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信長公の出世城である、清洲城紹介の続きです。織田信長・信忠父子亡き後の清洲城主は、信長の次男信雄、豊臣秀次(関白)、福島正則、松平忠吉(家康の四男)、徳川義直(家康の九男)と代わりました。当時の為政者にとって重要な清洲城でした。

2009春、桜の季節の清洲城(3/5):模擬天守、天守台の石垣、高麗門、石庭、木賊、茶室

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2009/04/05 - 2009/04/05

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旅行記グループ 2009春、桜の季節の清洲城

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

信長公の出世城である、清洲城紹介の続きです。織田信長・信忠父子亡き後の清洲城主は、信長の次男信雄、豊臣秀次(関白)、福島正則、松平忠吉(家康の四男)、徳川義直(家康の九男)と代わりました。当時の為政者にとって重要な清洲城でした。

交通手段
JRローカル

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  • 歴代城主の名前を見ても、当時の為政者にとって重要な清洲城だったことが分かります。初代から、清州越しで廃城されるまでの七代の城主は、①織田信長、②織田信忠、③織田信雄、④羽柴秀次、⑤福島正則、⑥松平忠吉、最後が⑦徳川義直です。徳川家康の9男の義直は、清州越しのあと、初代の名古屋城主になりました。

    イチオシ

    歴代城主の名前を見ても、当時の為政者にとって重要な清洲城だったことが分かります。初代から、清州越しで廃城されるまでの七代の城主は、①織田信長、②織田信忠、③織田信雄、④羽柴秀次、⑤福島正則、⑥松平忠吉、最後が⑦徳川義直です。徳川家康の9男の義直は、清州越しのあと、初代の名古屋城主になりました。

  • 斜め前から見上げた模擬天守の光景です。信長が本能寺の変で斃れたあと、跡目を巡っての会議が開かれたのも清洲城でした。史上有名な『清州会議』です。天正10年6月27日(1582年7月16日)に開かれた、織田氏の継嗣問題と領地再分配に関する会議でした。集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人です。滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席しました。一番の争点は、織田家の後継者問題です。信長の三男・織田信孝(欠席)を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立する羽柴秀吉との対立が起きました。

    斜め前から見上げた模擬天守の光景です。信長が本能寺の変で斃れたあと、跡目を巡っての会議が開かれたのも清洲城でした。史上有名な『清州会議』です。天正10年6月27日(1582年7月16日)に開かれた、織田氏の継嗣問題と領地再分配に関する会議でした。集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人です。滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席しました。一番の争点は、織田家の後継者問題です。信長の三男・織田信孝(欠席)を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立する羽柴秀吉との対立が起きました。

  • 模擬天守の下階の光景です。『清州会議』での後継者争いは、秀吉が光秀討伐の功労者であることで主導権を握りました。長秀らの支持や、三男であり神戸氏へ養子に出ている信孝よりも血統的な正統性が強いことで、三歳の三法師が後継者として決まり、織田信孝はその後見人とされました。

    模擬天守の下階の光景です。『清州会議』での後継者争いは、秀吉が光秀討伐の功労者であることで主導権を握りました。長秀らの支持や、三男であり神戸氏へ養子に出ている信孝よりも血統的な正統性が強いことで、三歳の三法師が後継者として決まり、織田信孝はその後見人とされました。

  • 正面から見上げた模擬天守の光景です。領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝は、明智光秀の旧領である丹波国を相続しました。

    正面から見上げた模擬天守の光景です。領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝は、明智光秀の旧領である丹波国を相続しました。

  • 同じく、正面から見上げた模擬天守の光景です。家臣団への領地配分は、柴田勝家に越前国を安堵の上で、勝家の希望で秀吉の領地である長浜城と北近江三郡の割譲が認められ、長浜城は養子の柴田勝豊に与えられました。丹羽長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の二郡を、恒興は摂津国から三郡を、それぞれ加増されました。新当主である三法師は、近江国坂田郡と安土城を相続し、秀吉には山城国が与えられました。

    同じく、正面から見上げた模擬天守の光景です。家臣団への領地配分は、柴田勝家に越前国を安堵の上で、勝家の希望で秀吉の領地である長浜城と北近江三郡の割譲が認められ、長浜城は養子の柴田勝豊に与えられました。丹羽長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の二郡を、恒興は摂津国から三郡を、それぞれ加増されました。新当主である三法師は、近江国坂田郡と安土城を相続し、秀吉には山城国が与えられました。

  • 正面入口に向かって右側になる、模擬天守の側面光景です。平成元年(1989年)に建造された、RC構造の望楼型三重四階建ての模擬天守です。RC構造は、鉄筋コンクリート構造の略称です。

    正面入口に向かって右側になる、模擬天守の側面光景です。平成元年(1989年)に建造された、RC構造の望楼型三重四階建ての模擬天守です。RC構造は、鉄筋コンクリート構造の略称です。

  • 模擬天守の石垣光景です。元々、天守があった場所ではありませんから、現代になって近代工法で積まれたもののようです。ウチコミハギ(打ち込み接ぎに近い積み方のようです。

    イチオシ

    模擬天守の石垣光景です。元々、天守があった場所ではありませんから、現代になって近代工法で積まれたもののようです。ウチコミハギ(打ち込み接ぎに近い積み方のようです。

  • 天守に付属する門の光景です。清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなどの変化が起きました。この時の対立が翌年の天正11年(1583年)の(賤ヶ岳の戦い)に繋がり、秀吉の天下統一へと向かいました。

    天守に付属する門の光景です。清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなどの変化が起きました。この時の対立が翌年の天正11年(1583年)の(賤ヶ岳の戦い)に繋がり、秀吉の天下統一へと向かいました。

  • 『茶席』の立看板があった建物光景です。本丸御殿化と勘違いするような、銅葺き屋根の立派な建物です。『賤ヶ岳の戦い』は、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた、織田勢力を二分する羽柴秀吉と柴田勝家との戦いです。

    『茶席』の立看板があった建物光景です。本丸御殿化と勘違いするような、銅葺き屋根の立派な建物です。『賤ヶ岳の戦い』は、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた、織田勢力を二分する羽柴秀吉と柴田勝家との戦いです。

  • 石庭腰に眺めた茶席の建物光景です。『賤ヶ岳の戦い』の続きです。天正11年(1583年)3月12日(5月3日)、柴田勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させました。一方、一益が籠る長島城を包囲していた秀吉は、織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日(5月10日)には、5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣しました。暫くは睨み合いです。

    石庭腰に眺めた茶席の建物光景です。『賤ヶ岳の戦い』の続きです。天正11年(1583年)3月12日(5月3日)、柴田勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させました。一方、一益が籠る長島城を包囲していた秀吉は、織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日(5月10日)には、5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣しました。暫くは睨み合いです。

  • 戦線は膠着し、3月27日(5月18日)、秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の二方面に備えました。更に、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出したことで、秀吉は近江、伊勢、美濃の三方面作戦を強いられました。<br />秀吉は翌4月17日(6月7日)美濃に進軍しましたが、揖斐川の氾濫により大垣城に入りました。秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は、4月19日(6月9日)、佐久間盛政に大岩山砦を攻撃させ、陥落させました。<br />4月20日(6月10日)、劣勢と判断した賤ヶ岳砦の秀吉軍の守将の桑山重晴は撤退を開始しましたが、計らずも琵琶湖を船で渡った丹羽長秀軍と合流でき、賤ヶ岳周辺の佐久間盛政の軍勢を撃破し、間一髪で賤ヶ岳砦を守りました。<br />

    戦線は膠着し、3月27日(5月18日)、秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の二方面に備えました。更に、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出したことで、秀吉は近江、伊勢、美濃の三方面作戦を強いられました。
    秀吉は翌4月17日(6月7日)美濃に進軍しましたが、揖斐川の氾濫により大垣城に入りました。秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は、4月19日(6月9日)、佐久間盛政に大岩山砦を攻撃させ、陥落させました。
    4月20日(6月10日)、劣勢と判断した賤ヶ岳砦の秀吉軍の守将の桑山重晴は撤退を開始しましたが、計らずも琵琶湖を船で渡った丹羽長秀軍と合流でき、賤ヶ岳周辺の佐久間盛政の軍勢を撃破し、間一髪で賤ヶ岳砦を守りました。

  • 4月20日(6月10日)、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返しました。木ノ本までの丘陵地帯を含む52キロを僅か5時間で移動する。いわゆる『美濃大返し』です。秀吉は、賤ヶ岳へと通じる村々に炊き出しと松明の用意を命じ、機敏に移動できる体制を整えました。翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された佐久間盛政は奮闘し、秀吉は柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、両軍は激戦となりました。ところが、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱しました。理由は諸説あります。勝家軍は、秀吉軍の前に総崩れとなり、北庄城(福井県福井市)へ退却しました。<br />4月23日(6月13日)、北庄城は落城し、柴田勝家とその妻お市の方は、3人の娘を残して自害しました。<br />

    4月20日(6月10日)、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返しました。木ノ本までの丘陵地帯を含む52キロを僅か5時間で移動する。いわゆる『美濃大返し』です。秀吉は、賤ヶ岳へと通じる村々に炊き出しと松明の用意を命じ、機敏に移動できる体制を整えました。翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された佐久間盛政は奮闘し、秀吉は柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、両軍は激戦となりました。ところが、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱しました。理由は諸説あります。勝家軍は、秀吉軍の前に総崩れとなり、北庄城(福井県福井市)へ退却しました。
    4月23日(6月13日)、北庄城は落城し、柴田勝家とその妻お市の方は、3人の娘を残して自害しました。

  • トクサ(砥草、木賊)です。茎はガラス質のケイ酸を多く含み、ざらざらしています。ケイ素は岩石やガラスの主要成分です。これを乾燥させて砥石のようにものを磨くのに使いました。以前は、木工品などを磨くのによく用いられていました。爪を磨くのにも用いたようです。同じトクサ科には、つくしんぼでしられるスギナがあります。

    トクサ(砥草、木賊)です。茎はガラス質のケイ酸を多く含み、ざらざらしています。ケイ素は岩石やガラスの主要成分です。これを乾燥させて砥石のようにものを磨くのに使いました。以前は、木工品などを磨くのによく用いられていました。爪を磨くのにも用いたようです。同じトクサ科には、つくしんぼでしられるスギナがあります。

  • 『茶席』の立看板があった建物の庭の光景です。見学はしませんでしたが、立派な庭があるようでした。

    『茶席』の立看板があった建物の庭の光景です。見学はしませんでしたが、立派な庭があるようでした。

  • 模擬天守前の石庭とその先にあった門構えの光景です。門は高麗門と呼ばれる造りのようです。高麗門は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門とされます。屋根を小振りにして、守備側の死角を減らす工夫が施された門です。大手橋に正対しています。

    模擬天守前の石庭とその先にあった門構えの光景です。門は高麗門と呼ばれる造りのようです。高麗門は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門とされます。屋根を小振りにして、守備側の死角を減らす工夫が施された門です。大手橋に正対しています。

  • 再び天守の光景に戻ります。随分と幅広く迫り出した建物の底面に設けられた、石落しの光景です。『塵落とし(ちりおとし)』の呼び方もあります。

    再び天守の光景に戻ります。随分と幅広く迫り出した建物の底面に設けられた、石落しの光景です。『塵落とし(ちりおとし)』の呼び方もあります。

  • 同じく、石落しのズームアップ光景です。開いた穴から石や煮え湯を落とすより、むしろ弓や槍が使用されたようです。

    同じく、石落しのズームアップ光景です。開いた穴から石や煮え湯を落とすより、むしろ弓や槍が使用されたようです。

  • 城の守りを固めるため、火矢などに耐えるように漆喰で固めた軒下の光景です。模擬天守は外観での模擬ですから、漆喰は使ってないかもしれません。

    城の守りを固めるため、火矢などに耐えるように漆喰で固めた軒下の光景です。模擬天守は外観での模擬ですから、漆喰は使ってないかもしれません。

  • 軒丸瓦と軒下の漆喰塗りの光景です。軒丸瓦の紋所は、周りに16個の星がある三つ巴でした。信長の紋所で一番有名なものは木瓜(織田木瓜)です。尾張守護の斯波氏より拝領した紋所とされます。揚羽蝶や永楽通宝も使用しました。

    軒丸瓦と軒下の漆喰塗りの光景です。軒丸瓦の紋所は、周りに16個の星がある三つ巴でした。信長の紋所で一番有名なものは木瓜(織田木瓜)です。尾張守護の斯波氏より拝領した紋所とされます。揚羽蝶や永楽通宝も使用しました。

  • 天守に向かって左手の真下付近から見上げた模擬天守の光景です。幾何学模様になった軒下の光景です。

    天守に向かって左手の真下付近から見上げた模擬天守の光景です。幾何学模様になった軒下の光景です。

  • 庭木を手前に入れて、斜め前から見上げた模擬天守の光景です。

    庭木を手前に入れて、斜め前から見上げた模擬天守の光景です。

  • 模擬天守の最上階と、その上の広がる青空の光景です。飛行機雲がありました。名古屋空港の離発着機のようです。

    模擬天守の最上階と、その上の広がる青空の光景です。飛行機雲がありました。名古屋空港の離発着機のようです。

  • 模擬天守の石垣光景です。ウチコミハギ(打ち込み接ぎ)の石積のようです。石の形は様々ですが、表面は凹凸をなくして、揃えてありました。

    模擬天守の石垣光景です。ウチコミハギ(打ち込み接ぎ)の石積のようです。石の形は様々ですが、表面は凹凸をなくして、揃えてありました。

  • 清洲城での歴史上重要な出来事の一つに、織田信長と徳川家康の『清洲同盟』を巡る会見があります。家康が清洲城の信長を訪問し、会見がもたれた上で、軍事同盟が結ばれました。敵味方に分かれて戦った、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の『桶狭間の戦い』の2年後のことになります。

    清洲城での歴史上重要な出来事の一つに、織田信長と徳川家康の『清洲同盟』を巡る会見があります。家康が清洲城の信長を訪問し、会見がもたれた上で、軍事同盟が結ばれました。敵味方に分かれて戦った、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の『桶狭間の戦い』の2年後のことになります。

  • 模擬天守の下層階の光景です。黒く見える部分は下見張り、白く見える部分は漆喰塗りのようです。

    模擬天守の下層階の光景です。黒く見える部分は下見張り、白く見える部分は漆喰塗りのようです。

  • 鉄砲狭間が設けられた白壁の光景です。写真を撮影しているこちら側が城内、守備側になります。

    鉄砲狭間が設けられた白壁の光景です。写真を撮影しているこちら側が城内、守備側になります。

  • 鉄砲狭間が設けられた白い塀越しに眺めた、『茶席』の立看板があった建物の光景です。シックな格子模様の破風の光景です。

    鉄砲狭間が設けられた白い塀越しに眺めた、『茶席』の立看板があった建物の光景です。シックな格子模様の破風の光景です。

  • 五条川沿いの桜並木の光景です。道の露湯側に桜並木が続き、花のトンネルになっていました。

    五条川沿いの桜並木の光景です。道の露湯側に桜並木が続き、花のトンネルになっていました。

  • 同じく花のトンネルになっていた、桜並木の光景です。左手前の期はかなりの古木のように見えました。

    イチオシ

    同じく花のトンネルになっていた、桜並木の光景です。左手前の期はかなりの古木のように見えました。

  • 染井吉野の花のズームアップ光景です。少しだけ蕾が残っていましたが、申し分のない見頃を迎えていました。

    染井吉野の花のズームアップ光景です。少しだけ蕾が残っていましたが、申し分のない見頃を迎えていました。

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