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 天正三年(1575年)五月、三河国長篠の戦いで、織田信長の鉄砲隊三千が勇猛を極めた武田勝頼の騎馬軍団を次々と射ち倒していたころ、遥か西方の備中国で、一つの一族が中国の雄毛利氏によってまさに滅びようとしていた。しかし、その一族は、信長の勧誘により長年臣従していた毛利を離反した上での滅亡であった。その一族の名は三村氏。そしてこの戦いを「天正備中兵乱」とよんでいる。 <br /><br /> この戦乱の最後を飾って、三村氏と運命をともにした一族がいる。備前国児島郡の常山城主上野隆徳である。世に「児島常山合戦」と言われるこの戦いは、天正三年六月七日に最後の時を迎え、城主の妻と従女三十四人らが敵陣に切り込み、悲惨な死を遂げた。この合戦は「常山女軍の戦い」と言う名で古今多くの人々が知るところである。 <br /><br /> 天正三年(1575年)六月四日常山城、上野隆徳は総勢六千三百の毛利勢によって完全に包囲された、落城の時がせまっていた。 三村孫兵衛尉親成は兵二千余で彦崎(灘崎町彦崎)に陣を取り、その子孫太郎親兼は迫川(灘崎町迫川)に陣を張り兵千三百で常山に向かった、また、小早川伊豆守光重は山村(倉敷市児島由加)に着陣し兵千余を二手に分け一隊を豊岡(玉野市豊岡)まで進めた、浦兵部尉宗勝は兵二千で用吉(玉野市宇藤木)に展開し小早川、浦双方の合図とともに六日朝攻撃を開始し「大手木戸」から乱入「二の丸」に攻め寄った。茂曽路側は放火され海上への退路が断たれた。 <br /><br /> 明けて、六月七日城内酒宴一族自害することを告げると、まず、五十七歳になる継母が隆徳が自刃するを見るは耐え難しと縁側の柱に刀を巻きつけ走り寄って体を貫いた。そして十五歳の子、源五郎高秀は父の介錯するが本当だか自分が後に残るは心掛だろうと腹を十文字に切った、隆徳は首を落とし、さらに、八歳になる次男を引寄せ刀を刺し通した。十六歳になる妹は鼻高城に逃れることを勧めたが母を貫いた刀で自ら胸を刺し貫いて死んだ。 <br /><br /> こうして、一族自刃の修羅場が展開する中、隆徳の妻は男に負けない武勇の持ち主で、敵一人も討たないでやすやす自害するは口惜しいと鎧を着け上帯を締め白い柄の長刀を小脇に抱えおどり出た、侍女たちも隆徳の妻に従いそれぞれ長刀を取り三十四人が敵陣の中に出ていった。敵方は女軍にはさすがに切りかかれず討ち取られていった、七百の敵勢にはあまりにも無力で次第に少なくなり隆徳の妻は浦宗勝に勝負を挑んで切り進んだ。宗勝は女性と勝負することはできないと馬上から応えると妻は父三村家親から与えられたものだと国平の大刀を投げ出し死後を弔って欲しいと言い残して城中に消えていった。 <br /><br /> その後、隆徳の妻は念仏を唱えたあと口に刀をくわえて臥して死んだ。隆徳も妻の自害の後腹を十文字に切り小日七郎が介錯し小七郎も切腹して果てた。 <br /><br /> 「常山軍記」によると、それぞれの首は鞆浦に送られたとある。 <br />

戦国哀歌、常山女軍物語で有名な常山城登城

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2009/06/20 - 2009/06/20

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吉備津彦

吉備津彦さん

 天正三年(1575年)五月、三河国長篠の戦いで、織田信長の鉄砲隊三千が勇猛を極めた武田勝頼の騎馬軍団を次々と射ち倒していたころ、遥か西方の備中国で、一つの一族が中国の雄毛利氏によってまさに滅びようとしていた。しかし、その一族は、信長の勧誘により長年臣従していた毛利を離反した上での滅亡であった。その一族の名は三村氏。そしてこの戦いを「天正備中兵乱」とよんでいる。

 この戦乱の最後を飾って、三村氏と運命をともにした一族がいる。備前国児島郡の常山城主上野隆徳である。世に「児島常山合戦」と言われるこの戦いは、天正三年六月七日に最後の時を迎え、城主の妻と従女三十四人らが敵陣に切り込み、悲惨な死を遂げた。この合戦は「常山女軍の戦い」と言う名で古今多くの人々が知るところである。

 天正三年(1575年)六月四日常山城、上野隆徳は総勢六千三百の毛利勢によって完全に包囲された、落城の時がせまっていた。 三村孫兵衛尉親成は兵二千余で彦崎(灘崎町彦崎)に陣を取り、その子孫太郎親兼は迫川(灘崎町迫川)に陣を張り兵千三百で常山に向かった、また、小早川伊豆守光重は山村(倉敷市児島由加)に着陣し兵千余を二手に分け一隊を豊岡(玉野市豊岡)まで進めた、浦兵部尉宗勝は兵二千で用吉(玉野市宇藤木)に展開し小早川、浦双方の合図とともに六日朝攻撃を開始し「大手木戸」から乱入「二の丸」に攻め寄った。茂曽路側は放火され海上への退路が断たれた。

 明けて、六月七日城内酒宴一族自害することを告げると、まず、五十七歳になる継母が隆徳が自刃するを見るは耐え難しと縁側の柱に刀を巻きつけ走り寄って体を貫いた。そして十五歳の子、源五郎高秀は父の介錯するが本当だか自分が後に残るは心掛だろうと腹を十文字に切った、隆徳は首を落とし、さらに、八歳になる次男を引寄せ刀を刺し通した。十六歳になる妹は鼻高城に逃れることを勧めたが母を貫いた刀で自ら胸を刺し貫いて死んだ。

 こうして、一族自刃の修羅場が展開する中、隆徳の妻は男に負けない武勇の持ち主で、敵一人も討たないでやすやす自害するは口惜しいと鎧を着け上帯を締め白い柄の長刀を小脇に抱えおどり出た、侍女たちも隆徳の妻に従いそれぞれ長刀を取り三十四人が敵陣の中に出ていった。敵方は女軍にはさすがに切りかかれず討ち取られていった、七百の敵勢にはあまりにも無力で次第に少なくなり隆徳の妻は浦宗勝に勝負を挑んで切り進んだ。宗勝は女性と勝負することはできないと馬上から応えると妻は父三村家親から与えられたものだと国平の大刀を投げ出し死後を弔って欲しいと言い残して城中に消えていった。

 その後、隆徳の妻は念仏を唱えたあと口に刀をくわえて臥して死んだ。隆徳も妻の自害の後腹を十文字に切り小日七郎が介錯し小七郎も切腹して果てた。

 「常山軍記」によると、それぞれの首は鞆浦に送られたとある。

同行者
一人旅
交通手段
自家用車

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