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昭和11年2月26日 東京では珍しく大雪降る早朝未明。<br />当時の大日本帝國陸軍第一師団所属の青年将校数名と実弾装填演習と称し引率された兵隊数百名が中心となって未曾有の大規模クーデター事件が首都東京を中心に発生した。<br /><br />個人で襲撃目標とされた者は、<br />岡田啓介(おかだ けいすけ)(慶應4年(1868年)2月14日〜昭和27年(1952年)10月17日)内閣総理大臣 海軍大将<br />齋藤實(さいとう まこと)(安政5年(1858年)12月2日〜昭和11年(1936年)2月26日)内大臣 海軍大将<br />高橋是清(たかはし これきよ)(嘉永7年(1854年)9月18日〜昭和11年(1936年)2月26日)大蔵大臣 元内閣総理大臣<br />渡邊錠太郎(わたなべ じょうたろう)(明治7年(1874年)4月16日〜昭和11年(1936年)2月26日)陸軍教育総監 陸軍大将<br />鈴木貫太郎(すずき かんたろう)(慶應4年(1868年)1月18日〜昭和23年(1948年)4月14日)侍従長 海軍大将<br />牧野伸顕(まきの のぶあき)(文久元年(1861年)11月24日〜昭和24年(1949年)1月25日)元内大臣<br />の計6名で、<br /><br />岡田と牧野は奇跡的に無事だったが、反乱軍兵士から銃撃された齋藤、高橋、渡邊3名は即死、鈴木は重傷を負う。<br />政府は戒厳令を発令しクーデター側を反乱軍と位置付け結局事件は2月28日に収拾された。<br />戒厳令司令部憲兵隊本部は、2.26事件で青年将校達の背後に於いて黒幕的存在として教唆し策動した容疑で真崎甚三郎陸軍大将を逮捕し取調中に真崎の自宅から押収した書簡の発信者を特定し資料とした物が表紙の現物です。<br /><br />真崎甚三郎(まさき じんざぶろう)(明治9年(1876年)11月27日〜昭和31年(1956年)8月31日)は佐賀県出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍大将である。<br /><br />昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)が、当時の侍従職の日記を仔細に検討すると、昭和期の陸海軍大将で尤も忌嫌った者と云えば、陸軍では真崎、海軍では末次信正(すえつぐ のぶまさ)(明治13年(1880年)6月30日〜昭和19年(1944年)12月29日)だったのは、ほぼ間違い無いものと推定される。<br /><br />真崎は、前述の如く、2.26事件では反乱軍青年将校達の黒幕的存在として彼らの思想的背景を煽り、あわよくば自身が内閣総理大臣に就任する事を望んでいた。<br /><br />末次は、ワシントン海軍軍縮会議(大正10年(1921年)11月11日〜大正11年(1922年)2月6日)で、主力艦たる戦艦、及び、巡洋戦艦対米7割を主張したが、実際には現代でも余り知られていないが、実は対米比率6.83割で四捨五入せずとも7割であったにも拘らず6割で妥協したとして御前講演で条約廃棄を主張して昭和天皇の不興を買った張本人である。<br /><br />事変発生後、事変関係者達は、昭和天皇の承認を得て直ちに変革が成就するものとばかり単純に信じていたが、昭和天皇は事件を知り、更に信任する老臣達が次々と殺害された事で激怒され、事件収拾に不熱心で反乱軍将校達に対し好意的、且つ、同情的な陸軍大臣 川島義之(かわしま よしゆき)(明治11年(1878年)5月25日〜昭和20年(1945年)9月8日)陸軍大将他の陸軍高官に対し露骨に不信感を表にし、「股肱の臣を殺害され朕の首を真綿で絞め殺すつもりか。あの連中ぞ何する者ぞ。軍が何もせぬと言うなら朕自ら近衛師団を率いて之を討伐す」との発言に改めて昭和天皇の怒りの度を知り流石に仰天し、それまで騒擾部隊としていたものを、初めて反乱軍と認定し、討伐開始直前に続々と投降した為に軍内部で戦う事態は避けられた。<br /><br />陸軍皇道派に属する軍人大多数が反乱軍青年将校達の行動を赤穂浪士討入に擬える義挙としたのに対し、官僚出身者は強い批判の視線を向け此れら行動を暴挙としていた事は確かであり、岡田内閣の司法大臣 小原 直(おはら なおし)(明治10年(1877年)1月24日〜昭和42年(1967年)9月8日)は司法代表の立場と法理論から反乱軍討伐を強く主張し昭和天皇の信任を得る。<br /><br /><br /><br />横浜臨海公園 蔵<br />

残照 2.26事件 - 現在に残る2冊の極秘資料 【建造中】

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2008/06/14 - 2008/07/03

7位(同エリア871件中)

26

17

横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

昭和11年2月26日 東京では珍しく大雪降る早朝未明。
当時の大日本帝國陸軍第一師団所属の青年将校数名と実弾装填演習と称し引率された兵隊数百名が中心となって未曾有の大規模クーデター事件が首都東京を中心に発生した。

個人で襲撃目標とされた者は、
岡田啓介(おかだ けいすけ)(慶應4年(1868年)2月14日〜昭和27年(1952年)10月17日)内閣総理大臣 海軍大将
齋藤實(さいとう まこと)(安政5年(1858年)12月2日〜昭和11年(1936年)2月26日)内大臣 海軍大将
高橋是清(たかはし これきよ)(嘉永7年(1854年)9月18日〜昭和11年(1936年)2月26日)大蔵大臣 元内閣総理大臣
渡邊錠太郎(わたなべ じょうたろう)(明治7年(1874年)4月16日〜昭和11年(1936年)2月26日)陸軍教育総監 陸軍大将
鈴木貫太郎(すずき かんたろう)(慶應4年(1868年)1月18日〜昭和23年(1948年)4月14日)侍従長 海軍大将
牧野伸顕(まきの のぶあき)(文久元年(1861年)11月24日〜昭和24年(1949年)1月25日)元内大臣
の計6名で、

岡田と牧野は奇跡的に無事だったが、反乱軍兵士から銃撃された齋藤、高橋、渡邊3名は即死、鈴木は重傷を負う。
政府は戒厳令を発令しクーデター側を反乱軍と位置付け結局事件は2月28日に収拾された。
戒厳令司令部憲兵隊本部は、2.26事件で青年将校達の背後に於いて黒幕的存在として教唆し策動した容疑で真崎甚三郎陸軍大将を逮捕し取調中に真崎の自宅から押収した書簡の発信者を特定し資料とした物が表紙の現物です。

真崎甚三郎(まさき じんざぶろう)(明治9年(1876年)11月27日〜昭和31年(1956年)8月31日)は佐賀県出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍大将である。

昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)が、当時の侍従職の日記を仔細に検討すると、昭和期の陸海軍大将で尤も忌嫌った者と云えば、陸軍では真崎、海軍では末次信正(すえつぐ のぶまさ)(明治13年(1880年)6月30日〜昭和19年(1944年)12月29日)だったのは、ほぼ間違い無いものと推定される。

真崎は、前述の如く、2.26事件では反乱軍青年将校達の黒幕的存在として彼らの思想的背景を煽り、あわよくば自身が内閣総理大臣に就任する事を望んでいた。

末次は、ワシントン海軍軍縮会議(大正10年(1921年)11月11日〜大正11年(1922年)2月6日)で、主力艦たる戦艦、及び、巡洋戦艦対米7割を主張したが、実際には現代でも余り知られていないが、実は対米比率6.83割で四捨五入せずとも7割であったにも拘らず6割で妥協したとして御前講演で条約廃棄を主張して昭和天皇の不興を買った張本人である。

事変発生後、事変関係者達は、昭和天皇の承認を得て直ちに変革が成就するものとばかり単純に信じていたが、昭和天皇は事件を知り、更に信任する老臣達が次々と殺害された事で激怒され、事件収拾に不熱心で反乱軍将校達に対し好意的、且つ、同情的な陸軍大臣 川島義之(かわしま よしゆき)(明治11年(1878年)5月25日〜昭和20年(1945年)9月8日)陸軍大将他の陸軍高官に対し露骨に不信感を表にし、「股肱の臣を殺害され朕の首を真綿で絞め殺すつもりか。あの連中ぞ何する者ぞ。軍が何もせぬと言うなら朕自ら近衛師団を率いて之を討伐す」との発言に改めて昭和天皇の怒りの度を知り流石に仰天し、それまで騒擾部隊としていたものを、初めて反乱軍と認定し、討伐開始直前に続々と投降した為に軍内部で戦う事態は避けられた。

陸軍皇道派に属する軍人大多数が反乱軍青年将校達の行動を赤穂浪士討入に擬える義挙としたのに対し、官僚出身者は強い批判の視線を向け此れら行動を暴挙としていた事は確かであり、岡田内閣の司法大臣 小原 直(おはら なおし)(明治10年(1877年)1月24日〜昭和42年(1967年)9月8日)は司法代表の立場と法理論から反乱軍討伐を強く主張し昭和天皇の信任を得る。



横浜臨海公園 蔵

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー タクシー JALグループ JR特急 JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 件の極秘資料の表紙<br /><br /><br /><br />防諜上の理由から部外者が表紙を垣間見て内容に不審を抱かさせない為に『イロハ名簿』と記載したものと推定される。

    件の極秘資料の表紙



    防諜上の理由から部外者が表紙を垣間見て内容に不審を抱かさせない為に『イロハ名簿』と記載したものと推定される。

  • 表紙を開くと件の資料に於ける事件の事実関係が浮かび上がる<br /><br /><br /><br />記載された人数は2冊で合計約800名。<br />資料から解析された人々は政財界、陸海軍人、一般人や旅館関係者、満州国関係者、駐在武官など。<br />当時の筆マメな人々の息遣いを現在にリアルに伝える。<br />尚、文中の『偕行社』(かいこうしゃ)とは帝國陸軍将校の親睦組織団体。

    表紙を開くと件の資料に於ける事件の事実関係が浮かび上がる



    記載された人数は2冊で合計約800名。
    資料から解析された人々は政財界、陸海軍人、一般人や旅館関係者、満州国関係者、駐在武官など。
    当時の筆マメな人々の息遣いを現在にリアルに伝える。
    尚、文中の『偕行社』(かいこうしゃ)とは帝國陸軍将校の親睦組織団体。

  • 写真では見難いかも知れませんが、当時の満州に在った関東軍憲兵隊長の東條英機陸軍少将の氏名住所が見る事ができます。<br /><br />東條は事件収束後に中央に戻され東京在勤となり陸軍次官から陸軍大臣、更に内閣総理大臣に抜擢され総理在任中に大東亜戦争が勃発しました。<br />また今日では件の資料に記載された大多数の電話番号が事件対象者と認定され戒厳令司令部本部に依り盗聴録音されていた事実が明らかになっている。<br /><br />尚、記載された現物の書簡は真崎家から国会図書館憲政資料室に寄贈され現存(但し憲政資料室入室と該書簡閲覧は要許可)。

    写真では見難いかも知れませんが、当時の満州に在った関東軍憲兵隊長の東條英機陸軍少将の氏名住所が見る事ができます。

    東條は事件収束後に中央に戻され東京在勤となり陸軍次官から陸軍大臣、更に内閣総理大臣に抜擢され総理在任中に大東亜戦争が勃発しました。
    また今日では件の資料に記載された大多数の電話番号が事件対象者と認定され戒厳令司令部本部に依り盗聴録音されていた事実が明らかになっている。

    尚、記載された現物の書簡は真崎家から国会図書館憲政資料室に寄贈され現存(但し憲政資料室入室と該書簡閲覧は要許可)。

  • 長谷川 清(はせんがわ きよし)(明治16年(1883年)5月7日〜昭和45年(1970年)9月2日)<br /><br /><br />事件当時は海軍次官。<br />当時の階級は海軍中将。<br /><br />海軍兵学校第31期入校<br />入校時成績196名中第7位<br />卒業時成績173名中第6位<br />海軍大学校修了<br /><br />東條鉦太郎画伯描く日本海海戦で東郷平八郎海軍大将の背後で測距儀から軍帽だけ見えるのが少尉候補生時代の長谷川である。<br /><br />海軍の条約派に属し良識に富みバランスがとれた人物だったと伝えられ海軍高官に対する人物評価が辛辣だった井上成美海軍大将も長谷川には高評価を与えていた1人だった。<br />後に第三艦隊司令長官を経て台湾総督。<br />昭和20年に鈴木貫太郎内閣組閣の際に体力が衰弱し大臣就任を辞退していた米内光政海軍大臣の代わりに海軍大臣就任を要請されるも峻拒。<br /><br />戦後はA級戦争犯罪人に指名され昭和21年(1946年)11月に巣鴨に収監されるも、翌昭和22年(1947年)1月に容疑が晴れ釈放される。<br /><br />長谷川は条約派に属した様に狂信的国家思想には組せず、故に、2.26事件にコミットはしていない。<br />書簡内容も礼状。<br /><br />終戦時 海軍大将 福井県出身<br />

    長谷川 清(はせんがわ きよし)(明治16年(1883年)5月7日〜昭和45年(1970年)9月2日)


    事件当時は海軍次官。
    当時の階級は海軍中将。

    海軍兵学校第31期入校
    入校時成績196名中第7位
    卒業時成績173名中第6位
    海軍大学校修了

    東條鉦太郎画伯描く日本海海戦で東郷平八郎海軍大将の背後で測距儀から軍帽だけ見えるのが少尉候補生時代の長谷川である。

    海軍の条約派に属し良識に富みバランスがとれた人物だったと伝えられ海軍高官に対する人物評価が辛辣だった井上成美海軍大将も長谷川には高評価を与えていた1人だった。
    後に第三艦隊司令長官を経て台湾総督。
    昭和20年に鈴木貫太郎内閣組閣の際に体力が衰弱し大臣就任を辞退していた米内光政海軍大臣の代わりに海軍大臣就任を要請されるも峻拒。

    戦後はA級戦争犯罪人に指名され昭和21年(1946年)11月に巣鴨に収監されるも、翌昭和22年(1947年)1月に容疑が晴れ釈放される。

    長谷川は条約派に属した様に狂信的国家思想には組せず、故に、2.26事件にコミットはしていない。
    書簡内容も礼状。

    終戦時 海軍大将 福井県出身

  • 梅津美治郎(うめづ よしじろう)(明治15年(1882年)1月4日〜昭和24年(1949年)1月8日)<br /><br /><br />事変時は仙台在勤。<br />関東軍在勤の東條英機と共にいち早く陸軍中央に反乱軍鎮圧を強く進言。<br />後に陸軍参謀総長に任じられ鈴木貫太郎内閣で終戦に反対する。<br />終戦時 陸軍大将 大分県出身

    梅津美治郎(うめづ よしじろう)(明治15年(1882年)1月4日〜昭和24年(1949年)1月8日)


    事変時は仙台在勤。
    関東軍在勤の東條英機と共にいち早く陸軍中央に反乱軍鎮圧を強く進言。
    後に陸軍参謀総長に任じられ鈴木貫太郎内閣で終戦に反対する。
    終戦時 陸軍大将 大分県出身

  • 伊藤屋旅館別館光風荘<br /><br /><br /><br />2.26事件発生当時、湯河原伊藤屋旅館別館光風荘には元勲牧野伸顕侯が静養を兼ね滞在されていたが反乱軍に依り襲撃を受け牧野侯は辛くも裏山に逃れ一命を取り留める。<br />先般、渡邉錠太郎邸が取壊され、2.26事件当時を現在に伝える唯一の現存建築物。<br /><br />東海道本線湯河原駅 箱根登山バス公園入口停留所降車 徒歩1分

    伊藤屋旅館別館光風荘



    2.26事件発生当時、湯河原伊藤屋旅館別館光風荘には元勲牧野伸顕侯が静養を兼ね滞在されていたが反乱軍に依り襲撃を受け牧野侯は辛くも裏山に逃れ一命を取り留める。
    先般、渡邉錠太郎邸が取壊され、2.26事件当時を現在に伝える唯一の現存建築物。

    東海道本線湯河原駅 箱根登山バス公園入口停留所降車 徒歩1分

  • 伊藤屋旅館別館光風荘<br /><br /><br /><br />記念碑と説明文<br /><br />現在は施設全体を湯河原町が買収し記念館。

    伊藤屋旅館別館光風荘



    記念碑と説明文

    現在は施設全体を湯河原町が買収し記念館。

  • 伊藤屋旅館別館光風荘<br /><br /><br /><br />入口と玄関<br /><br />現在は日時指定で一般公開。<br />入館料無料。

    伊藤屋旅館別館光風荘



    入口と玄関

    現在は日時指定で一般公開。
    入館料無料。

  • 伊藤屋旅館別館光風荘展示室<br /><br /><br /><br />牧野伸顕<br />明治の元勲大久保利通公の次男で後に牧野家の養子となる。<br />明治期に外務省関係要職を歴任。<br />大正、昭和天皇の信頼が篤かった。<br />長女雪子は吉田茂の妻。<br />麻生太郎内閣総理大臣は曾孫。

    伊藤屋旅館別館光風荘展示室



    牧野伸顕
    明治の元勲大久保利通公の次男で後に牧野家の養子となる。
    明治期に外務省関係要職を歴任。
    大正、昭和天皇の信頼が篤かった。
    長女雪子は吉田茂の妻。
    麻生太郎内閣総理大臣は曾孫。

  • 伊藤旅館別館光風荘屋内<br /><br /><br />現在は2.26事件関係の資料館。

    伊藤旅館別館光風荘屋内


    現在は2.26事件関係の資料館。

  • 伊藤旅館別館光風荘坪庭

    伊藤旅館別館光風荘坪庭

  • 伊藤旅館別館光風荘展示品

    伊藤旅館別館光風荘展示品

  • 警視庁本庁舎内に存在する警視庁警察官殉職者顕彰碑<br /><br /><br />湯河原温泉逗留中の牧野伯爵警護中に2.26事件に遭遇し襲撃部隊と応戦し殉職した皆川義孝巡査の顕彰プレート。<br />上部に見えるのは東京大空襲に於ける殉職警官氏名。<br /><br />尚、庁舎内資料室には皆川巡査が応戦の際に使用した焼損コルト拳銃など展示(撮影禁止)。<br /><br /><br />警視庁本庁舎内部は特別要務者以外入館及び館内見学一切不可

    警視庁本庁舎内に存在する警視庁警察官殉職者顕彰碑


    湯河原温泉逗留中の牧野伯爵警護中に2.26事件に遭遇し襲撃部隊と応戦し殉職した皆川義孝巡査の顕彰プレート。
    上部に見えるのは東京大空襲に於ける殉職警官氏名。

    尚、庁舎内資料室には皆川巡査が応戦の際に使用した焼損コルト拳銃など展示(撮影禁止)。


    警視庁本庁舎内部は特別要務者以外入館及び館内見学一切不可

  • 旧米子市役所庁舎玄関<br /><br /><br />現在は「米子市立山陰歴史館」として一般に開放されております。<br /><br />米子市中町20<br />?: 0859−22−7161<br />9:30〜18:00<br />火曜日・祝祭日翌日・年末年始休館<br />http://www2.ocn.ne.jp/~srekishi

    旧米子市役所庁舎玄関


    現在は「米子市立山陰歴史館」として一般に開放されております。

    米子市中町20
    ?: 0859−22−7161
    9:30〜18:00
    火曜日・祝祭日翌日・年末年始休館
    http://www2.ocn.ne.jp/~srekishi

  • 山陰歴史館3階に在る「西田税資料室」<br /><br /><br />西田税(にしだ みつぎ)(明治34年(1901年)〜昭和12年(1937年)8月19日)は鳥取県米子市出身で陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校卒業後、陸軍士官になるも体調を壊した事から予備役に編入され、後に2.26事件の実行者となる陸軍青年将校たちに思想的影響を与える。<br /><br />2.26事件直後逮捕拘留され、軍法会議で死刑銃殺刑に処せられる。

    山陰歴史館3階に在る「西田税資料室」


    西田税(にしだ みつぎ)(明治34年(1901年)〜昭和12年(1937年)8月19日)は鳥取県米子市出身で陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校卒業後、陸軍士官になるも体調を壊した事から予備役に編入され、後に2.26事件の実行者となる陸軍青年将校たちに思想的影響を与える。

    2.26事件直後逮捕拘留され、軍法会議で死刑銃殺刑に処せられる。

  • 西田税の死亡通知書<br /><br /><br />死亡原因が刑死銃殺だった事が解る。

    イチオシ

    西田税の死亡通知書


    死亡原因が刑死銃殺だった事が解る。

  • 西田税の歌碑<br /><br /><br />米子市内に現存。

    西田税の歌碑


    米子市内に現存。

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この旅行記へのコメント (26)

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  • prinprinさん 2012/05/11 23:37:10
    二・二六事件について、教えて下さい。
    prinprin と、申します。

    横浜臨海公園さんの、「残照 2.26事件 - 現在に残る2冊の極秘資料 【建造中】」という旅行記を発見しました。
    個人的な研究とのことですが、
    私はある理由で子供の頃から二・二六事件に興味があったものの、
    軍隊の事で言葉が難しく、人間関係が複雑で、理解できないでいます。

    二・二六事件について、教えていただけないでしょうか。
    単に(と言ってはなんですが)、派閥抗争だったのでしょうか?
    北一騎という社会主義の思想家が関係していたようですが、社会主義というと王政反対なのだと思うのですが、どうして天皇を重視したのでしょうか?

    恥ずかしながら、 天皇寄りの将校がクーデターを起こし、逆に反乱軍と認められ、上層部が処罰された。 という事くらいしか知りません。
    よろしくお願いします。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/05/13 00:32:31
    拝復
    prinprinさま、こんばんは。



    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    さて、ご質問の一件ですが、小生には抽象的、且つ、漠然とした質問内容で些かご趣旨が不明であり理解に苦しみます。
    2.26事件を研究しようとすれば1冊の書籍が数冊完成するだろうとすら言われる内容です。
    prinprinさまは、2.26事件に関し、国会図書館憲政資料室で調べ物をせよとは申しませんが、お近くの図書館なり、或は、インターネットで検索すれば概ねの内容は把握可能だと思われます。
    甚だ僭越ながら、かの如きご質問をされるのであれば、先ず、前記の様な手続きをされた上で疑問点なりを問うのが、社会に於けるエチケットと言うものではないでしょうか?
    遺憾ながら小生には今回の如きご質問はお答え致しかねます。
    また今後は此の様な事無き様お願い申します。



    横浜臨海公園
  • わんぱく大将さん 2011/02/26 02:11:23
    生き証人
     横浜臨海公園様

     もう、日本は午前1:45ですので、お休みになってる頃かもしれませんが、先ずは2冊目の旅行記のご投票、早速もって有難うございました。1番にいただき感謝です。
    横浜臨海公園さんの旅行記とは天と地、月とすっぽんですが。

    第2作目は、自分の過ごしてきた日々、生活の中に、音楽もあり、人との出会いもあり、その時代の音楽を聴いた、その人とも会った、自分史的になってしまったのですが。

    今回拝見させていただいた”2.26事件”、若い世代にとっては、ただの歴史の時間に習ったな、と言う位かもしれませんが、いまだにいらっしゃる
    生き証人から、その時のお話とか、お写真等を見せていただきと、いや、これは彼らの生活の中で、確かに起こったことなんだと、改めて確認させていただけました。

    103歳で亡くなった祖母は明治生まれで、それこそ多くのことを見、聞いてきたでしょう。直にそれにかかわっていなくても、その当時、ニュースとかで、同じ時代に生きて、聞いてきたであろうと思います。大げさないい方ですが、彼女も“生き証人”の一人だったと思います。
    今になってわかるのですが、もっともっと、祖母の話を聞くべきだったなあ、と。   大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/02/28 18:09:56
    拝復
    大将さま、こんばんは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    小生の駄作をご覧くださいまして恐縮です。

    仰せの通り、2.26事件は今から75年前に発生した事件です。

    小生など祖母から日露戦争海軍大凱旋式、明治天皇崩御、関東大震災の時の事など聞き育っておりましたので、2.26事件など、つい最近の事の様に思えてなりません。
    然し、昭和43年(1968年)に明治100年の祝典があった時に驚きを以って感じたものでしたが、来年は大正100年なのかと思うと感無量です。



    横浜臨海公園
  • HYRONさん 2011/02/21 13:44:48
    勅命が発せられたのである
    横浜臨海公園様

    先日はメッセージを頂き誠にありがとうございました。当日(2/14)の東京は久し振りの大雪で、アタフタしているうちに返信を忘れておりました。

    今週末は2月26日だなぁ、などと2.26事件についてネットで調べていたところ、横浜臨海公園様の旅行記が検索され、一気に読ませて頂きました。
    学生の頃、歴史を専攻していたのですが、2.26事件については(と言うより専攻外の分野については)教科書程度の知識。改めて歴史を学ぶことに重要さを認識した次第です。
    また立ち寄らせて頂きます。
    今後とも、宜しくお願い致します。

    HYRON

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/02/21 15:57:43
    今からでも遅くないから原隊に帰れ
    HYRONさま、こんにちは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    2.26事件の旅行記は制作途中ですが、先週から該旅行記に突然コールが殺到しておりまして、本文を追記させて頂きました。
    2.26事件から今年で75年が経過してしまいました。
    事件の関係者は皆さん物故され生存されているのは渡邉教育総監の次女和子さまだけになってしまいました。

    特に、渡邉和子さまは当時、父君と添寝されている所を襲撃され、父君は和子さまを押入の中に押込め、1人で拳銃で応戦したものの襲撃部隊は機関銃を撃ち父君が虐殺される所を目の当りにされた体験を有しております。

    また、岡田総理の次男で事件当時は東京築地に存在した海軍経理学校生徒だった貞寛さまには生前2度お目にかかり、2.26事件と終戦に関して話をお聴きをさせて頂きましたが、如何にも良き時代の海軍将校を髣髴させる端正な老紳士でした。

    兎に角、2.26事件に関しては襲撃を実施した青年将校達は純真な気持ちから事件を起こし、背後で煽っていた真崎や伏見宮などは自身の栄進栄達に利用していた事は紛れも無く、然して、その中間に誰が存在したかが今後の研究に拠り解明されれば、実は驚くべき事実が浮かぶあがるものと思われます。




    横浜臨海公園
  • 一歩人さん 2010/02/19 18:11:17
    出ましたね
    横浜臨海公園さんのへ
    とうとう、渾身の旅行記でしたね
    いやああ、鉄道ファンと思いきや、
    ここまで来るとは、筋金入りです。
    生涯、応援します。が。
    これからどうしましょう。
    いや、自分にも言い聞かせてるだけですが、
    ご自愛下さいまし。
    失礼しま〜す。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/02/20 02:57:59
    拝復
    一歩人さま、こんばんは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    > とうとう、渾身の旅行記でしたね
    > いやああ、鉄道ファンと思いきや、
    > ここまで来るとは、筋金入りです。
    鉄道は小生の個人趣味の範囲で、海軍は小生の個人研究の範囲です。




    横浜臨海公園

    一歩人

    一歩人さん からの返信 2010/02/21 07:08:09
    RE: 拝復
    > 一歩人さま、こんばんは。
    >
    >
    > メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
    >
    > > とうとう、渾身の旅行記でしたね
    > > いやああ、鉄道ファンと思いきや、
    > > ここまで来るとは、筋金入りです。
    > 鉄道は小生の個人趣味の範囲で、海軍は小生の個人研究の範囲です。
    >
    >
    >
    >
    > 横浜臨海公園

    横浜臨海公園さんへ
    個人研究っていいですねええ。
    私も江戸東京紀行の蔵書700冊を1階の工房へ棚を作り置いています。
    研究ではないので、お宝はありませんが。趣味なもので。
    海軍ですか。こちらも興味津々。
    また、楽しみにさせていただきます。ありがとうございました。
    失礼しま〜す。
  • 旅人のくまさんさん 2009/04/14 09:22:54
    歴史的価値が高い資料ですね。
    横浜臨海公園さんが所持されていると言われる、真崎甚三郎大将の名簿、実に貴重な歴史資料ですね。

    私はこの分野での素人ですが、あるきっかけで15年ほど前2・26事件に関する資料を読みあさったことがあります。
    そのきっかけとは、近所の飲み仲間の方から、その方のご高齢の母が書き写されたという、2・26事件に関する資料を読み解いて欲しいとの依頼があったためです。
    元資料は、憲兵司令部に下士官として勤務した山崎良太氏の長兄が記されたものです。山崎良太氏は、6年間林大将の身辺警護を務められ、その後志願して、19年に外地で戦死された方です。

    その中に記されたいくつかのエピソードです。林内閣が倒れ、良太氏が上司の大谷敬二郎氏に辞職願を出された時、長兄に思い止まってくれるよう説得をお願いする手紙が送られ、それを良太氏に届けて翻意させたという件もありました。

    最初は、憲兵隊への入隊のときのエピソードです。
    『憲兵学校は鬼みたいな学校だった。地獄だった。泣き出す者もいた。そんな者に対しては、原隊に帰りたいものは帰れ、8円80銭の兵隊を百円以上で雇うんだ。嫌なやつは帰れ!』
    こうして、全国から80名が選抜された中で26名が残ったとされます。

    また、2・26事件が発生した時の真崎大将の行動は、
    『夜、真崎大将は、カーキ色の三ツ星外套の上から帯剣し、安藤輝三から抜剣刀(?)剣の礼を受け、その報告をいちいち聞いた』
    とも記され、事件の黒幕であったと憲兵隊は掴んでいたようです。政治的に事態収拾が図られたようです。

    また、良太氏が御前会議の隣室に詰めて警護に当たった時の証言です。
    『数時間に及ぶ会議の席上、誰一人、咳するものも無く、1、2回小用のために厠に赴かれた者以外、咳を外した者も無く、陛下は2回ほど、上厠のため立ち上がり・・』
    と記され、世に言う『朕自ら賊軍を撃つ』の昭和天皇の激昂した姿は無かったようだと証言されています。

    15年ほど前に重点的に読んだ2・26事件に関する本を、当時お預かりした資料と一緒に思い出しました。

    ではまた。(旅人のくまさん)

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2009/04/15 14:18:43
    拝復
    旅人のくまさんさま、こんにちは。


    早速メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    > 横浜臨海公園さんが所持されていると言われる、真崎甚三郎大将の名簿、実に貴重な歴史資料ですね。
    >
    > 私はこの分野での素人ですが、あるきっかけで15年ほど前2・26事件に関する資料を読みあさったことがあります。
    > そのきっかけとは、近所の飲み仲間の方から、その方のご高齢の母が書き写されたという、2・26事件に関する資料を読み解いて欲しいとの依頼があったためです。
    > 元資料は、憲兵司令部に下士官として勤務した山崎良太氏の長兄が記されたものです。山崎良太氏は、6年間林大将の身辺警護を務められ、その後志願して、19年に外地で戦死された方です。
    >
    > その中に記されたいくつかのエピソードです。林内閣が倒れ、良太氏が上司の大谷敬二郎氏に辞職願を出された時、長兄に思い止まってくれるよう説得をお願いする手紙が送られ、それを良太氏に届けて翻意させたという件もありました。
    大谷敬二郎は最終階級は憲兵中将で終戦の日未明の近衛師団の反乱事件などの収束を行った事で知られ、また憲兵出身者では四方諒二とは異なり良識的思考を持った人物だった事で知られてます。
    >
    > 最初は、憲兵隊への入隊のときのエピソードです。
    > 『憲兵学校は鬼みたいな学校だった。地獄だった。泣き出す者もいた。そんな者に対しては、原隊に帰りたいものは帰れ、8円80銭の兵隊を百円以上で雇うんだ。嫌なやつは帰れ!』
    > こうして、全国から80名が選抜された中で26名が残ったとされます。
    憲兵学校は法理論などを扱う為に原則的に旧制中等学校卒業以上の学歴者でなければ入校できなかったそうです。
    >
    > また、2・26事件が発生した時の真崎大将の行動は、
    > 『夜、真崎大将は、カーキ色の三ツ星外套の上から帯剣し、安藤輝三から抜剣刀(?)剣の礼を受け、その報告をいちいち聞いた』
    > とも記され、事件の黒幕であったと憲兵隊は掴んでいたようです。政治的に事態収拾が図られたようです。
    尤も、真崎大将は取調べを担当した某憲兵伍長に対し「どうか自分を助けてくれ」と土下座した事実もございます。
    >
    > また、良太氏が御前会議の隣室に詰めて警護に当たった時の証言です。
    > 『数時間に及ぶ会議の席上、誰一人、咳するものも無く、1、2回小用のために厠に赴かれた者以外、咳を外した者も無く、陛下は2回ほど、上厠のため立ち上がり・・』
    > と記され、世に言う『朕自ら賊軍を撃つ』の昭和天皇の激昂した姿は無かったようだと証言されています。
    >
    > 15年ほど前に重点的に読んだ2・26事件に関する本を、当時お預かりした資料と一緒に思い出しました。

    小生、関東某県で陸軍憲兵出身者で組織する「憲友会」会長ともお付き合いをさせて戴いておりますが、憲兵任命当時、上司から2.26事件に就いて「収束後の取り扱いが極めて稚劣だった為に陸軍中堅が当然の如く下克上を当たり前として言行動する様になった。真崎や伏見宮殿下を裁くべきだった」と回顧されたそうです。
    下克上とは辻正信の事をさすのでしょう。

    兎に角、此の名簿から新事実が幾つか判明しております。
    公になれば従来の解釈が引っくり返るほど凄いものです。
    解読完了まで、あと5年くらいかかりそうです。



    横浜臨海公園
  • Medinaさん 2009/02/01 00:05:10
    これは凄いです。
    はじまして。Medinaです。私も仕事で湯河原には隔週で行きますが、この場所に
    残照 2.26事件 - 現在に残る2冊の極秘資料初めて見ました。
    湯河原伊藤屋旅館別館光風荘今度行って見ます。貴重な資料を拝見して1票投じさせて貰いました。これからも宜しくお願い致します。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2009/02/02 11:47:26
    拝復
    Medinaさま、こんにちは。


    私も仕事で湯河原には隔週で行きます
    湯河原に月2で訪れられるなんて羨ましい限りです。

    湯河原伊藤屋旅館別館光風荘今度行って見ます。
    観光ルートでは無いので何時も空いてます。



    もうすぐ2.26事件から73年目
    横浜臨海公園
  • 空っちょさん 2008/07/04 20:09:49
    ご連絡ありがとうございました!来ましたよ!


    >撮影場所を見て????とならないで下さい。


    <(❍ฺ?❍ฺll)> この写真☆期間限定にするからですかぃ?

    関係者に怒られない程度で♪ っで、突然、辞めないで下さいね♪


    そして☆完成!楽しみにしとります!

    ご連絡ありがとうございました!!!

  • ツーリスト今中さん 2008/07/04 12:52:19
    興味深く拝見しました
    臨海公園さんのご本は未だに
    拝読できておりませんが
    この辺りとも関係しているのでしょうか?

    貴重なものを拝見できたこと
    その文書を臨海公園さんがお持ちだと
    言うことに改めて驚いております。

    コミュにお誘い頂いたまま
    参加できずに(するつもりでおります)
    失礼しました。

    また、クロガモさんと藻琴山に行った折り
    オーチャードグラスに寄って
    オーナーと話が出来ました。
    そのことを別途メールを差し上げましたが
    届いているでしょうか?
    あまり、ゆっくりと話せなかったので
    またの機会にと思っています。

    続きを楽しみにしております。
  • tawassanさん 2008/06/29 00:53:32
    ひどく寒い日・・・
    横浜臨海公園さん、こんばんは。

    tawassanです。

    2.26事件とは1936(ひどく寒い)日に青年将校が起こしたクーデターという
    ことくらいの単なる受験のためのゴロアワセの年号くらいの薄っぺらな知識
    しか持ち合わせていませんでしたが、この旅行記で興味をそそられました。

    湯河原も関係してるんですネ。初めて知りました。

    この旅行記は「建造中」となっておりますが、完成を楽しみにしております。
  • akicさん 2008/06/21 11:08:28
    横浜臨海公園さん蔵?!
    こんにちは!
    akicです。
    これは画期的な旅行記ですね…
    2.26事件、歴史学習やテレビの特集で触れた事はありますが、
    あまりよく知りません…お恥ずかしい。

    そしてこれらの貴重な資料、
    横浜臨海公園さんがお持ちになっているのですか??
    とても興味深かったです。

    akic

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2008/06/22 18:52:23
    拝復
    akicさま、メッセージを賜りまして誠に有難うございました。


    > これは画期的な旅行記ですね…

    更に追加アップを予定している写真をご覧になられて撮影場所で驚かれないで下さい。


    > そしてこれらの貴重な資料、
    > 横浜臨海公園さんがお持ちになっているのですか??

    そうなんです。
    小生個人の蔵物でございます。
    本来は小生の研究では無いものですが趣味でやっております。



    横浜臨海公園
  • SUR SHANGHAIさん 2008/06/21 08:34:17
    先日は…
    …書き込みはせずに通り過ぎてしまい失礼いたしました。

    2.26事件の歴史的に重要な資料が現存するだけでも驚きですが、それをこうして横浜臨海公園さんの旅行記で目にできるとは更なる驚きです。

    表紙は静かな印象の資料のようですが、その中には日本の歴史の一端が詰まっているのですね。




    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2008/06/22 18:46:47
    拝復
    SUR SHANGHAIさま、メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
    >
    > 2.26事件の歴史的に重要な資料が現存するだけでも驚きですが、それをこうして横浜臨海公園さんの旅行記で目にできるとは更なる驚きです。

    小生、他の方々の旅行記を拝見させ続けていて、写真の羅列だけのマンネリ旅行記に辟易していた一面が否定できませんでした。
    別の観点から旅行記を作製して見てはと考え今回アップした次第です。
    此れから追加を予定している写真には、チョッと考えられない所で撮影した分も出てくる計画です。


    > 表紙は静かな印象の資料のようですが、その中には日本の歴史の一端が詰まっているのですね。

    現在、記載されている人物の解析を進めておりまして、概ね20パーセント前後の人物が判明しております。
    記載されている中には意外中の意外と考えられる人物も存在し、今までの2.26事件の解釈が全面的に変わる可能性が出て来ております。



    横浜臨海公園
  • 義臣さん 2008/06/16 15:48:18
    貴重
    私の生まれた年の貴重な資料拝見
    驚きと好奇心がむくむく湧くようです
     有難うございます。
       義臣

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2008/06/17 14:48:04
    拝復
    義臣さま、こんにちは。

    遅ればせながらメッセージを賜りまして誠に有難うございました。
    件の資料は2.26事件終了直後の昭和11年3月に作成されたものと推定しております。
    解析には未だ々々時間を要する様で、あと数年はかかるものと考えております。
    日華事変、張鼓峰事件、ノモンハン事件、そして大東亜戦争で名が出てくる人物が多数記載されております。


    横浜臨海公園
  • スーポンドイツさん 2008/06/16 11:49:37
    歴史・・
    横浜臨海公園さん
    新旅行記、お待ちしておりました。
    2.26事件については、何年か前に「その時歴史が動いた」を見ました。
    (この事件に限らず)時間の経過と共にまた昭和の新資料が出てくるのでしょうか。
    子供の頃、(小・中・高とも時間切れ!?)授業は明治あたりで終わってしまいましたから、近現代の歴史には興味があります。

    国会図書館にでも入りそうな資料をお持ちなのですね。
    スーポンドイツ

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2008/06/17 14:42:33
    拝復
    スーポンドイツさま、こんにちは。

    遅ればせながらメッセージを賜りまして誠に有難うございました。
    件の資料は、2.26事件当時に戒厳令司令部憲兵隊本部で憲兵少尉だった方が取調資料として作成したものです。
    当時の事なのでコピー機など存在せず1件1件手書きで筆写したもので、事件解決後自宅に持ち帰ったものが戦災等に遭わず現存していた物です。
    現在でも旧家などを取壊した際に稀に発見される事があり芥として処分されるか小生の如き者に渡り研究対象となるか微妙な所です。


    横浜臨海公園
  • rimigardenさん 2008/06/15 19:23:55
    生々しい資料なんですね。
    2.26事件有名な事件ですね。
    中学、高校と習ったはずなのですが
    その割には暗殺された人物の名前は思い出せません。
    勉強不足でした^^;

    横浜臨海公園さんが所有されているものなのでしょうか???
    驚きです\(◎o◎)/!

    ・・・りみ・・・

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2008/06/15 19:38:52
    拝復 本物です
    りみさま、こんばんは。

    久々に旅行記を発表させて頂きました。
    仰せの通り件の資料は小生が研究用に入手した個人蔵の現物です。


    横浜臨海公園

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