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日本の旅 関西を歩く 大石内蔵助ゆかりの京都・墨染、撞木町の廓跡

旅行時期 2008/10/21 - 2008/10/21 (2008/10/31投稿

京都・墨染には大石内蔵助が遊興したと伝えられる廓跡がある。京街道と大津街道の分岐点に近く、古くから芝居小屋や土産物屋が軒を連ねたと言われる場所には左右に「橦木町廓(しゅもくちょうくるわ)入口」「志ゆもく町廓入口」と彫られ大正7年(1918年)に建てられた石柱が残っている。街並みには廓の面影は残っていないが大正7年(1918年)に建てられた「橦木町廓之碑」には豊臣秀吉が伏見城下町を築いた慶長元年(1596年)に伏見田町に遊郭を設け、伏見城落城後慶長九年(1604年)に撞(橦)木町に遊郭を移したこと、島原の流れを汲む由緒ある遊郭として江戸・元禄時代に全盛期を迎えたこと、京都の公家衆が多数訪れ、忠臣蔵で知られる赤穂浪士大石良雄(内蔵助)が訪れたことなどが記されている。敵を欺くために遊興し、策略を練った大石にあやかり、「撞木町での密謀は成就する」といわれるようになったことも記載されている。仮名手本忠臣蔵では、大石内蔵助が遊興したのは「祇園一力茶屋」になってるが、実際はこの伏見撞木町萬屋(ふしみしゅもくちょう よろずや)であったと言われている。現在は萬屋の跡を示す石碑が印刷会社の駐車場の片隅にひっそりと建っているだけだった。仮名手本忠臣蔵では吉良家や上杉家の目を欺くために遊興したとされているが、内蔵助は赤穂藩時代からかなりの遊び人で遊郭通いは敵を欺くためだけではなかったようだ。だが綿密な計画を立て、浪士をひとつにまとめあげ、主君の仇討ちを成就させ、日本を代表する義士のリーダーとして歴史に名を刻んだことは立派と言うほかない。<br />(写真は墨染の撞木町廓跡)<br />

京都・墨染には大石内蔵助が遊興したと伝えられる廓跡がある。京街道と大津街道の分岐点に近く、古くから芝居小屋や土産物屋が軒を連ねたと言われる場所には左右に「橦木町廓(しゅもくちょうくるわ)入口」「志ゆもく町廓入口」と彫られ大正7年(1918年)に建てられた石柱が残っている。街並みには廓の面影は残っていないが大正7年(1918年)に建てられた「橦木町廓之碑」には豊臣秀吉が伏見城下町を築いた慶長元年(1596年)に伏見田町に遊郭を設け、伏見城落城後慶長九年(1604年)に撞(橦)木町に遊郭を移したこと、島原の流れを汲む由緒ある遊郭として江戸・元禄時代に全盛期を迎えたこと、京都の公家衆が多数訪れ、忠臣蔵で知られる赤穂浪士大石良雄(内蔵助)が訪れたことなどが記されている。敵を欺くために遊興し、策略を練った大石にあやかり、「撞木町での密謀は成就する」といわれるようになったことも記載されている。仮名手本忠臣蔵では、大石内蔵助が遊興したのは「祇園一力茶屋」になってるが、実際はこの伏見撞木町萬屋(ふしみしゅもくちょう よろずや)であったと言われている。現在は萬屋の跡を示す石碑が印刷会社の駐車場の片隅にひっそりと建っているだけだった。仮名手本忠臣蔵では吉良家や上杉家の目を欺くために遊興したとされているが、内蔵助は赤穂藩時代からかなりの遊び人で遊郭通いは敵を欺くためだけではなかったようだ。だが綿密な計画を立て、浪士をひとつにまとめあげ、主君の仇討ちを成就させ、日本を代表する義士のリーダーとして歴史に名を刻んだことは立派と言うほかない。
(写真は墨染の撞木町廓跡)

写真 25枚

テーマ:
歴史・文化・芸術
エリア:
京都 > 京都市 > 伏見
エリアの満足度:
評価なし
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    墨染の琵琶湖疏水の光景。

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    「橦木町廓(しゅもくちょうくるわ)入口」と書かれた右側の石柱。

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    墨染の琵琶湖疏水の光景。

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    「橦木町廓(しゅもくちょうくるわ)入口」の石柱は大正7年(1918年)に建てられている。

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    墨染の琵琶湖疏水の光景。

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    「志ゆもく町廓入口」書かれた左側の石柱。

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    墨染の琵琶湖疏水の光景。

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    撞木町廓跡の街並み。廓の面影は残っていない。

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    墨染の琵琶湖疏水の光景。

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    撞木町廓跡の街並み。

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    墨染の琵琶湖疏水の光景。

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    撞木町廓跡の街並み。

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    墨染の琵琶湖疏水の光景。

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    撞木町廓跡の街並み。

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    「撞木町」の住所を示すプレート。

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    撞木町廓跡の街並み。

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    大石内蔵助が遊興した伏見の遊郭「よろずや」跡の石碑。

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    大石内蔵助が遊興した伏見の遊郭「よろずや」跡の石碑。

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    「よろずや」跡の石碑は印刷会社とマンションの間にひっそりと建てられている。

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    大正7年(1918年)に建てられた橦木町廓之碑。豊臣秀吉が伏見城下町を築いた十六世紀後半慶長元年(1596年)に伏見田町に遊郭を設け伏見落城後慶長九年(1604年)に撞(橦)木町に移し島原の流れを汲む遊郭として江戸時代に全盛期を迎え、忠臣蔵で知られる赤穂浪士大石良雄(内蔵助)が訪れたことを記している。敵を欺くために遊興し、計を練った大石にあやかり、「撞木町での密謀は成就する」といわれたとも記載されている。
    (碑文)
    絶世の英雄豊太閤伏見城を築くに及び伏見の殷賑は一躍して天下の中
    枢となれり当遊郭は此殷賑時代の創設にかゝり慶長元年林又五郎なるもの
    伏見田町に遊郭を起したるを其前身とし伏見落城後幾くもなく廃滅に帰せしかば
    渡辺掃部前原八右衛門の両名は時の伏見奉行長田喜兵衛芝山小兵衛に請ひ慶
    長九年十二月二日富田信濃守邸址を開地して再興す花街の形状撞木に似
    たるにより撞木町の名あり実に今を距る三百十四年の昔なり其後
    幾盛衰を経たるが元禄宝永の頃は最も繁栄せしものゝ如く各書には都に近
    く島原の流れを汲めるにより鄙びずと嘗て京都の公家衆の多数が屡々来遊せし
    事をも載す殊に赤穂義士大石良雄が敵を欺く佯狂苦肉の一策として
    当遊郭笹屋清左衛門方に遊興せることは人口に膾炙せられ義士の名と
    ともに撞木町の名は天下に伝はり且義士が此処に復讐の謀議を凝らして
    目的を達せるより後来当遊郭に於て謀議する時は何事も成就すべしとて
    来遊する人々多しと云
    大正七年十一月 高橋桃城誌
    遊雲散士書

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    「撞木町」の小さな祠。

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    大正7年(1918年)に建てられた橦木町廓之碑。

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    仮名手本忠臣蔵で大石内蔵助が遊興したとされている「祇園一力茶屋」のモデルとなった四条花見小路の角にあるお茶屋「一力亭」。(2007年5月撮影)

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    お茶屋「一力亭」。幕末には近藤勇、大久保利通、西郷隆盛なども通ったといわれている。(2007年5月撮影)

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    お茶屋「一力亭」。(2007年5月撮影)

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