稲沢・清須旅行記(ブログ) 一覧に戻る
清洲城の築城は、1405(応永12)年頃とされます。織田信長公の天下布武への足掛りとなった歴史上有名なお城です。現在の『清洲城』は、清洲町制百周年を記念して平成元年に再建されました。

2009春、桜の季節の清洲城(2/5):椿、大地震記念碑、朱の橋、模擬天守、染井吉野、里桜

19いいね!

2009/04/05 - 2009/04/05

120位(同エリア323件中)

旅行記グループ 2009春、桜の季節の清洲城

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

清洲城の築城は、1405(応永12)年頃とされます。織田信長公の天下布武への足掛りとなった歴史上有名なお城です。現在の『清洲城』は、清洲町制百周年を記念して平成元年に再建されました。

交通手段
JRローカル

PR

  • 赤いツバキ(椿)の光景です。ツバキ科ツバキ属の常緑樹で、照葉樹林の代表的な樹木です。椿は、古来より日本人に愛され、京都の龍安寺には室町時代の椿が残っています。第二代将軍の秀忠が熱を入れたこともあり、江戸時代には品種改良も進み、庶民の間にも愛好者が広まりました。

    赤いツバキ(椿)の光景です。ツバキ科ツバキ属の常緑樹で、照葉樹林の代表的な樹木です。椿は、古来より日本人に愛され、京都の龍安寺には室町時代の椿が残っています。第二代将軍の秀忠が熱を入れたこともあり、江戸時代には品種改良も進み、庶民の間にも愛好者が広まりました。

  • 『大地震紀念碑』の文字が刻まれた石碑です。意図的なのかどうか分かりませんが、石碑自体が傾いていました。昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う発掘調査で、清洲城下に新旧2回の地震による液状化の痕跡が発見されました。新期のものは、明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾地震、旧期のものは、天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正地震による可能性が高いことが判明しました。この石碑は、濃尾地震に関連するもののようです。濃尾地震の後の明治25年(1892年)頃に城跡に建立されたことが公式HPに紹介されていました。

    『大地震紀念碑』の文字が刻まれた石碑です。意図的なのかどうか分かりませんが、石碑自体が傾いていました。昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う発掘調査で、清洲城下に新旧2回の地震による液状化の痕跡が発見されました。新期のものは、明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾地震、旧期のものは、天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正地震による可能性が高いことが判明しました。この石碑は、濃尾地震に関連するもののようです。濃尾地震の後の明治25年(1892年)頃に城跡に建立されたことが公式HPに紹介されていました。

  • 元々は清洲城の縄張りと思われる場所の粗油公園の紹介が続きます。満開少し前の染井吉野の光景です。その樹の下には四角な外灯がありました。その足元の灌木は、サンゴジュ(珊瑚樹)のようです。

    元々は清洲城の縄張りと思われる場所の粗油公園の紹介が続きます。満開少し前の染井吉野の光景です。その樹の下には四角な外灯がありました。その足元の灌木は、サンゴジュ(珊瑚樹)のようです。

  • 新緑の木が一杯だった、小公園の中の光景です。その中に白い花を咲かせた染井吉野の姿もありました。

    新緑の木が一杯だった、小公園の中の光景です。その中に白い花を咲かせた染井吉野の姿もありました。

  • 雷にでも当たったのでしょうか、頭の部分が不自然な形をした樹木です。それでも樹勢を盛り返しているようでした。

    雷にでも当たったのでしょうか、頭の部分が不自然な形をした樹木です。それでも樹勢を盛り返しているようでした。

  • 赤い欄干の橋と、模擬天守の光景です。古い縄張り図では、別の場所が天守台でしたが、東海道線・新幹線の開通で敷地が分断され、現在の位置に模擬天守が建設されました。

    イチオシ

    赤い欄干の橋と、模擬天守の光景です。古い縄張り図では、別の場所が天守台でしたが、東海道線・新幹線の開通で敷地が分断され、現在の位置に模擬天守が建設されました。

  • 満開までもう少しの染井吉野の光景です。古木もあるのか、枯れ枝の姿もありました。その周りは人で溢れていました。

    満開までもう少しの染井吉野の光景です。古木もあるのか、枯れ枝の姿もありました。その周りは人で溢れていました。

  • 五条川に架かる赤い欄干の大手橋と模擬天守の光景です。橋のデザインは、模擬天守が引き立つよう、随分と工夫されていました。

    五条川に架かる赤い欄干の大手橋と模擬天守の光景です。橋のデザインは、模擬天守が引き立つよう、随分と工夫されていました。

  • テント張りの露店も出店され、清州城見学と桜見学の人達で賑わっていました。露店の周りも染井吉野の花が一杯でした。

    テント張りの露店も出店され、清州城見学と桜見学の人達で賑わっていました。露店の周りも染井吉野の花が一杯でした。

  • 五条川河畔の桜の光景です。見頃を迎えた染井吉野が川に向かって枝垂れていました。土手の下草の緑が、染井吉野の花の引き立て役でした。

    五条川河畔の桜の光景です。見頃を迎えた染井吉野が川に向かって枝垂れていました。土手の下草の緑が、染井吉野の花の引き立て役でした。

  • 五条川と、その河川敷の染井吉野の光景です。五条川上流の岩倉市・江南市・大口町地区は、『日本さくら名所100選』に選ばれている桜名所です。

    五条川と、その河川敷の染井吉野の光景です。五条川上流の岩倉市・江南市・大口町地区は、『日本さくら名所100選』に選ばれている桜名所です。

  • 五条川を横断する何本もの高架道路の光景です。現代でも交通の要所になっていることがよく分かります。鉄道の橋脚は、撮影場所の背後の景色になります。

    五条川を横断する何本もの高架道路の光景です。現代でも交通の要所になっていることがよく分かります。鉄道の橋脚は、撮影場所の背後の景色になります。

  • 横一列で泳いでいた、鯉幟の光景です。五条川の上流の岩倉市では、鯉幟の糊落としの『のんぼり洗い』が行われます。

    横一列で泳いでいた、鯉幟の光景です。五条川の上流の岩倉市では、鯉幟の糊落としの『のんぼり洗い』が行われます。

  • 同じく、横一列で泳いでいた、鯉幟の光景です。この川の上流の岩倉市で行われる、鯉幟の糊落としの『のんぼり洗い』は、『東海美の里百選』に選ばれています。

    同じく、横一列で泳いでいた、鯉幟の光景です。この川の上流の岩倉市で行われる、鯉幟の糊落としの『のんぼり洗い』は、『東海美の里百選』に選ばれています。

  • 瓦屋根と白壁をバックに咲いた、紅枝垂れ桜の光景です。八重咲だったかもしれません。

    瓦屋根と白壁をバックに咲いた、紅枝垂れ桜の光景です。八重咲だったかもしれません。

  • 模擬天守の最上階の光景です。赤い欄干の望楼からの眺望を楽しむ人達の姿がありました。

    模擬天守の最上階の光景です。赤い欄干の望楼からの眺望を楽しむ人達の姿がありました。

  • 五条川に架かる橋の赤い欄干と、五条川両河畔の染井吉野の光景です。赤い欄干には、ブロンズ製らしい立派な擬宝珠(ぎぼし)が付いていました。

    イチオシ

    五条川に架かる橋の赤い欄干と、五条川両河畔の染井吉野の光景です。赤い欄干には、ブロンズ製らしい立派な擬宝珠(ぎぼし)が付いていました。

  • 五条川に架かる大手橋の赤い欄干と、五条川対岸の染井吉野の光景です。赤い橋に染井吉野の光景も、中々似合います。

    五条川に架かる大手橋の赤い欄干と、五条川対岸の染井吉野の光景です。赤い橋に染井吉野の光景も、中々似合います。

  • 江戸時代の渡しの場を連想させるような除夜灯の光景です。下見板張りに、銅葺き屋根です。周りの桜は、紅枝垂れ桜でした。

    江戸時代の渡しの場を連想させるような除夜灯の光景です。下見板張りに、銅葺き屋根です。周りの桜は、紅枝垂れ桜でした。

  • 瓦屋根越しに眺めた模擬天守の光景です。模擬天守からの眺望を楽しむ人達の姿がありました。

    瓦屋根越しに眺めた模擬天守の光景です。模擬天守からの眺望を楽しむ人達の姿がありました。

  • 『清洲城歴代城主』のタイトルがあった説明看板です。織田信長が清州城に入ったのは、弘治元年(1555年)です。清州織田家当主の信友を那古野城主の織田信長が攻め滅ぼした時からです。清州越しの時の最後の城主は、初代名古屋城主の徳川義直です。その後、清洲は城下町から宿場町に変わりました。

    『清洲城歴代城主』のタイトルがあった説明看板です。織田信長が清州城に入ったのは、弘治元年(1555年)です。清州織田家当主の信友を那古野城主の織田信長が攻め滅ぼした時からです。清州越しの時の最後の城主は、初代名古屋城主の徳川義直です。その後、清洲は城下町から宿場町に変わりました。

  • 『信長塀』の題字があった立看板です。永禄3年(1560年)、織田信長公が桶狭間へ出陣途中、熱田神宮に戦勝を祈願して大勝したので、そのお礼に奉納された塀をモデルにしたものであることが紹介されていました。背後に見える信長塀のオリジナルは、今も熱田神宮で見ることができます。

    『信長塀』の題字があった立看板です。永禄3年(1560年)、織田信長公が桶狭間へ出陣途中、熱田神宮に戦勝を祈願して大勝したので、そのお礼に奉納された塀をモデルにしたものであることが紹介されていました。背後に見える信長塀のオリジナルは、今も熱田神宮で見ることができます。

  • 同じく、『信長塀』の端面の光景です。塀の上の本瓦の屋根も細かな細工がしてありました。『桶狭間の戦い』では、東海道に君臨した今川氏が没落し、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急成長し、戦国時代の重要な転機となった戦いです。

    同じく、『信長塀』の端面の光景です。塀の上の本瓦の屋根も細かな細工がしてありました。『桶狭間の戦い』では、東海道に君臨した今川氏が没落し、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急成長し、戦国時代の重要な転機となった戦いです。

  • 築地塀(ついじべい)と呼ばれる工法の信長塀のズームアップ光景です。この壁は、石垣の基礎に柱を立てて貫を通した骨組みを木枠で挟み、そこに練り土を入れて棒でつき固める「版築」という方法で作られることが多い塀です。

    築地塀(ついじべい)と呼ばれる工法の信長塀のズームアップ光景です。この壁は、石垣の基礎に柱を立てて貫を通した骨組みを木枠で挟み、そこに練り土を入れて棒でつき固める「版築」という方法で作られることが多い塀です。

  • 『信長塀』のコーナー部分に建っていた、『清洲城』の石碑の光景です。信長は、清州城に約10年間居城し、この城から桶狭間の戦いに出陣しました。

    『信長塀』のコーナー部分に建っていた、『清洲城』の石碑の光景です。信長は、清州城に約10年間居城し、この城から桶狭間の戦いに出陣しました。

  • 模擬天守の最上階と、その下の階の建物光景です。下の階の屋根飾りには、漆喰で塗り固めた立派な千鳥破風がありました。

    イチオシ

    模擬天守の最上階と、その下の階の建物光景です。下の階の屋根飾りには、漆喰で塗り固めた立派な千鳥破風がありました。

  • 模擬天守の最上階のズームアップ光景です。赤い手摺が付いた、観光用の回廊がありました。白い壁には、お洒落な唐風の窓が見えました。

    模擬天守の最上階のズームアップ光景です。赤い手摺が付いた、観光用の回廊がありました。白い壁には、お洒落な唐風の窓が見えました。

  • 模擬天守の大屋根のアップ光景です。名古屋城よりは小振りですが、金鯱が飾られていました。鬼瓦の織田木瓜の紋や、軒丸瓦の三つ巴紋も金色でした。

    模擬天守の大屋根のアップ光景です。名古屋城よりは小振りですが、金鯱が飾られていました。鬼瓦の織田木瓜の紋や、軒丸瓦の三つ巴紋も金色でした。

  • 模擬天守の入口光景です。その前には、石庭風の前庭が造られていました。

    模擬天守の入口光景です。その前には、石庭風の前庭が造られていました。

  • 更に近寄った、模擬天守の入口光景です。今回は天守には登りませんでした。天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城で清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続しました。天正14年(1586年)に信雄によって二重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われたとされます。

    更に近寄った、模擬天守の入口光景です。今回は天守には登りませんでした。天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城で清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続しました。天正14年(1586年)に信雄によって二重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われたとされます。

19いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP