2010/04/04 - 2010/04/04
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旅人のくまさんさん
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現在の津市街の中心部に位置する、桜満開の津城址紹介の続きです。かつては、北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていました。安濃津城の別名を持つお城です。
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- タクシー 私鉄
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戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で大名、そして歴史に残る城造りの名人だった藤堂高虎公の騎馬像です。若い頃に苦労をした共通点が、お互いを引き付け合ったのか、外様大名ながら、『譜代大名格』として、徳川家康公からは破格の処遇を受け、二代目、三代目の将軍にまで引き継がれました。結局、藤堂家は明治維新まで津藩の藩主を務めました。
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『高山公御遺訓』のタイトルがあった石碑の光景です。『寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし』の内容です。
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『藤堂高虎公』のタイトルがあった説明看板です。中央に藤堂家の家紋、緑の蔦紋がありました。弘治2年(1556年)、近江に生まれ、寛永7年(1630年)に江戸で亡くなるまでの略歴が記してありました。
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イチオシ
藤堂高虎公は、身長6尺2寸(約190センチ)、体重30貫(約110キロ)の偉丈夫だったとされます。高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多いようです。しかし、儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前とされました。主君を変えるのは、不忠でも卑しい事でもなかった時代の高虎は、己の実力だけで生き抜いてきた人です。
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藤堂高虎公の甲冑姿のズームアップ光景です。唐の官人が被る冠を模した変わり兜ですが、太閤秀吉から賜った兜と伝わります。
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『当世具足』として、制作・販売されていた藤堂高虎公の代わり兜の紹介です。甲冑全体も販売されていました。兜が30万円台、甲冑全体で80万円台でした。
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『歴史街道散策マップ・伊勢街道』のタイトルがあった説明パネルです。左上に『江戸橋』の写真と説明がありますが、津の藩主が参勤交代で江戸に向かう時、見送った場所と紹介されていました。
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津城址の本丸だったようです。時代の流れで、お城の建物は取り払われましたが、藤堂高虎の石垣の存在感は今に残されていました。
(追記)藤堂高虎を扱った文学作品には、2004年に発表された、火坂雅志さんの『虎の城』があります。残念ながら、火坂さんが2015年に58歳で早世されました。合掌。 -
お城より花見主体の見学の人も多かったようです。満開の染井吉野と、津城遺構の石垣光景です。その石垣の上から花見を楽しむ人の姿もありました。
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ずらりと並んだ満開の染井吉野の花の下には、宴席が設けてありました。花と天気に恵まれ、楽しいひと時になりそうです。
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下を向いて枝を伸ばしていた、染井吉野の花越しに眺めたあまり高く無い石垣の光景です。縄張りがわかりませんでしたが、お城の内側になるのかも知れません。
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同じく、積み直されたようにも見えた、あまり高くない石垣の光景です。水平方向にそろえられた布積ではなく、乱積の切込み接ぎのようです。5メートルは超えない高さのように見えました。
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石垣光景の紹介が続きます。外に向かって積まれた石垣は、相当の高さがあるようでした。洋書には、危険防止の柵が設けられていました。
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イチオシ
藤堂高虎得意の高石垣の光景です。手前にも石垣があり、二重の光景になっていました。天守か隅櫓か分かりませんが、その上に建物の姿はありません。4百年を超えた今にその存在感を示していました。
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津城址に茂る大木の光景です。神社の『鎮守の杜』と同じように、古木には注連縄が張られていてもおかしくないような光景です。しかし、神社以外には、『鎮守の杜』の表現は使われないようです。
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正面に『山神』を祀った3つの石と鳥居、右手に赤い鳥居が少しだけ見える光景です。その前に、満開の染井吉野の枝が伸びていました。
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イチオシ
鳥居の先の石で出来た台座に祀られた三体の石のご神体の光景です。『山神』さまです。
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台座に祀られた三体の石のご神体のズームアップ光景です。いずれにも、『山神』の文字が刻まれていました。山を守護し、あるいは支配する神様です。
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左側の石碑には、『城山稲荷大神』の文字がありました。右側の赤い鳥居は、その稲荷社のものです。
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『城山稲荷大神』の赤い鳥居のズームアップ光景です。入り組んで、鳥居の向きがわからなくなってしまいました。
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『城山稲荷神社の御由緒』のタイトルがあった立札の光景です。元は宇治山田帳にあった二八稲荷社を、明治時代にお社ごと津城址に引っ越しされた由緒などが小秋されていました。昭和20年(1945年)の空襲で全焼し、昭和44年(1969年)に再建されたことも紹介されていました。
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まだ新しい、『高山神社』の石碑です。側面に、『藤堂高虎公・入府四百年記念事業・提案者・藤堂藩五日会』の文字がありました。『藤堂藩五日会』は、旧藩士の子孫達で作られた会のようです。
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『百度石』の光景です。欄干の頭のような、擬宝珠風に加工してありました。『擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)』は、伝統的な建築物の装飾で、橋や神社、寺院の階段、廻縁の欄干の柱の上に設けられている飾りです。ネギ(葱)の花に似ていることから、『葱台(そうだい)』とも呼ばれます。
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由緒ありそうな、複数の石灯篭の光景です。格式を感じさせる外観でした。『御宝前』などの文字が刻まれていました。
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藤堂家の家紋の『蔦紋』と、『高山神社』の文字があった提灯の光景です。藤堂高虎公は、法号が『寒松院殿道賢高山権大僧都』で、『高山公』と通称されますが、神社名はそれに由来します。明治9年(1876年)の創始で、当初は安濃郡下部田村広明(現津市)八幡神社境内にありましたが、明治36年(1903年)に、津城の本丸跡に遷宮しました。
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『高山神社』の表玄関の光景です。『高山神社』は、昭和20年(1945年)の空襲で本社殿が全焼しました。その後復興しましたが、昭和44年(1949年)、公園整備のため本丸跡から南西方向の現在地の内堀埋立地に移されました。
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『高山神社』の表玄関のズームアップ光景です。勾配が緩やかな唐風の造りの銅葺屋根でした。屋根飾り等は、藤堂家の家紋の蔦紋をデザインしてあるようです。
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更にズームアップした、『高山神社』の表玄関の唐風の屋根の光景です。藤堂家の蔦紋風の飾りの中央に、金色の『蔦紋』がありました。
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手水舎の龍の給水施設のシルエット光景です。口から清水が流れ出していました。
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満開の染井吉野の花と、その周りの木々の光景です。石垣の一部も見えていました。
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