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中央ヨーロッパ14日間 ?ウイーン

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    旅行時期 2008/04/07 - 2008/04/08 (2008/04/14投稿

    美しき町並みに出会う!中央ヨーロッパ14日間

    ウィーンは、オーストリアの都市名および州名であり首都でもある。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。ウィーンはハプスブルグ王朝時代、帝都として世界中から著名な作曲家や演奏家たちが集まり、名実ともに「音楽の都」として栄えていました。とりわけモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウスなど偉大な作曲家が活動の舞台としてきました。天使の歌声で世界中を魅了するウィーン少年合唱団や150年の歴史を持つウィーン・フィルハーモニー管弦楽団もここウィーンで生まれました。ウィーン国立歌劇場は、帝政時代からの華やかさを今に留め、ウィーンフィルの伴奏に一流歌手が出演、子役はウィーン少年合唱団、毎晩演目が変わり、レパートリーの広さは世界一です。宮廷歌劇場時代から社交の場として知られており、少しオシャレを楽しむのもお勧めできます。きっとウィーン滞在のメインイベントになるでしょう。レパートリーシステムで最大なだけではなく、ドイツ・オペラとイタリア・オペラの両方に対応できること、全てのスター歌手を安く使えること、専属オーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体であることなどからも、世界中で最も重要な歌劇場である。日本人指揮者である小澤征爾は、2002年9月より国立歌劇場の音楽監修に就任した事でも有名です。11年間も空席だった国立歌劇場の音楽監修に日本人が就いた事は、日本のみならずウィーンでもかなり話題となった。

    中央ヨーロッパの5カ国を巡る。
    ◆世界遺産は合計10箇所へ。
    ◆ドイツでは戦後ドイツを分断していたベルリンの壁やポツダム観光、旧ザクセン王国の首都ドレスデンの見所観光!さらにマイセン焼博物館も観光。
    ◆サウンド・オブ・ミュージックの世界が広がる美しい湖水地方【ザルツカンマーグート観光】に観光。
    ◆中世の雰囲気漂うドナウ河上流のドナウベント観光では「センテンドレ」へ。スロバキアの中世の香り漂う古都「ブラチスラバ」へ観光。
    ◆ベルリン・ザルツブルク・ウイーン・ブダペストなど、それぞれ2連泊しての観光もお楽しむ。

    1日目. 関西空港発 ベルリン着
     関西空港発「アリタリア航空」にてミラノへ。乗り継ぎ、ベルリンへ。
     ベルリンへ 夜/到着後、ホテルへ

    2日目.食事(朝:アメリカン) 【世界遺産ベルリン観光】(約4時間)
      ★戦後ドイツを分断していた ベルリンの壁、古代ギリシャ遺跡を再現した☆ペルガモン博物館、★ブランデンブルク門、 高さ114?の ベルガモン博物館。
      昼食 ソーセージ料理 レストランにて昼食後、
      ポツダムへ。
      【ポツダム観光】(約2時間)
      (1945年にポツダム会談が行なわれた☆ツェツェリンホフ宮殿、★サンスーシー宮殿)
      【※注】ツェツェリンホフ宮殿が予約方の際にはサンスーシー宮殿またはサンスーシー新宮殿に入場観光。
     再びベルリンへ。宿泊:(ベルリン泊)

    3日目 食事(朝:アメリカン)  ベルリン発 バッハの故郷ライプチヒへ
     途中 デッサウの世界遺産 バウハウスを見学
     ライプチヒ 12:00/レストランにて昼食。
      バッハゆかりの 聖トーマス教会 ファサード 大時計が美しい旧庁舎 観光後、ドレスデンへ。
     17:00/ホテル着。♪夕食はビーフ料理。宿泊:(ドレスデン泊)

    4日目.食事(朝:アメリカン)
     【ドレスデン観光】(約3時間)
      (エルベ河畔にたたずむバロック式の宮殿★ツヴィンガー宮殿、ワーグナーで有名な★ゼンパーオペラ、★劇場広場)
     12:00/【マイセン観光】(約1時間) (☆マイセン磁器の博物館) 宿泊:(ドレスデン泊)  

    5日目.食事(朝:アメリカン) ドレスデン発 プラハへ 
     プラハ着 9:00/バスにて「百塔の都」と称された街プラハへ。
     プラハ到着後、昼:チキン料理。
     午後/【世界遺産プラハ歴史地区観光】(約4時間)
     丘のうえにある☆プラハ城ではミュシャのステンドグラスのある☆聖ビート教会、プラハ最古の石橋★カレル橋、中性の町並みを残す★旧市街。
     17:30/ホテル着。
     19:00/
     ♪夕食はプラハ最古のビアレストラン「ウ・フレク」にて郷土料理。チェコ名物黒ビール飲み放題(約60分)。 宿泊:(プラハ泊)
     

    6日目.食事(朝:アメリカン)プラハ発 クトナーホラへ
     チェコの世界遺産クトナーホラ観光(約2時間) 昼:レストランでロールキャベツ
     クトナーホラからテルチへ
     世界遺産テルチ歴史築観光(約1時間)その後プラハへ 宿泊:(プラハ泊)

    7日目.食事(朝:アメリカン)プラハ発 オーストリアのザルツブルグへへ
      途中 チェコで最も美しいと称される中世の街チェスキークルムロフへ
       ビール造りで有名な チェスキーブディヨブッツ(約1時間)  昼:ビーフ料理
      【世界遺産チェスキークルムロフ歴史地区観光】(約1時間30分)。13世紀の面影が残る★チェスキークルムロフ城、★旧市街。

     観光後、国境を越えモーツァルトゆかりの地、ザルツブルクへ。 ♪夕食は魚のロースト。 宿泊:(ザルツブルク泊)

    8日目.食事(朝:アメリカン)
      終日ザルツカンマーグート観光?(約1時間30分)。★【世界遺産ハルシュタット】、
     「サウンド・オブ・ミュージック」の世界が広がる美しい湖水地方へ。 ★昼食はビーフシチュー。
      午後【世界遺産ザルツブルク観光】(約3時間)
     (☆モーツァルトの生家、★ゲトライデ・ガッセ、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台の☆ミラベル庭園) 宿泊:(ザルツブルク泊)  

    9日目.食事(朝:アメリカン) ザルツブルク発  ウィーンー
      途中 世界遺産のヴァッハウ渓谷へ バスにて社葬よりドナウ川沿いの景色を楽しむ。
      レストランで昼食後/一路、ウイーンへ。 宿泊:(ウィーン泊)
      ウィーン着後【世界遺産ウイーン歴史地区観光】(約3時間)
      ハプスブルグ家の夏の宮殿☆世界遺産シェーンブルン宮殿、バロック様式の美しい★ベルベデーレ宮殿、世界遺産の歴史地区に立つ★シュテファン寺院★オペラ座)
     ♪夕食はウインナーシュニツェル 宿泊:(ウィーン泊)


    10日目.食事(朝:アメリカン) ウィーン 自由行動
    タクシーをチャーターして、音楽家の生家や墓等を回る。

    【警告】
     油の高騰により燃油特別深運賃が高騰しているが、20008年7月から更に急高騰し、総旅費の半分以上になる場合が発生している。ゆえに当分海外良好は見送った方がよい。

    ■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
    copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.

    写真 35枚

    エリア:
    オーストリア > ウィーン
    エリアの満足度:
    評価なし
    • ウイーン中央墓地 楽聖墓地

      ウィーンは、オーストリアの都市名および州名であり首都でもある。都市単独で一つの連邦州である。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」「楽都」とも呼ばれる。作曲家の墓で有名なウィーンの中央墓地は、ベートーヴェン,シューベルト,ブラームスなどの大作曲家の墓が集中して並んでいる。ここには他に,シュトラウス親子,スッペ,ヴォルフといった作曲家の墓もある。有名な音楽家の墓の写真をあれこれ撮影し、日本の墓とは全然違い見事な趣向の凝らされた数々の墓石を眺めながら散策しました。中央墓地全体が非常に美しく整備された墓地です。

    • ベートーヴェンの墓(ウイーン中央墓地)

      ベートーヴェンたち楽聖の墓は、郊外の「ウイーン中央墓地」にある。いわゆる楽聖の墓の集まる区画は、案外狭くその狭い区画に超有名作曲家のお墓がならんでいる。墓は元の墓の複製でベートーベンの墓地は、メトロノーム型でその下に名前があり土台の部分前面に以下のような記述がある。「元々ヴェーリンク墓地にあったベートーヴェンの墓碑は、ヴィーン市の都市拡張基金とヴィーンの音楽ソサエティーであるフィルハーモニカー協会の寄付により、1888年元とそっくりの墓碑が立てられた。」(墓碑銘)。ベートーヴェンの墓は、常に花がいっぱいで溢れている。

    • モーツァルト祈念碑(左)、シューベルトの墓(右)、
      (ウイーン中央墓地)

      モーツァルトに関しては、なんと、遺骨のありかがわかってかっていなく、それどころか墓もどれか判らない。モーツァルトの墓は、ここなのではないかと推測されている場所はあるんだが、はっきりしないということである。かなり下級レベルの葬式をあげたモーツァルトの場合、集団で埋葬されたのではないかといった話もあるようである。モーツァルトの妻でさえ、よくわかっていなかったとか。それが、当時としてはごく普通の事だったようなのであるが、それにしても、ベートーヴェンやシューベルトのお墓はちゃんとあるのだから、驚きの話である。モーツァルトの死因については、はっきりしたことはわかっていません。発疹と発熱があったということなので、猩紅熱、敗血症、麻疹あたりではなかったでしょうか。治療として瀉血(簡単に言えば、血抜き)が行われたことが、死期を早めたとされています。


    • モーツァルト記念碑(ウイーン中央墓地)

      モーツァルトの家「フィガロハウス」は、モーツァルトがウイーンで最も活躍し、裕福な生活を送っていたとされる時期の住処であり、その名前の由来となったオペラ「フィガロの結婚」がここで作られたそうです。リングの中心、シュテファン寺院の裏手にある通りの一画にある建物の中には、個人の所有物ということで写真撮影は一切ダメで防犯カメラが沢山設置されていました。モーツァルトが住んでいた当時、この家の家賃は非常に高かったそうです。天井のレリーフが美しい一室も、ここに住んでいた時期、非常に羽振りの良い贅沢な生活を送っていたことをうかがわせます。しかし、モーツァルトについて語られた多くの書籍や映画にあるとおり、ウイーンで人気を博したころの生活はわずか3、4年で終わったということです。謎につつまれた死をとげ、埋葬された墓地も定かでないモーツァルトですが、その音楽だけが時を経ても全く輝きを失わない事実が、芸術というもののすごさを物語るようですね。

    • シューベルトの墓(ウイーン中央墓地)

      シューベルトは、生存時、ベートーヴェンに匹敵する作曲家になりたいと夢見、そして、死んだらベートーヴェンの隣に葬ってほしいと希望したということであるが、まさに、今、ベートーヴェンの隣で永遠の眠りについている。もっとも、若干、曲折があって、最初は別の墓地に眠っていたそうであるが、のちに、こちらに移されたそうである。シューベルトはベートーヴェンが亡くなった翌年に、31才で腸チフスの為にこの世を去っっていますが、非常に美しい、相棒曰く「歌にあふれた」音楽を数多く書き残しています。

    • エドゥアルト・シュトラウス墓(ウイーン中央墓地)

      父シュトラウスの三男。ここに掲載の縦長の写真は、ソニーのハンディカムHDVで撮影したものですので縦長のサイズになっています。ドイツの名門光学機器メーカー“カール ツァイス”のレンズを採用しており高い光学特性により、解像度・コントラスト・色再現性に優れた高画質撮影が可能です。レンズ表面には多層膜コーティングを施し、光の乱反射によるゴーストやフレアを効果的に抑制します。本来は、ムービーカメラなのですがスチールも撮れ暗いところではストロボも自動発光してファインダーをのぞいて取れるので手ぶれの心配もありません。古いタイプなので解像度が荒いですがブログには十分なので良く利用しています。新機種は、スチールのビデオカメラと変わらない性能になっているので、そろそろ下取りでもして変えようかなと考えているところです。追記…ヨーロッパの各地でソニーの宣伝看板を良く見ます。さすが世界のソニーですね。宣伝費は貰ってませんよ。

    • ブラームスの墓(ウイーン中央墓地)

      墓は高さが私の身長の倍以上もある大きなものである。写真で分かるように、例の髭のブラームスが楽譜を手にして、もう一方の手を頭に当てている。石には名前と年号が彫ってある。はっきりここへ移転して来たと言えるのは、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、ヨーゼフ=シュトラウス、グルック、サリエリである。残りについては、残念ながら資料がないようである。本にも記述がない。ヴィーン市民は、これら音楽家を誇りに思い、墓を「集めて」きている印象があり一カ所で見られて有り難いことではある。

    • ヨハン・シュトラウス2世の墓(ウイーン中央墓地)

      「ワルツの王」と言われるのは、ヨハン・シュトラウス2世です。1世の長男に当たります。ダンス音楽であったワルツを洗練させて「美しく青きドナウ」や「皇帝円舞曲」などの名曲を始め、オペレッタの代表作品「こうもり」など多数の作品を残したウィーンを代表する音楽家です。ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでもシュトラウス2世の作品が中心に演奏されます。


    • モーツァルト記念碑(ヴィーン・ブルク公園)

      ヴィーン・ブルク公園にはモーツァルトの立像がある。像の傍の大きな木があり、像の前のト音記号にデザインされた花々が美しい。国立歌劇場から反対側のケルントナーリンクの方に歩くと、コンツェルトハウスの近くにはベートーヴェンの像があり、さらに向こうの市立公園には、作曲家ヨハン=シュトラウスやブルックナー、シューベルトの像がある。それらが自然に街の景観に溶けこんでいて、「音楽の都」を肌で感じさせてくれる。モーツァルトの埋葬時は、立会人もなく集合墓に埋められていた。ある説によると「庶民には当時の習慣で、特に不思議ではない。」と書かれていて他の有名作曲家の墓が特定されていることからいうと、いろいろな説があり「永遠の謎」と言われている。

    • モーツァルト記念碑(ヴィーン・ブルク公園)

      モーツァルトの墓地は、1859年にウィーン市によって彫刻家ハンス=ガッサーに制作を依頼された。最初はマルクス墓地にそえつけられたが、1891年に移築され記念碑とされた。モーツアルト記念碑には、花がいっぱい添えられていました。詣でるのは日本人が多いのだそうです。ちなみに、モーツァルトの生家の修復などは、日本人の愛好者の寄付が役にたっているそうです。日本はモーツァルト愛好家の多い国として有名です。モーツァルトが埋葬されたマルクス墓地は、研究の結果1859年に埋葬された共同墓地の場所に墓標が建てられています。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年ザルツブルグでヴァイオリニストの父レオポルト・モーツァルト、母アンナ・マリアの第7子としてこの世に生を受けました。数々の名曲を残し、1791年に35歳の若さでウィーンにてこの世を去った、世界的に有名なクラッシック音楽の作曲家です。ウィーン古典派3巨匠として、ハイドン、ベートーヴェンと共に名前を連ねています。モーツァルトがこの世を去って250年以上たった今でも、彼の曲は世界中から愛されています。胎教などにも良いとされている彼の音楽は、どのような境遇で作られ、現在まで受け継がれてきたのでしょうか。

    • ヨハン・シュトラウス像(市立公園)

      市立公園のヨハン・シュトラウス像の前で記念撮影 金色のヨハン・シュトラウス像の前での写真は、まさにウイーン旅行の「証」です。この像は、街中の市立公園の中にあり道路沿いからも良く見える場所に建っているので良くわかります。 

    • ヨハン・シュトラウス像(市立公園)

      ジェッティーとの結婚生活の間にヨハン・シュトラウスは、非公式のオーストリア国歌「美しき青きドナウ」を作曲しました。ヨハン・シュトラウスは元々このメロディーをウィーン男性合唱団のための合唱曲として書きました。同曲は1867年2月15日にディアナ公衆浴場の広間で初演されました。広間は超満員で暑く、その上プログラムは非常に長かったが、それにも関わらず観客は感動し、即座にアンコールが要求されました。このように、単に「ドナウワルツァー」として知られている曲は元々合唱曲として構想されたものです。初演の直後にヨハン・シュトラウスはオーケストラ用の編曲を作り、同年に舞踏会やコンサートで大成功を収め、この曲は現在までワルツの代表曲となっています。1848年に行進曲中の行進曲、「ラデッツキー行進曲」を作曲し、きっかけは82歳の元帥がクストッツァの戦いでイタリア人に勝利し、輝かしい帰還でありました。これはシュトラウス父の保守的スタンスと君主制に対する誠実を表わしたものです。

    • ヨハン・シュトラウス

      ヨハン・シュトラウスは、19世紀に活躍したオーストリアの作曲家の親子。父・1世と子・2世で、「ヨハン・シュトラウス」とだけ書いた場合、通常2世を指す。1世には「1世」または「父」と但し書きするのが通例である。ヨハン・シュトラウス1世は、オーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者、ヴァイオリニストででありウィンナワルツの作曲家として著名であった。ヨハン・シュトラウス2世は、オーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者、ヴァイオリニストであり、父親が1849年に他界してから正真正銘の「ワルツ王」として君臨することになった。ウイーンは、音楽の都、美術品の宝庫です。

    • ヨハン・シュトラウス像前でナイトコンサートの切符を売る人

      市立公園のヨハン・シュトラウス像の近くにある立派な離宮で「市民コンサート」があると言う事で切符を買った。町中では、この様なモーツアルト風の格好をした人が沢山いて各地で行われる音楽会の切符を販売している。ウィーンは「音楽の都」と言われるだけあって毎晩のように上質なオペラやコンサートが開かれます。特に春から夏にかけて多くの有名な音楽家たちがウィーンを訪れるので、いつもにまして素晴らしい音楽を聴くことができます。世界トップクラスの演奏家のコンサートだからといってチケットは高いわけではありません。その上、必ず立見席や学生割引のチケットが売り出されるので、音楽に興味がある留学生にとってとても魅力的な街です。

    • ヨハン・シュトラウス像前の離宮で「市民ナイトコンサート」

      市立公園のヨハン・シュトラウス像の近くにある立派な離宮で市民コンサートがあると言う事で切符を買い本場の演奏を聴きに行きました。市民コンサートなのか演奏される曲目は、ラデッツキー行進曲」などヨハンシュトラウスの曲など日本で聞き慣れている曲ばかりでした。市民コンサートの雰囲気には、歌ありダンス有り色々工夫が凝らされていましたが音楽の本場としての演奏の質はもう一つと言ったところでした。

    • ベートーヴェンの「遺書?の家」

      ベートーヴェンの散歩道を歩き、「夏の家」と呼ばれるかつてのベートーヴェンの住まいの前を通り過ぎ、次に向かったのはここに来る一番の目的だった「遺書の家」だ。アーチ型の入り口を抜けると、中庭があり、そこから2階にあるベートーヴェンがかつて暮らした部屋に行くことができるようになっていた。少し緊張しながら階段を上がり、部屋の中に入る。

    • ベートーヴェンのピアノ【ハイリゲンシュタット遺書?の家】

      ベートーヴェンが耳の病を患ってから後、たびたび静養のために訪れたここハイリゲンシュタットには、ベートーヴェンゆかりの場所がいくつもあります。写真は、ベートーヴェン愛用のピアノです。死後に2人の弟に宛てて書いた遺書が発見された「遺書の家」(現在は記念館として公開されている)。聴覚を無くしたベートーヴェンが絶望して遺書を書いた家ハイリゲンシュタットへの隠遁グリルパルツァー(詩人・劇作家でベートーヴェンの「エグモント」の演奏会用の台本を書いている)親子の家であり、夏の短い間滞在したという「夏の家」。

    • ベートーヴェンの書いた楽譜

      ハイリゲンシュタット遺書?の家には、あちこちにベートーヴェンの銅像や胸像がある。ベートーヴェンは30歳〜35歳の間にかけてハイリゲンシュタットへ隠遁します。この頃から彼は、耳が悪化していきます。病気にさいなまれながらも、彼は、その仕事場で交響曲第6番「田園」の構想を練り、ピアノソナタ『暁』『レオノーレ=フィデリオ』『熱情』を書き上げます。耳が不自由なことからのストレスからか引越しを繰り返します。なんと彼は56年の生涯で79回も引越しを行ったといわれています。

    • ルートヴィヒ・ベートーヴェン像

      ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年12月17日ドイツのボンにて、宮廷つき音楽家の父ヨハンと母マリアの間に生まれました。父であり、音楽家であるヨハンは息子のルートヴィヒ・ベートーヴェンの音楽の才能を早くから見抜き、幼い頃から音楽の英才教育を厳しく施しました。父ヨハンの音楽教育は強制的で、ひどいものであったそうです。それは、ヨハンが飲んだくれの乱暴な父親であったことからもみてとれます。母マリアはおとなしい性格であったため、ヨハンの乱暴を見守っているだけでした。そんな厳しい環境のなかで育っていくルートヴィヒ・ベートーヴェンでしたが、その厳しい環境が彼の音楽の才能を花開かせたことも事実ではないでしょうか。訪れたハイリゲンシュタットは、ウィーン郊外の静かな住宅地だった。ベートーヴェンが住んでいた家は、「ベートーヴェン・ハウス」として観光名所になっている。しょっちゅう引っ越したようで、その「ハウス」には番号がついている。

    • 「田園」の構想を練った「ベートーヴェン小路」

      作曲家ベートーヴェンは、山野で曲想を錬っていた人として有名。タクシーをチャーターして「ベートーヴェン小路」と名付けられた径を捜すが、運転手も知らない。しかしベートーヴェンゆかりの地と整備された案内板に従って、すぐそれらしい岡や川べりの道にたどりつくが、田園は見えてこないのである。辺りは静かな住宅地で、日曜日というのせいもあるのか、人影はほとんどない。おびただしい量の黄色い落ち葉で埋め尽くされた細い道を、黙っててくてく歩く。思い入れがなければ何の変哲もない単なる散歩道です「田園」がこんな所で作曲されたのかと、ベートーヴェンの小径をたどりつつ感じた。おそらく当時はこの辺りの風景も全く違うものであったのだろうか?? まさに緑豊かな田園風景が広がっていたはずだが、交響曲第6番「田園」の構想を練ったその瞬間を追体験しているがどうも違うような気がした。
      ■名曲アルバム 田園交響曲 ベートーベン作曲 オーストリア
      http://www.youtube.com/NEPYOU#p/c/7F5E17F3F6ADFFD8/1/arrTlTV-q8M

    • 「ベートーヴェン小路」近くの教会

      「ベートーヴェン小路」を歩いていると教会の金が鳴り現地の皆さんと一緒にミサに参加した。さすが音楽町そのパイプオルガンの演奏等で、ベートーベンの雰囲気が伝わってきた。中学の時だったか、音楽の時間に交響曲第6番「田園」を聴いた。ベートーヴェンは散歩が好きで、よく散歩しながらメロディーや音楽の構想を考えたと聞かされた。どんな道を散歩するとあんなメロディーが湧いてくるんだろうかとずっと長い間思ってきた。そのよく散歩したという道が、ハイリゲンシュタットに残っていた。「ベートーヴェンの小道」と名前がついていた。これがと思い、その道を歩いてみた。何のことはない小道だった。少しがっかりしたことに、田園交響曲の「小川の流れ」のメロディーを生み出したであろうか。小川がすばらしいのではない。その小川のほとりを歩いて感じようとしたベートーヴェンがすばらしかったのだ。

    • 「ベートーヴェン小路」近くの教会

      ハイリゲンシュタットまでの遊歩道ベートーヴェンの散歩道を歩きました。ここはまさに田園交響曲の世界でした。ベートーヴェンが散策した小川を歩きました。そこは木々の緑が深く、小川の流れる音、小鳥のさえずり、大地の偉大なる力と愛が満ち溢れていました。自然の生きている声を彼は書きとり、その中からさまざまな楽想が沸いてきたのでしょう、近寄りがたい堅固さではなく勇気や希望を与えてくれる親密な生命ある音楽が生まれたのだと実感しました。『田園交響曲』の作曲された1807年、08年の夏にもベートーヴェンはハイリゲンシュタットに滞在しています。近くの小山に登ると南側斜面は一面ワイン畑。ベートーヴェンもワインを愛飲していたのを思いだしながら歩きました。

    • 「ベートーヴェン小路」近くの教会

      日曜日のミサで、パイプオルガンを演奏しているとこる。何のおとがめもなくミサの教会の階段を上がり撮影させて頂きました。その荘厳なる音と協会内に鳴り響く音楽の音は、実に素晴らしくキリスト教に改宗しょうかなと思ったほどでした。毎年12月には日本で「第九」が演奏されるますが、ベートーヴェンが作曲していたハイリゲンシュタットの場所でミサに参加できたことは、素晴らしいウイーンでの思い出となりました。

    • ベートーヴェンのデスマスク

      ベートーヴェンの人生は、まさに苦難の連続であった。幼少時代は父親の金儲けのためにこき使われ、やっと成功したかと思えば耳が聞こえなくなります。だが、彼は強靭な精神力で乗り越えていきます。ベートーヴェンの代表作は、第九、交響曲第7番、月光、悲愴、運命などです。ベートーヴェンは、病がますます悪化して、ついに昏睡状態に陥りました。そして57年の波乱万丈の人生を閉じたのです。ベートーヴェンの死の目撃者であるアンゼルム・ヒュッテンブルグは、ベートーベンの死の瞬間についてこのように語っています。「ベートーヴェンは臨終のあえぎをみせて、意識もなく横たわった。5時頃、ものすごい雷の一撃がとどろいた。同時に稲妻が部屋を照らし出した。家のまえの土は雪に覆われていた。私自身もはげしく驚かせたこの異常な現象に、ベートーヴェンは目を大きく見開いた。彼は右手をあげ、握りこぶしをかため、狂暴で威嚇するようなようすで数秒間点の一角をにらみつけていた…彼の手がふたたび寝台の上におちたとき、彼の目は半ば閉ざされていた…」彼らしい最後だったようです。


    • ベートーベンのデスマスク

      ベートーベンの死後2日して、若い画家がデスマスクをとった。前日の検死の際、頭蓋骨の耳の部分を取り去ったため頭部が奇妙な形になっている。が、紛れなくベートーベンの顔です。人の顔というのは、性格や人格を如実に表しているものですが、このような顔からしか、あのような旋律は誕生しないのは感覚として解っていただけると思います。それがベートーベンのデスマスクです。音楽性と人間性、そしてその宿命として持っていた「苦悩」が顔全体に印象として残っています。いい「顔」であり、すばらしい人類の遺産ですね。

    • ベートーヴェンの遺書? 苦難乗越える決意書!

      音楽家として大成したい、音楽に自分の生涯を捧げたいと願いつつ作品を生み出してきたベートーヴェンにとって、耳の病に冒され、徐々に聴力を失っていくことがどれほどの恐怖であり、絶望であったか。そのことが世間に知れたら破滅だと思い、身内にさえも悟られまいと必死だった彼。本当は彼は社交的な性格だったのだが、会話をすれば、聴こえていないことがわかってしまうので、人との接触を避け続けた。その結果、実の弟たちにさえも誤解され、冷たい仕打ちを受けたのだという。そんな自分の運命を呪い、嘆き悲しむ言葉が便箋3枚に渡って綴られていた。しかし、この遺書はベートーヴェンが自殺を決意して書いたものではないようだ。彼はこう書いている。「人には羊飼いの歌声が聞こえているのに、私には何も聞こえないとは、なんという屈辱だろう。こんな出来事に絶望し、もう一歩で自らの命を絶つところだった。2階の部屋に入ってすぐのガラスケースの中にその遺書はあった。彼の決意書?…芸術のみが私を思いとどまらせたのだ。ああ、課された使命、その全てを終えてからでなければ私は死ねそうにない。だからこそこの悲惨な人生を耐え忍んできたのだ。つまり、この遺書はベートーヴェンが苦難を乗り越え、強く生きていこうという決意を書いたものなのではないだろうか? それがわかって、なんとなく救われたような気がした。

    • ベートーベンの毛髪

      わずか9曲しか制作されなかった交響曲。練りこまれた旋律は何度聞いても飽きないもので、しかも交響曲第9番がこの世に存在していることがベートーヴェンをベートーヴェンたらしめている最大の要員だと考えます。日本人にとって交響曲第9番は、年末に毎年演奏されるとあって特に有名です。彼の曲は、どの曲も何回聞いても感動を覚えます。

    • ハイドン記念館(ブラームス記念室併設)

      ハイドン記念館は、1793年にこの建物を購入し、3階部分を増築し、1797年から1809年3月31日に世を去るまでここに住みました。彼が最後に住んだ家で二つのオラトリオ「天地創造」と「四季」などが作曲されたところで、ここで構想を練り曲に仕上げられました。この館には、他にヨハネス・ブラームスの記念室が併設されています。

    • ハイドン記念館

      ハイドンが使っていたピアノです。ハイドンは、1773年、エステルハージ家を訪問した女帝マリア・テレジアを歓迎する交響曲を作曲している(交響曲第48番「マリア・テレジア」)実際に演奏されたのは交響曲第50番とも言われる。女帝マリア・テレジアの末娘のマリー・アントワネットは、既にフランス王家へ嫁いでおりハイドンのうわさも手紙で知らされたことであろう。ハイドンが、フランスのために作曲した時期とマリー・アントワネットがフランス王妃であった時期が一致する。マリー・アントワネットがハイドンのシンフォニーを期待し、ハイドンがこれに応えたと見てもいいであろう。

    • 街角のストリートミュージシャン

      さすが音楽の都である。所々でこの様な光景に出会う。

    • 聖シュテファン大聖堂

      モーツァルトが結婚式を挙げ、そして葬式が出された、市中心部にある聖シュテファン大聖堂のすぐそばにある「フィガロハウス」も、今でいう狭い共同住宅で、中は記念館になっているが広い部屋はない。この家で、彼は「フィガロの結婚」他の素晴らしい作品を書き、もっとも充実し幸福だった時代を送ったといわれている。聖シュテファン大聖堂は、800年以上の歴史を誇る、モザイク屋根は、ウィーンのシンボルです。12世紀半ばにロマネスク様式の小さな教会が建設されたのが始まりで、14世紀にハプスブルク家のルドルフ4世によってゴシック様式の大教会に建て替えられた。身廊の長さは107m、高さ39m。ここの尖塔は、136.7mあり、高くそびえており、非常に大きな教会である。

    • 聖シュテファン大聖堂

      豪華な聖シュテファン大聖堂の内部は、右に本当に願いがかなうマリア様がいて、どの人も真剣にお願いしていた。建物の装飾は、石を彫ったものだが手間もさることながらすごいの一言である。外部の写真は、建物が大きすぎて後方に下がりソニーのハイビジョンビデオカメラでないとフレームにおさまらなかった。シュテファン大寺院から裏通りを歩いてみました。ウィーンは裏通りが美しく、特にリンクの中は車通りもあまりなく、角の丸くなった石畳の歩道に街路樹の葉が黄枯茶に色づき、しっとりとした落ちついた風情があります。

    • モーツァルト

      モーツァルトは短い間、ウィーンの最も人気のある収入の一番高い音楽家になることがでました。特別な後援者は皇帝ヨーゼフ2世であり、彼ともフリーメーソン会の共通点を持っていました。モーツァルトは貴族の特権と貴族階級の好き勝手さをテーマにオペラを書く案を持っていました。それは、皇帝の政治的意図について彼が詳しいことを示すものです。1786年の半ばに「フィガロの結婚」が初演されました。貴族階級の観客は警告を理解し、続きの演奏をボイコットしました。それからまもなく、この作品はプラハで大成功を受けました。プラハでモーツァルトは次のオペラの注文をもらいました、「ドン・ジョバンニ」。このオペラは1787年にプラハで初演され、観客に熱い感動を起しました。ウィーンではこのオペラの物語を不快に思い「帝国兼王国国立劇場」は、この作品を下品と判断しました。モーツァルトは一時的に経済上の窮乏を経験しました。モーツァルトは観客に支持されるとされまいと関わらず、批難も恐れませんでした。それでも、彼は当時の絶対的「スター」であり、多額の収入を得ていました。しかし、彼は贅沢な生活と浪費を続け、将来に対する備えと貯金を考慮しませんでした。大らかな人であり、お金に困っている友人を助けることによって自分自身が頻繁に経済危機に陥りました。

    • モーツァルトの「鏡の間」

      「鏡の間」は、モーツァルトが6才の時に御前演奏をし、滑って転んだ彼を助け起こしたマリー・アントワネットに求婚したという、映画「アマデウス」にも登場する超有名なエピソードの舞台となった部屋。この部屋の壁面に向かい合わせにしつらえられた鏡が、シャンデリアを無数に映し出す視覚効果をもたらし、当時の様子がその光と影の中に揺らめいているようでした。

    • ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの成功と最期

      ザルツブルク音楽祭で有名なザルツブルクで、モーツァルトは生まれた。ちょっとした、かわいらしく綺麗な商店街のなかに生家がある。そのフロアの2〜3部屋がモーツァルトの生家だ。モーツァルトが亡くなる前の年は最も実り豊かな年でした。彼はよい収入を得、宮廷の義理の強制から自由になりました。彼の重要な後援者であったヨーゼフ2世の死の後、モーツァルトは市民階級の観客に向かい、一番大きい成功作「魔笛」を作曲しました。公演の会場は、国民的なフライハウス劇場でした。このオペラのメルヘンのような内容は啓蒙とフリーメーソン運動の思想を表わすシンボルや当てつけに溢れていました。このような状況でモーツァルトは「魔笛」を通じさらに自己の信条を公にする勇気を証明しました。1791年の夏にレクイエムを作曲する匿名の依頼は、後にモーツァルトの死についての様々な推測のきっかけになりました。モーツァルトが共同墓に埋葬されたことは、彼のいわゆる貧困やコンスタンツェの愛情の不足が理由ではありません。このような埋葬の仕方は皇帝ヨーゼフ2世が始めた当時の習慣でした。サンクト・マルクス墓地にある彼の墓の場所に後に祈念像が建てられました。

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