に回航する為に11月28日に横須賀を出航するが、翌29日に熊野灘沖に於いて米潜水艦の魚雷攻撃が原因で沈没し僅か10日余の悲運薄命の軍艦として記憶される。
此れら対英米戦が想定され横須賀の街は緊迫感が募り、防諜上の理由から横須賀線逗子-横須賀間は横須賀湾内を望見されぬ様、海側の窓の日除けは全部降下させられ車内には制服憲兵が警乗巡回した。
同時に田浦-横須賀間で横須賀湾が望見可能該当ヶ所にコンクリート塀が設置され該塀は一部が現存する。


第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日〜昭和64年(1989年)1月1日御在位)は、昭和16年(1941年)3月25日に、東京-横須賀間に於いて国有鉄道として初めて御召電車に御乗車された。

当日の編成は、
東京方                      横須賀方
モハ32036 + サロ45004 + クロ49001 + サロ45013 + モハ32003 + モハ320033
の6両編成で往還された。


帝國海軍聯合艦隊司令長官 山本五十六(やまもと いそろく)(明治17年(1884年)4月4日〜昭和18年(1943年)4月18日)(昭和14年(1939年)8月30日〜昭和18年(1943年)4月18日在任) 海軍大将は、ソロモン諸島方面を前線視察中に米海軍に拠り暗号が解読され予定行動が事前に露見していた事から待伏せに遭い機上に於いて米戦闘機の機銃掃射を受け戦死を遂げる。
山本海軍大将の戦死は正式発表まで国家機密として一般国民に対し伏せられ、御霊は聯合艦隊旗艦 戦艦武蔵 に拠り横須賀軍港に搬送され、横須賀到着を待って同年5月21日15時に政府より正式発表され特旨を以って元帥の称号を賜る。
翌22日に、横須賀駅から東京駅まで山本元帥の御霊を搬送する特別電車が運転される。


横須賀線は横須賀-久里浜間が開通した昭和19年(1944年)4月1日に非常決戦大綱に基づき全国近距離列車への2等車連結を廃止し全列車共に3等車のみの運転となり2等車は3等車4扉サハ78型に改造すべく大井工機部に入場改造中に海軍より将校乗車の為に2等車再連結が要請され4扉化改造工事は即座に中止され同年8月16日から横須賀線電車に2等車連結が復活したが、2扉サロハ46型は全車4扉サハ78型への改造工事着手済だった為に再連結は断念された為に全列車に2等車を連結する事は不可能な状態であり、概ね、3本に1本の割合で2等車が連結された。


横須賀鎮守府にとって昭和20年(1945年)8月15日の大東亜戦争終結は横須賀鎮守府にとって根本を揺るがす大事であった。帝國陸海軍はGHQ命令で解体させられ、新たに占領軍が横須賀に駐屯して来たが、進駐と同時に2等車は進駐軍に依り全車接収され、運輸省鉄道総局は昭和21年(1946年)10月2日附で横須賀線の2等車は全車進駐軍専用車として日本人は完全に締め出し乗車不可となる。
然し、2等車が絶対的に不足していた為に、関西からクロハ69型を転入整備させた他、些か泥縄的ながら3等車サハ48型をロングシートに改造して代用2等車として使用した。

アメリカ軍第3鉄道輸送司令部MRS(Military Railway Service)は、昭和27年(1952年)4月28日にサンフランシスコ対日講和条約発効まで我が国の鉄道輸送の決定権を有した機関であったが、昭和22年(1947年)9月1日より連合軍将兵関係者、及び、連合軍家族の無賃乗車制度が廃止され乗車券購入を要する有料運賃化され、翌10月1日より2等車に空席がある場合に限り日本人の乗車も認められる様になったが、但し、該2等乗車券裏面に「余席が無い時、進駐軍が立っている時は他車に移動する事。その際でも差額は払戻致しません」と言う屈辱的表記が印刷されていた。
此れは、2等車に日本人乗車を認めたのは別に終戦後、進駐軍将兵が減ったからでは無く、3等車が常に日本人乗客で超満員状態だったのに対し、2等車乗車率が常にガラガラで、超満員の車輌とガラガラの車輌を併結運転は危険と判断されたからに他ならかった。


大東亜戦争終結後、ポツダム宣言に基づき我が国に連合軍が進駐して来たが、此れら進駐軍輸送の為に全国主要駅に対しRTO(Rail Transportion Office)が設置されたが、横須賀線内では
鎌倉駅: 昭和23年(1948年)5月4日〜昭和25年(1950年)9月1日
逗子駅: 昭和20年(1945年)10月23日〜昭和27年(1952年)3月31日
田浦駅: 昭和20年(1945年)10月23日〜昭和27年(1952年)3月31日
横須賀駅: 昭和20年(1945年)11月15日〜昭和27年(1952年)3月31日
衣笠駅: 昭和24年(1949年)1月29日〜昭和25年(1950年)9月1日
久里浜駅: 昭和20年(1945年)10月23日〜昭和27年(1952年)3月31日
横須賀線内で当時未開業だった東逗子駅を除けばRTOが設置されなかったのは北鎌倉駅だけで、鎌倉駅を除けば旅客以外貨物扱いに対しても取扱を実施し、殊に、朝鮮動乱(ちょうせん どうらん)(昭和25年(1950年)6月25日〜昭和28年(1953年)7月27日)では、連合軍用弾薬輸送の為に、関門隧道に於ける火薬類輸送禁止令を無視し筑前芦屋駅まで輸送を強行した。

横須賀線に一般旅客用2等車が連結されるのは昭和24年(1949年)6月1日からで、此の日から進駐軍用白帯車と一般用青帯車が連結される。

終戦直後から激増した乗客と故障が原因で激減した列車本数とに拠り、横須賀線は列車本数の確保すら困難な状況下に在った。
電車がモーター故障の為に自走不可能になり、已む無く、電車を電気機関車EF53型機に牽引させ最低運転数を確保する。東京の国電では他では中央本線国立-浅川(現 高尾)間で実施し、有余の車輌の整備を実施する。


昭和25年(1950年)に朝鮮半島に於いて朝鮮動乱勃発の頃、三鷹電車区配置の3扉セミクロスシートのモハ51型が関西に転出し、代りに、大阪からモハ42型、及び、モハ43型が田町電車区に転入し横須賀線で使用される。
同時に、モハ32型は身延線富士電車区や飯田線豊橋機関区に転出する。
また、此の年に、現在も車体塗装が、伝統の痕跡を残す横須賀線色に変更されたが、該塗装色は、昭和15年(1940年)10月に東京で開催予定だった国際オリムピックに於いて使用予定のコーポレートカラーだった。

更に、久々に横須賀線専用車として昭和26年(1951年)1月に3扉セミクロスシートのクハ76型、モハ70型、及び、2等車サロ46型(改番後 サロ75型)が新製される。


昭和32年(1957年)5月14日17時22分頃、東逗子-逗子間池子弾薬庫前踏切(現 池子踏切)に於いて安全確認を怠り踏切内に進入した米陸軍第18憲兵隊所属トラックが折りしも進行中だった久里浜発東京行7両編成電車と衝突し、先頭車クハ76005型は脱線大破し、米軍兵士2名死亡、乗客乗務員米軍兵士15名が重軽傷する大事故が発生した。
大破したクハ76005型は台枠部も損傷し一時は廃車も危ぶまれたが、大井工場に於いて台枠部以上を全金属車体で新製し車号もクハ76351型として再生した。
該事故は、前述の明治42年(1909年)1月13日早朝に扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で発生した列車正面衝突事故以来の大事故であり、関東大震災災害を除いた横須賀線内で発生した数少ない列車重大事故である。


該線は戦後利用者が上昇の一途を辿るが、東海道本線に導入された111系近郊型電車は昭和39年(1964年)2月から導入され車体色も横須賀線色が継承された。
更に、翌昭和40年(1965年)3月に15両編成導入が決定し、同年12月1日よりラッシュ時限定で15両編成で運転された。



表紙写真は 第1円覚寺踏切から横須賀線電車を背景に円覚寺境内を見る

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 大船駅<br /><br /><br /><br />大船東海道本線乗越橋<br />217系電車<br />東海道本線下り線を跨ぐ乗越橋は昭和5年(1930年)3月15日より電車運転開始に伴い、東海道本線近距離列車と運転分離された際に設置。

    大船駅



    大船東海道本線乗越橋
    217系電車
    東海道本線下り線を跨ぐ乗越橋は昭和5年(1930年)3月15日より電車運転開始に伴い、東海道本線近距離列車と運転分離された際に設置。

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />横須賀線起点0キロポスト<br />現在は第3番ホーム横須賀方に設置されているが、大正11年(1922年)鐵道省東京鐵道局作成作図の『大船驛構内線路設備配置図』ではホーム中央の砂押川橋梁付近に設置された。<br />現駅移転は、関東大震災後の大正14年(1925年)8月2日。<br />

    大船駅



    横須賀線起点0キロポスト
    現在は第3番ホーム横須賀方に設置されているが、大正11年(1922年)鐵道省東京鐵道局作成作図の『大船驛構内線路設備配置図』ではホーム中央の砂押川橋梁付近に設置された。
    現駅移転は、関東大震災後の大正14年(1925年)8月2日。

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />大船駅は関東大震災で全壊全損し大正15年(1926年)11月復旧<br />手前 第4番ホーム<br />昭和3年(1928年)3月完成<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=342

    大船駅



    第3番ホーム
    大船駅は関東大震災で全壊全損し大正15年(1926年)11月復旧
    手前 第4番ホーム
    昭和3年(1928年)3月完成

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=342

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />側壁<br />積算段差が該駅歴史を語る。

    大船駅



    第3番ホーム
    側壁
    積算段差が該駅歴史を語る。

    大船駅

  • 大船駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム<br />写真中央下は砂押川(すなおしがわ)。<br />砂押川こそ横浜市栄区笠間1丁目と鎌倉市大船1丁目との境界線。<br />昭和14年(1939年)4月1日附で、鎌倉郡戸塚町、瀬谷村、中川村、中和田村、川上村、大正村、本郷村、豊田村が横浜市編入に拠り戸塚区が成立。

    大船駅



    第3番ホーム
    写真中央下は砂押川(すなおしがわ)。
    砂押川こそ横浜市栄区笠間1丁目と鎌倉市大船1丁目との境界線。
    昭和14年(1939年)4月1日附で、鎌倉郡戸塚町、瀬谷村、中川村、中和田村、川上村、大正村、本郷村、豊田村が横浜市編入に拠り戸塚区が成立。

  • 大船-北鎌倉間<br /><br /><br /><br />大船架道橋(おおふな かどうきょう)と田園踏切(でんえん ふみきり)<br /><br />鎌倉市小袋谷1−3−3<br />東海道本線大船駅東口 徒歩4分

    大船-北鎌倉間



    大船架道橋(おおふな かどうきょう)と田園踏切(でんえん ふみきり)

    鎌倉市小袋谷1−3−3
    東海道本線大船駅東口 徒歩4分

  • 大船-北鎌倉間<br /><br /><br /><br />田園踏切<br /><br />鎌倉市小袋谷1−2−2<br />東海道本線大船駅東口 徒歩4分

    大船-北鎌倉間



    田園踏切

    鎌倉市小袋谷1−2−2
    東海道本線大船駅東口 徒歩4分

  • 大船-北鎌倉間<br /><br /><br /><br />旧笠間川橋梁橋台跡(きゅう かさまがわ きょうりょうきょうだいあと)<br />明治21年(1888年)6月完成。<br />昭和5年(1930年)3月15日に横須賀線電車化と同時に大船架道橋使用開始に伴い廃止。<br />手前橋台が横須賀線開業時の物。<br />奥橋台が複線化時の物。<br />横須賀線開業時の煉瓦の色は隧道、橋台、側壁等々で使用物は全部黒褐色なのに対し、増線時使用物は赤褐色。<br /><br />鎌倉市大船1−19−1<br />東海道本線大船駅東口 徒歩4分

    大船-北鎌倉間



    旧笠間川橋梁橋台跡(きゅう かさまがわ きょうりょうきょうだいあと)
    明治21年(1888年)6月完成。
    昭和5年(1930年)3月15日に横須賀線電車化と同時に大船架道橋使用開始に伴い廃止。
    手前橋台が横須賀線開業時の物。
    奥橋台が複線化時の物。
    横須賀線開業時の煉瓦の色は隧道、橋台、側壁等々で使用物は全部黒褐色なのに対し、増線時使用物は赤褐色。

    鎌倉市大船1−19−1
    東海道本線大船駅東口 徒歩4分

  • 大船ー北鎌倉間<br /><br /><br /><br />横須賀線貨物連絡線笠間川橋梁橋台跡<br />横須賀線内から東海道本線側に存在した貨物駅への連絡線跡<br />東海道本線上下旅客線とはダイヤモンドクロスしていた。<br /><br />根岸線連絡線開通に伴い昭和48年(1973年)10月1日附廃止。<br /><br />鎌倉市大船1−30−6<br />東海道本線大船駅東口 徒歩4分<br /><br /><br />

    大船ー北鎌倉間



    横須賀線貨物連絡線笠間川橋梁橋台跡
    横須賀線内から東海道本線側に存在した貨物駅への連絡線跡
    東海道本線上下旅客線とはダイヤモンドクロスしていた。

    根岸線連絡線開通に伴い昭和48年(1973年)10月1日附廃止。

    鎌倉市大船1−30−6
    東海道本線大船駅東口 徒歩4分


  • 大船-北鎌倉間<br /><br /><br /><br />横須賀線貨物連絡線笠間川橋梁橋台跡<br />真横から見る<br /><br />鎌倉市大船1−30−6<br />東海道本線大船駅東口 徒歩4分

    大船-北鎌倉間



    横須賀線貨物連絡線笠間川橋梁橋台跡
    真横から見る

    鎌倉市大船1−30−6
    東海道本線大船駅東口 徒歩4分

  • 大船-北鎌倉間<br /><br /><br /><br />手前の線路跡は元「鎌倉車両センター出入専用線」<br />元来は横須賀海軍工廠造兵部深澤分工場引込線で昭和18年(1943年)10月21日開設。<br />終戦後、資産管理の大蔵省から運輸省に所有移管され日本国有鉄道所有を経て現在はJR東日本所有。<br /><br />鎌倉市台3−5−6<br />東海道本線大船駅東口 徒歩10分

    大船-北鎌倉間



    手前の線路跡は元「鎌倉車両センター出入専用線」
    元来は横須賀海軍工廠造兵部深澤分工場引込線で昭和18年(1943年)10月21日開設。
    終戦後、資産管理の大蔵省から運輸省に所有移管され日本国有鉄道所有を経て現在はJR東日本所有。

    鎌倉市台3−5−6
    東海道本線大船駅東口 徒歩10分

  • 鎌倉車両センター出入専用線<br /><br /><br /><br />全区間線路は残存しているが途中踏切は軌条撤去の上、封鎖されている。<br /><br />鎌倉市上町屋622<br />湘南江ノ電バス町屋橋停留所降車 徒歩1分

    鎌倉車両センター出入専用線



    全区間線路は残存しているが途中踏切は軌条撤去の上、封鎖されている。

    鎌倉市上町屋622
    湘南江ノ電バス町屋橋停留所降車 徒歩1分

  • 鎌倉車両センター出入専用線<br /><br /><br /><br />元工場入口部<br /><br />鎌倉市上町屋600−1<br />湘南江ノ電バス町屋橋停留所降車 徒歩2分

    鎌倉車両センター出入専用線



    元工場入口部

    鎌倉市上町屋600−1
    湘南江ノ電バス町屋橋停留所降車 徒歩2分

  • 鎌倉車両センター<br /><br /><br /><br />元正門前<br />海軍横須賀工廠深澤分工場として日独伊三國間同盟条約(Deutschland,Itarien,und,Japanische,dreimechitepakt)付属相互技術提携議定書に基づき、我が国からは酸素魚雷、3式対空弾実物を送付し、ドイツ海軍から技術提供与され帝國海軍伊号潜水艦で輸送された設計図とサンプルを基に、92式電気式魚雷(航空用魚雷)、深々度機雷、高速爆雷、及び、水中探信機(ソナー)の研究開発、及び、製造の為に、昭和18年(1943年)10月21日開所された。<br />大東亜戦争終結と共に施設一式は海軍省から大蔵省に移管され、同年10月22日に敷地内整備が完成し、12月に大蔵省から運輸省に再移管が実施された。<br />開設当初は 大井工機部大船分工場 と称し、主として戦時中から終戦直後にかけて酷使された電車の復興整備 更新工事? を施行。<br />大船工場として独立後は、東京南北西、千葉、及び、飯田線関連車輌を除く静岡各鉄道管理局配置の電車、及び、客車の定期検査、及び、改造を担当する。<br />民営化後、平成12年(2000年)7月1日に鎌倉車両所に改称されたが、平成18年(2006年)2月9日に廃止。<br /><br />工場廃止後、現地周辺に高濃度カドニウムが検出され土地汚染が著しい事と、且つ、鎌倉期の貴重な埋没遺産が存在する事が判明し、JR東日本は売却したくとも買手無き状況。<br /><br />鎌倉市梶原560−1<br />湘南モノレール湘南深沢駅 徒歩1分

    鎌倉車両センター



    元正門前
    海軍横須賀工廠深澤分工場として日独伊三國間同盟条約(Deutschland,Itarien,und,Japanische,dreimechitepakt)付属相互技術提携議定書に基づき、我が国からは酸素魚雷、3式対空弾実物を送付し、ドイツ海軍から技術提供与され帝國海軍伊号潜水艦で輸送された設計図とサンプルを基に、92式電気式魚雷(航空用魚雷)、深々度機雷、高速爆雷、及び、水中探信機(ソナー)の研究開発、及び、製造の為に、昭和18年(1943年)10月21日開所された。
    大東亜戦争終結と共に施設一式は海軍省から大蔵省に移管され、同年10月22日に敷地内整備が完成し、12月に大蔵省から運輸省に再移管が実施された。
    開設当初は 大井工機部大船分工場 と称し、主として戦時中から終戦直後にかけて酷使された電車の復興整備 更新工事? を施行。
    大船工場として独立後は、東京南北西、千葉、及び、飯田線関連車輌を除く静岡各鉄道管理局配置の電車、及び、客車の定期検査、及び、改造を担当する。
    民営化後、平成12年(2000年)7月1日に鎌倉車両所に改称されたが、平成18年(2006年)2月9日に廃止。

    工場廃止後、現地周辺に高濃度カドニウムが検出され土地汚染が著しい事と、且つ、鎌倉期の貴重な埋没遺産が存在する事が判明し、JR東日本は売却したくとも買手無き状況。

    鎌倉市梶原560−1
    湘南モノレール湘南深沢駅 徒歩1分

  • 北鎌倉(きたかまくら)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />昭和2年(1927年)5月20日仮乗降場認可<br />開業当初は6月1日〜10月31日間季節営業<br />翌昭和3年(1928年)より4月1日〜翌年3月31日間営業<br />昭和5年(1930年)10月1日駅格上<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=563<br />

    北鎌倉(きたかまくら)駅



    駅本屋
    昭和2年(1927年)5月20日仮乗降場認可
    開業当初は6月1日〜10月31日間季節営業
    翌昭和3年(1928年)より4月1日〜翌年3月31日間営業
    昭和5年(1930年)10月1日駅格上
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=563

    北鎌倉駅

  • 北鎌倉駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム仕切柵<br />古軌条使用。

    北鎌倉駅



    第2番ホーム仕切柵
    古軌条使用。

    北鎌倉駅

  • 北鎌倉駅<br /><br /><br /><br />第2番ホームから見た第1番ホーム

    北鎌倉駅



    第2番ホームから見た第1番ホーム

    北鎌倉駅

  • 北鎌倉駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム上屋<br />北鎌倉駅開業当時にホーム上屋は戦後も暫くの間は此処のみ存在。<br />旧2等利用者の特権。<br />但し、平成23年には上りホーム全体に上屋設置予定。

    北鎌倉駅



    第1番ホーム上屋
    北鎌倉駅開業当時にホーム上屋は戦後も暫くの間は此処のみ存在。
    旧2等利用者の特権。
    但し、平成23年には上りホーム全体に上屋設置予定。

    北鎌倉駅

  • 北鎌倉駅<br /><br /><br /><br />構内旅客専用踏切<br />停車中の横須賀線下り電車と構内旅客専用踏切

    北鎌倉駅



    構内旅客専用踏切
    停車中の横須賀線下り電車と構内旅客専用踏切

    北鎌倉駅

  • 北鎌倉駅<br /><br /><br /><br />構内旅客専用踏切<br />北鎌倉駅は開業以来、跨線橋や地下道が存在せず下り電車を降り駅本屋側に構内専用踏切を渡る。

    北鎌倉駅



    構内旅客専用踏切
    北鎌倉駅は開業以来、跨線橋や地下道が存在せず下り電車を降り駅本屋側に構内専用踏切を渡る。

    北鎌倉駅

  • 北鎌倉駅<br /><br /><br /><br />構内旅客専用踏切<br />北鎌倉と言えば映画監督 小津安二郎(おづ やすじろう)(明治36年(1903年)12月12日〜昭和38年(1963年)12月12日)は、晩年を小津監督自身がこよなく好み愛した北鎌倉の地で生活送った関係で、小津監督作品の中で『晩春』や『麦秋』に終戦後間もない北鎌倉駅が印象的シーンで登場。

    北鎌倉駅



    構内旅客専用踏切
    北鎌倉と言えば映画監督 小津安二郎(おづ やすじろう)(明治36年(1903年)12月12日〜昭和38年(1963年)12月12日)は、晩年を小津監督自身がこよなく好み愛した北鎌倉の地で生活送った関係で、小津監督作品の中で『晩春』や『麦秋』に終戦後間もない北鎌倉駅が印象的シーンで登場。

    北鎌倉駅

  • 北鎌倉駅<br /><br /><br /><br />昭和5年(1930年)10月1日に正式開業の際に製作使用された駅名板

    北鎌倉駅



    昭和5年(1930年)10月1日に正式開業の際に製作使用された駅名板

    北鎌倉駅

  • 北鎌倉駅<br /><br /><br /><br />ホーロー引駅名板<br />現在は大切に展示

    北鎌倉駅



    ホーロー引駅名板
    現在は大切に展示

    北鎌倉駅

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />第1円覚寺踏切(だいいち えんがくじ ふみきり)と円覚寺参道<br /><br />鎌倉市山ノ内501<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩1分

    北鎌倉-鎌倉間



    第1円覚寺踏切(だいいち えんがくじ ふみきり)と円覚寺参道

    鎌倉市山ノ内501
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩1分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />第1円覚寺踏切と円覚寺参道<br />横須賀線敷設の為に円覚寺境内を強行突破し白鷺池(びゃくろち)の6割弱を埋没させ完成を見る。<br />背後は湘南新宿ライン電車。<br /><br />鎌倉市山ノ内501<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩1分<br />

    北鎌倉-鎌倉間



    第1円覚寺踏切と円覚寺参道
    横須賀線敷設の為に円覚寺境内を強行突破し白鷺池(びゃくろち)の6割弱を埋没させ完成を見る。
    背後は湘南新宿ライン電車。

    鎌倉市山ノ内501
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩1分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />明月川橋梁(めいげつがわ きょうりょう)<br />下り線方<br />横須賀線開業当時の煉瓦積構造<br /><br />鎌倉市山ノ内332<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩4分

    北鎌倉-鎌倉間



    明月川橋梁(めいげつがわ きょうりょう)
    下り線方
    横須賀線開業当時の煉瓦積構造

    鎌倉市山ノ内332
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩4分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />明月川橋梁<br />上り線方<br /><br />鎌倉市山ノ内332<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩4分

    北鎌倉-鎌倉間



    明月川橋梁
    上り線方

    鎌倉市山ノ内332
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩4分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />鋼製架線柱<br />下り線<br />大正12年(1923年)1月31日に当所付近に大船駅基点3.2?、鎌倉駅基点1.6?地点に扇ガ谷信号場を設置し扇ガ谷-鎌倉間は単線運転しつつ扇ガ谷隧道上下線建築限界拡大工事を施行。<br /><br />鎌倉市山ノ内1443<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩12分

    北鎌倉-鎌倉間



    鋼製架線柱
    下り線
    大正12年(1923年)1月31日に当所付近に大船駅基点3.2?、鎌倉駅基点1.6?地点に扇ガ谷信号場を設置し扇ガ谷-鎌倉間は単線運転しつつ扇ガ谷隧道上下線建築限界拡大工事を施行。

    鎌倉市山ノ内1443
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩12分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />鋼製架線柱<br />下り線<br /><br />鎌倉市山ノ内1443<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩12分<br />

    北鎌倉-鎌倉間



    鋼製架線柱
    下り線

    鎌倉市山ノ内1443
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩12分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />扇ガ谷隧道と鋼製架線柱<br />下り線<br /><br />鎌倉市山ノ内1450<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

    北鎌倉-鎌倉間



    扇ガ谷隧道と鋼製架線柱
    下り線

    鎌倉市山ノ内1450
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />扇ガ谷隧道<br />上下線大船方坑門<br /><br />鎌倉市山ノ内1450<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

    北鎌倉-鎌倉間



    扇ガ谷隧道
    上下線大船方坑門

    鎌倉市山ノ内1450
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />第1扇ガ谷隧道(だいいち おうぎがやつ ずいどう)<br />下り線大船方坑門<br />横須賀線開業時隧道<br />建設時総延長: 152.9m<br />現時点総延長: 201.3m<br />大正13年(1924年)に電化対応の為に内空断面拡大化。<br />更に、坑門上部軟弱地に拠り、アーチ部、及び、坑門を煉瓦構造、及び、側壁をコンクリート構造に拠り開口部48.4m延伸。<br /><br />鎌倉市山ノ内1450<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

    北鎌倉-鎌倉間



    第1扇ガ谷隧道(だいいち おうぎがやつ ずいどう)
    下り線大船方坑門
    横須賀線開業時隧道
    建設時総延長: 152.9m
    現時点総延長: 201.3m
    大正13年(1924年)に電化対応の為に内空断面拡大化。
    更に、坑門上部軟弱地に拠り、アーチ部、及び、坑門を煉瓦構造、及び、側壁をコンクリート構造に拠り開口部48.4m延伸。

    鎌倉市山ノ内1450
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />第2扇ガ谷隧道(だいに おうぎがやつ ずいどう)<br />上り線大船方坑門<br />横須賀線増線時隧道<br />総延長: 241.4m<br /><br />鎌倉市山ノ内1450<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

    北鎌倉-鎌倉間



    第2扇ガ谷隧道(だいに おうぎがやつ ずいどう)
    上り線大船方坑門
    横須賀線増線時隧道
    総延長: 241.4m

    鎌倉市山ノ内1450
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />扇ガ谷隧道<br />煉瓦は典型的英國積様式<br /><br />鎌倉市山ノ内1450<br />横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

    北鎌倉-鎌倉間



    扇ガ谷隧道
    煉瓦は典型的英國積様式

    鎌倉市山ノ内1450
    横須賀線北鎌倉駅 徒歩13分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />扇ガ谷隧道<br />横須賀方坑門<br />開業時に拠り煉瓦色相違<br />側壁垂直型改造隧道は路盤掘下の為に上下で路盤位置相違が見て取れる。<br /><br />鎌倉市扇ガ谷3−29−5<br />横須賀線鎌倉駅西口 徒歩14分

    北鎌倉-鎌倉間



    扇ガ谷隧道
    横須賀方坑門
    開業時に拠り煉瓦色相違
    側壁垂直型改造隧道は路盤掘下の為に上下で路盤位置相違が見て取れる。

    鎌倉市扇ガ谷3−29−5
    横須賀線鎌倉駅西口 徒歩14分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />扇ガ谷架道橋(おおぎがやつ かどうきょう)<br />下り線方全景<br /><br />鎌倉市扇ガ谷3−3−18<br />横須賀線鎌倉駅西口 徒歩11分

    北鎌倉-鎌倉間



    扇ガ谷架道橋(おおぎがやつ かどうきょう)
    下り線方全景

    鎌倉市扇ガ谷3−3−18
    横須賀線鎌倉駅西口 徒歩11分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />扇ガ谷架道橋<br />大船方橋台<br /><br />鎌倉市扇ガ谷3−3−18<br />横須賀線鎌倉駅西口 徒歩11分

    北鎌倉-鎌倉間



    扇ガ谷架道橋
    大船方橋台

    鎌倉市扇ガ谷3−3−18
    横須賀線鎌倉駅西口 徒歩11分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />扇ガ谷架道橋<br />横須賀方橋台<br /><br />鎌倉市扇ガ谷4−28−1<br />横須賀線鎌倉駅西口 徒歩11分

    北鎌倉-鎌倉間



    扇ガ谷架道橋
    横須賀方橋台

    鎌倉市扇ガ谷4−28−1
    横須賀線鎌倉駅西口 徒歩11分

  • 北鎌倉-鎌倉間<br /><br /><br /><br />扇ガ谷架道橋<br />上り線方全景<br /><br />鎌倉市扇ガ谷4−28−1<br />横須賀線鎌倉駅西口 徒歩11分

    北鎌倉-鎌倉間



    扇ガ谷架道橋
    上り線方全景

    鎌倉市扇ガ谷4−28−1
    横須賀線鎌倉駅西口 徒歩11分

  • 鎌倉(かまくら)駅<br /><br /><br /><br />東口駅本屋<br />全景<br />初代鎌倉駅本屋は現在の早見芸術学園第1号館付近に存在したが、大正5年(1916年)11月23日に2代目駅本屋完成と同時に現在地に移転。<br /><br />現駅本屋は開業以来3代目<br />日本国有鉄道東京南鉄道管理局建築課設計<br />昭和59年(1984年)10月3日落成。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=476

    鎌倉(かまくら)駅



    東口駅本屋
    全景
    初代鎌倉駅本屋は現在の早見芸術学園第1号館付近に存在したが、大正5年(1916年)11月23日に2代目駅本屋完成と同時に現在地に移転。

    現駅本屋は開業以来3代目
    日本国有鉄道東京南鉄道管理局建築課設計
    昭和59年(1984年)10月3日落成。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=476

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />東口駅本屋<br />現時計台

    鎌倉駅



    東口駅本屋
    現時計台

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />下り留置線と下り線<br />大正5年(1916年)の鎌倉駅改築移転まで、現在の下り留置線が下り線で現在の下り線が上り線だった。<br />

    鎌倉駅



    下り留置線と下り線
    大正5年(1916年)の鎌倉駅改築移転まで、現在の下り留置線が下り線で現在の下り線が上り線だった。

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />初代鎌倉駅本屋存在地跡<br />初代ホームは現在と異なり相対式<br />写真右手の線路が駅本屋移転前の旧下り1番線。<br /><br />駅本屋ホーム移転後は貨物取扱場となるが、昭和35年(1960年)に鎌倉駅貨物取扱廃止後はマイテ旧1等展望車等々遊休車輌の留置場として活用され、夏期繁忙期には遊休車輌たるマイネ旧1等寝台車数両を配置区たる品川から回送留置し激増した海水浴客を捌く為に応援職員の宿泊施設として使用。

    鎌倉駅



    初代鎌倉駅本屋存在地跡
    初代ホームは現在と異なり相対式
    写真右手の線路が駅本屋移転前の旧下り1番線。

    駅本屋ホーム移転後は貨物取扱場となるが、昭和35年(1960年)に鎌倉駅貨物取扱廃止後はマイテ旧1等展望車等々遊休車輌の留置場として活用され、夏期繁忙期には遊休車輌たるマイネ旧1等寝台車数両を配置区たる品川から回送留置し激増した海水浴客を捌く為に応援職員の宿泊施設として使用。

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />下り留置線と下り線<br />移設以前は相対式ホームだった。

    鎌倉駅



    下り留置線と下り線
    移設以前は相対式ホームだった。

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />旅客地下通路<br />大正5年(1916年)11月23日に2代目駅本屋移転と共に開設。

    鎌倉駅



    旅客地下通路
    大正5年(1916年)11月23日に2代目駅本屋移転と共に開設。

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />旅客地下通路<br />狭隘だった地下旅客通路を昭和5年(1930年)12月15日に拡張。

    鎌倉駅



    旅客地下通路
    狭隘だった地下旅客通路を昭和5年(1930年)12月15日に拡張。

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />旅客地下通路<br />西口方通路

    鎌倉駅



    旅客地下通路
    西口方通路

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />旅客地下通路<br />西口方<br />地下通路と天井装飾

    鎌倉駅



    旅客地下通路
    西口方
    地下通路と天井装飾

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />旅客地下通路<br /><br />西口天井<br />建築当時の天井装飾が残存

    鎌倉駅



    旅客地下通路

    西口天井
    建築当時の天井装飾が残存

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />旅客地下道<br />横須賀方階段<br />鎌倉駅に地下道設置の当時はホームへの連絡階段は横須賀方のみ存在。<br />昭和10年(1935年)12月15日階段拡張工事完工。<br />大船方階段増設は昭和11年(1936年)8月。

    鎌倉駅



    旅客地下道
    横須賀方階段
    鎌倉駅に地下道設置の当時はホームへの連絡階段は横須賀方のみ存在。
    昭和10年(1935年)12月15日階段拡張工事完工。
    大船方階段増設は昭和11年(1936年)8月。

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />旅客地下道<br />横須賀方階段上部開口部<br />横須賀方階段が地下道設置時のオリジナル。<br />

    鎌倉駅



    旅客地下道
    横須賀方階段上部開口部
    横須賀方階段が地下道設置時のオリジナル。

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />旅客地下道<br />大船方階段上部開口部<br />大船方階段増設は昭和11年(1936年)8月。

    鎌倉駅



    旅客地下道
    大船方階段上部開口部
    大船方階段増設は昭和11年(1936年)8月。

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />大船方旅客地下道

    鎌倉駅



    大船方旅客地下道

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />大船方旅客地下道階段<br />本来は手小荷物運搬専用通路

    鎌倉駅



    大船方旅客地下道階段
    本来は手小荷物運搬専用通路

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />大船方旅客地下道<br />元来、手小荷物運搬用エスカレーター跡に旅客用連絡通路設置

    鎌倉駅



    大船方旅客地下道
    元来、手小荷物運搬用エスカレーター跡に旅客用連絡通路設置

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />西口駅舎

    鎌倉駅



    西口駅舎

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />西口駅舎<br />鎌倉駅開業時は東口のみで西口は存在しなかったが、大正5年(1916年)に2代目駅本屋竣工時に旅客地下道と共に西口設置。<br />現在の西口駅舎は2代目。

    鎌倉駅



    西口駅舎
    鎌倉駅開業時は東口のみで西口は存在しなかったが、大正5年(1916年)に2代目駅本屋竣工時に旅客地下道と共に西口設置。
    現在の西口駅舎は2代目。

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />□□□ELLS FIELD TOUGHENED STEEL □E□3 I.R.J.<br />(英キャムメル・フィールド・スティール社製造 逓信省鐵道作業局発注品 製造年号不明)<br />前半の□□は CAMM <br />後半の□□は S C<br />が正当。<br />ペイントの厚化粧で肝心部は不明と思えるが実際の刻印は上記が正当。<br />支柱番号第22号b

    鎌倉駅



    ホーム上屋
    支柱古軌条
    □□□ELLS FIELD TOUGHENED STEEL □E□3 I.R.J.
    (英キャムメル・フィールド・スティール社製造 逓信省鐵道作業局発注品 製造年号不明)
    前半の□□は CAMM
    後半の□□は S C
    が正当。
    ペイントの厚化粧で肝心部は不明と思えるが実際の刻印は上記が正当。
    支柱番号第22号b

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />CAMMELLS TOUGHENED STEEL W.1887 K.□□. SEC351<br />(英キャムメル スティール社 1887年製造 K□□社発注品)<br />該古軌条は肝心な部分に取付部材が存在する為に発注者が不明とも取れるが、隠れている□□は「T.K.」で製造年号当時に存在した「K」が付く鉄道会社は、<br />甲武鐵道<br />関西鐵道<br />九州鐵道<br />の3社である。<br />手掛りとなるのは最後の刻印「SEC351」で、此れは製造ロット番号。<br />即ち、此の製造ロット番号に該当するのは九州鐵道である。<br />然し、一見、関東に九州鐵道発注品が存在するのは奇異な感もするが、横浜臨海公園は関東大震災発生と復旧工事遂行の為に、当時の鐵道省と東京鐵道局が他鐵道局に対し余剰貯蔵品を供出させ再活用する為に遠く関東に送達されたものと推定。<br />同様の例に、関西本線奈良県亀ノ瀬付近での地滑りが原因で昭和7年(1932年)2月に亀ノ瀬隧道圧壊の際に緊急復旧資材として大和川架橋に余剰橋桁を遠く門司鐵道局から転用入手。<br />支柱番号第23号a

    鎌倉駅



    ホーム上屋
    支柱古軌条
    CAMMELLS TOUGHENED STEEL W.1887 K.□□. SEC351
    (英キャムメル スティール社 1887年製造 K□□社発注品)
    該古軌条は肝心な部分に取付部材が存在する為に発注者が不明とも取れるが、隠れている□□は「T.K.」で製造年号当時に存在した「K」が付く鉄道会社は、
    甲武鐵道
    関西鐵道
    九州鐵道
    の3社である。
    手掛りとなるのは最後の刻印「SEC351」で、此れは製造ロット番号。
    即ち、此の製造ロット番号に該当するのは九州鐵道である。
    然し、一見、関東に九州鐵道発注品が存在するのは奇異な感もするが、横浜臨海公園は関東大震災発生と復旧工事遂行の為に、当時の鐵道省と東京鐵道局が他鐵道局に対し余剰貯蔵品を供出させ再活用する為に遠く関東に送達されたものと推定。
    同様の例に、関西本線奈良県亀ノ瀬付近での地滑りが原因で昭和7年(1932年)2月に亀ノ瀬隧道圧壊の際に緊急復旧資材として大和川架橋に余剰橋桁を遠く門司鐵道局から転用入手。
    支柱番号第23号a

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br />ホーム上屋<br />中梁材古軌条<br />BV&Co LD ESS K.T.K.<br />(英ボルコウ・ヴォーン社製造 九州鐵道発注品 製造年不明)<br />支柱番号第25番

    鎌倉駅


    ホーム上屋
    中梁材古軌条
    BV&Co LD ESS K.T.K.
    (英ボルコウ・ヴォーン社製造 九州鐵道発注品 製造年不明)
    支柱番号第25番

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />2代目駅本屋屋上時計台<br />昭和58年(1983年)4月15日落成<br />現在は鎌倉駅西口広場で展示され余生を見守っている<br /><br />鎌倉市御成町12−1<br />横須賀線鎌倉駅西口 徒歩15秒

    鎌倉駅



    2代目駅本屋屋上時計台
    昭和58年(1983年)4月15日落成
    現在は鎌倉駅西口広場で展示され余生を見守っている

    鎌倉市御成町12−1
    横須賀線鎌倉駅西口 徒歩15秒

    鎌倉駅

  • 鎌倉駅<br /><br /><br /><br />2代目駅本屋屋上時計台<br />拡大<br /><br />2代目駅本屋は主柱、梁、斜材等々の骨組を壁面に露出した木造建築様式であるハーフティンバー様式で設計建築。<br />設計者は鐵道院建築技師 上 野 肇(うえの はじめ)で、屋根中央部の尖塔構造は小田原駅本屋や原宿駅本屋に影響を与えたとされる。<br />関東大震災で倒壊こそ免れたが、側壁に亀裂が縦横に走り復旧の際にハーフティンバー外壁はモルタルで塗潰した為に外部木目が消失。<br /><br />鎌倉市御成町12−1<br />横須賀線鎌倉駅西口 徒歩15秒

    鎌倉駅



    2代目駅本屋屋上時計台
    拡大

    2代目駅本屋は主柱、梁、斜材等々の骨組を壁面に露出した木造建築様式であるハーフティンバー様式で設計建築。
    設計者は鐵道院建築技師 上 野 肇(うえの はじめ)で、屋根中央部の尖塔構造は小田原駅本屋や原宿駅本屋に影響を与えたとされる。
    関東大震災で倒壊こそ免れたが、側壁に亀裂が縦横に走り復旧の際にハーフティンバー外壁はモルタルで塗潰した為に外部木目が消失。

    鎌倉市御成町12−1
    横須賀線鎌倉駅西口 徒歩15秒

  • 初代鎌倉駅跡<br /><br /><br /><br />初代鎌倉駅本屋は現在地と異なり現在地より南方に所在した。<br />移転後は貨物取扱場となり貨物取扱廃止後は更地化され国鉄清算事業団を経て民間企業に払下げられ現在は『早見芸術学園1号館』が建つ。<br />鎌倉駅開業記念で植樹された大楠と若宮通りへ通じる道が駅本屋が存在した名残。<br /><br />鎌倉市小町1−35−16<br />横須賀線鎌倉駅東口 徒歩1分

    初代鎌倉駅跡



    初代鎌倉駅本屋は現在地と異なり現在地より南方に所在した。
    移転後は貨物取扱場となり貨物取扱廃止後は更地化され国鉄清算事業団を経て民間企業に払下げられ現在は『早見芸術学園1号館』が建つ。
    鎌倉駅開業記念で植樹された大楠と若宮通りへ通じる道が駅本屋が存在した名残。

    鎌倉市小町1−35−16
    横須賀線鎌倉駅東口 徒歩1分

    鎌倉駅

  • 鎌倉-逗子駅間<br /><br /><br /><br />八幡架道橋(はちまん かどうきょう)<br />明治35年(1902年)9月1日に藤澤-片瀬間を開業した江之島電気鐵道は延長を重ね、明治40年(1908年)8月16日に大町停留所まで開業したが、更に、横須賀線を越え段葛が在る弐之鳥居前小町付近への延長を計画し、その際に建設資金の関係から横須賀線との平面交差を希望したが、横須賀線の監督官庁たる鐵道院が安全通行を理由に難色を示し、曲折を経て立体交差とし、工事費用の2/3は鐵道院が残り1/3は江之島電気鐵道が支払う事で合意が成立し、明治43年1月に踏切への勾配築堤取壊しと架道橋工事が開始され3ヶ月後に完成を見る。<br /><br />鎌倉市御成町2−1<br />横須賀線鎌倉駅東口 徒歩3分

    鎌倉-逗子駅間



    八幡架道橋(はちまん かどうきょう)
    明治35年(1902年)9月1日に藤澤-片瀬間を開業した江之島電気鐵道は延長を重ね、明治40年(1908年)8月16日に大町停留所まで開業したが、更に、横須賀線を越え段葛が在る弐之鳥居前小町付近への延長を計画し、その際に建設資金の関係から横須賀線との平面交差を希望したが、横須賀線の監督官庁たる鐵道院が安全通行を理由に難色を示し、曲折を経て立体交差とし、工事費用の2/3は鐵道院が残り1/3は江之島電気鐵道が支払う事で合意が成立し、明治43年1月に踏切への勾配築堤取壊しと架道橋工事が開始され3ヶ月後に完成を見る。

    鎌倉市御成町2−1
    横須賀線鎌倉駅東口 徒歩3分

  • 鎌倉-逗子駅間<br /><br /><br /><br />八幡架道橋<br />山側から俯瞰<br />八幡架道橋は老朽化と狭隘とを理由に昭和44年(1969年)から2年の歳月を経て昭和46年(1971年)に架替。<br /><br />鎌倉市御成町13−6<br />横須賀線鎌倉駅東口 徒歩3分

    鎌倉-逗子駅間



    八幡架道橋
    山側から俯瞰
    八幡架道橋は老朽化と狭隘とを理由に昭和44年(1969年)から2年の歳月を経て昭和46年(1971年)に架替。

    鎌倉市御成町13−6
    横須賀線鎌倉駅東口 徒歩3分

    鎌倉駅

  • 鎌倉-逗子駅間<br /><br /><br /><br />八幡架道橋<br />海側から俯瞰<br />江ノ電が昭和24年(1949年)3月1日に鎌倉駅西口に乗入れるまで、八幡架道橋左端下を通過し現在の鎌倉警察署前まで電車が往来。<br /><br />鎌倉市御成町3−10<br />横須賀線鎌倉駅東口 徒歩3分

    鎌倉-逗子駅間



    八幡架道橋
    海側から俯瞰
    江ノ電が昭和24年(1949年)3月1日に鎌倉駅西口に乗入れるまで、八幡架道橋左端下を通過し現在の鎌倉警察署前まで電車が往来。

    鎌倉市御成町3−10
    横須賀線鎌倉駅東口 徒歩3分

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />鎌倉段蔓<br />段蔓から弐之鳥居を通し若宮大路(わかみやおおじ)から横須賀線八幡架道橋方を鳥瞰<br />本来ならば若宮大路一之鳥居まで段蔓が存在した。<br />遠方に横須賀線八幡架道橋が遠望されるが、横須賀線建設当時は段蔓を棄損して緩やかな勾配上に八幡踏切を設置。<br /><br />鎌倉市小町2−11<br />横須賀線鎌倉駅東口 徒歩2分

    鎌倉-逗子間



    鎌倉段蔓
    段蔓から弐之鳥居を通し若宮大路(わかみやおおじ)から横須賀線八幡架道橋方を鳥瞰
    本来ならば若宮大路一之鳥居まで段蔓が存在した。
    遠方に横須賀線八幡架道橋が遠望されるが、横須賀線建設当時は段蔓を棄損して緩やかな勾配上に八幡踏切を設置。

    鎌倉市小町2−11
    横須賀線鎌倉駅東口 徒歩2分

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />鎌倉段葛<br />段葛は大正6年(1917年)に大修復され桜樹が植樹し積段され、ほぼ現在の姿になったが、竣工を記念して地元鎌倉青年団が建立した記念碑。<br />碑文末尾に明治期に若宮大路壱之鳥居から弐之鳥居に至る段葛が消滅した事実が浮彫。<br /><br />鎌倉市小町2−10−18<br />横須賀線鎌倉駅東口 徒歩2分

    鎌倉-逗子間



    鎌倉段葛
    段葛は大正6年(1917年)に大修復され桜樹が植樹し積段され、ほぼ現在の姿になったが、竣工を記念して地元鎌倉青年団が建立した記念碑。
    碑文末尾に明治期に若宮大路壱之鳥居から弐之鳥居に至る段葛が消滅した事実が浮彫。

    鎌倉市小町2−10−18
    横須賀線鎌倉駅東口 徒歩2分

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />鎌倉五所神社(かまくら ごせじんじゃ)<br />明治41年(1908年)に近隣の五社が合体して成立した神社で材木座(ざいもくざ)鎮守。<br /><br />鎌倉市材木座2−9−1<br />横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

    鎌倉-逗子間



    鎌倉五所神社(かまくら ごせじんじゃ)
    明治41年(1908年)に近隣の五社が合体して成立した神社で材木座(ざいもくざ)鎮守。

    鎌倉市材木座2−9−1
    横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />鎌倉五所神社<br />記念奉納狛犬<br />横須賀線大船-鎌倉間が大正5年(1916年)9月に複線化された記念に関係者が五所神社に狛犬一対を奉納。<br />路線開業を記念して狛犬奉納例は多数存在するが複線化を理由にして奉納例は他に仄聞せず。<br /><br />鎌倉市材木座2−9−1<br />横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

    鎌倉-逗子間



    鎌倉五所神社
    記念奉納狛犬
    横須賀線大船-鎌倉間が大正5年(1916年)9月に複線化された記念に関係者が五所神社に狛犬一対を奉納。
    路線開業を記念して狛犬奉納例は多数存在するが複線化を理由にして奉納例は他に仄聞せず。

    鎌倉市材木座2−9−1
    横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />鎌倉五所神社<br />狛犬(右)<br /><br />鎌倉市材木座2−9−1<br />横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

    鎌倉-逗子間



    鎌倉五所神社
    狛犬(右)

    鎌倉市材木座2−9−1
    横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />鎌倉五所神社<br />狛犬(左)<br /><br />鎌倉市材木座2−9−1<br />横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

    鎌倉-逗子間



    鎌倉五所神社
    狛犬(左)

    鎌倉市材木座2−9−1
    横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />鎌倉五所神社<br />右狛犬後部台座<br />確かに「大正五年」と刻印されている。<br /><br />鎌倉市材木座2−9−1<br />横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

    鎌倉-逗子間



    鎌倉五所神社
    右狛犬後部台座
    確かに「大正五年」と刻印されている。

    鎌倉市材木座2−9−1
    横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス五所神社停留所降車 徒歩3分

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />逆川橋梁(さかさがわ きょうりょう)<br />煉瓦積橋台は明治21年(1888年)6月竣工で横須賀線開通当時の原型<br />橋桁はプレートガーターから鉄筋コンクリート製に交換<br /><br />鎌倉市大町2−2−26<br />横須賀線鎌倉駅東口 徒歩8分

    鎌倉-逗子間



    逆川橋梁(さかさがわ きょうりょう)
    煉瓦積橋台は明治21年(1888年)6月竣工で横須賀線開通当時の原型
    橋桁はプレートガーターから鉄筋コンクリート製に交換

    鎌倉市大町2−2−26
    横須賀線鎌倉駅東口 徒歩8分

    鎌倉駅

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />逆川橋梁<br />関東大震災では相模灘を襲った津波が該河川を逆流し、沿岸住民の不安さらに襲った。<br /><br />鎌倉市大町2−2−26<br />横須賀線鎌倉駅東口 徒歩8分

    鎌倉-逗子間



    逆川橋梁
    関東大震災では相模灘を襲った津波が該河川を逆流し、沿岸住民の不安さらに襲った。

    鎌倉市大町2−2−26
    横須賀線鎌倉駅東口 徒歩8分

    鎌倉駅

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />上り線<br />名越信号場跡<br />下り線との分岐点付近に大正12年(1923年)7月19日に鎌倉駅基点1.4?、逗子駅基点2.4?地点に名越信号場を設置し名越-逗子間は単線運転しつつ名越隧道内空断面建築限界拡大工事を実施。<br /><br />鎌倉市大町5−13−3<br />横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス長勝寺停留所降車 徒歩1分

    鎌倉-逗子間



    上り線
    名越信号場跡
    下り線との分岐点付近に大正12年(1923年)7月19日に鎌倉駅基点1.4?、逗子駅基点2.4?地点に名越信号場を設置し名越-逗子間は単線運転しつつ名越隧道内空断面建築限界拡大工事を実施。

    鎌倉市大町5−13−3
    横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス長勝寺停留所降車 徒歩1分

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />第2名越隧道(だいに なごえ ずいどう)<br />上り線大船方坑門<br />横須賀線増線時隧道<br />開通時総延長: 422.6m<br />現時点総延長: 467.0m<br /><br />大正5年(1916年)12月竣工、翌大正6年(1917年)3月開通。<br />隧道工事では大型断面を採用し電化工事対応可能だった。<br />法面崩落顕著に拠り大船方坑門を大正13年(1924年)頃、煉瓦積構造に拠り12.2m、更に、昭和15年(1940年)頃、場所打コンクリート構造に拠り12.2m開口部延伸。<br /><br />鎌倉市大町5−13−3<br />横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス長勝寺停留所降車 徒歩2分

    鎌倉-逗子間



    第2名越隧道(だいに なごえ ずいどう)
    上り線大船方坑門
    横須賀線増線時隧道
    開通時総延長: 422.6m
    現時点総延長: 467.0m

    大正5年(1916年)12月竣工、翌大正6年(1917年)3月開通。
    隧道工事では大型断面を採用し電化工事対応可能だった。
    法面崩落顕著に拠り大船方坑門を大正13年(1924年)頃、煉瓦積構造に拠り12.2m、更に、昭和15年(1940年)頃、場所打コンクリート構造に拠り12.2m開口部延伸。

    鎌倉市大町5−13−3
    横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス長勝寺停留所降車 徒歩2分

    鎌倉駅

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />第1名越隧道(だいいち なごえ ずいどう)<br />下り線大船方坑門<br />横須賀線開通時隧道<br />開通時総延長: 344.2m<br />現時点総延長: 384.0m<br /><br />横須賀線開通当時のもの。<br /><br />因みに、明治22年(1889年)当時の隧道断面は14556?で現在の隧道断面17920?の81%前後の立方容積で、大型蒸気機関車C51型やD50型を導入段階で既に限界だった。<br /><br />鎌倉市大町5−19−14<br />横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス長勝寺停留所降車 徒歩3分

    鎌倉-逗子間



    第1名越隧道(だいいち なごえ ずいどう)
    下り線大船方坑門
    横須賀線開通時隧道
    開通時総延長: 344.2m
    現時点総延長: 384.0m

    横須賀線開通当時のもの。

    因みに、明治22年(1889年)当時の隧道断面は14556?で現在の隧道断面17920?の81%前後の立方容積で、大型蒸気機関車C51型やD50型を導入段階で既に限界だった。

    鎌倉市大町5−19−14
    横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス長勝寺停留所降車 徒歩3分

    鎌倉駅

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />第1名越隧道<br />下り線大船方坑門<br />横須賀線では架線が本線格の「コンパウンド・カテナリー」を使用。<br /><br />鎌倉市大町5−19−14<br />横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス長勝寺停留所降車 徒歩3分

    鎌倉-逗子間



    第1名越隧道
    下り線大船方坑門
    横須賀線では架線が本線格の「コンパウンド・カテナリー」を使用。

    鎌倉市大町5−19−14
    横須賀線鎌倉駅東口 京浜急行バス長勝寺停留所降車 徒歩3分

    鎌倉駅

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />第1、2名越隧道<br />横須賀方坑門<br />大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災では隧道直下を断層が通過している事実が判明し双方の隧道内部側壁に横亀裂を生じる。<br /><br />逗子市久木4−27−2<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス法性寺停留所降車 徒歩1分

    鎌倉-逗子間



    第1、2名越隧道
    横須賀方坑門
    大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災では隧道直下を断層が通過している事実が判明し双方の隧道内部側壁に横亀裂を生じる。

    逗子市久木4−27−2
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス法性寺停留所降車 徒歩1分

    逗子駅

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />第2名越隧道<br />上り線横須賀方坑門<br />明治22年(1889年)6月16日に大船-横須賀間開通時に於ける途中隧道設計図面は今日現存しない。<br />然し、当時の参考文献に拠り開通当時の隧道断面内空口径は大津-京都間に存在した逢坂山隧道と同一でアーチ部半径7ft(2.13m)単心円、側壁部半径19ft(5.79m)だったとされる。<br />横須賀線は大正3年(1914年)以降増線を重ね、工事進捗の都度、上り線側に隧道が増設されたが、増設隧道は帝國海軍横須賀鎮守府要請も有り、大型機材輸送可能な幹線仕様を前提とし、大正5年(1916年)4月25日附達第422号第11定に依り鐵道院基本単線乙型断面を採用し、大型口径だった事から電化工事に対し充分な余裕を有していたが、下り線隧道は明らかに内空断面が狭隘で不足状態では電化工事は不可能だった事から口径拡大工事を必要とした。<br /><br />逗子市久木4−27−2<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス法性寺停留所降車 徒歩1分

    鎌倉-逗子間



    第2名越隧道
    上り線横須賀方坑門
    明治22年(1889年)6月16日に大船-横須賀間開通時に於ける途中隧道設計図面は今日現存しない。
    然し、当時の参考文献に拠り開通当時の隧道断面内空口径は大津-京都間に存在した逢坂山隧道と同一でアーチ部半径7ft(2.13m)単心円、側壁部半径19ft(5.79m)だったとされる。
    横須賀線は大正3年(1914年)以降増線を重ね、工事進捗の都度、上り線側に隧道が増設されたが、増設隧道は帝國海軍横須賀鎮守府要請も有り、大型機材輸送可能な幹線仕様を前提とし、大正5年(1916年)4月25日附達第422号第11定に依り鐵道院基本単線乙型断面を採用し、大型口径だった事から電化工事に対し充分な余裕を有していたが、下り線隧道は明らかに内空断面が狭隘で不足状態では電化工事は不可能だった事から口径拡大工事を必要とした。

    逗子市久木4−27−2
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス法性寺停留所降車 徒歩1分

    逗子駅

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />第1名越隧道<br />下り線横須賀方坑門<br />横須賀方坑門上部法面土砂崩落防止の為に、昭和14年(1939年)に、アーチ部コンクリートブロック、側壁コンクリート構造に拠り20.0m、更に、昭和32年(1957年)に、箱型鉄筋コンクリート構造に拠り20.0m開口部延伸。<br /><br />逗子市久木4−27−2<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス法性寺停留所降車 徒歩1分

    鎌倉-逗子間



    第1名越隧道
    下り線横須賀方坑門
    横須賀方坑門上部法面土砂崩落防止の為に、昭和14年(1939年)に、アーチ部コンクリートブロック、側壁コンクリート構造に拠り20.0m、更に、昭和32年(1957年)に、箱型鉄筋コンクリート構造に拠り20.0m開口部延伸。

    逗子市久木4−27−2
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス法性寺停留所降車 徒歩1分

    逗子駅

  • 鎌倉-逗子間<br /><br /><br /><br />第2名越隧道<br />横須賀方坑門<br />電車は湘南新宿ライン東北本線用231系電車<br /><br />逗子市久木4−27−2<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス法性寺停留所降車 徒歩1分

    鎌倉-逗子間



    第2名越隧道
    横須賀方坑門
    電車は湘南新宿ライン東北本線用231系電車

    逗子市久木4−27−2
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス法性寺停留所降車 徒歩1分

    逗子駅

  • 逗子駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />現在の駅本屋は昭和44年(1969年)3月供用開始した3代目<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=899

    逗子駅



    駅本屋
    現在の駅本屋は昭和44年(1969年)3月供用開始した3代目
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=899

    逗子駅

  • 逗子駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />ホーム段差<br />最下部 開通当時の物<br />2段目 明治30年代半の打上部<br />3段目 大正初期の打上部<br />4段目 昭和5年(1930年)電車運転開始打上部<br />5段目 昭和63年(1988年)打上部<br />6段目 平成6年(1994年)打上部

    逗子駅



    第1番ホーム
    ホーム段差
    最下部 開通当時の物
    2段目 明治30年代半の打上部
    3段目 大正初期の打上部
    4段目 昭和5年(1930年)電車運転開始打上部
    5段目 昭和63年(1988年)打上部
    6段目 平成6年(1994年)打上部

    逗子駅

  • 逗子駅<br /><br /><br /><br />旧跨線橋支柱<br />全景

    逗子駅



    旧跨線橋支柱
    全景

    逗子駅

  • 逗子駅<br /><br /><br /><br />旧跨線橋支柱<br />明治32年(1899年)1月跨線橋建設に拠り設置。<br />建設総費用は3238円。<br />大正12年(1923年)9月1日関東大震災で折損被害。<br />該跨線橋通行中の旅客が線路上に投げ出され死者3名、負傷者6名を出す。<br />平成19年(2007年)9月老朽化と耐震性不備から解体、翌平成20年(2008年)2月に第1番ホームに保存展示。

    逗子駅



    旧跨線橋支柱
    明治32年(1899年)1月跨線橋建設に拠り設置。
    建設総費用は3238円。
    大正12年(1923年)9月1日関東大震災で折損被害。
    該跨線橋通行中の旅客が線路上に投げ出され死者3名、負傷者6名を出す。
    平成19年(2007年)9月老朽化と耐震性不備から解体、翌平成20年(2008年)2月に第1番ホームに保存展示。

    逗子駅

  • 逗子駅<br /><br /><br /><br />旧跨線橋支柱<br />鐵道作業局<br />新橋工場製造<br />明治三十二年<br />該支柱は建築後、車輌構造の関係で車高変更の都度ホーム段が積算打上げが実施され、その度に該柱が埋没した為に記載内容が不明となり研究家間で論議の対象だった。

    逗子駅



    旧跨線橋支柱
    鐵道作業局
    新橋工場製造
    明治三十二年
    該支柱は建築後、車輌構造の関係で車高変更の都度ホーム段が積算打上げが実施され、その度に該柱が埋没した為に記載内容が不明となり研究家間で論議の対象だった。

    逗子駅

  • 逗子駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />大船方を俯瞰<br /><br />逗子市逗子2−1−30<br />横須賀線逗子駅東口 徒歩2分

    逗子駅



    駅構内
    大船方を俯瞰

    逗子市逗子2−1−30
    横須賀線逗子駅東口 徒歩2分

    逗子駅

  • 逗子駅<br /><br /><br /><br />横須賀線増結用電車電留線<br />戦前の横須賀線電車の増解結は品川駅で実施していた。<br /><br />逗子市逗子2−2−3<br />横須賀線逗子駅東口 徒歩5分

    逗子駅



    横須賀線増結用電車電留線
    戦前の横須賀線電車の増解結は品川駅で実施していた。

    逗子市逗子2−2−3
    横須賀線逗子駅東口 徒歩5分

    逗子駅

  • 東急車輌車輌搬出入専用線<br /><br /><br /><br />逗子駅構内JR貨物東急車輌分界点<br />東急車輌で製造された主として鉄道車輌搬入搬出の為の連絡線。<br />手前側は東急車輌側。<br /><br />逗子市逗子2−11<br />横須賀線逗子駅西口 徒歩5分

    東急車輌車輌搬出入専用線



    逗子駅構内JR貨物東急車輌分界点
    東急車輌で製造された主として鉄道車輌搬入搬出の為の連絡線。
    手前側は東急車輌側。

    逗子市逗子2−11
    横須賀線逗子駅西口 徒歩5分

    逗子駅

  • 東急車輌車輌搬出入専用線<br /><br /><br /><br />逗子駅構内JR貨物東急車輌分界点<br />JR貨物側。<br /><br />逗子市逗子2−11<br />横須賀線逗子駅西口 徒歩5分

    東急車輌車輌搬出入専用線



    逗子駅構内JR貨物東急車輌分界点
    JR貨物側。

    逗子市逗子2−11
    横須賀線逗子駅西口 徒歩5分

    逗子駅

  • 東急車輌車輌搬出入専用線<br /><br /><br /><br />逗子駅構内JR貨物東急車輌分界点<br />東急車輌側。<br />但し、表記は米軍池子専用線時代の物。<br /><br />逗子市逗子2−11<br />横須賀線逗子駅西口 徒歩5分

    東急車輌車輌搬出入専用線



    逗子駅構内JR貨物東急車輌分界点
    東急車輌側。
    但し、表記は米軍池子専用線時代の物。

    逗子市逗子2−11
    横須賀線逗子駅西口 徒歩5分

    逗子駅

  • 東急車輌車輌搬出入専用線<br /><br /><br /><br />逗子-神武寺間<br /><br />東急車輌製造は、横浜市金沢区に存在した横須賀海軍工廠金澤分工場を戦後東急が払下を受け、当初は戦災復旧車、後に車輌製造を開始。<br />該専用線は戦前の海軍専用線を活用した物。<br /><br />逗子市逗子2−11<br />横須賀線逗子駅西口 徒歩5分

    東急車輌車輌搬出入専用線



    逗子-神武寺間

    東急車輌製造は、横浜市金沢区に存在した横須賀海軍工廠金澤分工場を戦後東急が払下を受け、当初は戦災復旧車、後に車輌製造を開始。
    該専用線は戦前の海軍専用線を活用した物。

    逗子市逗子2−11
    横須賀線逗子駅西口 徒歩5分

  • 東急車輌車輌搬出入専用線<br /><br /><br /><br />逗子-神武寺間<br />横須賀線との分岐地付近<br /><br />逗子市山の根3−6−10<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス山の根停留所降車 徒歩1分

    東急車輌車輌搬出入専用線



    逗子-神武寺間
    横須賀線との分岐地付近

    逗子市山の根3−6−10
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス山の根停留所降車 徒歩1分

  • 東急車輌車輌搬出入専用線<br /><br /><br /><br />逗子-神武寺間<br />池子隧道(いけご ずいどう)逗子方坑門<br /><br />逗子市山の根3−6−17<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス山の根停留所降車 徒歩1分<br />

    東急車輌車輌搬出入専用線



    逗子-神武寺間
    池子隧道(いけご ずいどう)逗子方坑門

    逗子市山の根3−6−17
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス山の根停留所降車 徒歩1分

  • 東急車輌車輌搬出入専用線<br /><br /><br /><br />逗子-神武寺間<br />池子隧道逗子方坑門<br />坑門右手に『警告 米国海軍管理区域 立入りは許可された者に限る』の注意書。<br />池子米軍家族住宅在住者外に対する注意。<br /><br />逗子市山の根3−9−3<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス山の根停留所降車 徒歩1分<br />

    東急車輌車輌搬出入専用線



    逗子-神武寺間
    池子隧道逗子方坑門
    坑門右手に『警告 米国海軍管理区域 立入りは許可された者に限る』の注意書。
    池子米軍家族住宅在住者外に対する注意。

    逗子市山の根3−9−3
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス山の根停留所降車 徒歩1分

  • 逗子-東逗子間<br /><br /><br /><br />横須賀線京浜急行逗子線跨線橋<br />上部鉄道線は京急電鉄逗子線<br />昭和5年(1930年)4月1日に当時の湘南電気鐵道に依り開通<br /><br />逗子市池子1−1−1<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス山の根停留所降車 徒歩3分

    逗子-東逗子間



    横須賀線京浜急行逗子線跨線橋
    上部鉄道線は京急電鉄逗子線
    昭和5年(1930年)4月1日に当時の湘南電気鐵道に依り開通

    逗子市池子1−1−1
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス山の根停留所降車 徒歩3分

  • 東逗子駅<br /><br /><br /><br />老舗格の横須賀線にして唯一の戦後生まれ<br />昭和27年(1952年)4月1日開業。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1287

    東逗子駅



    老舗格の横須賀線にして唯一の戦後生まれ
    昭和27年(1952年)4月1日開業。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1287

    東逗子駅

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1田越川橋梁(だいいち たごえがわ きょうりょう)<br />全景<br /><br />逗子市沼間1−2−1<br />横須賀線東逗子駅 徒歩5分

    東逗子-田浦間



    第1田越川橋梁(だいいち たごえがわ きょうりょう)
    全景

    逗子市沼間1−2−1
    横須賀線東逗子駅 徒歩5分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1田越川橋梁<br />橋台<br />川央で真鴨一家が遊泳中。<br /><br />逗子市沼間1−2−1<br />横須賀線東逗子駅 徒歩5分

    東逗子-田浦間



    第1田越川橋梁
    橋台
    川央で真鴨一家が遊泳中。

    逗子市沼間1−2−1
    横須賀線東逗子駅 徒歩5分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第2田越川橋梁(だいに たごえがわ きょうりょう)<br />上り線側全景<br />下り線側は橋桁橋台共に明治22年(1889年)6月16日に横須賀線大船-横須賀間開通当時の橋梁構造を原型で残存する貴重な存在。<br /><br />橋梁内は整備され地元住民の為の市道が縦貫。<br /><br />逗子市沼間3−13−2<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間公民館停留所降車 徒歩1分

    東逗子-田浦間



    第2田越川橋梁(だいに たごえがわ きょうりょう)
    上り線側全景
    下り線側は橋桁橋台共に明治22年(1889年)6月16日に横須賀線大船-横須賀間開通当時の橋梁構造を原型で残存する貴重な存在。

    橋梁内は整備され地元住民の為の市道が縦貫。

    逗子市沼間3−13−2
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間公民館停留所降車 徒歩1分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第2田越川橋梁<br />下り線側橋台<br />手前の橋台は複線化の時代に追加された物。<br />奥の橋台が横須賀線大船-横須賀間開通当時のオリジナル。<br /><br />逗子市沼間3−13−2<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間公民館停留所降車 徒歩1分<br />

    東逗子-田浦間



    第2田越川橋梁
    下り線側橋台
    手前の橋台は複線化の時代に追加された物。
    奥の橋台が横須賀線大船-横須賀間開通当時のオリジナル。

    逗子市沼間3−13−2
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間公民館停留所降車 徒歩1分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第2田越川橋梁<br />下り線側全景<br /><br />逗子市沼間4−6−1<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間公民館停留所降車 徒歩1分

    東逗子-田浦間



    第2田越川橋梁
    下り線側全景

    逗子市沼間4−6−1
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間公民館停留所降車 徒歩1分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第3田越川橋梁(だいさん たごえがわ きょうりょう)<br />下り線側全景<br /><br />逗子市沼間5−4−5<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車徒歩2分

    東逗子-田浦間



    第3田越川橋梁(だいさん たごえがわ きょうりょう)
    下り線側全景

    逗子市沼間5−4−5
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車徒歩2分

  • 東逗子ー田浦間<br /><br /><br /><br />第3田越川橋梁<br />上り線側全景<br /><br />逗子市沼間5−5−1<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車 徒歩3分

    東逗子ー田浦間



    第3田越川橋梁
    上り線側全景

    逗子市沼間5−5−1
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車 徒歩3分

  • 東逗子ー田浦間<br /><br /><br /><br />旧沼間信号場跡<br />沼間信号場(ぬまま しんごうじょ)は、逗子-田浦間複線化の際に逗子駅基点3.5?、田浦駅基点1.9?地点に大正3年(1914年)8月12日に設置。<br />大正9年(1920年)10月19日に複線化完成し廃止予定なるも引続き旧第1隧道電化工事対応の為に建築限界拡大工事中に関東大震災に遭遇し内部崩壊を発生させた為に完成遅延し大正15年(1926年)3月31日に第1沼間隧道改良工事完成に拠り沼間-田浦間複線化完成を以って廃止。<br /><br />逗子市沼間5−5−1<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車 徒歩3分

    東逗子ー田浦間



    旧沼間信号場跡
    沼間信号場(ぬまま しんごうじょ)は、逗子-田浦間複線化の際に逗子駅基点3.5?、田浦駅基点1.9?地点に大正3年(1914年)8月12日に設置。
    大正9年(1920年)10月19日に複線化完成し廃止予定なるも引続き旧第1隧道電化工事対応の為に建築限界拡大工事中に関東大震災に遭遇し内部崩壊を発生させた為に完成遅延し大正15年(1926年)3月31日に第1沼間隧道改良工事完成に拠り沼間-田浦間複線化完成を以って廃止。

    逗子市沼間5−5−1
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車 徒歩3分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />沼間隧道<br />左 下り線用大船方坑門 明治22年(1889年)6月16日開通時の第1隧道<br />右 上り線用大船方坑門 大正9年(1926年)10月19日複線化時の第2隧道<br />関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)発生時に同区間進行中の旅客第514列車が沼間隧道崩壊に拠り埋没、更に隧道内で脱線転覆し、該列車に乗車中で海軍水雷学校普通科在籍中の華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう)海軍中尉(明治35年(1902年)1月26日〜大正13年(1924年)3月24日)が下校途中遭難し一時は死亡説も流れたが救出されるも遭難時の受傷が原因で翌年薨去。<br /><br />逗子市沼間5−5−2<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車 徒歩4分

    東逗子-田浦間



    沼間隧道
    左 下り線用大船方坑門 明治22年(1889年)6月16日開通時の第1隧道
    右 上り線用大船方坑門 大正9年(1926年)10月19日複線化時の第2隧道
    関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)発生時に同区間進行中の旅客第514列車が沼間隧道崩壊に拠り埋没、更に隧道内で脱線転覆し、該列車に乗車中で海軍水雷学校普通科在籍中の華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう)海軍中尉(明治35年(1902年)1月26日〜大正13年(1924年)3月24日)が下校途中遭難し一時は死亡説も流れたが救出されるも遭難時の受傷が原因で翌年薨去。

    逗子市沼間5−5−2
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車 徒歩4分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1沼間隧道(だいいち ぬまま ずいどう)<br />横須賀線開通時隧道<br />開通時総延長: 402.0m<br />現時点総延長: 442.6m<br />横須賀線大船-横須賀間開通当時の物。<br />開通直後から大船方坑門付近の崩落が著しく明治23年(1890年)9月頃に煉瓦積構造に拠り40.6m開口部延伸。<br />大正12年(1923年)に電化の為に建築限界口径拡大の為に裾部を拡大、内部側面下部を馬蹄型を垂直化させコンクリート仕様に変更。<br /><br />逗子市沼間5−6−3<br />横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車 徒歩4分<br />

    東逗子-田浦間



    第1沼間隧道(だいいち ぬまま ずいどう)
    横須賀線開通時隧道
    開通時総延長: 402.0m
    現時点総延長: 442.6m
    横須賀線大船-横須賀間開通当時の物。
    開通直後から大船方坑門付近の崩落が著しく明治23年(1890年)9月頃に煉瓦積構造に拠り40.6m開口部延伸。
    大正12年(1923年)に電化の為に建築限界口径拡大の為に裾部を拡大、内部側面下部を馬蹄型を垂直化させコンクリート仕様に変更。

    逗子市沼間5−6−3
    横須賀線逗子駅東口 京浜急行バス沼間坂上停留所降車 徒歩4分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />沼間隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市田浦町4−60<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩15分

    東逗子-田浦間



    沼間隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市田浦町4−60
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩15分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1沼間隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市田浦町4−60<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩15分<br />

    東逗子-田浦間



    第1沼間隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市田浦町4−60
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩15分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第2沼間隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市田浦町4−60<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩15分

    東逗子-田浦間



    第2沼間隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市田浦町4−60
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩15分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />田浦沢川橋梁(たうらざわがわ きょうりょう)<br />下り線<br />明治22年(1889年)3月竣工<br />煉瓦積橋台<br /><br />横須賀市田浦町4−57<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩14分

    東逗子-田浦間



    田浦沢川橋梁(たうらざわがわ きょうりょう)
    下り線
    明治22年(1889年)3月竣工
    煉瓦積橋台

    横須賀市田浦町4−57
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩14分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />田浦変電所(たうら へんでんしょ)<br />大正14年(1925年)横須賀線電化当時の米ジェネラル・エレクトリック社製の回転変流機が設置。<br />現在は最新機器に代替されたが、件の回転変流機は準鉄道記念物指定を受け保存。<br /><br />横須賀市田浦町4−36<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩12分

    東逗子-田浦間



    田浦変電所(たうら へんでんしょ)
    大正14年(1925年)横須賀線電化当時の米ジェネラル・エレクトリック社製の回転変流機が設置。
    現在は最新機器に代替されたが、件の回転変流機は準鉄道記念物指定を受け保存。

    横須賀市田浦町4−36
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩12分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />田浦変電所正門<br /><br />横須賀市田浦町4−36<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩12分

    東逗子-田浦間



    田浦変電所正門

    横須賀市田浦町4−36
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩12分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />田浦変電所旧列車停車場<br />田浦変電所前上り線短ホーム跡<br />該施設が有人時代に勤務職員通勤、及び、官舎居住者通勤通学用に限定使用し一般旅客取扱を一切せず荷物電車に乗車使用。<br />北海道では保線関係者利用の為の停車点が散在したが首都圏近郊では稀な存在。<br /><br />横須賀市田浦町4−36<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩12分<br /><br />

    東逗子-田浦間



    田浦変電所旧列車停車場
    田浦変電所前上り線短ホーム跡
    該施設が有人時代に勤務職員通勤、及び、官舎居住者通勤通学用に限定使用し一般旅客取扱を一切せず荷物電車に乗車使用。
    北海道では保線関係者利用の為の停車点が散在したが首都圏近郊では稀な存在。

    横須賀市田浦町4−36
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩12分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />横須賀線京急電鉄本線跨線橋<br />上部鉄道線は京急電鉄本線<br />昭和5年(1930年)4月1日に当時の湘南電気鐵道に拠り開通<br /><br />横須賀市田浦町4-54<br />横須賀線田浦駅田浦町口京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩12分

    東逗子-田浦間



    横須賀線京急電鉄本線跨線橋
    上部鉄道線は京急電鉄本線
    昭和5年(1930年)4月1日に当時の湘南電気鐵道に拠り開通

    横須賀市田浦町4-54
    横須賀線田浦駅田浦町口京浜急行バス池ノ谷戸停留所降車 徒歩12分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />静円寺踏切(じょうえんじ ふみきり)<br /><br />横須賀市田浦町4−18<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス田浦郵便局停留所降車徒歩4分

    東逗子-田浦間



    静円寺踏切(じょうえんじ ふみきり)

    横須賀市田浦町4−18
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス田浦郵便局停留所降車徒歩4分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />静円寺踏切<br />轢死者追弔塔(れきししゃ ついとうとう)<br />旧帝國海軍には理由無く指定時刻に遅延帰着すると海軍刑法第73〜77条【後発航期(こうはつ こうき)罪】が適用され軍法会議に附された。<br />また、逃亡は重大犯罪であり、全国に指名手配されると共に憲兵隊に依る厳しい捜索を受け同時に実家にも家宅捜索の手が入り、残された家族は非国民の汚名を浴びた。<br />他方、陸海軍を問わず、入隊した新人初年兵は古参兵から仕来りと称する陰惨なシゴキを受け、此れを苦に自殺する者が少なからず存在したのも事実である。<br />静円寺踏切は横須賀線開通時以来、旧海軍兵の自殺の地として知られ、本慰霊碑は自殺者の霊を弔う為に、大正2年(1913年)9月10日に建立。<br /><br />横須賀市田浦町4−18<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス田浦郵便局停留所降車 徒歩4分<br />

    東逗子-田浦間



    静円寺踏切
    轢死者追弔塔(れきししゃ ついとうとう)
    旧帝國海軍には理由無く指定時刻に遅延帰着すると海軍刑法第73〜77条【後発航期(こうはつ こうき)罪】が適用され軍法会議に附された。
    また、逃亡は重大犯罪であり、全国に指名手配されると共に憲兵隊に依る厳しい捜索を受け同時に実家にも家宅捜索の手が入り、残された家族は非国民の汚名を浴びた。
    他方、陸海軍を問わず、入隊した新人初年兵は古参兵から仕来りと称する陰惨なシゴキを受け、此れを苦に自殺する者が少なからず存在したのも事実である。
    静円寺踏切は横須賀線開通時以来、旧海軍兵の自殺の地として知られ、本慰霊碑は自殺者の霊を弔う為に、大正2年(1913年)9月10日に建立。

    横須賀市田浦町4−18
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス田浦郵便局停留所降車 徒歩4分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />静円寺踏切<br />轢死者追弔塔<br />大正二年九月十日建立<br />帝國在郷軍人會<br />横須賀支部田浦分會<br />と刻まれている。<br /><br />横須賀市田浦町4−18<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス田浦郵便局停留所降車 徒歩4分

    東逗子-田浦間



    静円寺踏切
    轢死者追弔塔
    大正二年九月十日建立
    帝國在郷軍人會
    横須賀支部田浦分會
    と刻まれている。

    横須賀市田浦町4−18
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス田浦郵便局停留所降車 徒歩4分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />静円寺(じょうえんじ)境内から眺望<br />手前が横須賀線<br />奥は、海上自衛隊第2術科学校、及び、船舶補給処と長浦港<br />ワシントン海軍条約不延長決定の頃から横須賀線は海側に面した窓日除けを降ろさせられた。<br /><br />横須賀市田浦町3−96<br />横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス田浦郵便局降車 徒歩4分<br />

    東逗子-田浦間



    静円寺(じょうえんじ)境内から眺望
    手前が横須賀線
    奥は、海上自衛隊第2術科学校、及び、船舶補給処と長浦港
    ワシントン海軍条約不延長決定の頃から横須賀線は海側に面した窓日除けを降ろさせられた。

    横須賀市田浦町3−96
    横須賀線田浦駅田浦町口 京浜急行バス田浦郵便局降車 徒歩4分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />田浦川橋梁(たうらがわ きょうりょう)<br />上り線側<br />開通当時の煉瓦積橋台とガーター橋<br />明治22年(1889年)3月竣工<br /><br />横須賀市田浦町2−85<br />横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    東逗子-田浦間



    田浦川橋梁(たうらがわ きょうりょう)
    上り線側
    開通当時の煉瓦積橋台とガーター橋
    明治22年(1889年)3月竣工

    横須賀市田浦町2−85
    横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1田浦隧道(だいいち たうら ずいどう)<br />大船方坑門<br />横須賀線開通時隧道<br />総延長: 94.8m<br /><br />横須賀市田浦町2−1<br />横須賀線田浦駅田浦港口 徒歩3分

    東逗子-田浦間



    第1田浦隧道(だいいち たうら ずいどう)
    大船方坑門
    横須賀線開通時隧道
    総延長: 94.8m

    横須賀市田浦町2−1
    横須賀線田浦駅田浦港口 徒歩3分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1田浦隧道<br />大船方坑門<br />写真では判読困難だが、第1田浦隧道は大正期の建築限界拡大工事の際に、普通であれば隧道上部を残し両側を削り垂直面にする処、此処は右側面を起点に3心円扇状に拡大した為に右側面元積が側壁として残存。<br />煉瓦が他部分と異なりオリジナル黒褐色使用。<br /><br />横須賀市田浦町2−1<br />横須賀線田浦駅田浦港口 徒歩3分

    東逗子-田浦間



    第1田浦隧道
    大船方坑門
    写真では判読困難だが、第1田浦隧道は大正期の建築限界拡大工事の際に、普通であれば隧道上部を残し両側を削り垂直面にする処、此処は右側面を起点に3心円扇状に拡大した為に右側面元積が側壁として残存。
    煉瓦が他部分と異なりオリジナル黒褐色使用。

    横須賀市田浦町2−1
    横須賀線田浦駅田浦港口 徒歩3分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第2田浦隧道(だいに たうら ずいどう)<br />大船方坑門<br />横須賀線増線時隧道<br />総延長: 94.7m<br />第2田浦隧道を通じ田浦駅構内と第2七釜隧道坑門が望見可能<br /><br />横須賀線田浦駅田浦港口 徒歩3分

    東逗子-田浦間



    第2田浦隧道(だいに たうら ずいどう)
    大船方坑門
    横須賀線増線時隧道
    総延長: 94.7m
    第2田浦隧道を通じ田浦駅構内と第2七釜隧道坑門が望見可能

    横須賀線田浦駅田浦港口 徒歩3分

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />田浦隧道<br />横須賀方坑門

    東逗子-田浦間



    田浦隧道
    横須賀方坑門

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1田浦隧道<br />横須賀方坑門

    東逗子-田浦間



    第1田浦隧道
    横須賀方坑門

    東逗子駅

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1田浦隧道<br />横須賀方<br />支壁<br />支壁(ささえかべ)とは地質圧力が強い箇所での隧道出入口坑門を支える補助的壁で明治期から昭和初期の隧道坑門で散見される。

    東逗子-田浦間



    第1田浦隧道
    横須賀方
    支壁
    支壁(ささえかべ)とは地質圧力が強い箇所での隧道出入口坑門を支える補助的壁で明治期から昭和初期の隧道坑門で散見される。

    東逗子駅

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1田浦隧道<br />横須賀方隧道内部<br />側壁<br />隧道下部がコンクリート打仕様に変更されている。

    東逗子-田浦間



    第1田浦隧道
    横須賀方隧道内部
    側壁
    隧道下部がコンクリート打仕様に変更されている。

    東逗子駅

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第2田浦隧道<br />横須賀方坑門<br />上り線用<br />

    東逗子-田浦間



    第2田浦隧道
    横須賀方坑門
    上り線用

    東逗子駅

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第2田浦隧道<br />横須賀方隧道内部

    東逗子-田浦間



    第2田浦隧道
    横須賀方隧道内部

    東逗子駅

  • 東逗子-田浦間<br /><br /><br /><br />第1田浦隧道<br />横須賀方<br />典型的英国積

    東逗子-田浦間



    第1田浦隧道
    横須賀方
    典型的英国積

    東逗子駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />明治37年(1905年)5月11日正式開業<br />田浦町口<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=929

    田浦駅



    明治37年(1905年)5月11日正式開業
    田浦町口
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=929

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />駅本屋が橋上化されるまで写真奥に駅本屋が存在した。<br />橋上化は昭和34年(1959年)

    田浦駅



    駅本屋が橋上化されるまで写真奥に駅本屋が存在した。
    橋上化は昭和34年(1959年)

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />田浦町口駅前通り<br />

    田浦駅



    田浦町口駅前通り

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />田浦町口出入口支柱<br /><br />75A BSCO STEEL C 1919 OH I.G.R.<br />(米ベツレヘム・スチール社 1919年製造 溶錬炉様式平炉 鐵道院発注品)

    田浦駅



    田浦町口出入口支柱

    75A BSCO STEEL C 1919 OH I.G.R.
    (米ベツレヘム・スチール社 1919年製造 溶錬炉様式平炉 鐵道院発注品)

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br />ホーム上屋<br />財産票に拠れば大東亜戦争末期の昭和19年(1944年)に建築。<br />恐らく、田浦駅周辺に多数存在した海軍施設視察の皇族や政府高官の為に設置されたものと推定。<br /><br />支柱番号第12〜21号

    田浦駅


    ホーム上屋
    財産票に拠れば大東亜戦争末期の昭和19年(1944年)に建築。
    恐らく、田浦駅周辺に多数存在した海軍施設視察の皇族や政府高官の為に設置されたものと推定。

    支柱番号第12〜21号

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋内部<br />幾何学的文様が特徴。

    田浦駅



    ホーム上屋内部
    幾何学的文様が特徴。

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋建物財産票<br />昭和19年(1944年)に新築当時の物。<br />支柱番号第12号a

    田浦駅



    ホーム上屋建物財産票
    昭和19年(1944年)に新築当時の物。
    支柱番号第12号a

    田浦駅

  • 田浦(たうら)駅<br /><br /><br /><br />田浦港口全景<br />起点の大船駅を除き横須賀線沿線で唯一の橋上駅舎様式。

    田浦(たうら)駅



    田浦港口全景
    起点の大船駅を除き横須賀線沿線で唯一の橋上駅舎様式。

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />架線副支柱<br />昭和8年(1933年)植柱。<br />支柱番号第11号

    田浦駅



    架線副支柱
    昭和8年(1933年)植柱。
    支柱番号第11号

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋支柱古軌条群<br />古軌条と木柱が混在<br />田浦駅開業当初は現在と異なり相対式ホームで複線化の際に現在の島式に改築。<br />古軌条上屋部分は、昭和26年(1951年)建築。

    田浦駅



    ホーム上屋支柱古軌条群
    古軌条と木柱が混在
    田浦駅開業当初は現在と異なり相対式ホームで複線化の際に現在の島式に改築。
    古軌条上屋部分は、昭和26年(1951年)建築。

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />橋上化以前の旧駅本屋方向を見る

    田浦駅



    橋上化以前の旧駅本屋方向を見る

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />I.T.S. 100 LBS PSH WENDEL. V1927<br />(仏ド・ヴァンデル社1927年5月製 鐵道省発注品)<br />支柱番号第2号b

    田浦駅



    ホーム上屋
    支柱古軌条
    I.T.S. 100 LBS PSH WENDEL. V1927
    (仏ド・ヴァンデル社1927年5月製 鐵道省発注品)
    支柱番号第2号b

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL W.1880 SEC131 □□□□<br />(英キャムメル・フィールド・スティール社 1880年製造 製造ロット番号131番 発注者不明)<br />製造ロット番号から工部省鐵道作業局発注品たる事が判明。<br />同品は東海道本線早川駅ホーム上屋支柱にも現存。<br />支柱番号第28号b

    田浦駅



    ホーム上屋
    支柱古軌条
    CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL W.1880 SEC131 □□□□
    (英キャムメル・フィールド・スティール社 1880年製造 製造ロット番号131番 発注者不明)
    製造ロット番号から工部省鐵道作業局発注品たる事が判明。
    同品は東海道本線早川駅ホーム上屋支柱にも現存。
    支柱番号第28号b

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />BARROW STEEL 1894 I.R.J.<br />(英バーロウ スティール社 1894年製造 逓信省鐵道作業局発注品)<br />支柱番号第31号b<br /><br />

    田浦駅



    ホーム上屋
    支柱古軌条
    BARROW STEEL 1894 I.R.J.
    (英バーロウ スティール社 1894年製造 逓信省鐵道作業局発注品)
    支柱番号第31号b

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br />貨物側線跡<br />平成18年(2006年)5月1日貨物取扱廃止<br />平成19年(2007年)11月21日ポイント撤去

    田浦駅



    貨物側線跡
    平成18年(2006年)5月1日貨物取扱廃止
    平成19年(2007年)11月21日ポイント撤去

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />七釜隧道<br /><br />左から、昭和、明治、大正各期建築

    田浦-横須賀間



    七釜隧道

    左から、昭和、明治、大正各期建築

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第1七釜隧道(だいいち ななかま ずいどう)<br />横須賀線開業時隧道<br />開業時総延長: 96.8m<br />現時点総延長: 96.9m<br /><br />横須賀線開通当時の隧道で開通当初は煉瓦積構造だったが、関東大震災で大船方横須賀方双方とも坑門が崩壊し復旧の際に坑門付近を石積構造に変更。<br />開業時と現状との10cmの差は石積復旧の際に生じたものと推定。

    田浦-横須賀間



    第1七釜隧道(だいいち ななかま ずいどう)
    横須賀線開業時隧道
    開業時総延長: 96.8m
    現時点総延長: 96.9m

    横須賀線開通当時の隧道で開通当初は煉瓦積構造だったが、関東大震災で大船方横須賀方双方とも坑門が崩壊し復旧の際に坑門付近を石積構造に変更。
    開業時と現状との10cmの差は石積復旧の際に生じたものと推定。

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第1七釜隧道

    田浦-横須賀間



    第1七釜隧道

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第1七釜隧道<br />10両編成の時はホームの有効長さの関係上、編成全部がホームに停車出来ず先頭と最後部の車輌は隧道内にかかり扉を開放せず。

    田浦-横須賀間



    第1七釜隧道
    10両編成の時はホームの有効長さの関係上、編成全部がホームに停車出来ず先頭と最後部の車輌は隧道内にかかり扉を開放せず。

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第2七釜隧道

    田浦-横須賀間



    第2七釜隧道

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第2七釜隧道(だいに ななかま ずいどう)<br />横須賀線増線時隧道<br />総延長: 96.6m<br /><br />大正13年(1924年)12月25日複線化の際に開通。<br />開通当初から電化工事対応可能だった。<br /><br />

    田浦-横須賀間



    第2七釜隧道(だいに ななかま ずいどう)
    横須賀線増線時隧道
    総延長: 96.6m

    大正13年(1924年)12月25日複線化の際に開通。
    開通当初から電化工事対応可能だった。

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第2七釜隧道<br />大船方隧道内部<br />内部はコンクリート打構造。<br />建設当時は坑門はコンクリート打構造が確立しておらず煉瓦積構造で他の同時期建設隧道にも散見。

    田浦-横須賀間



    第2七釜隧道
    大船方隧道内部
    内部はコンクリート打構造。
    建設当時は坑門はコンクリート打構造が確立しておらず煉瓦積構造で他の同時期建設隧道にも散見。

    田浦駅

  • 田浦駅<br /><br /><br /><br /><br />第2七釜隧道<br />坑門<br />煉瓦積様式は英國積

    田浦駅




    第2七釜隧道
    坑門
    煉瓦積様式は英國積

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />新七釜隧道(しん ななかま ずいどう)<br />総延長: 96.9m<br />昭和18年(1943年)に、それまで七釜隧道を抜けた本線上にポイントを設置して海軍軍需部施設へ分岐していたが、戦時体制強化に拠り貨物の激増と安全面を重視して田浦駅構内から分岐するシステムに変更に対応すべく掘削開通した。<br /><br />平成18年(2006年)5月1日貨物取扱廃止。

    田浦-横須賀間



    新七釜隧道(しん ななかま ずいどう)
    総延長: 96.9m
    昭和18年(1943年)に、それまで七釜隧道を抜けた本線上にポイントを設置して海軍軍需部施設へ分岐していたが、戦時体制強化に拠り貨物の激増と安全面を重視して田浦駅構内から分岐するシステムに変更に対応すべく掘削開通した。

    平成18年(2006年)5月1日貨物取扱廃止。

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />七釜隧道<br />横須賀方坑門<br />昭和18年(1943年)に新七釜隧道が完成するまで海軍軍需部専用線は七釜隧道横須賀方坑門付近で分岐していた。<br />現在でも、田浦駅構内を長浦隧道横須賀方坑門付近に設定されているのは当時の痕跡。<br /><br />横須賀氏田浦港町無番地<br />横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦-横須賀間



    七釜隧道
    横須賀方坑門
    昭和18年(1943年)に新七釜隧道が完成するまで海軍軍需部専用線は七釜隧道横須賀方坑門付近で分岐していた。
    現在でも、田浦駅構内を長浦隧道横須賀方坑門付近に設定されているのは当時の痕跡。

    横須賀氏田浦港町無番地
    横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第1七釜隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀線田浦港町無番地<br />横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦-横須賀間



    第1七釜隧道
    横須賀方坑門

    横須賀線田浦港町無番地
    横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第2七釜隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市田浦港町無番地<br />横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦-横須賀間



    第2七釜隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市田浦港町無番地
    横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />新七釜隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市田浦港町無番地<br />横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦-横須賀間



    新七釜隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市田浦港町無番地
    横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />田浦専用線分岐地点<br />旧帝國海軍横須賀軍需部専用線<br />現相模運輸倉庫専用線<br /><br />横須賀市田浦港町無番地<br />横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦-横須賀間



    田浦専用線分岐地点
    旧帝國海軍横須賀軍需部専用線
    現相模運輸倉庫専用線

    横須賀市田浦港町無番地
    横須賀線田浦駅田浦町口 徒歩5分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />長浦隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市長浦1−1−1<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩1分

    田浦-横須賀間



    長浦隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市長浦1−1−1
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩1分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第1長浦隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市長浦1−1−1<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩1分

    田浦-横須賀間



    第1長浦隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市長浦1−1−1
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩1分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第2長浦隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市長浦1−1−1<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田のうら停留所降車 徒歩1分

    田浦-横須賀間



    第2長浦隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市長浦1−1−1
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田のうら停留所降車 徒歩1分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />側壁<br />煉瓦壁<br /><br />横須賀市長浦1−1−21<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩1分

    田浦-横須賀間



    側壁
    煉瓦壁

    横須賀市長浦1−1−21
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩1分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />長浦橋梁(ながうら きょうりょう)<br />該橋梁は、明治22年(1889年)3月竣工の錬鉄製。<br /><br />横須賀市長浦1−1−21<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩1分

    田浦-横須賀間



    長浦橋梁(ながうら きょうりょう)
    該橋梁は、明治22年(1889年)3月竣工の錬鉄製。

    横須賀市長浦1−1−21
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩1分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />田の浦隧道<br />大船方坑門<br /><br />横須賀市長浦1−1−30<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩2分

    田浦-横須賀間



    田の浦隧道
    大船方坑門

    横須賀市長浦1−1−30
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩2分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第1田の浦隧道(だいいち たのうら ずいどう)<br />大船方坑門<br />横須賀線開業時隧道<br />開業時総延長: 187.5m<br />現時点総延長: 188.1m<br />横須賀線開業時の隧道は電化工事に鑑み口径内空間拡大に関し両側壁が垂直化。<br />関東大震災復旧修復時に60cmの差を生じる。<br /><br />横須賀市長浦1−1−30<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩2分

    田浦-横須賀間



    第1田の浦隧道(だいいち たのうら ずいどう)
    大船方坑門
    横須賀線開業時隧道
    開業時総延長: 187.5m
    現時点総延長: 188.1m
    横須賀線開業時の隧道は電化工事に鑑み口径内空間拡大に関し両側壁が垂直化。
    関東大震災復旧修復時に60cmの差を生じる。

    横須賀市長浦1−1−30
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩2分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第2田の浦隧道(だいに たのうら ずいどう)<br />大船方坑門<br />横須賀線増線時隧道<br />総延長: 188.1m<br /><br />横須賀市長浦1−1−30<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩2分

    田浦-横須賀間



    第2田の浦隧道(だいに たのうら ずいどう)
    大船方坑門
    横須賀線増線時隧道
    総延長: 188.1m

    横須賀市長浦1−1−30
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス田の浦停留所降車 徒歩2分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第1田の浦隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市吉倉1−107<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉停留所降車 徒歩2分

    田浦-横須賀間



    第1田の浦隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市吉倉1−107
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉停留所降車 徒歩2分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第2田の浦隧道<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市吉倉1−107<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉停留所降車 徒歩2分

    田浦-横須賀間



    第2田の浦隧道
    横須賀方坑門

    横須賀市吉倉1−107
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉停留所降車 徒歩2分

    田浦駅

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第1次世界大戦後に於ける戦勝国の主力艦建造に歯止めをかける為に ワシントン軍縮条約 が締結され我が国も批准したが、我が国は有効期限到来後の条約の更新しない事を決定した。<br />他方、帝國海軍は条約失効後に超戦艦建造を想定し、軍令部作戦課は海軍省に対し70000t級46cm砲塔搭載艦建造を進言し海軍省も承認した事から、呉?=大和、長崎=武蔵、横須賀=信濃、呉?=紀伊の建造が決定した。<br />此の戦艦は超軍機扱に指定され、国民は元より海軍部内でも存在は極秘とされ仔細を知る者は極めて限定された。<br />また、海軍省と憲兵隊は外国の間諜の防止も兼ね、呉鎮守府では呉線と国道沿に長大な板塀、三菱重工業長崎造船所は巨大棕櫚簾、そして横須賀ではコンクリート塀が設置された。<br />戦後仕切り板は撤去されたが、該界隈にはコンクリート塀柱群の残滓が現存。<br /><br />横須賀市

    田浦-横須賀間



    第1次世界大戦後に於ける戦勝国の主力艦建造に歯止めをかける為に ワシントン軍縮条約 が締結され我が国も批准したが、我が国は有効期限到来後の条約の更新しない事を決定した。
    他方、帝國海軍は条約失効後に超戦艦建造を想定し、軍令部作戦課は海軍省に対し70000t級46cm砲塔搭載艦建造を進言し海軍省も承認した事から、呉?=大和、長崎=武蔵、横須賀=信濃、呉?=紀伊の建造が決定した。
    此の戦艦は超軍機扱に指定され、国民は元より海軍部内でも存在は極秘とされ仔細を知る者は極めて限定された。
    また、海軍省と憲兵隊は外国の間諜の防止も兼ね、呉鎮守府では呉線と国道沿に長大な板塀、三菱重工業長崎造船所は巨大棕櫚簾、そして横須賀ではコンクリート塀が設置された。
    戦後仕切り板は撤去されたが、該界隈にはコンクリート塀柱群の残滓が現存。

    横須賀市

    隅田川 本店 グルメ・レストラン

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />吉倉川橋梁(よしくらがわ きょうりょう)<br />該橋梁は、明治22年(1889年)3月竣工の錬鉄製である。<br />工部省鉄道作業局は、当初該地域一帯が入江状だった事から品川湾で実勢を有していた築堤構造で設営を計画していた。<br />然し、該計画を知った逸見村総代 石川儀平 以下8名が、明治21年(1888年)4月5日附で、工部省鉄道作業局に対し該地が地元住民所有舟出入、及び、時化時に於ける舟通過困難を理由に必要地献納の代りに該地築堤部に出入口設置を要望する請願書を提出した。<br />此れに対し、工部省鉄道作業局は同年同月24日附文書で該趣旨を篤と理解し工事一切を当局が施工し献納は不要たる事を回答し該地に該橋梁が設置された。<br />下って大東亜戦争後、横須賀湾が米海軍管理下に置かれ防諜上の理由から、地元漁民と云えども出漁不可能になり、地元漁民は漁業権を放棄する代わりに政府より補償金が支払われた後、横須賀市に依り該地は昭和43年(1968年)迄に埋立てられ、現在は吉倉公園が設置。<br /><br />横須賀市長浦1−1−21<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉公園停留所降車 徒歩1分

    田浦-横須賀間



    吉倉川橋梁(よしくらがわ きょうりょう)
    該橋梁は、明治22年(1889年)3月竣工の錬鉄製である。
    工部省鉄道作業局は、当初該地域一帯が入江状だった事から品川湾で実勢を有していた築堤構造で設営を計画していた。
    然し、該計画を知った逸見村総代 石川儀平 以下8名が、明治21年(1888年)4月5日附で、工部省鉄道作業局に対し該地が地元住民所有舟出入、及び、時化時に於ける舟通過困難を理由に必要地献納の代りに該地築堤部に出入口設置を要望する請願書を提出した。
    此れに対し、工部省鉄道作業局は同年同月24日附文書で該趣旨を篤と理解し工事一切を当局が施工し献納は不要たる事を回答し該地に該橋梁が設置された。
    下って大東亜戦争後、横須賀湾が米海軍管理下に置かれ防諜上の理由から、地元漁民と云えども出漁不可能になり、地元漁民は漁業権を放棄する代わりに政府より補償金が支払われた後、横須賀市に依り該地は昭和43年(1968年)迄に埋立てられ、現在は吉倉公園が設置。

    横須賀市長浦1−1−21
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉公園停留所降車 徒歩1分

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />第1吉倉隧道<br />横須賀方坑門<br />開通当時の物<br />作家 芥川龍之介の短編小説『蜜柑』にも登場。<br /><br />横須賀市西逸見1−24<br />横須賀線横須賀駅 徒歩6分

    田浦-横須賀間



    第1吉倉隧道
    横須賀方坑門
    開通当時の物
    作家 芥川龍之介の短編小説『蜜柑』にも登場。

    横須賀市西逸見1−24
    横須賀線横須賀駅 徒歩6分

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />吉倉隧道(よしくら ずいどう)<br />横須賀方坑門<br /><br />横須賀市西逸見1−24<br />横須賀線横須賀駅 徒歩6分

    田浦-横須賀間



    吉倉隧道(よしくら ずいどう)
    横須賀方坑門

    横須賀市西逸見1−24
    横須賀線横須賀駅 徒歩6分

  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />横須賀駅構内大船方俯瞰<br /><br />横須賀市西逸見町1−1−3<br />横須賀線横須賀駅徒歩5分

    田浦-横須賀間



    横須賀駅構内大船方俯瞰

    横須賀市西逸見町1−1−3
    横須賀線横須賀駅徒歩5分

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />駅本屋正面<br />昭和15年(1940年)改築<br />予讃線高松駅共々、一般駅として予讃線高松駅同様、駅構内に階段が存在ない。<br /><br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1635

    横須賀駅



    駅本屋正面
    昭和15年(1940年)改築
    予讃線高松駅共々、一般駅として予讃線高松駅同様、駅構内に階段が存在ない。

    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1635

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />駅本屋内部<br />ホール<br />改札口からホームにかけて階段が存在しない。<br />予讃線高松駅、宇和島駅、長崎本線長崎駅等々と同様の典型的終端駅構造。

    横須賀駅



    駅本屋内部
    ホール
    改札口からホームにかけて階段が存在しない。
    予讃線高松駅、宇和島駅、長崎本線長崎駅等々と同様の典型的終端駅構造。

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第1番線、及び、第2番線終端部

    横須賀駅



    第1番線、及び、第2番線終端部

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />旧第1番ホームと第2番ホーム<br />奥の米ベイツ社製造鋼鉄製架線押止は大正13年(1924年)横須賀線電化工事当時植柱。

    横須賀駅



    旧第1番ホームと第2番ホーム
    奥の米ベイツ社製造鋼鉄製架線押止は大正13年(1924年)横須賀線電化工事当時植柱。

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホームから現在使用停止の第1番ホーム跡を見る。

    横須賀駅



    第2番ホームから現在使用停止の第1番ホーム跡を見る。

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム段差<br />大正中期に山側から現在位置に移転以来、鋼製客車導入、電車運転、電車専用時代と共に打上跡が残る。

    横須賀駅



    第2番ホーム段差
    大正中期に山側から現在位置に移転以来、鋼製客車導入、電車運転、電車専用時代と共に打上跡が残る。

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホームと217系電車<br />ドア位置を当時の段差と比較するとドア高さ位置の変遷が解る。

    横須賀駅



    第2番ホームと217系電車
    ドア位置を当時の段差と比較するとドア高さ位置の変遷が解る。

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />現ホームから初代駅ホーム跡を見る<br />国鉄清算事業団を経由して民間に払下げられ現在はマンションが建つ。

    横須賀駅



    現ホームから初代駅ホーム跡を見る
    国鉄清算事業団を経由して民間に払下げられ現在はマンションが建つ。

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />横須賀方旧終端部<br />久里浜延長時に構内に曲線設置。<br />ホームが直線状態なのは開業当初は終端部だった証。

    横須賀駅



    横須賀方旧終端部
    久里浜延長時に構内に曲線設置。
    ホームが直線状態なのは開業当初は終端部だった証。

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />初代横須賀駅本屋所在地<br />横須賀駅は現地点に駅本屋移転まで該地に駅本屋が存在。<br /><br />横須賀市東逸見町1−1−1<br />横須賀線横須賀駅 徒歩1分

    横須賀駅



    初代横須賀駅本屋所在地
    横須賀駅は現地点に駅本屋移転まで該地に駅本屋が存在。

    横須賀市東逸見町1−1−1
    横須賀線横須賀駅 徒歩1分

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム全景<br />支柱に古軌条を使用。<br />関東大震災では被害が殆ど生ぜず、当時の記録に、<br />尚横須賀驛ノ物ハ古軌條ヲ使用セル物也シ為被害輕微也<br />との記載が観られる。

    横須賀駅



    第2番ホーム全景
    支柱に古軌条を使用。
    関東大震災では被害が殆ど生ぜず、当時の記録に、
    尚横須賀驛ノ物ハ古軌條ヲ使用セル物也シ為被害輕微也
    との記載が観られる。

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホームと上屋支柱歴史的古軌条群

    横須賀駅



    第2番ホームと上屋支柱歴史的古軌条群

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />No60A 1908<br />(官営八幡製鐡所 1908年製造 帝國鐵道庁発注品)<br />支柱番号第38号b

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    No60A 1908
    (官営八幡製鐡所 1908年製造 帝國鐵道庁発注品)
    支柱番号第38号b

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />6009 ILINOIS STEEL Co SOUTH WKS 1898 I.R.J.<br />(米イリノイ・スチール社 南ウィスコン州 1898年製造 逓信省鐵道作業局発注品)<br />該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、<br />第7号b<br /><br />支柱番号第36番a

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    6009 ILINOIS STEEL Co SOUTH WKS 1898 I.R.J.
    (米イリノイ・スチール社 南ウィスコン州 1898年製造 逓信省鐵道作業局発注品)
    該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、
    第7号b

    支柱番号第36番a

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />UNION D. 1885 I.R.J.<br />(独ウニオン社ドルトムント工場 1885年製造 工部省鐵道作業局発注品)<br />該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、<br />第20号b、第29号b<br /><br />支柱番号第36号b

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    UNION D. 1885 I.R.J.
    (独ウニオン社ドルトムント工場 1885年製造 工部省鐵道作業局発注品)
    該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、
    第20号b、第29号b

    支柱番号第36号b

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />UNION D 1887 N.T.K.<br />(独ウニオン社ドルトムント工場 1887年製造 日本鐵道會社発注品)<br />我が国の鉄道史上独逸製品が登場するのは明治18年(1885年)である。<br />此れは日清間の緊張状態増大から当時の駐独在日本公使 青木周蔵(あおき しゅうぞう)(天保15年(1844年)1月15〜大正3年(1914年)2月26日)に依り独逸政府から輸入品増大で日独間関係強化を献策し該提言が受入れられた事から発注された。<br />後に海軍省も独シュテッテン造船所に装甲巡洋艦 八雲(やくも)を発注する。<br />支柱番号第33番a

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    UNION D 1887 N.T.K.
    (独ウニオン社ドルトムント工場 1887年製造 日本鐵道會社発注品)
    我が国の鉄道史上独逸製品が登場するのは明治18年(1885年)である。
    此れは日清間の緊張状態増大から当時の駐独在日本公使 青木周蔵(あおき しゅうぞう)(天保15年(1844年)1月15〜大正3年(1914年)2月26日)に依り独逸政府から輸入品増大で日独間関係強化を献策し該提言が受入れられた事から発注された。
    後に海軍省も独シュテッテン造船所に装甲巡洋艦 八雲(やくも)を発注する。
    支柱番号第33番a

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />UNION D 1885 N.T.K.<br />(独ウニオン社ドルトムント工場 1885年製造 日本鐵道會社発注品)<br />該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、<br />第18号a、第26号b<br />支柱番号第26号a

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    UNION D 1885 N.T.K.
    (独ウニオン社ドルトムント工場 1885年製造 日本鐵道會社発注品)
    該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、
    第18号a、第26号b
    支柱番号第26号a

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />KRUPP 1896 K.T.K.<br />(独クルップ社 1896年製造 九州鐵道會社発注品)<br />九州鐵道會社発注品が、何故、遠隔地たる関東に存在するか、鎌倉駅ホーム上屋支柱古軌条使用のCAMMELLS社古軌条解説に記載。<br />該品は該駅ホーム上屋支柱品では唯一の存在。<br />KRUPP社は独エッセンに所在する重化学兵器製造企業。<br /><br />支柱番号第27番a<br />

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    KRUPP 1896 K.T.K.
    (独クルップ社 1896年製造 九州鐵道會社発注品)
    九州鐵道會社発注品が、何故、遠隔地たる関東に存在するか、鎌倉駅ホーム上屋支柱古軌条使用のCAMMELLS社古軌条解説に記載。
    該品は該駅ホーム上屋支柱品では唯一の存在。
    KRUPP社は独エッセンに所在する重化学兵器製造企業。

    支柱番号第27番a

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />UNION D 1886 N.T.K,<br />(独ウニオン社ドルトムント工場 1886年製造 日本鐵道會社発注品)<br />該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、<br />第7号a、第8号ab、第21号a、第22号b、第28号a<br />支柱番号第26号b

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    UNION D 1886 N.T.K,
    (独ウニオン社ドルトムント工場 1886年製造 日本鐵道會社発注品)
    該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、
    第7号a、第8号ab、第21号a、第22号b、第28号a
    支柱番号第26号b

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />CARNEGIE 1898 ET IIIIII I.R.J.<br />(米カーネギー社 1898年6月製造 逓信省鐵道作業局発注品)<br />該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、<br />第9号a、第19号b<br />支柱番号第24号a<br />

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    CARNEGIE 1898 ET IIIIII I.R.J.
    (米カーネギー社 1898年6月製造 逓信省鐵道作業局発注品)
    該駅ホーム上屋支柱使用中の同製品は、
    第9号a、第19号b
    支柱番号第24号a

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />CARNEGIE 1906 ET IIIIII N.T.K.<br />(米カーネギー社 1906年6月製造 日本鐵道會社発注品)<br />支柱番号第22号a

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    CARNEGIE 1906 ET IIIIII N.T.K.
    (米カーネギー社 1906年6月製造 日本鐵道會社発注品)
    支柱番号第22号a

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />CARNEGIE 1898 ET IIIII I.R.J.<br />(米カーネギー社 1898年5月製造 逓信省鐵道作業局発注品)<br />支柱番号第19番a

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    CARNEGIE 1898 ET IIIII I.R.J.
    (米カーネギー社 1898年5月製造 逓信省鐵道作業局発注品)
    支柱番号第19番a

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />BV&Co LD 1888 I.R.J.<br />(英ボルコウ・ヴォーン社 1888年製造 逓信省鐵道作業局発注品)<br />支柱番号第18号b

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    BV&Co LD 1888 I.R.J.
    (英ボルコウ・ヴォーン社 1888年製造 逓信省鐵道作業局発注品)
    支柱番号第18号b

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />CARNEGIE 1907 ET IIIIIIIII I.R.J.<br />(米カーネギー社 1907年9月製造 帝國鐵道庁発注品)<br />支柱番号第17号b

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    CARNEGIE 1907 ET IIIIIIIII I.R.J.
    (米カーネギー社 1907年9月製造 帝國鐵道庁発注品)
    支柱番号第17号b

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />No 60A 1914<br />(官営八幡鐡所 1914年製造 鐵道院発注品)<br />支柱番号第11号a

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    No 60A 1914
    (官営八幡鐡所 1914年製造 鐵道院発注品)
    支柱番号第11号a

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋<br />支柱古軌条<br />CARNEGIE 1898 ET IIII I.R.J.<br />(米カーネギー社 1898年4月製造 逓信省鐵道作業局発注品)<br />支柱番号第6号b

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋
    支柱古軌条
    CARNEGIE 1898 ET IIII I.R.J.
    (米カーネギー社 1898年4月製造 逓信省鐵道作業局発注品)
    支柱番号第6号b

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />写真左手前の米ベイツ社製造鋼鉄製架線主柱上部電柱更新時に腐蝕が原因で不要され切断撤去されたが大正13年(1924年)横須賀線電化当時植柱。

    横須賀駅



    写真左手前の米ベイツ社製造鋼鉄製架線主柱上部電柱更新時に腐蝕が原因で不要され切断撤去されたが大正13年(1924年)横須賀線電化当時植柱。

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム軒装飾<br />大船方先端部

    横須賀駅



    第2番ホーム軒装飾
    大船方先端部

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋軒装飾<br />首都圏に於いて軒装飾が残る駅は大森駅1番線側のみ。<br />原宿宮廷専用ホームは昭和20年(1945年)5月25日未明の東京山手大空襲で敵機から投下された焼夷弾がホーム上屋に命中焼損被災し復旧時に軒装飾は復元されるも平成になり修理の際に剥離された為に現存せず。

    横須賀駅



    第2番ホーム上屋軒装飾
    首都圏に於いて軒装飾が残る駅は大森駅1番線側のみ。
    原宿宮廷専用ホームは昭和20年(1945年)5月25日未明の東京山手大空襲で敵機から投下された焼夷弾がホーム上屋に命中焼損被災し復旧時に軒装飾は復元されるも平成になり修理の際に剥離された為に現存せず。

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム軒装飾<br />拡大

    横須賀駅



    第2番ホーム軒装飾
    拡大

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    横須賀駅



    絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />着色絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    横須賀駅



    着色絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />駅構内は電化工事が開始されておらず、旧駅ホームが残存する事から、大正10年前後と推定される。<br />手前のバス群は本来写真に撮影された物では無く追加トリミングされた紛い物。<br /><br />絵葉書<br />横浜臨海公園 蔵

    横須賀駅



    駅構内は電化工事が開始されておらず、旧駅ホームが残存する事から、大正10年前後と推定される。
    手前のバス群は本来写真に撮影された物では無く追加トリミングされた紛い物。

    絵葉書
    横浜臨海公園 蔵

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />見晴山<br />関東大震災で該山が崩壊した。<br />東京機関庫所属 8852号機蒸気機関車が埋没被害を受けた。<br /><br /><br /><br />

    横須賀駅



    見晴山
    関東大震災で該山が崩壊した。
    東京機関庫所属 8852号機蒸気機関車が埋没被害を受けた。



    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />見晴山(みはらしやま)<br />横須賀駅前<br />元来、震災前の見晴山は当時の地図等高線から標高50m以上存在したものと推定される。<br />大正12年(1923年)9月1日11時50分に東京発横須賀行普通列車が横須賀駅に定刻到着した。<br />旅客列車から一般客100余名、及び、静岡市から修学旅行で横須賀海軍軍港見学で訪れた静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)教師生徒200余名、計300名余は、日陰たる見晴山下に集合休憩していた処、該山は11時58分に地震発生と同時に高さ30m、厚さ20m、長さ415mに亘り崩壊落を生じ、此れらの頭上に土砂が降注ぎ全員生埋めになり生存の可能性が絶望視された事から、横須賀市内他所の人命救出と道路復旧が最優先とされた事から、該現場は約3週間放置され、附近周辺は猛烈な悪臭と無数の蝿が蝟集する惨状を呈した。<br />作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日〜昭和46年(1971年)4月20日)は、短編小説『進水式』に、<br />「毎週1回、金曜日の朝七時に東京驛をたつ汽車に乗つて、私は横須賀の海軍機関学校へ独逸語を教えに行つた。大地震前の事なので、電車はまだ走つていなかつた。汽車の時間が一時間と四十分かかり、横須賀に着いてからは、いつも驛まで迎えに来ている俥に乗つて、学校にかけつけると、丁度九時からの講義に間に合うのである。<br />俥が驛の前の広場をはなれるとすぐに、工廠の長い板塀と、暗い山裾とに挟まれた道にかかる。右手に高くそそり立つた山が、狭い道に覆いかぶさる様に迫つている崖の腹に、道の左の塀の向うにある入江を隔てた船渠から、鋼を打つ烈しい響きが、絶え間なく水の上を走つて来て、荒荒しい反響を起している。(中略)<br />大正十二年の大地震の後、惨渦の最もは甚しかつた横須賀の様子が見たくて、九月下旬にやつと鐡道が動き出すのを待ち兼ねて、私は朝の汽車で出かけた。(中略)<br />横須賀に着いた時、驛の前の広場を過ぎて、すぐに崖の下の狭い道にかかる所の様子が変っていた。見上げる崖の上の山の姿が、すつかり変わつてしまつて、高さがもとの半分にも足りなかった。大地震が、横須賀の自然を変えてしまつたのである。(後略)」<br />現在の見晴山下は、そんな大惨害が発生した事など忘れられた如く旅館や飲食店が立ち並び惨害が有った事を想起すらし得ぬ静かな地である。<br /><br />横須賀市汐入町1−10<br />横須賀線横須賀駅 徒歩1分

    横須賀駅



    見晴山(みはらしやま)
    横須賀駅前
    元来、震災前の見晴山は当時の地図等高線から標高50m以上存在したものと推定される。
    大正12年(1923年)9月1日11時50分に東京発横須賀行普通列車が横須賀駅に定刻到着した。
    旅客列車から一般客100余名、及び、静岡市から修学旅行で横須賀海軍軍港見学で訪れた静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)教師生徒200余名、計300名余は、日陰たる見晴山下に集合休憩していた処、該山は11時58分に地震発生と同時に高さ30m、厚さ20m、長さ415mに亘り崩壊落を生じ、此れらの頭上に土砂が降注ぎ全員生埋めになり生存の可能性が絶望視された事から、横須賀市内他所の人命救出と道路復旧が最優先とされた事から、該現場は約3週間放置され、附近周辺は猛烈な悪臭と無数の蝿が蝟集する惨状を呈した。
    作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日〜昭和46年(1971年)4月20日)は、短編小説『進水式』に、
    「毎週1回、金曜日の朝七時に東京驛をたつ汽車に乗つて、私は横須賀の海軍機関学校へ独逸語を教えに行つた。大地震前の事なので、電車はまだ走つていなかつた。汽車の時間が一時間と四十分かかり、横須賀に着いてからは、いつも驛まで迎えに来ている俥に乗つて、学校にかけつけると、丁度九時からの講義に間に合うのである。
    俥が驛の前の広場をはなれるとすぐに、工廠の長い板塀と、暗い山裾とに挟まれた道にかかる。右手に高くそそり立つた山が、狭い道に覆いかぶさる様に迫つている崖の腹に、道の左の塀の向うにある入江を隔てた船渠から、鋼を打つ烈しい響きが、絶え間なく水の上を走つて来て、荒荒しい反響を起している。(中略)
    大正十二年の大地震の後、惨渦の最もは甚しかつた横須賀の様子が見たくて、九月下旬にやつと鐡道が動き出すのを待ち兼ねて、私は朝の汽車で出かけた。(中略)
    横須賀に着いた時、驛の前の広場を過ぎて、すぐに崖の下の狭い道にかかる所の様子が変っていた。見上げる崖の上の山の姿が、すつかり変わつてしまつて、高さがもとの半分にも足りなかった。大地震が、横須賀の自然を変えてしまつたのである。(後略)」
    現在の見晴山下は、そんな大惨害が発生した事など忘れられた如く旅館や飲食店が立ち並び惨害が有った事を想起すらし得ぬ静かな地である。

    横須賀市汐入町1−10
    横須賀線横須賀駅 徒歩1分

    横須賀駅

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />横須賀駅構内と海上自衛隊横須賀本港俯瞰<br /><br />横須賀市東逸見町1−3<br />横須賀線横須賀駅 徒歩5分

    横須賀駅



    横須賀駅構内と海上自衛隊横須賀本港俯瞰

    横須賀市東逸見町1−3
    横須賀線横須賀駅 徒歩5分

    横須賀駅

  • 有楽町-新橋間<br /><br /><br /><br />東海道本線中距離列車と横須賀線列車併結運転<br />電化前は東京-大船駅間は併結運転だった。<br />編成構成は両端に3等車、中央に2等車、最中央部に1等車を連結していた。<br /><br />着色絵葉書<br /><br />横浜臨海公園 蔵

    有楽町-新橋間



    東海道本線中距離列車と横須賀線列車併結運転
    電化前は東京-大船駅間は併結運転だった。
    編成構成は両端に3等車、中央に2等車、最中央部に1等車を連結していた。

    着色絵葉書

    横浜臨海公園 蔵

    大船駅

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この旅行記へのコメント (6)

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  • わんぱく大将さん 2011/06/15 08:44:05
    Sheffield
    横浜臨海公園さん

    いつもご訪問、ご投票有難うございます。

    旅行記拝見させていただきましたが、正直、関東方面の地名、駅名はなじみがないのと、私の知識不足で、ピンとこないのですが、よく調べられて。
    一度、関西、お願できませんか?  もし機会がございましたら。

    鉄に書かれた”Sheffield"イギリスですか?  包丁、フォーク、ナイフなどで有名な。  ここの大学の日本語学科も有名です。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/06/18 13:58:32
    拝復
    大将さま、こんにちは。


    メッセージを賜りながら何時も返事を差し上げるのが遅くなり恐縮しております。

    > 旅行記拝見させていただきましたが、正直、関東方面の地名、駅名はなじみがないのと、私の知識不足で、ピンとこないのですが、よく調べられて。
    > 一度、関西、お願できませんか?  もし機会がございましたら。
    →小生も、時間とヒマが有ったら関西本線河内堅上駅付近の地滑りが原因で線路を付替えた所があり、着手してみたいと何時も思っております。

    > 鉄に書かれた”Sheffield"イギリスですか?  包丁、フォーク、ナイフなどで有名な。  ここの大学の日本語学科も有名です。
    →ご推察の通り、英国Sheffield製でございます。


    横浜臨海公園
  • kuritchiさん 2010/07/17 10:42:09
    歴史を噛みしめて、拝見させていただきました…
    横浜臨海公園さん、おはようございます^^
    横須賀線の旅行記にお邪魔させていただいております^^
    いつもながらですが、豊富な知識とその着眼点に感服!
    こんなに横須賀線って『歴史的痕跡』が多くあったのですね…

    どこか懐かしい北鎌倉駅…
    煉瓦積構造が美しい明月川橋梁…
    横須賀線建造の為に縮小を已む無くされた円覚寺…
    繰り返される数々の事故に悲劇…
    何気ないけれど歴史を感じる鎌倉駅とその歴史を物語る支柱に刻まれた古軌条…
    鎌倉五所神社の狛犬…
    赤い煉瓦が印象的な隧道…

    明治19年に出された「鐵道建設ニ関スル請議書」陸軍大将・海軍大将・伊藤博文総理大臣の伯爵の記載にも日本の歴史を感じるのは、私だけでしょうか…

    横浜臨海公園さんの思いの伝わってくる様な、大変な力作!
    歴史を噛みしめて、拝見させていただきました…

    蛇足ですが…。
    横浜臨海公園さんの旅行記を拝見してから、駅や線路を見る折に、その歴史を感じさせられるものを求めて?の目線になっていることがあります(笑)

    kuritchi




    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/07/21 03:24:32
    拝復
    kuritchiさま、こんばんは。


    何時も拙稿をご覧下さいまして誠に有難うございます。
    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    > いつもながらですが、豊富な知識とその着眼点に感服!
    > こんなに横須賀線って『歴史的痕跡』が多くあったのですね…
    →過分に過ぎる褒めのお言葉を賜りまして誠に有難うございます。
    実は解説文の原稿は完成しているのですが、写真を撮りに行くのに時間がなく遅れております。
    更に、驚く内容が出てくると思いますので何卒ご期待の程を!




    横浜臨海公園
  • zzr-cさん 2010/07/13 16:45:46
    支柱に痕跡
    横浜臨海公園さま こんにちは。

    私如きが書き込みするのもどうかと思いましたが
    書き込ませていただきました。

    空母信濃が生まれた理由はミッドウェイが原因だったんですね。

    なぜ巨大戦艦予定の信濃をわざわざ空母にしたのか
    知らなかったので4隻失ったためだった訳ですか。

    駅の屋根支柱のルーツ?そのような物が使われてるとは
    今まで全く気にしたことがありません。

    現在JR中央西線の名古屋〜春日井位しか利用する機会ありませんが
    順番に駅舎が新しくなってきているのでこのような物があったとしても
    取り壊されているかもしれませんね。

    新しい駅は利用しやすくなっていますが、風情も何もありません。

    じぃ〜

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/07/14 03:31:00
    拝復
    zzr-cさま、こんばんは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    > 空母信濃が生まれた理由はミッドウェイが原因だったんですね。
    →ミッドウェイ海戦では指揮官たる南雲海軍中将の決断力が海戦の勝敗の鍵を握った戦いだったと言っても過言ではなく、現に山口多聞海軍少将は「直ちに攻撃の必要有りと認む」と意見具申されていたにも拘らず、南雲中将は此れを無視して一斉攻撃をかけようとした矢先に、米艦載機の爆弾が赤城、加賀他2隻に命中し、不運にも飛行甲板に山積みになっていた魚雷と陸上攻撃用爆弾が誘爆して手がつけられぬ状態となり、赤城が味方駆逐艦の魚雷攻撃で沈没処分された以外は他の3隻は自沈してしまいました。

    呉では、大和進水後に空いたドックで紀伊が建造中でしたが、船底部分の一部が完成した段階で建造中止と決定し、その船底上で潜水艦の恵贈をしておりました。

    > 駅の屋根支柱のルーツ?そのような物が使われてるとは
    > 今まで全く気にしたことがありません。
    →あの辺りで「K.T.K」の刻印が在るレールは名古屋笹島と大阪港町片町を結んでいた関西鐵道の再用品と見て間違いございません。

    中央本線の大曽根-春日井の現在で言う益駅は実は戦前まで表口だった事はご存知ではないかと思います。
    名古屋は三菱重工業で航空機製造を行っていた為に、戦時中に裏口を新設した処、戦後になって此れが全部表口になり、本来の駅舎が裏口化してしまいました。

    尚、大曽根駅では名古屋大空襲の際に別の簡易防空壕に退避していた駅員2名は無事だったものの、大型防空壕に退避していた22名の駅員頭上に爆弾が直撃し全員即死すると言う痛ましい事件があり、裏駅改札横に慰霊碑が建っております。



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