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そして、筑波山神社に来ました。今回は、ロープウェイで上までは登る気なし(笑)<br /><br />平日ですが、観光の人が多かったです。ほとんどがケーブルカーで戻ってきた人みたいでしたが。。。<br /><br />筑波山神社は、古くから山岳信仰の対象とされてきた筑波山を境内としています。男体山・山頂に筑波男大神(伊弉諾尊・イザナギノミコト)を、女体山・山頂に筑波女大神(伊弉冉尊・イザナミノミコト)を祀る本殿が建てられています。拝殿が、今紹介している場所に鎮座します。<br /><br />まずは御神橋がお出迎え。

筑波山神社。

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2007/11/13 - 2007/11/13

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フロッガー

フロッガーさん

そして、筑波山神社に来ました。今回は、ロープウェイで上までは登る気なし(笑)

平日ですが、観光の人が多かったです。ほとんどがケーブルカーで戻ってきた人みたいでしたが。。。

筑波山神社は、古くから山岳信仰の対象とされてきた筑波山を境内としています。男体山・山頂に筑波男大神(伊弉諾尊・イザナギノミコト)を、女体山・山頂に筑波女大神(伊弉冉尊・イザナミノミコト)を祀る本殿が建てられています。拝殿が、今紹介している場所に鎮座します。

まずは御神橋がお出迎え。

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  • まずは御神橋がお出迎え。<br /><br />この橋は、寛永10年11月(1633)に徳川三代将軍・家光によって寄進された物です。元禄15年6月(1703)には五代将軍・綱吉によって改修されました。安土桃山時代の飾風の艶やかな造りです。徳川家との縁は、天正18年に徳川家康が江戸城に入城された折、筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇められたことによると伝えられています。この橋は。春と秋の御座替祭(4/1・11/1)と年越祭(2/10・11)にだけ参拝者の渡橋が可能になっています。

    まずは御神橋がお出迎え。

    この橋は、寛永10年11月(1633)に徳川三代将軍・家光によって寄進された物です。元禄15年6月(1703)には五代将軍・綱吉によって改修されました。安土桃山時代の飾風の艶やかな造りです。徳川家との縁は、天正18年に徳川家康が江戸城に入城された折、筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇められたことによると伝えられています。この橋は。春と秋の御座替祭(4/1・11/1)と年越祭(2/10・11)にだけ参拝者の渡橋が可能になっています。

  • 境内では菊花祭が24日まで催されています。

    境内では菊花祭が24日まで催されています。

  • 拝殿から随神門を。<br /><br />随神門は寛永10年11月、こちらも家光の寄進によります。宝暦4年(1757)には焼失してしまい再建されますが明和4年(1767)には再焼失。文化8年に再建されました。<br />

    拝殿から随神門を。

    随神門は寛永10年11月、こちらも家光の寄進によります。宝暦4年(1757)には焼失してしまい再建されますが明和4年(1767)には再焼失。文化8年に再建されました。

  • 随神門。

    随神門。

  • 拝殿へ。

    拝殿へ。

  • 拝殿左手には日枝神社・春日神社があります。見ざる・言わざる・聞かざるが彫られていますが、近くには行けません。。。

    拝殿左手には日枝神社・春日神社があります。見ざる・言わざる・聞かざるが彫られていますが、近くには行けません。。。

  • 御神木。

    御神木。

  • そして大御堂へ。<br /><br />大御堂は真言宗豊山派に属します。坂東三十三箇所霊場・25番札所の筑波山大御堂(中禅寺)は正式には『知足院大御堂』。本尊は「千手観世音菩薩」。開基は徳一上人と言われ、創立は延暦元年(782)になります。弘仁年間(810〜824)には弘法大師によって真言密教の霊場とされていました。明治の神仏分離令が出るまでは筑波山神社と大御堂とは同体とされていました。

    そして大御堂へ。

    大御堂は真言宗豊山派に属します。坂東三十三箇所霊場・25番札所の筑波山大御堂(中禅寺)は正式には『知足院大御堂』。本尊は「千手観世音菩薩」。開基は徳一上人と言われ、創立は延暦元年(782)になります。弘仁年間(810〜824)には弘法大師によって真言密教の霊場とされていました。明治の神仏分離令が出るまでは筑波山神社と大御堂とは同体とされていました。

  • 境内には病気を防ぐ祈り石が置かれています。6氏の手とともに。

    境内には病気を防ぐ祈り石が置かれています。6氏の手とともに。

  • 厳島神社。

    厳島神社。

  • 楠正成の孫(正成の三男・正儀の長男)であり、南北朝時代に名を馳せた楠一族の1人である楠正勝ですが、本拠地は河内の国(大阪)だったと言われています。<br /><br />生年及び没年共に詳細は不明とされ、父正儀の死後は弘和二年(1382)、山名氏と土丸城攻防を演じ、元中5年(1388)には山名氏清と戦っています。同年に足利義満が南紀に歴遊したのを狙って、弟の正秀と謀り、義満を攻撃しようとしましたが密告者が出て失敗します。元中9年(1392)、足利義詮の和議申し入れを拒否したために義詮は大軍を千早城に差し向け総攻撃を行い、陥落させました。<br /><br /><br />千早城陥落後に正勝は十津川に逃げ延びて以後再び千早城に戻ることはありませんでしたが、正勝・正秀兄弟は南北朝統一後の応永6年(1399)に大内義弘に組することによって、堺で足利軍と戦い完敗しています。それ以後の正勝の消息は不明とされていて、十津川で亡くなったとの説と共に、摂津の西光寺(定専坊)に隠棲したという説が出ています。実際、本墓とされているのは大阪市東淀川区豊里町の定専坊です。常陸の地に来ていた史実もあるそうで、ここのお墓は。。。((+_+))<br />

    楠正成の孫(正成の三男・正儀の長男)であり、南北朝時代に名を馳せた楠一族の1人である楠正勝ですが、本拠地は河内の国(大阪)だったと言われています。

    生年及び没年共に詳細は不明とされ、父正儀の死後は弘和二年(1382)、山名氏と土丸城攻防を演じ、元中5年(1388)には山名氏清と戦っています。同年に足利義満が南紀に歴遊したのを狙って、弟の正秀と謀り、義満を攻撃しようとしましたが密告者が出て失敗します。元中9年(1392)、足利義詮の和議申し入れを拒否したために義詮は大軍を千早城に差し向け総攻撃を行い、陥落させました。


    千早城陥落後に正勝は十津川に逃げ延びて以後再び千早城に戻ることはありませんでしたが、正勝・正秀兄弟は南北朝統一後の応永6年(1399)に大内義弘に組することによって、堺で足利軍と戦い完敗しています。それ以後の正勝の消息は不明とされていて、十津川で亡くなったとの説と共に、摂津の西光寺(定専坊)に隠棲したという説が出ています。実際、本墓とされているのは大阪市東淀川区豊里町の定専坊です。常陸の地に来ていた史実もあるそうで、ここのお墓は。。。((+_+))

  • 厳島神社は、祭神・市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。こちらも寛永10年、家光の寄進です。<br />琵琶湖の竹生島より御分霊を分祀しています。

    厳島神社は、祭神・市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。こちらも寛永10年、家光の寄進です。
    琵琶湖の竹生島より御分霊を分祀しています。

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