2008/04/27 - 2008/04/27
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井上@打浦橋@上海さん
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4月27日に第36回の上海歴史散歩がありました。私は1年ぶりの参加でした。
今回の散歩地域は虹口区の南部、戦前日本人が多く居住生活していた地区です。
ディック・ミネと言う往年の歌手が居まして、彼の歌う歌に上海を舞台にした「夜霧のブルース」って
のがあります。その歌詞に・・・・
青い夜霧に 灯影が紅い どうせおいらは ひとり者
夢のスマロか ホンキュの街か ああ 波の音にも 血が騒ぐ
・・・というのがありますが、「ホンキュ」ってのが虹口のことです。
「虹口」は普通語で発音しますと「ホンコウ」ですが、上海語ですと、こんな発音になるんでしょう。
戦前の上海には10万人の日本人が住んでいたとか・・・・。その中で、ホンの一部の上流階級の連中のみ英米租界や、フランス租界などに住むこと出来たらしいですが、殆どの日本人は日本人租界と呼ばれていた虹口地区に住んでいたということです。そして、その虹口日本人居住区の中でも、魯迅公園がある辺りは、チョイとハイクラスは連中が住む地域でして、この日に周りました南部地区は一般庶民が住む地域だったんでしょう。
この地区は個人商店、旅館、飲食店、娯楽施設、集合住宅などが多かったんでしょう。戦後日本人が去ったあとは、地元の上海人たちがそれらを利用していまして、10年くらい前までは、それらの殆どは、そのまま残っていたんでしょうが、ココ10年の間に、ドンドンなくなっているようです。4・5年前にも歴史散歩でこの地区を回りましたが、その時から比べますと、日本人が残した、あるいは関連していた建築物は、もう、確実に減ってきていましたね。
上海に住んでる方、あるいは上海に旅行に来て時間が余った方で、当時の日本人の生活に興味をお持ちと言う物好きな方、どうぞこの地区をぶらついてみてください。この地区には、日本語を話すお年寄りが多いですよ。立ち止まって地図などを見てると、何を探してるんだと気軽に話しかけてくる人も多いのです。
そうなんです、こちらの方は、物見高いといいますか、スグ参加してくると言いますか、垣根が低くて、ドンドン入り込んでくるんです。
この表紙の下の写真は西本願寺・上海別院の前で、我々が主催者K山さんの説明を聞いてるところなんですが、その中にも物見高い人が入り込んでるんです。オレンジ色のヘルメットを被ったおっちゃんがそうです。一緒になって説明を聞いていたのか、あるいは皆さんが持ってる資料を覗き込んでいたのか、暫く輪の中に居ました。
なお、この地区には、2005年の9月にもうろつきました。
その時の散歩ブログは下記です。
「上海・日本人租界散策2・・・西本願寺は・・」
http://4travel.jp/traveler/dapuqiao/album/10034066/
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コレがその日の上海歴史散歩のコース案内図です。
黄色のラインがその日のコースです。
集合場所の虹口消防局を出発したのは9時15分です。コースはあっちへ行き、こっちへ行きと、ジグザグです。
最終地点の、その日の会食開場・浦江飯店着いたのは12時40分でしょうか・・・
3時間半の散歩となりました。 -
メンバーの待ち合わせ場所は、呉淞路と武進路の交差点角にある消防署です。
そこに8時50分に集合です。
我が家からは17路バスが最適。
打浦橋から乗り、降りたのが、この海寧路呉淞路のバス停です。
ただ今、8時23分です。
バス停は海寧路上にあり、呉淞路までは東へ100mほどでたどり着けます。 -
バス停から50mほど行った対面にありましたなんか変わった建物です。
伊麗旅館と言う看板が掛かっています。 -
海寧路と呉淞路に架かる歩道橋の上に来ました。
歩道橋の上では、もう、店開きしてる人が2・3人いました。
歩道橋の向こうに見える白い建物群は上海市第一人民医院です。 -
歩道橋を下り、呉淞路を北にチョイ行きましたら、もう武進路との交差点に来ました。
向こうに見える建物が待ち合わせ場所の虹口の消防局です。
ワンちゃんが信号無視して車道を渡っています。ワンちゃんは色盲ですので信号の色が分からないんでしょう。いや、そういうことじゃないか・・・・
ただ今、8時29分です。 -
消防署の中の消防車を撮りました。
-
ただ今8時48分。
もう、大方のメンバーは集まりました。
一年ぶりですので、久しぶりの顔に会えまして、
主催者K山さんの説明が始まるまでは、懐かしい話に花を咲かせました。
この消防署は1915年に出来ました。
当時の名は虹口救火会といったそうです。
現在の正式名は消防局虹口中隊と言うそうです。 -
消防署の南の道・武進路をチョイ東へ行きますと虹口中学があります。
ココへ入ります。 -
高くて広い入場門をくぐりますと蔦の絡まる校舎が見えてきます。
-
この校舎は、1929年に建造された物ですが当時は日本人小学校として使われていました。
中部日本小学校・第四国民学校という小学校だったそうです。
1939年当時は、生徒数1484名、教員数34名と言う規模だったそうです。
ココで、記念に集合写真を撮って頂きました。 -
虹口中学を出て、元の道を戻り、呉淞路に出て、チョイ北へ行き哈爾濱路まで来ました。
その角に建つ建物が、上海毎日新聞が使っていた建物です。
現在は招待所に利用されてるようです。 -
呉淞路をチョイ南に下がり武進路に入り、西へ行きます。
左に見えてくるのが、この建物。
滬北会堂と言う教会だったそうです。
日本YMCAも使っていたようです。
数年前までは幼稚園でしたが、今は、招待所になってるとか・・・。 -
武進路の北側沿いに並ぶ3階建ての集合住宅群です。
当時、この建物では井上旅館とか山崎ホテルとか新田旅館というのが営業していたようです。武進路は、昔は旅館が並ぶ道だったようです。
この建物の手前の海南路を北へ行きます。 -
この道が海南路です。
両脇は、昔の建物は全て撤去されてしまい、現在は、更地になっていたり、工事が始まっているところもあります。
この海南路突き当りの右の建物が大和ホテルです。 -
海南路の西側地区は、もう工事が始まっています。
右の建設機械は山留めのための連壁を造る機械です。
ということは、この一帯、地下3・4階のビルが建つということなんでしょう。
私、元土建屋ですので、その辺は、一応、詳しいのです。
向こうの3階建てレンガつくりの建物の向こうに武進路があるということです。 -
これが海南路突き当りにある大和ホテルです。
大和ホテルといいましても、大連や哈爾濱にあったあの大和ホテルとは別系統のように思えますが、どうなんでしょうか・・・
主催者のK山さん、この建物の前では、こんな講釈していました・・・・・
当時ココには、淡谷のりこ、渡辺はま子、伊藤久男、岡晴夫、赤坂小梅などが泊まったそうです。
と言っても、ご存知の方少ないでしょうね、ご存じの方は、60歳以上ということです。
・・・・・と言いながら、ご自分で笑いを漏らしていました。私もそれにつられて、ニッタリ。
ええ、私・・???、いずれもお名前だけは知っています。決してリアルタイムで知っているわけではありません。 -
また武進路に戻り、旅館街だった建物を撮りました。
-
武進路から乍浦路に入りました。
南にチョイ行ってスグ右に見えてくるのが、この異様な建物です。
西本願寺・上海別院です。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・
西本願寺は1906年文路(現塘沽路)に上海別院を開く。1931年乍浦路に岡野重久設計の新堂が完成、移転。築地本願寺を模したインド風建築が異彩を放つ。虹口体育倶楽部として使われていたが、現在ではディスコになっている。・・・
となってますが、今は、何も使われていないのか・・
あるいは左隣りのスーパー「家得利」の店の一部になってるのか・・。
この西本願寺・上海別院は日本の築地本願寺を模したインド風建築物ということらしいので、その築地本願寺の画像も並べて見ました。 -
西本願寺・上海別院の乍浦路に面した壁にはこういった丸い文様が21個あります。
ココに写ってるのはそのうちの9つですが、その文様に関しては・・・
「上海・旧日本建築探検」なるサイト
http://www.my-city.com.cn/200310/old-shanghai/old-shanghai.htm
に書かれていました。それをコピペします。
[西本願寺上海別院]
1906年秋に乍浦路123号の民家を借り、出張所を設けて誕生。08年5月18日に文路(現塘沽路)に移転し、31年5月20日、乍浦路と老子路の角に本堂と会館を建立した。設計は岡野重久らが担当し、島津礼作工程所が施工した。本堂の正面基部にはインドの“欄楯”を象った21の円形の飾りがあり、採光はインド石窟(26窟)を模している。乍浦路471号。
・・・・・となってます。
欄楯とは・・・「らんじゅん」読みまして・・・
仏説阿弥陀経に「極楽世界には七重にかこむ玉垣(欄楯)と七重につらなる並木(行樹)がある」とある。欄楯は本殿を囲むお飾りとしてインドのサンチーの仏塔やブッダガヤの大塔をはじめ、築地本願寺にも用いられている。・・・・・ということらしいです。
いやぁ、勉強になります。 -
さて、コレは、その西本願寺・上海別院の前で主催者のK山さんが、皆さんを集めて説明してるところです。
こうやって集まって何かしてますと、道行く人は、皆さん、なんだなんだと顔を突っ込んで来るんです。何やってるんだと聞いてきたり、「ああサパニン(日本人のこと)かぁ・・・」と行って立ち去ったり、あるいは、昔覚えた日本語で話しかけてきたり・・・中には、暫く我々の輪の中に入って、説明に聞き入ったり、あるいは、資料を覗き込んだり・・・
この時もオレンジ色のヘルメットを被ったおっちゃんが紛れ込みました。 -
乍浦路をチョイ南に行きます。
-
西本願寺の南隣にあるのがこの本圀寺です。
日蓮宗のお寺だったらしいです。
現在は一般の方が住んでます。 -
コレは何だったか・・・
本圀寺の対面にある常盤館かもしれません。 -
乍浦路から北海寧路に出ました。
北海寧路は短い道です、その中ほど北側にあるこの建物が豊陽ホテルです。
今は雑居住宅になってますが、当時は日本旅館の中の老舗だったとか。
宿泊者の中には、島崎藤村、松岡洋右、大辻伺郎、平岡養一、山田五十鈴、渡辺はま子、原節子、李香蘭などもいたとか。
下の画像は05年9月3日のもの。
右の小さな画像は、当時の絵葉書のもの。 -
北海寧路の東端からクルッと回って、海寧路に出て西へ行きます。
乍浦路の手前にあるのが、この建物。
昔のウヰルス劇場(Willers Theatre)です。
4・5年前は勝利電影院と言う映画館だったそうですが、3年前は勝利街(Victory Street)というディスコになっていました。
今は思得客・STEAK KINGと言う店が入っています。 -
海寧路を更に西へ行きます。
国家宝藏(National Treasure)を上映してる映画館が右に見えてきました。
コレがリッツ劇場です。現在も映画館でして、その名は国際電影院です。上海歴史ガイドマップによりますと・・・
1932年11月開場。日本占領下では、中華劇場株式会社の上海国際劇場となり日本映画を上映。・・・・
となってます。
さて、この時にも部外者が我々の輪に加わりました。
下の画像の赤○3人がそうです。 -
海寧路を戻り、乍浦路まで来て、交差点を渡り、南に伸びる乍浦路に向かいます。
その乍浦路と海寧路の角には、昔、虹口大戯院というのがあったようです。
コレがその記念碑です。
主催者K山さんの資料によりますと・・・
上海最初の常設映画館。1908年、スペイン人ラモスが、トタン張り250席の映画館を乍浦路と海寧路角に開設した。その成功を受けて近くにいくつモノ映画館が開場し、虹口の映画館街を形成した。・・・とあります。
ラモスと言えば、ラモス・アパートを思い浮かべます。
ラモス・アパートのラモスも、このスペイン人ラモスなのかもしれません。
ラモスアパートは下記をご覧ください。
http://4travel.jp/traveler/dapuqiao/pict/10493503/
林京子の「ミッシェルの口紅」には、戦前、上海に住んでる時、虹口シネマで「風と共に去りぬ」を見た、と書かれていますが、その虹口シネマというのが、この映画館なのか・・・・??。
「風と共に去りぬ」は、日本では公開されたのは戦後になってからですが、上海では出来立てが見られたということでしょう。
と言うことで、当時は長崎あたりの人は上海に封切り映画を見に行く人もいたとか・・。 -
レストラン街の乍浦路を南に行きます。
この看板だらけの道は、香港みたいですね。 -
乍浦路から崑山路を左(東)に行きます。
チョイ行って右にある食い物屋です。
いや、「朝鮮冷面」が気になったのです。
私、この朝鮮冷面ってのが、大好きなんです。
でも、上海ではあまり見かけませんね。
北京では、今頃になると、朝鮮冷面や延吉冷面だらけになります。
1碗5元ですが、夏にはコレが一番です。 -
崑山路沿いにある教会です。
景林堂と言いまして、1923年建造のアメリカ・メソジスト派の教会らしいです。
宋慶齢の父・宋耀如が一時牧師をやってまして、宋一族が礼拝に来ていたらしいです。 -
崑山路を更に東にチョイ行ったところの北側にあるのが、昔の日本居留民団の建屋です。
この奥に見えます白い建物がそうです。 -
これが、その日本居留民団の建屋です。
現在は上海財経大学の施設に使われてるようです。
では、その日本居留民団とは、何だったのか・・・
「上海歴史ガイドマップ」によりますと・・・
日本政府の居留民法に基づき1907年に設立された、上海在住日本人の自治団体。名目上は存在しなかった「日本租界」の実質的な管理機構として、傘下に最多時180近くの町内会組織を持った。所得に応じて民団課金を徴収し、学校、診療所、火葬場などの経営に当たる。・・・・とあります。 -
崑山路を西へ戻り、乍浦路まで来ました。
この建物は崑山路と乍浦路の南東角にある建物です。
コーナー部の塔屋の天辺が金ピカになってました。
昔からそうなのか、最近そうしたのか・・・
「上海歴史ガイドマップ」を見ますと、乍浦路254号住宅となっています。 -
崑山路を更に西へ行き、百官街に入り、南に下がり、崑山公園の前まで来ました。
-
崑山公園の西にあるレンガ造りの集合住宅です。
コレも、なかなか趣きあります。
「上海歴史ガイドマップ」を見ますと丁玲寓所となってますね。
初めて聞く名ですが、調べましたら・・・
20年代の後半に茅盾、老舎、巴金などど相前後して頭角を現した女流作家・・・らしいです。 -
百官街から塘沽路に出て東へ行きます。
乍浦路を超えて振り返りました。
右奥の建物が浦西公寓です。昔のピアス・アパートです。
1931年に建てられたもので、当時は外国人のみ住んでいました。
1932年に聯合通信上海支局長となった松本重治はココに住んでいまして、
南京虫に悩まされたそうです。 -
このピアス・アパートは平面的にはロの形をしていまして、これは、ロで囲まれた中庭です。
但し、コレは05年8月に撮ったものです。
ピアス・アパートと言いますと、私は西木正明さんの「其の逝く処を知らず」というノンフィクション小説を思い出します。阿片王・里見甫の物語です。その文庫本の帯には、こう書かれています・・・・・
中国大陸に侵出した日本陸軍をアヘンの売買で支えた男。その数奇な生き方とは・・・・
「其の逝く処を知らず」のピアス・アパートに関する部分を引用します・・・
ピアス・アパートは虹口のほぼ中心部に当たる文路と乍浦路の交差点に面して建っている七階建てのアパートである。全体が黒ずんだ鉄筋コンクリートのビルで、虹口サイドでは屈指の高級アパートだ。里見が借りたのは、四階の四十七号室。全部で五部屋あり、二十畳ほどの応接間兼居間を中心に、寝室が三部屋、ダイニングキッチンが一部屋と言う間取りだった・・・とあります。
文路は今の塘沽路です。昔の英語名・Boone Roadから「文路」になったんでしょう。
当時は黒ずんでいた、と言うんですから現在のこの色は、塗り替えたものなのか・・・ -
塘沽路をチョイ東に行った北側にあるのが、この煉瓦造りの平屋の建物です。
工部局女学校と言ったそうです。
1866年フリーメーソンによって設立された外国人子弟のための学校は上海パブリックスクールと言ったそうですが、それの女子部のようです。 -
塘沽路の更に東行きます、呉淞路にぶつかります。
前に見えます高層ビルの敷地に、昔虹口マーケット(三角地菜場)があったということです。
昔と言っても、90年代半ばまであったとか・・・。
三角地菜場に関しましては林京子さんの「ミッシェルの口紅」に詳しく出ています。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・
租界工部局が最初に開いた公設マーケット。1891年、地価高騰を見込んだ不動産商ハンベリーから安価で三角地の提供を受け建設される。1916年3階建てに改築。当時、東洋一之規模といわれた市場の豊富な品揃えは、内地から来た日本人の目を見張らせるものだった・・・
とあります。
右の建物は公安大楼です。
高層ビルと公安大楼の間の道を行きます。
その道も塘沽路です。 -
公安大楼です。
昔の虹口警察官舎。
「上海歴史ガイドマップ」によりますと・・・・
租界警察の日本人巡査の家族用アパートとして1931年竣工。エレベーターなど当時最新設備を備える。塔状の外観をなす8階鉄筋コンクリート造。現在も公安部門の家族宿舎となっている。・・・・とあります。 -
塘沽をチョイ東に行った所に建つ高層マンションです。
耀江国際広場と言うんですね。
この辺りのマンションっていくら位なんでしょうか・・・
http://www.souwoo.com/house_view_2432346.html
を見ますと、163?で510万元ですから、31200元/?ですね。 -
塘沽路から哦眉路に入り北へ行き、漢陽路に出て、南潯路に入ります。
南に暫く行った右側に広い敷地が広がります。
北虹高級中学の校庭と校舎です。
ココには昔フレンチスクール(聖芳済学堂)があったそうです。
「上海歴史ガイドマップ」によりますと・・・
フランスのイエズス会が1874年仏租界バンドに開いた学校。1884年カトリック教会近くの現在地に広大な4階建て新校舎を建てて移転。初等6年、中等4年。生徒の国籍は二十数カ国に及び、日本人子弟の入学者もあった。通称フランス学校。・・・・とあります。 -
そのカトリック教会がコレです。
大聖堂は壊されてしまったようですが、この小聖堂は当時のままらしいです。 -
中に入らせていただきました。
「上海歴史ガイドマップ」によりますと・・・
1876年に竣工したカトリック教会堂。虹口地区の発展に伴って、仏租界の聖ヨゼフ教会の管轄下から独立し、蘇州河北岸の教区の中心となる。日本占領下では、宗教「宣撫」工作の拠点として日本人神父が着任し、多くの日本人信徒が礼拝に参加した。文革期の閉鎖を経て、1980年宗教活動を再開。かつての大聖堂は文革期に取り壊され、現在使用されてるのは当初の小聖堂。・・・・とあります。 -
入り口部に立つのが、この教会の関係者です。
主催者のK山さんが下見の時、この方に入場の許可を得たようです。
その下見の時に、K山さん、イロイロと、お話を伺ったそうです。
文革期の頃の酷かった時代の話になりますと、熱っぽい語りになったとか・・。 -
またフレンチスクールに戻ります。
1934年に開校60周年を記念して、大規模な式典があったようですが、そのときの様子の写真がフランス学校の南潯路沿いの塀に展示されています。
そして、どういうわけだか布団も干されています。 -
そのうちの1枚の前に立つ、この2人の欧米人。
この2人には、30分後、別のところで、また会いました。
その再会した30分後に分かったんですが、左の男性はどうやら、カナダの有名なカメラマンのようです。
右の男性の左腕には「忠」の刺青がありました。 -
南潯路から哦眉路に入りました。
コレは須藤医院があった建物です。
「上海歴史ガイドマップ」によりますと・・・
退役軍医の須藤五百三(いおぞう1876-1959)が1919年に開業した医院。3階建ての2階に診察室があった。晩年の魯迅は、須藤を主治医として、家族と彼自身の診察、往診に密な接触を持つ。死に至る3年余のあいだの魯迅の日記には、須藤の名が150箇所以上登場する・・・となっています。・・・・とあります。
下の画像は05年9月7日のものです。 -
哦眉路から閔行路に入り東へ行きます。
向こうに見えます赤レンガの建物も趣きあります。
その手前には新康里という石庫門住宅があります。 -
閔行路を長治路まで行きます。その角にあるのがこの建物です。
コレが昔萬歳館と言った旅館です。
昔、ココには佐藤春夫や芥川龍之介も宿泊したそうです。
今は一般市民の集合住宅なんでしょう。
右下の画像は05年9月7日のもの。
この時には入り口部の上には緑の瓦屋根がありました。
左下は、当時の萬歳館。 -
長治路に出ました。
向こうの赤レンガの建物の手前の道が今来ました閔行路です。
左の赤レンガの建物には竹の足場が掛かっていますが、いずれ解体されるそうです。 -
コレが、その、年内には解体されるかも知れない建物です。
赤い横断幕には、移転させられる人に対しては、十分に思いやり致しますので、なんてなことが書かれてるんでしょう。
さて、この集合住宅には、まだ人が住んでるのか・・・
殆どが、もう引越ししてしまったのかもしれませんが、まだ生活してる人もいるのです。
3階の1部屋に住む陳さん一家が、そうです。
主催者のK山さんが、この辺りに下見に来ました時に、その陳さんに話しかけられ、その時に、お部屋を見学させてもらったそうです。
そして、歴史散歩の際には、40人と大勢だが、見学させてもらえますか、と尋ねましたら、ええ構いません・・・ということになったそうです。
この辺、なんていいますか、コチラの人は難しいことを言わないと言いますか、ホントに気軽に応じてくれるんですよね。
と言うことで、この日は総勢40人が部屋の見学をさせてもらいました。
いや、部屋だけでなく・・・・・ -
コレは3階まで上がる途中で見た、もう誰も居ない部屋です。
解体材が散らばっていますが、木材は仕分けされています。 -
階段は狭くて急です。
踏み板も手摺も木材で出来ています。
手摺は凝ったつくりです。 -
3階まで来ました。
3階が陳さんの部屋です。
陳さんにイロイロ伺いました。
お年は85歳だそうです。移転先は宝山区になるそうです。
ここには、トイレはあるんですか、と尋ねましたら。
あるそうです、そしてシャワー室もあるとか。
また結構昔からガスはあったそうです。
トイレは、もしかすると、水洗なのかもしれません。
となると、この集合住宅は、当時は、相当な高級住宅だったのかもしれません。
さて、部屋だけでなく、屋根の上に上がらせてくれると言うので、まずは、屋根裏部屋に上がります。
そこには猫ちゃんがいました。屋根裏部屋に上がるには、右に見えます梯子を利用します。
梯子を立替え直し、上へ・・・・ -
屋根裏部屋の窓から屋根の上に出ました。
まずは、こちらは南南東方向です。
近くにHyatt on the Bundが見え、その間に、浦東のおでんタワーと栓抜きビルが見えます。
前に連なる屋根と屋根の間の道は閔行路です。 -
次は南西方向です。
上海大厦・・・ブロードウェイ・マンションが見えます。
右の建物は銀波大酒店です。 -
40人の人があの狭い屋根裏部屋に上がっていき、そして窓を潜り抜け、屋根の上に出るまでは、相当時間が掛かりました。
私は、最初の方で、それを済ませましたので、最後の人がやり終えるまでの待ち時間は閔行路をプラプラ。
そのとき見たのが、コレです。
カメラマンが、店の人にああだこうだ言いながらカメラを向け、シャッターを押してるところを、更に撮影するグループがいたのです。
ああ、コレは有名なカメラマンの撮影風景を取材してるのかもと思ったのです。
このカメラマンに「どこから来たんだ」と中国語で聞きましたら「ジャナダ(カナダのこと」と言うわけです。逆に「ニー、ナ?(あなたは?)」と聞かれ、私は「I’Japanese」と答えましたら、「本当ですか?」と言う日本語が返って来ました。コレにはビックラこきました。
ほんでもって、家に帰りデジカメに収めた画像を見て、あれあれあれ・・・この2人は、あのフランス学校の塀の前にいた2人だ、と気付いたわけです。
このカナダのカメラマン、中国語はペラペラでしたね。日本語の程度は分かりませんが、「本当ですか?」って言って来るくらいですから、日本語も相当なものなのかも知れません。 -
長治路から武昌路に入り、黄浦路に出てきました。
これは黄浦飯店です。
この裏、黄浦江沿いに昔の日本総領事館があります。
今でも残っていますが、解放軍の施設になっていますので見ることは出来ません。
なお、K山さんの資料によりますと、屋根のみは、上海大厦から斜め下に見ることが出来るそうです。
また、黄浦飯店に入り、黄浦江側の2階から見ることが出来るとか・・・。
上の画像は、当時の絵葉書なのか・・・
浦東から、この辺りを眺めた様子です。
上海大厦の右下から、ロシア、ドイツ、アメリカ、日本領事館の順で並んでいます。
でも、どの建物が日本領事館なのか、風景が遠すぎて識別できません。 -
もう12時36分です。
会食の開場の浦江飯店に向かいます。
浦江飯店が右に見えてきました。 -
浦江飯店に入る前に、4月初めに保養に入りましたガーデンブリッジ跡地がどうなってるかを見に行きました。
外灘大改造工事に伴って、1907年から、ここにありましたガーデンブリッジも整備、補強しようということになり、そのため一旦取り外し、工場に持ち込んだそうです。
橋の両端支持部の基礎の補強工事なのか、新たに強固な基礎を建造するのか・・・そんな工事が始まっていました。 -
コレが、そのガーデンブリッジを取り外し、台船に積んで、工場へ向かうところです。
上海のニュースサイトのものです。 -
浦江飯店脇では結婚アルバムの撮影が行われてました。
-
会食は浦江飯店3階の黄浦江側の大きな部屋で行われました。
12時40分から始まり、2時近くまでやっていたのか・・・
ただ今、1時23分、宴もたけなわというところです。
本日の参加者は40人と聞いてましたが、テーブル5つに、満杯でしたから50人近く居たのかもしれません。
3時間の散歩と、貴重な体験と、詳しい資料による案内、そして、この場所での会食で100元というのですから、主催者K山さんには、もう感謝、感激です。
いや、そればかりではありません。開催当日の気苦労もそうですが、開催までの下調べ、下見、資料作りも大変であることは推して知るべし・・・・。もう、主催者K山さんには、頭が上がりません。いつも、ホントに有難うございます。
さあ、次は、どこなのか・・いつなのか・・・
コレで「第36回上海歴史散歩・戦前の日本人居住区」は終わりです。
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この旅行記へのコメント (8)
-
- ぬいぬいさん 2008/09/02 15:36:59
- お誕生日おめでとうございます
- 井上さん こんにちは どうもです。
上海歴史散歩 毎回見せていただいていますが、これって上海在住の方たちの集まりなんですか?
いつも思うのですが、参加してみたいですね。
この辺りって行ったことがないので一度行ってみたい場所です。
ところで、誕生日おめでとうございます。
私と一日違いなんですね。
去年も同じことを書いたような記憶が・・・。
でも、お互いあまり誕生日を素直におめでたいと思える年でもなくなってしまいましたね。
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2008/09/03 08:08:21
- RE: お誕生日おめでとうございます
- ぬいぬいさん、どうも。
今、私は日本です。
11日には上海に戻ります。
> 上海歴史散歩 毎回見せていただいていますが、
> これって上海在住の方たちの集まりなんですか?
> いつも思うのですが、参加してみたいですね。
ほとんどが上海在住者ですが、
日本にいる方にもメンバーは居ます。
一昨日は、その歴史散歩のメンバーや、
中国好きの人達と、
横浜の場末・野毛にある中華料理屋で
食事会をしてきました。
歴史散歩のメンバーで参加したのは女性二人。
そのうちの一人の方は、
84年当時、天津で同じ職場にいた人で、
4年前の歴史散歩で20年ぶりに再会した人でした。
もう一人は、下記のサイトの女性です。
http://tokyo-aiaiken.cocolog-nifty.com/
> この辺りって行ったことがないので一度行ってみたい場所です。
いつか行かれてみてください。
また違った雰囲気の上海が味わえます。
> ところで、誕生日おめでとうございます。
> 私と一日違いなんですね。
> 去年も同じことを書いたような記憶が・・・。
来年は60です。
はたして、年金はチャンと支給されるのかどうか・・・
> でも、お互いあまり誕生日を素直におめでたいと思える年でも
> なくなってしまいましたね。
いやいや、ぬいぬいさんは、まだお若い。
-
- STFS-97F26さん 2008/05/06 20:20:00
- 歴史散歩♪
- こんばんは。
旅行記を拝見したら
上海に行きたくなってしまいました。
早く行かないと灼熱地獄になっちゃいますよね・・・
上海博物館も無料になったし
年内には再訪したいと思っているのですが(考え中)
STFS-97F26
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2008/05/08 05:58:51
- RE: 歴史散歩♪
- STFS-97F26さん、グーテンモルゲン。
上海は4月末から爽やかな日が続いております。
先週の日曜日のみ雨が降りましたが・・・。
>早く行かないと灼熱地獄になっちゃいますよね・・・
そうなんですよ・・・・今が最高なんですよね。
6月末からは炎熱地獄になります。
さて今日は下町をぶらついてきます。
- STFS-97F26さん からの返信 2008/05/08 22:38:55
- 6月末から? RE: RE: 歴史散歩♪
- > そうなんですよ・・・・今が最高なんですよね。
> 6月末からは炎熱地獄になります。
7〜8月は散歩するには地獄だろうなーと思っていたのですが
6月末から地獄になっちゃいますか?
実は、6月後半に4連休が取れそうなので
どこか行こうかと検討していて
台北or上海で迷っているところなのです。
「梅雨時だけどマンゴー食べに台北」という路線で
気持ち的には固まりつつあるのですが・・・
上海にも梅雨ってあるんですか?
一般的には、上海グルメといえば上海蟹が王道だし
やはり一番のお薦めは秋ですかねぇ???
STFS-97F26(←どちらかといえば、蟹は苦手科目)
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2008/05/09 07:17:21
- RE: 6月末から? RE: RE: 歴史散歩♪
- STFS-97F26さん、どうも。
> 上海にも梅雨ってあるんですか?
勿論あります。
そして梅雨(メイユ)と呼びます。
梅雨を日本語で「つゆ」と読むのは、
「梅雨」と言う中国語に、日本独自の言い方「つゆ」を
当てはめたと言うことでしょう。
だいたい、梅雨は6月末には明けまして、
そこからは炎熱地獄となります。
> 一般的には、上海グルメといえば上海蟹が王道だし
> やはり一番のお薦めは秋ですかねぇ???
そうですね、9月末からでしょうね。
一番暑いのは7月。
8月になりますと、幾分、湿度は落ちます。
9月になっても、まあ気温は35度でしょう・・・
しかし、湿度はグッと落ちますので、楽になってきます。
>(←どちらかといえば、蟹は苦手科目)
私も蟹は苦手。
面倒くさい。
-
- 老頭児さん 2008/05/02 19:50:56
- 上海へ行きました
- 井上@打浦橋@上海さん 中国迷です。
4月11日〜4月16日 上海に滞在しました。
南橋飯店1泊 七重天賓館3泊 機電大酒店1泊しました。
お電話もせず失礼の段お許しください。
いずれの賓館も由緒あるようでなかなか好いホテルでした。
南京東路の写真撮影に行きました。
上海は行くたびに変りますね。
万博まで続くでしょう。
上海の旧リトルトウキョウは蘇州河の北側なんですね。こんどいきましたら
うろつきたい(徘徊)したいと思います。
では 再見
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2008/05/03 08:20:48
- RE: 上海へ行きました
- 中国迷さん、どうも。
昨日は爽やかな五月晴れ・・・・
今日も、そんな感じの天気になるでしょう。
ニュースでは杭州大橋が開通したことを
知らせています。
> 上海の旧リトルトウキョウは蘇州河の北側なんですね。こんどいきましたら
> うろつきたい(徘徊)したいと思います。
是非うろついてみてください。
面白いですよ。
日本語を話すご老人が居たりします。
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