2008/07/13 - 2008/07/13
59位(同エリア95件中)
まみさん
2008/07/13日 ブジェンツィ村、エタラ野外博物館からガブロヴォへ
【宿泊:Hotel Balkan(ガブロヴォ泊)】
・ブジェンツィ村散策
・ソコロヴォ僧院
・シプカ峠の記念碑
・エタル野外民俗博物館
ガブロヴォ散策(ここから現地ガイドと別れて一人旅)
・ユーモア博物館
こういってはなんですが、ブジェンツィ村はほとんどテーマパーク同然だと思いました。
テーマパークと違うのは、昔は実際に人が住んでいたホンモノの村だったことでしょうか。
ブジェンツィ村は、最盛期にたくさんあったブルガリア民族復興時代の建物を保存するため、かつての農家を、カフェやレストランやペンションとしてよみがえらせた村です。
おかげで廃村となることから逃れました。
そのような小さな村がバルカン山中にはいくつもあるそうです。
そしてそのほとんどの成立由来は、オスマントルコによるブルガリア征服です。
人々はオスマントルコから隠れ住むためにバルカン山中に逃れて、そこで村や町を作り上げました。
1歩ごとに足を止めたくなるような絵になるブジェンツィ村。
ブルガリアにいくつかあるミュージーアム・タウンに数えられるのも納得です。
しかし、実はこの村には今や住人はいません。
カフェやレストランやペンションで働く人たちも、近隣の町や村からの勤め人です。
村の外側はよみがえりましたが、村の内側はよみがえることはなかったのです。
それを思うと、村を散策していても、一抹のむなしさ、というか、寂しさを感じないわけにはいきませんでした。
でも、村が存続するために近代化されていたら、この美しさはどれほど保存されたでしょうか。
ましてや社会主義時代の工業化の波に晒されていたら!
それに私だって働き盛りのうちは、山奥ではなく便利な都会に住みたいと思います。
やっぱりどんな形でも残っていてくれてありがとう!───と言いたくなったのは確かです。
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本日のルートマップ
移動距離は少ないですが、ほとんどがバルカン山中でした。
ドリャノヴォ(DRYANOVO)村に近いペイナ村を出発し、ブジェンツィ村(1)でお茶をして少し散策した後、ガブロヴォ(GABROVO)近郊のソコロヴォ僧院(2)を見学しました。
でもこのままだと時間が余りそうだというので、予定になかったシプカ峠の自由の碑(4)を訪れ、それからまたガブロヴォ近郊に戻り、ガイドと一緒に見学する最後の目的地であるエタル野外民俗博物館(3)で昼食をとり、見学しました。
そして全ての予定が終わったあと、ガブロヴォ(5)のホテルまで送ってもらいました。
そこで7日間お世話になった現地ガイドとドライバーと別れました。
その時点でまだ夕方5時前だったので、その後は1人でガブロヴォを観光しました。
ガブロヴォのハイライトのユーモア博物館(ユーモアと風刺の家)にはなんとか間に合いました。 -
村の中心に向かう途中、白い家のある石畳の道
ブジェンツィ村散策は、当初の旅程にはありませんでした。
本日のルートから近く、一見の価値があり、小さな村なので見学に時間がかからないし、ブルガリアの古い伝統的なお菓子でも有名なので、ガイドの提案で寄ったところです。
「ブジェンツィは、中央バルカン山脈にある絵のように美しい小渓谷に位置しています。村は建築・民俗学上の指定地です。築100年から250年の家屋は、18〜19世紀のバルカン山中の生活様式と建築の興味深い記念建造物です。」
(ブルガリアで買ったパンフレット「BULGARIA guide」(ART TOMORROW出版(www.arttomorrow.com))より私訳) -
庭先の日よけのブドウの蔓に焦点をあてて
「ブジェンツィにある建物のほとんど全ては、18世紀、そして主に19世紀のブルガリア民族復興様式で建てられています。村はバルカン山脈の中央に位置しています。伝説によると、村は、1393年にヴェリコ・タルノヴォがトルコ人に征服された後、子供たちと逃げてきたボザナ(Bozhana)という名前の貴族の女性によって創られました。その後、第二次ブルガリア帝国のかつての首都(ヴェリコ・タルノヴォ)からたくさんの住人が、この隔離された安全な場所に定住するために逃げて来ました。」
(ブルガリアで買ったパンフレット「BURGARIA」(2007年Gufo社発行/R. Daskalov編集)より私訳) -
亡くなった人の貼り紙が、家の扉だけでなく、村の中心の木の幹にまで
あの貼り紙は、指名手配でも尋ね人の広告でもありません。
むしろ死亡広告です。
ブルガリアではこのような貼り紙が亡くなった人のいる門や扉に貼られていることが多いのですが(そのせいでたいていの外国人は、「ブルガリアには指名手配犯が多い!」と勘違いするらしいです@)、こんな風に村の中心の木などにも貼られているんですね。
クチコミもご参考。
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/tips/?PN=1&CAT=OS_OTHERS
ほかに具体例:スキーリゾート地のバンスコにて
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/14636621/
関連の旅行記
「2008年ブルガリア旅行第4日目(2):フォークロア色たっぷりなバンスコ」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10277031/ -
村の建物はみな、カフェネかメハナかペンション
看板は「カフェネ・シェケルジニッツァ」と読むのかな。
カフェネって要するにカフェ(喫茶店)のことだと思います。
(ガイドに確認するのを忘れてしまいました。)
この素敵なカフェネで、ブルガリアの伝統的なお菓子を頂くことにしました。 -
カフェネのレジ・カウンターの後ろ、壁の棚のポット入りのブルガリアの伝統的なお菓子「ブリャーロ・スラートコ」
英語ではWhite Sweets、つまり「白いお菓子」です。
砂糖菓子の柔らかいやつで、水に漬けて食べます。
ポットには、「ブリャーロ・スラートコ・アト・ブジェンツィ(ブジェンツイの白いお菓子)」と書かれてあります。イラストも手書きですね。
お値段は300グラム当たり5.00レヴァ。
(2008年7月現在、1レヴァ=約0.5ユーロ、1ユーロ=約170円で換算)
ここで食べたブルガリアの伝統的なお菓子「ブリャーロ・スラートコ」の写真はこちらです。
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/14288316/
関連の旅行記
「2008年ブルガリア・ハイライトその5:ブルガリアで食べたもの・その2」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10261054/ -
ブルガリア民族衣装や民芸品を飾ったカフェネの一室
壁に掛けたお皿の飾りに伝統的な刺繍がなされたタオルが掛けられています。
こういう飾りは、ルーマニア料理のレストランでも見ましたよ。
また、ルーマニアやブルガリアの地方の正教会では、イコンがこのようにタオルに掛けられているのもよく目にしました。 -
石の壁と屋根の古めかしいメハナ(=ブルガリアン居酒屋)
ブルガリアの家はたいていオレンジ屋根ですが、古い建物だと石タイルの屋根なのだそうです。
うん、確かにとっても古めかしい@
手前の看板は、ブリャーロ・スラートコでお茶したカフェネのものです。
逆光で空が白とびするので、入れてみました。 -
ブジェンツィの典型的な家
オスマントルコ時代のブジェンツィの村人は裕福な家が多かったので、家屋のほとんどは2階建でした。
(最後の写真のコメントを参考)
そういえばブジェンツィはオレンジ屋根の家はほとんど見かけませんでしたねぇ。
「ガブロヴォの町から16km、バルカン山脈のひだに抱かれた、牧歌的で、何世紀も昔から時が眠りに落ちたような村です。工房のシャッターは閉鎖され、鍛冶屋はハンマーを打つ手を止め、暖炉は消えてしまいました。広場の井戸、蜜蝋の工房、そして聖エリア教会はほぼ200年前のものです。19世紀末まで、ブジェンツィは周辺の村にとって、経済上、行政上、教育上、そして精神的な中心地でした。現在、100〜200年前に建てられた家屋が100軒残っています。」
(HP「Visit to Bulgaria」より私訳(http://www.visittobulgaria.com/visit/Dir.asp)) -
今は使われていない古い馬車
青い車体に赤い車輪という色彩感覚がなんともいえません@
こういう古い馬車は、屋台などに再利用されたりするようです。
これはその気配はありませんが。 -
手作りカボチャ(ハロウィーン・スタイル?)
村の旧・図書館の子供たちの作品の展示より
村の入口近くの、かつて学校だった建物の1階広間に展示されていた作品です。
ブジェンツィをテーマにした子供たちの作品が展示されていました。
このカボチャとブジェンツイ村の関係は分かりませんが@ -
可愛らしい人形たち@
ここにもカボチャ。 -
ブジェンツィの伝統的な家
石などを貼り付けている、一種のコラージュでしょうか。
とても上手ですねぇ。 -
ブジェンツィ村の教会を描いた作品
預言者エリア教会(バジリカ)かもしれません。
(最後の写真のコメントを参考) -
典型的なブジェンツィ村の家屋を描いた作品
子供らしい伸び伸びした絵です。
1階と屋根が石むき出しで、住居部分の2階は外壁も白漆喰できれいに化粧されているわけですね。 -
村の外れの家を見上げて
斜面の高い位置にあるので、1階がはるか頭上でした。
「ブジェンツィ(Bozhentsi。ブルガリア語ではБоженци。他にもBozhenci, Bojenci, Bojenzi, Bojentsi, Bojentzi, Bozhentziなどと表記されます。公式にはBozhentsite (Боженците)と表記されますがあまり一般ではありません。)は、中央ブルガリアの北部、ガブロヴォ州ガブロヴォ自治区にある村であり、建築保護指定地です。村は、ガブロヴォの東15km、バルカン山脈の中央部、シプカ峠のちょうど北にあります。村は保存のよいブルガリア民族復興時代の建築と歴史で有名であり、そのためこの地域の有名な観光目的地です。
ブジェンツィは、16世紀、オスマントルコによる第二次ブルガリア帝国の首都ヴェリコ・タルノヴォ侵略後に創設されました。その後、首都の多くの住人が、山脈の隔離された安全な場所に定住するために逃げて来ました。伝説によると、そんな人々の中に、現在村があるこの地域に隠れることを選んだ若い貴族の女性ボザナ(Bozhana)がおり、村の名前は彼女にちなんでつけられました。彼女の息子たちは商売に従事し、ブルガリア民族復興時代から18世紀半ばに向かって、村は段々と成長し、重要な交易の要衝となりました。主な生産物は、皮革、毛織物、蜜蝋、それからハチミツでした。
ブジェンツィ村は、1964年に建築的歴史的指定地として宣言され、現在はユネスコの文化遺産の一部です。このためブジェンツィにはブルガリア民族復興時代建築が保存されており、村の様式に合わない建築物の建造は禁止されています。
オスマントルコ時代の住人はほとんどが裕福な人々でしたので、家屋の多くは2階建でした。1階は家畜小屋として使われ、2階に住人が住みました。ブジェンツィ建築で特徴的な点は、ベランダ、石板屋根、部屋の隅の暖炉、そして木彫りの天井です。村の道路は全て石畳です。
預言者エリア教会(バジリカ)は主廊と2つの側廊から成る、ブルガリア民族復興様式のすばらしい例です。石壁と典型的なブジェンツィ様式のアーチだけでなく、ドームも天井の下に隠れて見えます。教会は1835年に建てられました。この村の有力者は、オスマントルコ政府から鐘楼を建てる許可を得ることができました。これは通常、厳しく禁じられていたものです。
1872年にかつて学校が建てられました。教室は村の入口近くの堂々たる建物の中に開設されました。その建物は現在ギャラリーになっていますが、1階はかつてはホールと図書館でした。教室は2階でした。
ローマ風の橋が村の東にあり、その反対側の森の中の小路はトリャヴナに通じています。」
(ウィキペディアフリー百科事典英語版「Bozhentsi」より私訳)
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