2009/05/03 - 2009/05/03
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ライオンベラーさん
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(6 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10340946/ の続きです。)
今回の旅は、1日目が磐梯山方面、2日目が福島、いわき方面、3日目が会津方面というように、ちょうど3日間で、福島県を周りきるような予定を立てていました。
でも出発直前に、この時期に米沢で上杉祭りがあることを知りました。
上杉謙信と武田信玄との川中島の戦いを再現するイベントもあるようです。
そこで急遽(きゅうきょ)、旅のコースに米沢を組み入れました。
窮屈(きゅうくつ)な日程になってしまいましたが、仕方がありません。
しかし、よく考えてみると上杉謙信は越後、武田信玄は甲州の人です。
川中島は北信濃(しなの)にあります。
どうして米沢で川中島のイベントを行なうのでしょうか?
先日NHKの”その時歴史が動いた”で、直江兼続(かねつぐ)をとり上げていました。
兼続は上杉謙信の後継者、上杉景勝の家臣です。
後の時代にその景勝が、家臣の兼続らと共に、この米沢を治めることになりました。
そしてその後、江戸時代を通してここは、謙信を開祖とする上杉家が治めてきました。
謙信の思想は、義(ぎ)を重んじるというもので、そのためここ米沢は、伝統的に、為政者(いせいしゃ)の私利私欲に流されないような、清廉潔白な政治が行わてきたようです。
そのようなことから謙信は、今でもここで人々から親しまれ、奉(たてまつ)られ続けているようです。
謙信自身はもともと米沢には縁(えん)も縁(ゆかり)もなかったので、生前には、このようなところで奉られ続けることになろうとは夢にも思わなかったに違いありません。
面白いことだと思いました。
(5月3日の旅です。)
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 自家用車 徒歩
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-
サファリパークから米沢に向かいます。
距離にすれば30kmぐらいでしょうか、それほど遠くはありません。
山形県に入るのは生まれて初めてのことなので、記念すべき瞬間ということになります。
とても楽しみです。
上杉祭りの川中島のイベントは1時半から始まります。
今、時刻は12時なので、十分に間に合う時間です。
でも、今日は米沢は、とても混雑しているように思われるので、無事に車を停めることができるかどうか心配です。 -
写真は福島県の水田風景です。
この後、国道を走ります。
山の中を走りますが、かなり広いいい道路でした。
今、調べてみると、国道13号線でした。
昔の日本で13番目に重要だった国道がこんな山の中を走っているということになります。
さらに調べてみると、この国道は福島と秋田を結んでいました。 -
また、走りながらカーナビの地図を見ると、何と”山形新幹線”という表示がありました。
ええ? こんなところに新幹線?
東北新幹線とか、上越新幹線についてはよく耳にしていたので知っていましたが、”山形新幹線”などは聞いたこともありません。
この辺りは写真のような風景が続いています。
どこを見ても新幹線の高架(こうか)のようなものは見当たりません。
地図が間違っているのでしょうか? -
何とも不可解なことです。
そもそも、山形県で一番人口の多い山形市でさえ、26万人ほどで全国でも80番目ぐらいのところで、東北地方の幹線からは離れています。
そこに新幹線が通っているとはとても信じがたいことです。
と思っているうちにいつの間にか地図上の新幹線の軌道を横切っていました。
でもそのときは、それらしきものはまったく見当たりませんでした。
まるでキツネにつままれたような気持ちでした。 -
米沢に近づくと、臨時駐車場の表示がありました。
会場からはだいぶ遠いようなので迷いましたが、とにかく行ってみることにしました。
何人かの人が車を誘導していました。
尋ねてみると、市街に入ると駐車場は空いていないだろうということなので、ここで停めることにしました。
おお、何と、ここはシャトルバスの発着場でした。
時間的に遅いかなと思いましたが、たくさんの人が並んでいたので、まだ間に合うのかも知れません。 -
私も並びました。
バスはJR米沢駅行きでした。
駅までは、10数分ぐらいの距離でした。
駅に着くと、案内板を持っている人たちがいました。
どうやら陸橋を渡って反対側にでるようです。
写真はその陸橋の上から見た駅ホームの様子です。
北向きです。 -
後で調べると、何とここは新幹線が停車するので、在来線も線路幅はそれに合わせて広軌(こうき)になっているようです。
写真はJR米沢駅です。
北東向きです。 -
JR米沢駅です。
-
駅前通です。
北西向きです。
たくさんの人が、上杉祭りの会場に向かっています。
川中島のイベントは、ここから西へ600〜700mほど行ったところにある河川敷(かせんじき)で行われます。
市の中心街はさらにその西です。 -
大急ぎで歩いていくと、5〜6分で会場の川原に着きました。
時刻は1時20分。
イベントの開始は1時30分なので、何とか間に合ったようです。
たくさんの人が集まっていました。
対岸が正面で、そちらに有料観覧席などがあるようです。 -
鯉(こい)のぼりなんかもあって、季節を感じさせてくれます。
-
どうやらこの辺りが武田方の陣(じん)のようです。
川中島の戦いは1653年から1664年にかけて、12年間で合戦(かっせん)が5回あったようです。
今日再現されるのはその中の第四次の戦いで、1961年に行われたものです。
双方で3万3千人の人たちが戦って、7千人もの死者が出たという、壮絶な合戦だったようです。 -
この合戦のとき、武田信玄は40歳でした。
川中島のある北信濃(長野県北部)の攻略を目指していました。
駿河(静岡県)の今川や相模(神奈川県)の北条と同盟を結んでいたので、ここに2万の大軍を送り込むことができました。
今川義元は、この前年に既に織田信長に討たれていましたが、北条氏康は、氏政に家督を譲った頃で、まだ十分な勢力を保っていました。
しかし、この合戦の後、信玄はこの同盟を破棄(はき)し、今川や北条を攻めることになります。 -
この部分はロープを張って、道を空けてあります。
どうやらここを兵士たちが渡っていくようです。 -
南西向きです。
JR米沢駅はこの写真の右後方の向きで、ここから600〜700mのところです。
そこからここまで歩いて来ました。
米沢の中心街はこの写真の右手後方です。
是非行ってみたいのですが、この後、また福島を周らなければならないので、行くことができません。
せっかくここまで来たのでとても残念ですが、仕方がありません。 -
今年のNHKの大河ドラマの「天地人」は、上杉景勝の家臣の直江兼続が主人公のようです。
しかし、この時は「天地人」の読み方も自信がありませんでした。
確か、テレビでは「てんちじん」と読んでいたようにも思うのですが違うかもしれません。
、「天下人」は「てんかびと」と読むので、「てんちびと」と、読むのかも知れません。
いや、もしかすれば「あまじびと」とか「あめじにん」かも知れません。
本当は何とよむのでしょうか? -
何と、今ここに、そのテレビドラマの主役の俳優が男女、一人ずつ来ているようです。
ということは、ここ米沢もドラマの舞台になるのでしょうか。
いい時期に、いいところへ来たようです。 -
北西向きです。
この橋を右に進めばJR米沢駅、左に進めば米沢市街です。 -
川のこちら側にもたくさんの人がいます。
-
橋の上から見ている人たちもいます。
米沢市街はこの向きです。 -
山形市はこの写真の右外辺りの向きで、ここから30〜40kmほど離れています。
新幹線で、30〜40分ほどかかるようです。
山形県を訪れるのは今回が初めてです。
東北地方は2度目ですが、前回は職場の旅行で仙台城、松島、平泉などを訪れました。
福島に訪れるのも今回が初めてでした。 -
鯉のぼりがきれいです。
-
テレビ用でしょうか、こんなところから撮影しています。
-
この映像が地域のニュースに流れるのでしょう。
また、祭りの記録として保存されるのかも知れません。 -
こちらは上杉軍です。
南向きです。
後で調べてわかったことですが、何と何と、この川中島で戦った上杉軍の生き残りやその子孫たちが、上杉景勝と一緒に、この米沢に移り住むことになるようです。
ということはこの上杉兵たちが、ここ米沢で武士階級だった人たちの祖先ということになります。
なるほど、それでこんなところで、遠くの川中島の戦いを再現しているのですね。 -
この合戦のとき、上杉謙信は31歳でした。
武田信玄は40歳だったので、9歳ほど年下だったということになります。
ということは、謙信は23歳の頃から35歳までの12年間、武田信玄と川中島で戦っていたということになります。 -
謙信は幼少時に寺で育てられ、僧侶から仏の教えを学びました。
しかし、世は戦国時代です。
戦国武将の子として生まれた謙信にとっては、戦(いくさ)に勝ち抜くしか、生きる道はありません。
そこで、仏の教えと戦いによる殺戮(さつりく)を結びつけるものとして見出したのが、毘沙門天(びしゃもんてん)でした。
毘沙門天は日本では、仏を守るために邪気(じゃき)と戦うジハード(聖戦)の神として信仰されていました。
毘沙門天を信仰し、自らを毘沙門天になぞらえることに -
よって、戦での殺戮(さつりく)を正当化しようとしたのかも知れません。
他の多くの武将が、自分の一族の繁栄(はんえい)のために戦ったのに対して、謙信は身内の利害を超えた、世の中の正義のために戦った、この時代としては稀(まれ)な人物であったようです。
現在であれば、正義のために戦うアニメのヒーローのようなものでしょうか。
この時代に、僧侶や神官ではなくて、武将として、そのような清廉潔白(せいれんけっぱく)な人が実在したということは、とても驚くべきことではないでしょうか。
(室町幕府体制での自分の地位を守るために、新興勢力 -
の戦国大名たちと戦っていたいう見方もできるかも知れませんが、結局、謙信の残した家訓などを見ると、邪心(じゃしん)を嫌っていたということは確かなようです。)
この太鼓の左側に特設ステージがあって、そのずっと左が上杉陣です。
武田陣はこの太鼓のずっと右の方です。
実際には、到着してから10分ほどしか経っていませんが、ずい分長い時間待ったような気がします。
さあ、そろそろ始まるようです。 -
こちらは武田陣です。
市長や県知事の挨拶(あいさつ)が終わった後、大河ドラマの主役の俳優たちが、車に乗ってやってきました。
男女一人ずつです。
インタビューが終わった後、いよいよ合戦のイベントが始まりました。 -
これは武田信玄でしょうか、ナレーションで何やら説明していました。
実際の戦闘ではこの戦いで7千人もの人が死んでいきます。
考えただけでも背筋が寒くなってきます。
だんだん緊張してきました。
写真の右の塀(へい)のようなものの裏側がステージで、そこでゲストが挨拶をしていたようです。 -
話はどんどん進んでいるようですが、戦いはまだ始まりません。
この後、福島を周らなければならないので、少し焦(あせ)ってきました。 -
どうやら武田軍が梅津城に入ったようです。
1561年、8月29日のことでした。
上杉軍は、既に8月16日に妻女山に布陣しています。
実際の川中島では、この川を千曲川とすれば、梅津城も妻女山も川のこちら側にあります。
つまりこの場面では、両軍ともにこの川を渡って、こちら側に布陣していなければなりません。
妻女山と梅津城とは2kmほど離れていました。
兵の数は上杉軍が1万3千、武田軍が2万です。 -
このときは実戦での正確な人数は知らなかったので、とりあえず武田軍は1万人としてイメージしてみました。
ざっと数えてみると、ここにいる武田軍役の人たちは500人ほどでした。
ということは、この500人を向こう向きに2倍して、さらにそれを川に沿って10倍すると1万人になります。
後で調べると、実際には武田軍は、その2倍の2万人だったようです。
そして、そのうちの4千人が亡くなっているので、ここにいる人たちの8倍の数の人たちが、この戦いで亡くなったということになります。 -
その様子を想像しただけでも、ぞっとします。
実に凄惨(せいさん)な状況だったに違いありません。
実際の川中島では、2km隔てた梅津城と妻女山で、両軍合わせて3万3千もの兵が、10日間以上もにらみ合いを続けていました。 -
先に行動を起こしたのは武田軍の方でした。
8月9日の深夜、2万人の中の1万2千人が、そっと梅津城を出て、妻女山の後ろに回りこみました。
この川原でも、実際に数十〜百人ほどの人たちが、あの赤い隊列を離れて、後ろの道から橋を渡って、こちらにやってきました。
その武田兵役の人たちは、私たちのいるこの土手を通って、川原に降りていきました。 -
これは、武田の軍師、山本勘助が考えたといわれている作戦で、俗に言う「啄木鳥(きつつき)作戦」です。
別働隊が啄木鳥のように突然、喚声(かんせい)をあげて攻め込んで、上杉軍を妻女山から飛び出させます。
武田の本隊8千は、川中島と呼ばれる平地で待ち構えていて、降りてくる上杉軍を、1万2千の別働隊と、挟み撃ちにしようというものです。
実際の合戦では、この場面で武田の本隊は、この川を渡って、対岸の川中島に移動することになります。
(このイベントでは、既に川を渡ってしまっています。) -
この時点では、武田軍本隊8千は川の向こうの川中島に、上杉軍の本隊1万3千は、川のこちら側の妻女山に布陣していることになります。
そして、その後ろに武田軍の別働隊1万2千がそっと迫って来ています。
このまま夜が明ければ、この別働隊が攻撃を仕かけ、上杉軍は慌(あわ)てて妻女山を降りて、この千曲川を渡って、対岸の川中島へ逃げ込むはずです。
そして、そこで待ち構える武田本隊8千が、別働隊1万2千とともに、川中島に逃げ込む1万3千の武田軍を挟み撃ちにすることになっています。 -
上杉敗北のシナリオは着々と進んでいました。
ところが・・・
謙信はその日の武田軍の飯を炊く煙が何時になく多いことに気がつきました。
もしかして、弁当用の握り飯の分まで炊いているのではないだろうか・・・?
ということは、敵が何やら行動を起こそういとしているに違いない。
もしかすれば、別働隊がここに回り込んで来るのかも知れない・・・ -
謙信は、全軍に、武田軍に悟(さと)られないように、静かにこの山を降りる命令を下しました。
上杉軍1万3千は、夜の闇(やみ)にまぎれて、そっとこの妻女山を後にしました。
そして、対岸の川中島目指して、千曲川を渡りました。
♪ 便静(べんせい)〜粛宿(しゅくしゅく)〜、夜〜、川を渡る〜・・・
そして、武田軍8千が眠る川中島に上陸して、そっと陣を整えました。 -
朝、霧が晴れると、武田軍の目の前には、今、妻女山にいるはずの上杉軍が姿を現しました。
1561年、9月10日、こうして歴史に残る大合戦、第四次川中島合戦の火蓋(ひぶた)が切られました。
この米沢の川原では、いろいろなエピソードのようなことも交えながら、ここまでの話が、じつにゆっくりと展開されていきました。
私は、少しでも早く福島に戻らなければならないのに、気持ちは焦るばかりです。
時刻は2時を回りました。 -
あ、カメラの電池が切れてしまいました!
まだまだ大丈夫だろうと思っていたので、予備は車の中に置いてきました。
あああ、残念!
この後、延々と話を引き伸ばされた後、ようやく合戦が始まりました。
私も忍耐力には自信がありましたが、この東北地方の人たちの我慢強さには完全に負けたと思いました。
こちらに来ていた武田の別働隊もようやくこの川を渡って行きました。 -
あ、試しにシャッターを切ってみると、何とか1枚だけ撮ることができました。
この前の写真を撮ったのは2時5分、この写真を撮ったのは3時です。
戦いはこの間、延々1時間も続いていることになります。
この戦いが終わってしまえば、道もシャトルバスも大混雑でしょう。
兵士が川を渡ったのを見届けたので、すぐに、駅に急ぐことにしました。
ほいさ、ほいさ、・・・と急ぎました。 -
途中で、団子のようなものを買って食べてから、駅に着きました。
シャトルバスは、運よく一台目に乗れました。
降り口近くに立って、着けばすぐに降りました。
車に急ぎました。
さあ、これから福島に戻ります。
時刻は4時50分です。
予定では、この後、相馬からいわきを周ります。 -
強行スケジュールですが、明日は会津を周るので仕方がありません。
福島から相馬に向かいました。
時刻は5時半になろうとしています。
陽が暮れるまでに、少しでも太平洋側を見ておきたいと思いました。 -
結局、昼食を食べる時間がなくて、昼は米沢で買った団子しか食べていません。
仕方がないので、くまたぱんを食べることにしました。
ザリッザリッ・・・
おえっ〜〜!
ああああ、あっま〜い!
おえっ〜〜! おえっ〜〜! -
相馬市に着きました。
もう、6時になろうとしています。
ここは相馬野馬追(そうまのまおい)という行事で昔から有名なので、どんなところか一度は訪れてみたいと思っていました。
でも、普通のこじんまりした町でした。
どこかにそれらしき案内はないかと思って探したけれども何も見当たりませんでした。
とりあえずは神社があったので行ってみました。
このような橋がかかっていました。 -
橋を渡ります。
-
八重桜が咲いていました。
-
八重桜です。
-
相馬神社です。
特に特別な謂(いわ)れのようなものはなさそうです。
昔はここに城があったようで、その城主の相馬氏に関係のある神社のようです。
近くに中村神社という神社もあるようでしたが、時間がないので、ここだけにしておきました。
中村神社の方が由緒(ゆいしょ)があったかも知れません。 -
相馬神社です。
-
藤の花が見事でした。
-
とうとう陽が暮れてしまいました。
結局、相馬野馬追のメイン会場は、相馬市ではなくて、その南の南相馬市にあったようです。
でも、もう遅いので、そのまま南相馬市を通り過ぎました。
有名な祭りの会場を見ておこうと思ってここまで来たのに残念でした。
国道6号線を南下しています。
6号線も東京で歩いた懐かしい国道です。 -
このまま走り続ければそこに着くと思うと、実際に行ってみたいような気持ちになりました。
Jビレッジに寄ってみました。
ここは、サッカーのJリーグのチームも使うような合宿施設です。
大きな練習用のグラウンドが何面もあるようなところです。
時間的には遅いですが、とりあえず行ってみることにしました。 -
ここからロビーに入ります。
とにかく入ってみると、巨大な宿泊施設のようなところでした。
案内パンフレットをもらって出てきました。
設備を見ることができなくて残念でした。
時刻は7時40分です。 -
塩屋崎灯台です。
8時半です。
残念ながら夜は、灯台まで上がることはできませんでした。 -
岩山の上にあるので、荘厳(そうごん)な様子でした。
昼間は、この灯台の上まで登れるようです。
川中島のイベントがもう1時間も早く終わっていたら、この辺りの風景も見ることができたのにと思うと残念でした。 -
小名浜港にやって来ました。
漁船です。
ここは”いわき・ら・ら・ミュウ”という物産販売の施設や、環境水族館アクアマリン福島、いわきマリンタワーなどがあります。
魚介類もとても美味しそうですが、もうすぐ9時になろうとしているので、早く帰らなければなりません。 -
”ら・ら・ミュウ”の近くに船が泊まっていました。
-
船です。
-
いわきマリンタワーが青く輝いています。
-
”環境水族館アクアマリン福島”です。
-
”アクアマリン福島”です。
9時を回りましたが、とにかく心残りないように、最初に予定していたところはすべて行ってみて、納得することにしました。 -
”いわき市石炭・化石館”にやって来ました。
本当はここも、行きたかったところだけど、とにかくここへ来たというだけでも納得(なっとく)して、満足することにしましょう。
時刻は9時40分です。 -
さあ、最後の立ち寄り地、スパリゾートハワイアンです。
ここは、日本で一番広い露天風呂があるということで、やってきました。 -
ハワイアンです。
ちょうど10時になりました。
せっかくなので露天風呂に入って帰ろうかとも思いましたが、そうすると帰ると12時を過ぎてしまうので、明日も周るところがたくさんあるので、あきらめて帰ることにしました。
ここを題材にした映画が流行(はや)っていたということなので、機会があれば、いつか是非見てみたいとおもいました。
ここから、カーナビをセットして、郡山のホテルに急ぎました。
到着すると、まだ11時台だったので、郡山のチェーン店で丼(どんぶり)を食べて帰りました。
米沢に行ったので、とても窮屈(きゅうくつ)な日程でしたが、とりあえずは、いわき地方も立ち寄ることができたので、これでよしとしておきましょう。
明日は会津だけなので、ゆっくりと周れるでしょう。
明日も楽しみです。
(8 石炭・化石館と塩屋崎灯台 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10342776/ へ続く)
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