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岩崎城の紹介の締め括りです。岩崎城が廃城となったのは1600年のことです。昭和60年に本丸の発掘調査が行われ、歴史記念館、展望塔が昭和62年に竣工しました。

2009春、桜の季節の岩崎城(4/4):模擬天守、天守閣内の展示品、二の丸、ソメイヨシノ

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2009/04/01 - 2009/04/01

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旅行記グループ 2009春、尾張の桜

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

岩崎城の紹介の締め括りです。岩崎城が廃城となったのは1600年のことです。昭和60年に本丸の発掘調査が行われ、歴史記念館、展望塔が昭和62年に竣工しました。

交通手段
自家用車

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  • ピンク色で、八重咲ですから、紅八重桜の花のようです。里桜の1種のようですが、正式な品種名までは分かりません。

    ピンク色で、八重咲ですから、紅八重桜の花のようです。里桜の1種のようですが、正式な品種名までは分かりません。

  • こちらは染井吉野の花のピックアップ光景です。蕾が多く、全体が赤っぽい感じです。3分咲くらいでしょうか。

    イチオシ

    こちらは染井吉野の花のピックアップ光景です。蕾が多く、全体が赤っぽい感じです。3分咲くらいでしょうか。

  • 同じく染井吉野の枝先のピックアップ光景です。ほとんど開花していましたからピンク色は目立たず、全体に白っぽい感じの花です。バックも暗くなってくれました。

    同じく染井吉野の枝先のピックアップ光景です。ほとんど開花していましたからピンク色は目立たず、全体に白っぽい感じの花です。バックも暗くなってくれました。

  • 大阪市にある『大阪城おおさかじょう』です。『錦城(にしきじょう)』の別名を持ちます。大公秀吉が築いた城は、大坂冬の陣で焼け落ち、江戸時代に二代将軍秀忠の手で再建されましたが、その城も数度の火災に遭いました。現在の天守閣は昭和6年(1931年)に再建されたものです。

    大阪市にある『大阪城おおさかじょう』です。『錦城(にしきじょう)』の別名を持ちます。大公秀吉が築いた城は、大坂冬の陣で焼け落ち、江戸時代に二代将軍秀忠の手で再建されましたが、その城も数度の火災に遭いました。現在の天守閣は昭和6年(1931年)に再建されたものです。

  • 長崎県島原市にある、『島原城(しまばらじょう)』の紹介写真です。別名が『森岳城(もりたけじょう)』です。天草四郎に率いられたキリシタン一揆の拠点の城です。築城の天才と謳われた松倉重政が寛永元年(1622年)に築いた城です。

    長崎県島原市にある、『島原城(しまばらじょう)』の紹介写真です。別名が『森岳城(もりたけじょう)』です。天草四郎に率いられたキリシタン一揆の拠点の城です。築城の天才と謳われた松倉重政が寛永元年(1622年)に築いた城です。

  • 熊本市にある熊本城の天守閣光景です。虎退治で知られる加藤清正による築城です。清正お手植えの銀杏があることら、『銀杏城(ぎんなんじょう)』の別名を持ちます。『この銀杏が天守の高さになると戦争が起きる』と予言したエピソードが紹介されていました。発生したのは西南の役、西郷隆盛の薩軍に攻められ炎上しました。雄大な反りを持った、『清正石垣』が有名です。

    熊本市にある熊本城の天守閣光景です。虎退治で知られる加藤清正による築城です。清正お手植えの銀杏があることら、『銀杏城(ぎんなんじょう)』の別名を持ちます。『この銀杏が天守の高さになると戦争が起きる』と予言したエピソードが紹介されていました。発生したのは西南の役、西郷隆盛の薩軍に攻められ炎上しました。雄大な反りを持った、『清正石垣』が有名です。

  • 高知市にある『高知城』の写真紹介です。山之内一豊が築いた四層六階の天守閣です。創建当初の天守は、大火で焼け、寛延元年(一七四八年)に再建された建物です。建てられた山の名前から、『大高坂(おおたかさか)城』とも呼ばれます。

    高知市にある『高知城』の写真紹介です。山之内一豊が築いた四層六階の天守閣です。創建当初の天守は、大火で焼け、寛延元年(一七四八年)に再建された建物です。建てられた山の名前から、『大高坂(おおたかさか)城』とも呼ばれます。

  • 赤穂市にある『赤穂城』の写真紹介です。天守台はあるものの、天守閣は造られませんでした。『忠臣蔵』の舞台の一つとなりました。別名は加里屋城、あるいは大鷹城です。

    赤穂市にある『赤穂城』の写真紹介です。天守台はあるものの、天守閣は造られませんでした。『忠臣蔵』の舞台の一つとなりました。別名は加里屋城、あるいは大鷹城です。

  • 入館案内が記された受付の光景です。入場は午前9時から午後5時まで、休館日は毎週月曜日で入場無料です。日進市の予算で賄われているようですが、感心させられる経営姿勢です。

    入館案内が記された受付の光景です。入場は午前9時から午後5時まで、休館日は毎週月曜日で入場無料です。日進市の予算で賄われているようですが、感心させられる経営姿勢です。

  • 各部に補強材が入って、見るからに頑丈そうにできた黒い木箱です。推測ですが、甲冑類でも納める箱でしょうか。台車も付いていましたから、もっと重たい物が入っていたのかもしれません。

    各部に補強材が入って、見るからに頑丈そうにできた黒い木箱です。推測ですが、甲冑類でも納める箱でしょうか。台車も付いていましたから、もっと重たい物が入っていたのかもしれません。

  • 展示室内の見学を終えて、外に出ました。再度振り返って天守閣の光景です。岩崎城址の再建に当たっては、地元からの相当な支援があったことが随所にみられました。建設時だけでなく、その後のメンテナンス、運営もしっかりと為されているようです。

    展示室内の見学を終えて、外に出ました。再度振り返って天守閣の光景です。岩崎城址の再建に当たっては、地元からの相当な支援があったことが随所にみられました。建設時だけでなく、その後のメンテナンス、運営もしっかりと為されているようです。

  • 角度を変えて撮影した天守閣の光景です。最上階は、景観重視であればもっとすっきりしたデザインになったかもしれませんが、安全重視での造りとなったようです。

    角度を変えて撮影した天守閣の光景です。最上階は、景観重視であればもっとすっきりしたデザインになったかもしれませんが、安全重視での造りとなったようです。

  • 天守閣の屋根の上の金鯱を紹介して、これで模擬天守の紹介はおしまいです。北側の駐車場に向かいましたので、南側からの模擬天守の撮影は、今回はお預けです。

    イチオシ

    天守閣の屋根の上の金鯱を紹介して、これで模擬天守の紹介はおしまいです。北側の駐車場に向かいましたので、南側からの模擬天守の撮影は、今回はお預けです。

  • ここからは、周りの景色と桜の花を眺めながらの下山です。まだこの辺りは本丸のエリアです。

    ここからは、周りの景色と桜の花を眺めながらの下山です。まだこの辺りは本丸のエリアです。

  • 常緑樹に挟まれて咲いていた染井吉野の光景です。競争しながら上に枝を伸ばしたようです。

    常緑樹に挟まれて咲いていた染井吉野の光景です。競争しながら上に枝を伸ばしたようです。

  • 頭上の染井吉野や山桜の花を撮影しながらの下山です。ほぼ満開になっていた山桜の光景です。

    頭上の染井吉野や山桜の花を撮影しながらの下山です。ほぼ満開になっていた山桜の光景です。

  • 更にズームアップした、ほぼ満開の山桜の光景です。何度も繰り返しまいたが、白い花と赤っぽい新芽の混じり合った光景は、言いようのない風情を感じます。

    更にズームアップした、ほぼ満開の山桜の光景です。何度も繰り返しまいたが、白い花と赤っぽい新芽の混じり合った光景は、言いようのない風情を感じます。

  • 中央から右手に見えているのは、本丸と二の丸の間の堀に架けられた土橋址のようです。現在は車が通れるように拡げられているようです。中央は、まだ若木ですが染井吉野の花です。

    中央から右手に見えているのは、本丸と二の丸の間の堀に架けられた土橋址のようです。現在は車が通れるように拡げられているようです。中央は、まだ若木ですが染井吉野の花です。

  • バックが暗くなった場所を選んで撮影した染井吉野の枝先です。花数は多くないものの、八分から九分咲でした。

    イチオシ

    バックが暗くなった場所を選んで撮影した染井吉野の枝先です。花数は多くないものの、八分から九分咲でした。

  • 岩崎城址の北面に残る自然林の光景です。今は通路が設けられていますが、土塁と堀で防御されていた方面のようです。

    岩崎城址の北面に残る自然林の光景です。今は通路が設けられていますが、土塁と堀で防御されていた方面のようです。

  • 本丸から二の丸の横を通って山を下る通路の光景です。堀を挟んで、左側が二の丸方面です。

    本丸から二の丸の横を通って山を下る通路の光景です。堀を挟んで、左側が二の丸方面です。

  • 岩崎城址の北東方面の光景です。本来は堀を挟んで東曲輪があったはずですが、未整備状態でした。最初に紹介した縄張り図にも全く記されていませんでした。

    岩崎城址の北東方面の光景です。本来は堀を挟んで東曲輪があったはずですが、未整備状態でした。最初に紹介した縄張り図にも全く記されていませんでした。

  • かなり咲き進んでいた、染井吉野の光景です。十分に七分咲以上でした。

    かなり咲き進んでいた、染井吉野の光景です。十分に七分咲以上でした。

  • 現在は二の丸庭園が造られている二の丸跡です。元々は馬出曲輪だったようです。馬出は、(城の戦闘用出入口である虎口の外側に設けた曲輪で、防御力を高めた施設です。最初は簡単な的土(あづち)を築いただけでしたが、その後発展して、馬出と呼ばれるようになりました。

    現在は二の丸庭園が造られている二の丸跡です。元々は馬出曲輪だったようです。馬出は、(城の戦闘用出入口である虎口の外側に設けた曲輪で、防御力を高めた施設です。最初は簡単な的土(あづち)を築いただけでしたが、その後発展して、馬出と呼ばれるようになりました。

  • 桜の季節にはよく目にするヒヨドリ(鵯)さんの紹介です。鳴き声は、『ヒーヨ ヒーヨ!』などと甲高く聞こえ、和名はこの鳴き声に由来するという説があります。

    桜の季節にはよく目にするヒヨドリ(鵯)さんの紹介です。鳴き声は、『ヒーヨ ヒーヨ!』などと甲高く聞こえ、和名はこの鳴き声に由来するという説があります。

  • 花の時期に鵯さんが桜の木にやってくるのは、花の蜜を吸うためです。横から食い千切って、丸ごと花を落とします。甘いものが好きとされます。

    花の時期に鵯さんが桜の木にやってくるのは、花の蜜を吸うためです。横から食い千切って、丸ごと花を落とします。甘いものが好きとされます。

  • ヒヨドリさんを仔飼いにすると、非常によく慣れ、飼い主を見分けるとされます。平安時代は貴族の間で盛んにペットとして飼われたようです。

    ヒヨドリさんを仔飼いにすると、非常によく慣れ、飼い主を見分けるとされます。平安時代は貴族の間で盛んにペットとして飼われたようです。

  • これでヒヨドリさんとはお別れです。飛ぶ時は数回羽ばたくと翼をたたんで滑空するパターンを繰り返します。このため、飛ぶ軌道は波型になります。家の近所でもよく目にします。

    これでヒヨドリさんとはお別れです。飛ぶ時は数回羽ばたくと翼をたたんで滑空するパターンを繰り返します。このため、飛ぶ軌道は波型になります。家の近所でもよく目にします。

  • ヒヨドリ(鵯)さんにとっては、少し物足りない染井吉野の開花状況だったかもしれません。この樹は、まだ1分咲にも達していませんでした。

    ヒヨドリ(鵯)さんにとっては、少し物足りない染井吉野の開花状況だったかもしれません。この樹は、まだ1分咲にも達していませんでした。

  • 左手は二の丸の土塁です。前方に駐車場が見えてきました。これで桜の時期の岩崎城址の紹介はおしまいです。家までは車で15分ほどです。

    左手は二の丸の土塁です。前方に駐車場が見えてきました。これで桜の時期の岩崎城址の紹介はおしまいです。家までは車で15分ほどです。

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