イタリア旅行記(ブログ) 一覧に戻る
●まとめ<br />(1)イタリヤ旅行の場合は、TRAINITARIAの時刻表を徹底的に利用しよう。切符の値段も出力できます。なお、私鉄はインターネットに熱心では無いので、現地に行かないと判りませんが、私鉄駅には、時刻表が貼り出してあります。(最近はイタリヤ語のHPは充実しだしたようです。それに、ヨーロッパの殆どの鉄道はネットで購入が出来るようになりました)ただ、私鉄は日曜は運行しないとか制約が多いので、この使用には融通を持ち、時間的余裕を見込んでおきましょう。<br />なお、特別な場合を除き、イタリヤでの乗物の切符は、列車は乗り場で、バスなどは車内で刻印機で使用開始の日時を刻印します。これをチンブラーレ(刻印する)と言います。刻印しないとタダ乗りと見なされ、タダ乗りは犯罪とみなされるので気をつけましょう。<br />(2)スリ、強盗は日常茶飯事だから、金は腹巻に、カメラはチャック付きのポケットの奥に入れておくこと。後ろポケットに大事な物を入れておくなんて、この国ではルール違反です。<br />切符を買う時にも、釣り銭は間違いないか確認しましょう。また、市内観光切符を買ったのに、市電1回分を掴まされることもります。切符の内容を確かめようね。<br />(3)イタリヤでの食事は、PRIMA PIATTE、SECOND PIATTEを一応は知っておこう。なお、簡易食として、フリッテとオムレツは当たり外れが少ないようです。<br />(4)安宿旅行をする場合は、底の厚いスリッパで風呂に入るのが望ましい。<br />●経過<br />日本からのヨーロッパ国際線は、大韓航空が最もリーズナブルな価格だからと、発売を待っていたのだが、なぜか大韓航空の発売は全くYahooに出てこなかった。そのため、切符の手配が一ヶ月遅れ、慌ててKLMを購入することになった。<br />結果として9月末を予定していた出発が10月20日となってしまい、アムスTRANSITで、ローマ着は19:25の航空券となった。アムスで1時間しかTRANSIT時間が無いことと、ローマ着が遅く、宿泊予定のNOMENTANAの宿着がかなり遅くなることが心配だった。<br />代理店はスカイバトラー社で、対応はしっかりとしており、予約後すぐに入金で、即、航空券が発行された。実に安心な手配であった。なお、アムスでの時間が少ないため、インターネットでアムスの空港ガイドとかを、あれこれと調査した。<br />KLMの乗り心地は上々で、アムスでの乗換も容易であった(E4着でB10発、審査も含めて20分未満)が、審査はユーロ国人とその他の国の人は別の窓口であった。で僕たちの並んだ窓口の標識が突然ユーロ国人に変わったので、困惑していると、大きな黒人が、かまわん、かまわんと日本語でアドバイスした。そのまま列に並んだが、案の状、検査員が、ここはユーロ国人の窓口だ、と言うので、標識が突然変わったのだ、と答えると、黙ってうなずきパスポートチェックをしてくれた。ヨーロッパ人ってかなり融通がきくのだ。<br />飛行機は出発、到着共に僅かに遅れて、19:45にローマに着いた。20:15に駅に出て、20:27分のNOMENTANA行きを待ったが、遅れて20:50発になった。48分で着く筈が、遅れて21:48分着となった。その間、ROMA FIUMICINO(小さな川)を出た列車は、車内放送も無く、駅の標識も不明瞭でどこに居るのか、何時着くのか全く判らず、暗闇の中を薄明かりの駅から駅への走行が続き、どうにも不安で、近くに座る人に「NOMENTANA?」と聞くと、私も行く、って言ってくれたのでほっとした。結局、NOMENTANA、地下鉄乗換えのティブルティ−ナ駅の次であった。この辺りの駅の配置は、地球の歩き方のローマ編に詳しい、と後から判った。<br />今回は、南イタリヤを列車で走りまくるので、TRANITARIAの時刻表を空港からの移動にそって、ずっと出力してきたが、こんな事態には全く対応できなかった。それに、NAPOLIの私鉄のデータもインターネットでは殆ど把握できなかったのも心配のひとつだ。<br /><br />ローマでのB&amp;Bは、ローマ市内から、ちょっと離れたNOMENTANAの駅の近くの住宅地帯にあり、夜9時頃に着いた。駅には全く人気の無く、駅を出て坂道を上がるとひろ〜いNOMENTANA通りで、これを越えてもうアパートが立ち並ぶ住宅街で、明かりは殆ど無い。調べておいた番地でB&amp;Bを捜したが、番地表示は飛び飛びなのでなかなか見つからない。もう通りには人相の悪そうな連中にしか居なかったが、やむを得ず聞きまわって漸く扉をみつけた。悪そうな奴でも、懐に入ると親切にするのが、人間の習性のようだ。<br />今回の旅で再認識したが、イタリヤの家の門は背が高く頑丈だが本当に狭い。ところが、中に入ると、一気に内庭になっていて、本当に広々しているのだ。そのB&amp;Bなんぞは、狭い門を入ると、広い庭があって、その向こうに住宅ビルディングが幾棟も建っていて、ひとつの住宅団地群になっていた。<br />その狭い門の内側に押しボタンが並んでいて、漸くB&amp;Bの名前を見つけて押しボタンを押すと、女家主のイタリヤ語が聞こえた。この女家主は英語がしゃべれないので、しゃあないと、イタリヤ語でしゃべるはめになってしまった。<br /><br />部屋は、その家主NELLYが自宅をB&amp;Bとしているので、実に清潔で住み心地は最高であったが、PRIVATE BATHを頼んでおいたのに、家主との共同風呂の部屋だった。でもまあ、ダブルで朝食付き58EURだからしゃあないかと諦めた。それに家主の言うには、風呂は扉が開いていれば使えて、閉まっていれば使用中とのルールらしい。まあ、それなら問題なさそうだと思った。実際、このルールだと、殆ど不自由はなかった。<br />翌朝判ったが、ここにはドイツ人の若夫婦が泊まっていて、若者たちには、PRIVATE BATHの部屋で、僕たち老夫婦なれば、お互いに融通できるだろうと家主は考えたようだ。それとも僕らが着くのが遅く、早いもの勝ちであったと言うのが正解だろう。ひょっとすると来ない可能性も高いのだから。でも、イタリヤの検索システムは予約を不実行の場合は、キャンセル料が自動的に発生するシステムになっている。<br /><br />静かで居心地良くゆっくりと休めた。朝食は8時からで、各種パン、ジュースが並び、カプチーノ、紅茶が選択で、牛乳も用意されていて、かなり豪華な様子であった。テーブルはひとつで、金髪のドイツ人夫婦と相席となった。<br />亭主の方はイタリヤ語がペラペラで、僕も暫くはイタリヤ語で相手をしたが、なかなか話が進まず、僕の方から「英語はしゃべれるか?」とイタリヤ語で問いかけると、「little bit」と見事な英語で応じてきた。と、イタリヤ語をしゃべれず、黙ったまま食事を続けていた彼の女房の方までもが、英語で話しかけてきた。欧米人はおしゃべりが多い。<br /><br />ところで、朝は7時に目が覚めたので、NOMENTANA駅で、あさってのNAPOLIへの国内超特急ESの切符を買っておこうと出かけたのだが、部屋の鍵、B&amp;Bの鍵、次いで、建物の鍵を開けて外に出ると、広い緑の庭と、多数の住宅ビルヂングがこの敷地の中にあることに驚いた。例の狭い門の扉と合計4個の鍵を開けて、昨日うろついた道路に出て駅に向かった。駅舎は鉄路の反対側にあり、狭い地下通路を抜けて駅舎に行ってみると、なんと、この駅は無人駅であった。てなことで、切符はローマのテルミニ駅で買うより仕方がなくなった。なんで、ローマ市の北の端の住宅群駅舎が無人駅なのだろうか。<br /><br />ローマにはイタリヤ鉄道駅はいくつか有るが、その主なる駅は、TERMINI駅である。その昔、西暦0年頃に、ここには2000人も入れる巨大な共同浴場が設けられていた。ローマ人は行く先々で巨大な共同浴場を建設し、この清潔好きなローマ人の性格とその施設のおかげで、ローマ時代には伝染病はそれほどの脅威とはならなかったのに、ローマ帝国滅後の中世には、多くの疫病が欧州を襲っている。<br />その浴場後に建設されたので、この駅はTERMINI(温泉)駅と名づけられ、その駅が終点になっているので、終着駅のことをターミナルと称されることになった。そうして、TERMINI駅をテーマとして、終着駅なる映画が作成されたのだ。<br />駅周辺には、紀元前の城壁が残っていて、この城壁はガリヤ人の攻撃で簡単に破られてしまった。この教訓を元に、ローマはその後作られた半径2kmほどの城壁が周囲を囲んでいる。かって、と言っても1年前に、僕は、10日間をローマで過ごし、その間の朝早くに城壁に沿って歩き回ったが、城壁の殆どは今でも完璧で見ごたえのある代物だった。<br /><br />食後、NERRYにバス停の場所を聞き、人通りの殆ど無い道を、NOMENTANA通りにと出掛けた。Yahooイタリヤで宿泊地周辺の地図は全て出力しているので、道については大体把握している。だがしかし、例え犬の糞があちこち散らばってはいても、朝の異国の道を歩くのは、いつも心躍るものなのだ。バス停近くのタバッキーで一日券を買い、聞いていたNO90のバスでTERMINIに向かった。地下鉄もこの切符で乗れるのだ。<br />空いてはいたが、座れるほどでは無く、乗車して吊革にぶらさがっていると、早速スリが寄ってきた。若い女のスリで容貌はイタリヤ人ではあるが、ジプシーの雰囲気を持っている。それにしてもあからさまな接近で、僕達は、あちらこちらへと車内を逃げ回った。<br />今から思えば、日本人が大人しいと馬鹿にしているのだから、怒鳴りつけるべきなのだ。今後は必ずそうしよう。<br />TERMINI駅に着き、切符売り場に行き、メモを渡し、明日の9時発ナポリ行き特急1等を買った。NAPOLIまで約2時間46EURとイタリヤの鉄道は安いのだ。ついで地下鉄に乗りスペイン広場に行き、アメックス事務所でT/C500EURをCASHに換えた。手数料無料だから日本でCASHを買うより遥かに安いのだ。<br />その後は、トレビの泉、コロンナ広場、パンテオンと、何度も歩いた道だが、いつもトレビの泉で方向を間違ってしまう。トレビの泉の方向が河の流れの方向と直角になるからだ。<br />とにかく何度も来たローマを見て歩いた。 <br />10月22日(日)<br />NERRYに7時に朝食を出来ないかと頼んだが、それは出来ないとのことで、翌日は、おいしい朝食をあきらめ宿を出て、駅の立ち食いでサンドイッチの食事を終えて9時の列車に乗った。1等は6人席のコンパートメント指定席だった。<br />なお、NOMENTANAからのバスだが、ローマの一日券は実際は24時間券だから、朝も有効であった。<br />列車の出発直前に中年の婦人が同じ部屋に入ってきたが、奇妙なことに他のコンパートメントはがらがらであった。僕と女房は向かい合って窓側に座っていた。中年の女性は僕の横に座り、自分のハンドバックを僕との間に置いたが、ハンドバックの口はぱっくりと開いたまま、手を突っ込んでくれというかのように僕の方に向いていた。僕は自分のサムソナイトが邪魔にならぬかと、外に運び出して、窓の手すりにチエンで止めたが後ろを振り向くと、女性は僕の手元を見つめているので、チエンの施錠は彼女の視線を体で遮って行った。<br /><br />向かいに座った女房から見ると、彼女の一見華やかな服装にも拘らず、彼女の指や足首はあかぎれが酷かったとのことだ。<br />列車がNAPOLIに近づいた頃になって検札の車掌が来て、彼女は切符を買い求めてから去って行った。恐らく席が空いているので座っていた、とか何とか言っているであろう、その様子からすると、切符や指定席も無く我々の横に居座っていたことになる。<br />この不思議な女性をどう思いますか?とても怪しいですね。イタリヤでは、スリとか、かような怪しい人物は日常茶飯事ですから、よっぽど気をつけなきゃならんのです。<br /><br />ナポリ駅の構造は今でもよく判らんのだが、とにかく、通常の国鉄列車は2階での到着出発で、終着駅となっているから、列車を降りて前に進んで行き、左前方に降りるとバスターミナルで、そこにはゴチャゴチャと車が並んでいる。TAXI乗り場には延々と人の列が出来ているから、ここで車に乗る気にはならない。後で知ったが、市電はこの広場の最も駅から遠い所にある。僕らの泊まる処は、Central areaで、旅行記を読むと普通の人は泊まると危険だと書いてあったので、少々恐れを感じていたのだが、Central areaは右前方だから、その方向に進むと通路は人二人程度しか通れない狭い通路が勾配となって地上に降りて行く。通路途中にタバッキがあったりして、昔の大阪の下町って感じですな。<br />宿泊場所は、FIRENZE通りのB&amp;B FIRENZEで、22日から5泊で60EUR/夜って安さです。venere.comの評価で騒音がうるさいって書かれていたので、静かな部屋と要求しておいた。FIRENZE通りに沿って番地を見て行くと直ぐに見つかった。ぼろエレベータで上がりチェックインとなった。家主ニコラウスと手伝いの女性ターニャが居て、家主は中東系、ターニャはブラジル出身の女性であった。部屋は内庭向きの静かだが、値段並みの清潔さと住み心地であった。以後気づくのだが、イタリヤのB&amp;Bは一般的にシャワー室の排水が不良で、水が溜まりやすい。そのため、以降の旅行では常に底の厚いスリッパを持参することにしている。なお、Central areaがNAPOLIの他の場所に比べて、特別治安が悪いとは思えなかった。<br />ところで午後は、NAPOLI近郊旅行の準備ってことで、駅に戻り、ARTECARDの売り場を国鉄のインフォメーションに聞こうとした。僕の前にイタリヤ人の中年の女性が何かを訪ねていたが、窓口の太った黒人女性が、突然大声で叫び、イタリヤ人女性は慌てて窓口を離れた。窓口の女はニタニタと笑っている。で、僕も「どこでARTECARDが買えるか」と聞くと、早口で答えるので理解できない。理解できないと言うと、女は叫びだした。僕が驚いて窓口を離れると、向うむきに座る同僚に、笑いながら驚かせた成果を話しているようであった。イタリヤにはかように頭のおかしい駅員や、金を誤魔化す駅員が多いので気を付けねばならない。かって僕はベローナの駅のバス切符売り場で、中年の切符売場の女性から、10EURの観光切符を買ったのにも拘わらず、1EURのバス切符を渡されていた経験があるのだ。<br />なんとか売り場を見つけ、25EURの3日間ARTECARDを購入したが、そのCARDをボスビオ鉄道で使えるかが判らない。そこで、チルクムベスビアナ鉄道(ボスビオ周遊鉄道)のインフォメーションに行くことにした。地球の歩き方に従って、地下のボスビオ周遊鉄道の駅に行こうとしたが、工事中の壁があって行けない。上にあがり、国鉄の職員に聞くと、プラットホームに向かって右の方に行けとのことで、どんどん行くと、ほそ〜い通路となり、これを通過するとボスビオ鉄道改札口で、そこから地下のプラットホームに階段が向かっていた。改札口の手前にインフォメーションがあり、窓口はイタリヤ人女性で、国鉄のインフォメーションとは大違いで、「一度だけ往復に使える」と丁寧に教え、更に鉄道マップ付時刻表をくれた。これは僕に取っては非常に貴重なものだった。<br />次いで、港に行こうとタバッキで一日券を買ったが、今日の午後に使うのかと聞かれて、そうだと答えると、3EURが2EURとなった。「へ〜ローマの一日券とは違い、ここは当日券なのだ」と感心しながら駅の前の広大なバス乗場へと向かった。このバス乗場の混雑ぶりはGOOGLEMAPでも判るありさまで、そのバスが右往左往する間を通りぬけ、その辺りに居る運転手たちに聞くと、最も向こう側のバスらしい。僕たちがそこに丁度着いたとき、港行きR-2のバスが満員状態で発車する所だった。と、そこに体の頑丈なおっさんが現れて、「このバスか?」と聞くので頷くと、発車するバスを止めにかかった。だが、バスはそのまま行ってしまった。このおっさんは、いったい何者?と僕は思った。<br />次のバスががらがら状態で着くと、おっさんは僕の前に立ち、あたかも紳士かのように女房を先に乗せてから、自分も乗り込んだ。次いで僕も乗り込んだが、おっさんは入口からちょっと入った所で立ち止まり、僕がすり抜けて奥に入ろうとするのを、通路左右の手すりを掴んでそれを阻止した。後ろから別のおっさんが僕の体を押し始めた。で、女房はと言えば、がらがらの車内奥の方にまで行って、吊皮を持ち気楽に窓の外を見ている。<br />こんなことで、がらがらの車内の入口付近に、僕を含めて3人の男だけが押しくらまんじゅうをしてるって馬鹿な状況になったのだ。<br />だがしかし、僕は金や貴重品が簡単に抜かれるような所には入れていない。うしろのおっさんが何かを言って、前のおっさんが諦めたかのように体をよけて後ろに回り、二人はバスから降りていった。つまり二人のおっさん達は強盗だったのだ。<br />イタリヤって本当に恐ろしいでしょ?<br />でも、僕にも一応は学習能力があります。要するに、混んだバスや市電には絶対に乗らないってことですね。で、港へは、どちらかと言えばバスよりは空いている市電で、しかも、混み易いガルバルディ広場の、そのひとつ手前、即ち北側の、プリンペシウンベルト広場、つまりは、ガルバルディ通りとFIRENZE通りの交差点で乗ることにしたのだ。以降は何度も市電を使ったが、かような危ない目に会うことはなかった。更に、僕の旅行全般で見ても、NAPOLI以降は、もっと田舎ばっかりで、全く危険な目に会うことは無かった。それどころか、NAPOLIでもその他の地域でも、イタリヤの一般市民は素朴で親切で、僕らが困っている様子を見ると、いつも必ず気安く援助してくれるのだった。<br />ところで市電だが、ガルバルディ通りを真っ直ぐに海岸に南下して、そこで右折して海岸通りを進み、ムニチーピオ広場の海岸側の駅で降りると、海に向かい、ずっと右手にはCAPLIへの切符売り場と船乗場、真向かいの広場の向こうにある大きな建物のマリッチマ駅(MARITTIMAってえのは、フェリー乗場駅って意味ですから、フェリーが有る町にはどこにでもマリッチマ駅があります。この事はイタリヤ旅行の際は覚えておきましょう))には、パレルモへの切符売り場があり、左手にはその船乗り場などがあるのだ。マリッチマ駅広場には、有難いことに朝6時から夜8時までで1EURって、とっても安い荷物預かり所もあるのだ。(イタリヤの国鉄の荷物預りはとても高い)<br />駅の建物に行ったが、パレルモへの船の切符売り場がなかなか見付からず、10/27夜の便は、TIRENNIA社の20:15発であることが判り、切符の発売は入口横の切符売り場で3時からだと判った。建物内2階の待合所で時間を潰し、3時になり下に降り切符を買ったが、当日7時にここに来れば車で乗船場に運んでくれるとの事だった。が、当日になって判ったのだが、乗船場はそこからほど近い、陸に向かって右側のフェリー乗り場で、わざわざここまで来ることも、車が遅れて長く待つことも無かったのだ。<br />なお、その船の窓付き側一等はTWIN(2人)で140EURと、交通費と宿泊費込みとすれば、安いながらもシャワートイレ付きで、住み心地良好で、船内設備も良かった。今回の旅行で最も住み心地が良かったと、女房の意見である。ただ、窓側の高い部屋ではあったが、10月末には日暮は早く夜明けは遅く、窓があっても何の意味もなかった。<br />10/23(月)<br />先日調べたCAPLI島へのフェリーでCAPLI島に行く。高速艇で14EUR/人。日本人グループが横入りして我先にと乗ったが、この船は立ち席がないので安心して乗ればよいのにね。グループだと必死になるんでしょうけどね。<br />CAPLI島で、青の洞窟船に乗り替え、10EUR、洞窟前で、小舟に乗り換えた時に船頭が、4.5EUR と洞窟入場4EURで、それにチップだと説明したが、僕は4EURだけだと記憶していた。<br />で、洞窟から出てきた時に、8.5EURx2人分しかやらなかったので睨まれた。後で、地球の歩き方を見ると、8.5EURにはチップは含まれてなかった。なんか今でも心苦しい。でもチップが本当に必要なの?<br />CAPLI港に戻り、桟橋の付け根で昼食。ピザがうまかった。ケーブルで上に上がり、アウグスト公園周辺を歩き回った。が女房の体力を考えて、VILLA JOVISとかVILLA SAN MICHELEはあきらめた。どうせ、また来るだろう。ウンベルト一斉広場周辺の家々とか辻々はなかなか気持ちの良い街なのだ。ケーブルカーを降りて高速船の切符を買うと、出港間際で走って船に乗った。<br />ホテルに帰り、地球の歩き方に書かれているNOVARA通りのスーパーに果物を買いに行き、その北側のコインランドリーで洗濯をした。が、イタリヤのコインランドリーには常に運転員が居て、操作は全部やってくれるのだ。なんでかな。夕食はホテルの向かいのレストランに行ったが、安くてうまかった。<br />10/24(火)<br />本日を3日有効のCAMPANIA ARTECARDの初日として、ポンペイに行くことにした。NAPOLI駅に行き、勝手知ったボスビオ周遊鉄道への細い通路を通り駅に行き、改札口にカードを突っ込んだが、改札口が開かない。駅員が寄ってきて、このCARDは初めて使うのだな?と聞いた。つまりボスビオ鉄道では一回しか使えないってことだろう。駅員の指示に従って他の改札機を使うと改札口が開き通過できた。<br />時刻表もマップもあり、何の心配することなく、ポンペイ遺跡駅に着き遺跡を見学した。ARTECARDで入場できるのだが、いったんはCARDで入場券を買わねばならないのだ。つまり、CARDで只のキップを買うって手続きなのだ。この手順は、どの施設も同じであった。遺跡の見学を終えて駅に戻り、駅員に「このCARDでソレントに行けるか」と聞くと、OKだと答えた。またまた何なくソレントに着き、駅から階段を降り街中に行き昼食をたべ、再び駅に戻りCARDでアマルフィには行けないことを確認してからバスの切符を買った。アマルフィ駅行きのバス停留所を探したのだが、明確な標識はなく、それに、なぜかバス事務職員の指示がバラバラで、しかも、バスの故障もあって、僕たちだけではなく他の人もうろうろとしてバスを待った。何とかバスに乗りバスはアマルフィへと向かった。<br />感じの良い街並みを抜けると、後は、抜けるような青い空と海、切り立った崖の中腹の上がったり、下がったりの道を、2.4EURにしては乗り甲斐のある距離を延々と走り続けた。<br />アマルフィに着いたが、女房は「気分が悪い、早く帰りたい」とのことで、直ぐにキップを買い、同じ道をソレントに戻り、ボスヴィオ周遊鉄道でNAPOLIに向かった。この鉄道の終着駅は、国鉄とは違って、通常のNAPOLI(GARIBALDI)駅よりは一つ先のNAPOLI駅となる。<br />10/25(水)<br />今日は、あまり知られていないが、PAESTUMに行くことにした。国鉄で行くのだが、CARDが有効な区間である。7:50発に乗ると、国鉄は、ボスビオ周遊鉄道とは、ポンペイを挟んで内陸側を進み、ソレント、アマルフィのある半島の後方を急峻な崖の間の峡谷を通過して、半島の付根のサレルノを通過して、更に進むと、寂れた何個かの駅を経て、PAESTUMに停車した。この列車は途中でBATTIPAGLIAで分岐点があるので、乗換の有無を確認してから乗らねばならない。<br />駅は全くの無人駅であるため、CARDを使わず、切符で来る人は、帰りのキップは駅からかなり離れた遺跡周辺のタバッキで買わねばならないことでも有名だ。<br />駅からまっすぐの並木道が遺跡の方まで2KM以上は続いている。本当に気持ちの良い道なのだ。遺跡もまた想像以上の規模で素晴らしく、シシリー島のアグリジェントよりも巨大な神殿が、ひっそりと佇んでいる。 なお、アグリジェントとここの神殿は、紀元前500年頃に、共にギリシャ人が建造したのである。<br />昼食は、遺跡前のピザレストランでピザを食べたが、そこの主人がいわく、俺の店は地球の歩き方に出ていると、僕の手にする本のページを示した。<br />駅への道をゆっくりと帰り、気持ちの良い散歩を楽しんだ。<br />NAPOLIに戻り、国立考古学博物館と国立ポディモンテ美術館を訪れた。例のアレクサンダー大王とダリウス王の戦いのモザイク絵には心から感動した。海外の旅では、かって書物や教科書の中で見た景色や絵画を肉眼でみることが出来る驚きが大きいのだ。<br />10/26(木)<br />今日はNAPOLIから北に33kmのCASERTAに向かった。CASERTAでは線路は分岐して右に行けばバーリから南部イタリヤへ、左に向かえばローマへと繋がって行く。ここへの列車時刻も十分に調べてあるし、CARDで乗れる範囲なのだ。<br />駅の右側に、広い庭園が広がっているので、そこから入場できると思ったらそうではなかった。庭園に沿ってずっと反時計回りに道をたどると、庭園を線路と平行に走る道があり、その更に向こう側が、CASERTAの宮殿なのだ。CASERTAはブルボン王朝がNAPOLIを中心とする南部イタリヤを支配していた頃に、海岸沿いの町々がバイキングに侵略されるのを恐れた王が、内陸に都を移すことでできた町なのだ。そんな仮住まいたる宮殿が、これほど凄い建物になるとは、と驚愕するような巨大な宮殿であり、巨大な庭園であった。<br />特に宮殿は、奥行き2kmもあり、歩いても歩いても、登っても登っても奥に到達しない、と思われる大きさであった。なにしろ庭園内をバスが走っているのだ。でも、僕らは何とか辿り着いたからね。(途中であきらめかけたけどね)<br />10/27(金)<br />朝は遅く起きてチェックアウトして、サムソナイトを引き摺ってFIRENZE通りをGARBARDI通りに向かった。前に書いたように、その交差点(ウンベルト王子広場ちゅうのだね)に広場がありGARBARDI駅に向かう市電の停車駅があるのだ。ここで乗れば空いた列車に乗ることができるのだ。市電に乗るのは簡単になったが降りることについて言うと、海岸通りでは、いつもどこで降りるか迷うのだが、その度に同乗するイタリヤ人の小父さんか小母さんが、「ここだよ、ここだよ」と教えてくれる。それほど、一般的イタリヤ人はおせっかいで親切で、マリチィッマ駅前は外国人が行くことで有名なのだ。さて、ここで見つけておいた預かり所に荷物を預け、ウンベルトのガレッリヤを経て、FUNICOLARE CENTRALEに乗った。この(FUNICOLARE)ケーブルカーはなかなか乗り応えのあるケーブルカーであった。<br />眺めが良いと評判のサンテルモ城に向かったが、ケーブルカー駅からの道筋はなかなか複雑で、通りかかる人に道を聞き聞き進んで行った。この城はなかなか構造的に面白い城で、上にはエレベータで登るのだが無料であった。眺めも良かったのだが、城の出口向かいの昼食を食べたレストランからの眺めはもっと良かった。その向かいのレストランは昼過ぎなのに僕ら夫婦以外は居なくて、後から入って来た観光客は追い出された。どうしてそうなったかは今でも判らない。かくして、僕たちのNAPOLIの日々は終わり、その夜に船に乗船してシシリー島に向かった。部屋は快適で夕食は船内の安い方のレストランで済ませた。舷側側の高価な部屋を取ったのに出発時には既に夜で、外はまるで見えなかった。あほらしい。<br />10/28(土)10/29 (日)<br />船がパレルモに着いた時には、まだ夜は明けきっていなくて薄暗かった。バスで駅に向かおうかと予定していたが、TAXIの運ちゃんに声を掛けられて、いくらだ?と聞くと、15EURだと答えた。その顔の表情から、交渉すれば下がるなと感じたが、金より時間だと考えてしまった。旅も一週間にもなると、だんだんと軟弱になってしまうのだ。で、OKと答えて車に乗った。案の定、運転手は実に楽しそうに運転したが、その有様を見ると、なぜか僕も幸せになってしまった。<br />TAXIはあっという間に駅に着き、運ちゃんは荷物を下ろし、金を受け取ると嬉しそうに<br />GRAZIE!と言い去って行った。時間は6:30だから列車には充分の時間があった。時間を金で買ったってことですね。<br />窓口に行き、7:35発AGURIGENTO CENRARE行きの切符を買った。次の列車は、10:35なのでTAXIを使ったのだ。アグリジェントまで2時間程度だが、元々便数が少なく、しかも土曜日だからいよいよ便数が減るのだ。<br />サムソナイト、バッグと4個の荷物を全てを駅の荷物預かりに預けたが、これが結局思わぬ出費になった。帰着した時の話になるが、これは仕方の無いことではあった。残念ながら受取書を失い詳細金額を示せないが、要するに5時間を越すと、追加料金が一気に増えて行くのだ。支払いの時にその高額さに驚いて抗議したのだが、「金額はCPUで計算している。計算根拠は壁に貼っている」と教えられ、概算すると間違いなかったので諦めて支払ったのだ。イタリヤ国鉄の預かり料金は全国で一律だから注意を要し、出来るだけ荷物をまとめる事が望ましいのだ。<br />駅でクロワッサンとかサンドイッチとカプチーノで朝食を取り、入線してきた列車に乗った。後になって乗るのだが、本土の南端辺りの列車のぼろさに比べるとシチリヤの田舎駅を走るにしてはなかなかの列車であった。<br />アグリジェントへの線路はその殆どが谷間を進むのだが、その両側は、谷から山の上までの全てが見事に耕作されており、いかに、紀元前の昔から営々と人々が切り開いてきたかを思わせる地域であった。アグリジェントの直前で、線路はパレルモとは島の反対側の、紺碧の海に到達するのだ。<br />AGRIGENTの駅前には広場があるのだが、バスの乗り場が判らず、聞く人毎に、指示する場所が違い、だんだんと駅から離れていった。が、再び駅前広場に戻ると何人かのバックパッカーが集まっており尋ねるとそこがバス停だと判った。来たバスの運転手に、「神殿の谷」と言うと、頷いたのだが、バスは、市内をぐるっと回り坂を下りて、後で分るのだが、神殿入口を通過して延々と走り、もう一度運転手に念を押すと、あっそうか、てなことを呟いた。バスは田舎の家々と畑や谷間をぐるっと回り、結局元に戻って来て神殿入口に止った。AGRIGENTの人は、なんかおかしくないかえ?結局、歩いてもそう遠くない所に行くのにバス停を聞くものだから教える方も混乱したのかもしれない。でも、軟弱な僕らに取って歩くには、ちょっと遠い距離なんだなぁ。で、最初に聞いた人々は歩いて行く方向を教えてくれて、バスは最初は神殿とは逆の方向に進み、町がある丘の麓をぐるっと回って神殿の谷に向かっているのだ。<br />ジュピター神殿、ディオスクロイ神殿、巨象のレプリカを見てから、道路を隔てた坂を登って、稜線に沿って建てられたコンコルディヤ神殿、ジュノーネラチニヤ神殿を見て歩いた。巨象は見ごたえが有るものの、神殿そのものは、PAESTUMEの方が素晴らしく、むしろ稜線からの眺めが、その空の青さと見事な緑と谷間と、また稜線の反対側のなだらかな紺碧の海まで続く緑が、共に素晴らしかったのだ。ひょっとすると、ギリシャ人よりも以前に地中海を庭としていたフェニキヤ人が、彼らの植民地を同じような海岸に建設したように、ギリシャ人もまた、かような海岸そばの丘陵を好んだのかもしれない。<br />帰りの列車を急いで2時過ぎの便に乗り、4時前にはパレルモのCENTRAL駅に着き、預けた荷物を受け取り、そこで先に書いたように、預け賃でもめたのだが、納得して荷物を引き摺って石畳の道をVIA MAQUEDAを宿へと向かった。宿はこれに交わるVIA DIVSIにあり、直ぐに見つかった。が、日本流では2階にあり、荷物を持ち上げるのが大変だった。地球の歩き方で紹介している宿は更に上階にあるから、いよいよ大変であろう。<br />宿は朝食込みで62EUR、部屋もまあまあで朝食は非常に良かったのだが、僕たちの部屋はVIA MAQUEDAに向いており、夜中じゅう車が走り、その石畳の走行音が、建物に反響してすさまじい騒音であった。でも、女房はぐっすりと眠れるんだなあ。<br />街は縦横に三本程度の主要通路があり、裏通りがこれに加わり、極めて判り易い街並みである。宿からは主要な見所は歩いて行けますし、近くには味もまあまあの中華レストランと言うよりは食堂もあり、朝には裏通りで市場が開かれ、僕のようにごちゃごちゃの街が好きな人間には、とても楽しい街であった。が、女房には面白くなかったようだ。って、これで、この街のことはわかるでしょ?ところで、市場では果物とか商品に触ってはいけません。口で何キロ(イタリヤ語を勉強してね)と言えば、店の人が新聞紙で包装してくれます。これがマナーですから気をつけてね。なお、朝の市場では、ぼられることは無かったです。目つき鋭い商売人の顔付なんだけども、本性は気の優しいのがシチリヤ人気質ですね。<br />バスの一日券を買ったが、バスに乗ると狭い街なのでどうしても行き過ぎてしまうようです。地図では大通りになってるんですが、実態は狭い通りなんで、見落として行き過ぎてしまうんです。なお、ORTO BOTANICO植物園は実に見ごたえのある植物園です。駅から植物園までの道は、中国人街のように安物をあれこれ売っていて、僕には興味深い道でした。<br />10/30(月)<br />さて今日は、本土のBARIまでの列車の旅です。今回の旅行ではこれが最も計画困難だった所です。最も簡単なルートは、NAPORIまで行きバーリへと後戻りするルートです。でもそれでは面白くないですよね。で、イタリヤ半島の靴の底をトコトコと行く道を選んだのです。<br />切符は、おとつい買っておいた。BARIまで1等で(1等列車は主ラインだけ)1人で60EURですから安いもんです。<br />PALERMO CENTRARE 7:30 PAOLA 13;37/13:55 <br />CASTIGLIONE COSENTINO 14:16/14:23 SIBARI 15:22/16:22<br />TARANT 18:52/19:19 BARI CENTRARE 20:53<br />と、かなりの乗換頻度で、どこかで問題が起こると全てが狂う。それを避けようと、私鉄を調べたり、バスを調べたり、とあらゆる手立てを行ったがうまく行かなかった。結局、このエリヤはあまりにも辺鄙すぎるのだろう。だがこの辺りは、カルタゴのハンニバルが暴れまわった所である。通過するだけでも僕の人生の意義があるように思えるのだ。シチリヤを特急で縦断することにも僕には特別の意味があり、メッシーナ海峡をフェリーで渡るなんて考えるだけでも興奮するのだ。<br />ってことで、シチリヤの北岸を紺碧のティレニア海を眺めながら、特急の乗り心地を楽しんだ。メッシーナ駅では、南岸から来る特急を待ち、共にメッシーナのマリチィマ駅(フェリー駅)でフェリー内に入線するのだ。フェリー船内のスナック売場でサンドイッチとカプチーノを買い昼食として、メッシーナ海峡の眺めを満喫した。<br />対岸で列車は、徐々に遅れて行き、PAOLA駅では30分も遅れてしまった。PAOLA駅で乗換列車を探すと、向かいの車線に来るとのことで、暫く待つと列車が入線してきた。列車は直ぐにトンネルに入り、急な坂をのぼり、谷間を通りCASTIGLIONE COSENTINOに着いた。どうやらその列車は、二つの駅の間をシャットル運転しているらしく、SIBARI駅で、急いで地下通路を通り乗換に間に合った。この辺りの列車は、とても古いタイプであった。SIBARI駅からの車掌は、体の大きな金髪の映画俳優なみのハンサム男であった。恐らく、バイキングがこの辺りを占領していた時の子孫であろうと思えたTARANTへの海岸は、日没の美しい海岸が延々と続いていた。<br />ギリシャ時代からの軍港TARANT(この名前を聞くだけで興奮してしまう)は終着駅でプラットホームを変え鈍行から特急に乗換えた。ホームで待つ人は殆ど居なかった。列車は時間通りに入線し時関通りにBARIに着いた。駅からは簡単にホテルペンションROMEOに着いた。ここは食事無しで56EUR/日である。ここには同じビルに3軒のホテルが有り、地上階のホテルに日本人の若者を見掛けた。エレベータはまあまあの装置で安心して乗れる代物だった。オーナーはサルバトーレと言い、とても好意的で感じの良いおっさんである。例の如くスーパーとコインランドリーのありかを聞くと共に近くにあることが判った。<br />スーパーは何と、2,3軒先だってさ。<br />10/31(火)<br />朝食は、駅への角にあるバールで済まし、マテーラに行く私鉄の乗り場を探しまわった。何と、駅前ロータリの駅に向かって右側、一番駅から離れた、極く当り前の、普通のビルが、CalabroAppuloLucanet鉄道(FerrovieAppuloLucane)のBariCentrare駅であり、入口を入ると、普通の通路が長く建物の中に続いている。その奥の左手で切符を売っていて、(いくらであったか忘れたが多分4EUR/1人程度)どこにホームがあるのかと探したが判らずうろうろしていると、おっさんが、階段を登れと教えてくれた。なんと建物の一番上にホームがあったのだ。ホーム待合室に時刻表が貼ってあった。時刻表にはBariCentrare 8:04 Altamura9:06/9:09 MateraCentrare 9:33 MaterSud ???と書いているので、駅員に聞くと前の2両はAltamuraまで行くので、そこですぐ右側の列車に乗り換えて、MateraCentrareで降りること、って教えられた。2両以外は、Altamuraまで行かず、途中のToriffoまでとのことだった。なお、この私鉄は切符の刻印から30分以内に列車に乗らねばならないらしい。また片道だけ有効って切符に書いている。列車は、レモンとオリーブの木が延々と続く田園の中を走り続けた。無事、乗り換えも終えて、やはり同じような田園の中を通り抜け、田園は途切れ石灰石台地となり、列車は堤防の間に入り地下に潜った所が目的地であった。地上に上がり切符売り場で帰りの列車を調べると、11:50 13:11 14:18 16:12となっていた。売り場の前はロータリになっていて、道路を超えてViaRomaを抜けるとビットリベネト広場になる。ここで新市街が途切れ、くぼみのような岩の間から、有名な洞窟都市が前方の谷間いっぱいに広がっている。これを抜けると崖に沿った洞窟都市を囲む周回道路がある。この道路には殆ど観光客はおらず、洞窟との名称から与えられる惨めな町ではなく、静かで落ち着いた家並みとも言える洞窟の家が続いているのだ。散策との言葉にぴったりの石畳の道を、それぞれ個性的な洞窟の家並みの間を、なんとも静かな気持ちで歩けるのだ。僕たちは、崖に沿って右手にと歩み、崖に開けられた洞窟都市の遠景を見ながら歩み、見事な洞窟教会の所から、新市街の方に戻った。そこはもう騒々しいイタリヤの中世の城跡さえある街並みで、ViaLucanなる交通量の激しい道路を、洞窟都市に沿って歩き広場に戻り、遅めの昼食をViaRomaのレストランで食べた。<br />BARIに戻り、明日に予定しているアルベロベッロ行私鉄FerovieDelSudEst線のBariNord駅と、CastelDerMonteに行くFerovieBariNord線のBariNord駅を調べて歩いた。<br />アルベロベッロ行きが国鉄の地下道を通り一番奥にあることは直ぐに判ったが、CastelDerMonteへ行く路線は国鉄の駅のロータリー側にある筈で、これを調べ回ったが、その周辺は全て国鉄のホームであった。どうにも判らず、ホテルに帰ろうとロータリーを今朝乗った線のビルの方に歩いていて、そのちょっと手前にある建物のドアを覗くと、なんとその狭い入口の階段の下に電車が見えているではないか。そこが目的とする私鉄であったのだ。つまり路地裏の私鉄ですね。<br />なお、CastelDerMonteに行くには、Andriaからバスに乗るのだが、午前中に9:30発と午後3時頃発だけでTAXIも無いとのことだから、基本的には、BariNord駅発7:28に乗りAndriaに8:26着の電車に乗らねばならない。<br />11/1(火)<br />アルベロベッロへの列車は、昨日調べたところでは、7:10,8:22,9:52,10:53,11:57,12:40,13:29発があり各駅到着時間は、8:22発だとBariNord 8:22 Putignan0 9:26 Noci 9:39 Alberobello 9:50 Loco 9:58 MartinaFranca 10:04となっている。アルベロベッロの次のLocoroTondとか、MartinaFranca周辺はとても美しいとのことで出来ればゆきたいなあ、と考えているのだ。<br />なお、帰りのAlberobello発は,11:49,12:32,13.22,14.11,14:56,15:57,16:58,18:25となっている。<br />で、駅には少々早めだが、7:30には着いた。だが、切符売り場には誰も居ない。ホーム上をずっと歩いたが、そこにも誰も居ない。途方に暮れていると、バックを背中に背負った中東系青年が現れて、彼も、ホームをうろうろしてから地下道に行った。暫くして帰ってきて、「今日はホリデイだから列車は動かない。私はバスで行くよ」と傍にある入口、つまり国鉄の駅からすると裏側の出入口から外に出て行った。僕たちも彼を追って外に出たが、青年は、バス停留所を求めてか、切符売場を求めてか、広い道路のあちこちで疎らな人影を求めてうろうろしていた。言葉を話せる彼でもこれなんだから、僕はもう駄目だと諦めて今日の予定を変更し、LECCEに行くことにして国鉄の切符売場に向かった。LECCEへの時刻表は出力してあったから直ぐに8:09発の1等切符を買えた。がしかし、列車は遅れて9:07に来た。1等はとても混んでいて、空いているコンパートメントには若いインド人とイタリヤ女性のカップルが居て、二人は抱き合ったりキスしたり、膝の上に乗り合ったりと大変であったが、その合間に僕たちに話しかけるって忙しい人達であった。<br />LECCEは明るい砂岩を使ったバロック調の街並みの美しい街であった。ここでは、日本人夫婦とあったが、彼等もまた今日アルベロベッロに行く予定が狂ったのことであった。更に帰り道で中年の女性から声を掛けられた。彼女はアルベロベッロの土産物屋で働いていて、今日と明日は休暇でLECCEの家に居るとのことだった。<br />帰路、駅近くの「mannmaの店」に入ったが、CARTE(メニュー)のイタリヤ語は難しすぎて理解できなかった。「non capito」と言うと、中年のオーナーらしい美しい女性は「あ〜non capito!」と僕の言葉を繰り返した。で、PASTAとかラザーニヤって言うことで何とか食いものは出てきたが、かなり高い勘定となった。mannmaの店で注文すること、はとっても難しいんだと僕には判った。<br />11/2(水)<br />寒くなりつつあったのだが、それにくわえて今日は曇りで吹く風も冷たい。<br />7:30に駅に着くと、大勢の人が待っていた。観光客はそれほどの数では無く、この私鉄が生活路線であることが良くわかった。アルベロベッロまでは片道4EURで往復を買った。どうやらアルベロベッロ駅は時間的に無人駅になるらしいので、帰りの切符も買っておいたのだが、切符は、発売地から70km以内で刻印後6時間有効となっていたから、6時間以内に帰るとか、途中下車とか、もっと先まで行って、戻るとか、4EURを有効活用することも可能だろう。<br />列車は定刻に出て、市街地を進み、途中で大勢の人々が乗り込んできた。なかには中国系の人が大勢、小売の品物を背中いっぱいに背負って乗り込んで来た。彼等は、BARIで品物を仕入れて、田舎の町に小売りに行くのだろう。中国人たる彼等の気力には、本当に感心してしまう。<br />CasteLlanaGrotteには9:20に着き、洞窟で有名な無人駅GrotteDiCasteLlanaには9:25、アルベロベッロには、9:50とほぼ定刻に着いた。駅前は閑散としていて、どう進むのかも判らない。で、地球の歩き方に書いてあるViaMarugeritaと思われる道を進むことにした。僅かではあるが雨もぱらつくようになってしまった。通りは、なかなか雰囲気の良い通りで、大きな教会の見えるビットリオエマニエル大通りに出た。この道は、より観光客のために整備された気持の良い道であった。道を進むと広場があり、ここで市場が開かれていたが、衣服が主体の屋台で、地元の人のための市場と思われた。その終りの所に高台があり、その下に例の有名な三角帽子の家々が、坂の下の広い道の向うに広がっていた。さてさて遠くまで来たもんだ、と思った。この不思議な町並は、LargoMarterottaなる広い通りの向こう側に広がるのと、高台の左手の方にあるのとが見えた。余すところの無いように歩いて見て判ったが、通りの向こうは観光客向きであるが、左手の方は静かで落ち着いた街並みであった。寒くはあったが、充分に報われた一日であった。<br />11/3(木)<br />CastelDerMonteに行くか、GrotteDiCasteLlanaに行くかで悩んだが、女房の興味からすれば、洞窟の方かな、とGrotteDiCasteLlanaに行くこととした。自分一人か男同志だともっとダイナミックに行動できるのだが、仕方が無い。<br />昨日と同じ時間に駅に行き、片道2.6EUR(45km以内)を往復買った。昨日も通過時に確認しておいたが、その駅は完全無人駅だ。だから往復買ったのだが、有効6時間を有効に利用することも出来たかもしれない。それにしても2駅程度しか違いはないのに、なぜこんなに金額が違うのだろう。<br />乗る前に車掌らしき男、それも、ロバート・デ・ニーロにそっくりな男に、この列車はアルベロベッロに行くか?と確認して乗ったのだが、検札に来た時に、「GrotteDiCasteLlanaに行く」と言うと、「ああ、アルベロベッロまでは行かないんだね」と切符に鋏を入れた。<br />目的駅に近づいたとき、その車掌が別の車両から「次だよ」とわざわざ教えに来てくれた。<br />ただホームのあるだけの全くの無人駅に降り立って、出て行く列車を見ると、窓からロバート・デ・ニーロが見ているので手を振ったが、彼も唇を微笑の位置にして手を振った。こんな情景が僕は最も好きなのだ。<br />ホームからの降り口は列車進行方向の左にしか無くて、ホーム前はロータリーのような、とても広い空地になっている。僕たちと一緒に降りたのは青年3人で、彼等に洞窟への道を聞くと、ロータリーの道に沿って、列車線路とは直角に真っ直ぐに行くのだと教えてくれた。教えられた通りに行くと、道路に突き当り、そこを左に暫く行くと道の左手に公園のようなものがり、ここが洞窟の入口への公園であった。<br />事務所で切符を13EUR/人で買うと待合所で、10:00まで待たされた。ガイドが来て、事務所の奥に進むと、扉がありここが洞窟の入口となっていた。なかなか壮大な洞窟で、見所も多く、特に最深部の結晶は一見の価値がある。ガイドは必要な所でライトのスイッチを入れるが直ぐにスイッチを切るのだ。だから、できるだけガイドの傍に居ることが重要だ。<br />帰路はエレベータで地上に戻り、出口周辺には、土産物屋とかバールとかがあり、バールでサンドイッチとカプチーノを頼んだ。店のおっさんがパソコンを操作しているので、勘定書きでも付けているのかと覗いてみると、株の罫線が見えた。僕に気づいたおっさんが、ウインクして「ニッケイヘイキン」だと言った。パソコンはこんな田舎まで浸透しているのかと感心したのだ。<br />11/4(金)〜<br />ってことで、無事、ほぼ全ての目的を果たして、BARI発7:43のESでローマに向かった。列車は山の中を走り、ナポリへの分岐点LECCEを通過して、12:30頃にローマterminiに着いた。列車の旅って窓の外を見ているだけでも楽しいものだ。さて、宿泊は4youって60EUR/日のB&amp;Bで、ビットリオ・エマニエール広場の直ぐ傍であった。TERMINI駅のG.GIOLITTI通り側出口をまっすぐにナポレオン通りに突き当った辺りで、非常に便利ではあるが、中国人や韓国人の店が集まっている辺りで、市内の中でも閑散とした地域である。でも、市電は常時走っている。なお、その近くに地球の歩き方にも書いているホテルマリアーノがあるのだが、ここの地上階のレストランは値段は手ごろで親切で、しかも、おいしいのだ。そこでスエーデンの農業をやっている夫婦と合い席になったが、彼等は毎年海外旅行をしていて、僕らと楽しく話し合いながら食事をした。感じの良いレストランって、たまたま一緒になる人との会話も楽しいものなのだ。<br />11/5をローマで、女房のお供で買い物をして、11/6 10:25ローマ発、AMS経由で成田へと立った。<br /><br />やれやれ、あ~疲れた。よく書くでしょ?自分でも感心しちゃう。<br />さて所要費用集計は下記となりました。<br />航空運賃:2人 231,480円<br />宿泊、交通費 2人 320,000円<br />合計 約550.000円/2人 275,000円/1人(18日) <br />

野次喜多夫婦、南イタリヤの貧乏旅

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2006/10/20 - 2006/11/07

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isabon

isabonさん

●まとめ
(1)イタリヤ旅行の場合は、TRAINITARIAの時刻表を徹底的に利用しよう。切符の値段も出力できます。なお、私鉄はインターネットに熱心では無いので、現地に行かないと判りませんが、私鉄駅には、時刻表が貼り出してあります。(最近はイタリヤ語のHPは充実しだしたようです。それに、ヨーロッパの殆どの鉄道はネットで購入が出来るようになりました)ただ、私鉄は日曜は運行しないとか制約が多いので、この使用には融通を持ち、時間的余裕を見込んでおきましょう。
なお、特別な場合を除き、イタリヤでの乗物の切符は、列車は乗り場で、バスなどは車内で刻印機で使用開始の日時を刻印します。これをチンブラーレ(刻印する)と言います。刻印しないとタダ乗りと見なされ、タダ乗りは犯罪とみなされるので気をつけましょう。
(2)スリ、強盗は日常茶飯事だから、金は腹巻に、カメラはチャック付きのポケットの奥に入れておくこと。後ろポケットに大事な物を入れておくなんて、この国ではルール違反です。
切符を買う時にも、釣り銭は間違いないか確認しましょう。また、市内観光切符を買ったのに、市電1回分を掴まされることもります。切符の内容を確かめようね。
(3)イタリヤでの食事は、PRIMA PIATTE、SECOND PIATTEを一応は知っておこう。なお、簡易食として、フリッテとオムレツは当たり外れが少ないようです。
(4)安宿旅行をする場合は、底の厚いスリッパで風呂に入るのが望ましい。
●経過
日本からのヨーロッパ国際線は、大韓航空が最もリーズナブルな価格だからと、発売を待っていたのだが、なぜか大韓航空の発売は全くYahooに出てこなかった。そのため、切符の手配が一ヶ月遅れ、慌ててKLMを購入することになった。
結果として9月末を予定していた出発が10月20日となってしまい、アムスTRANSITで、ローマ着は19:25の航空券となった。アムスで1時間しかTRANSIT時間が無いことと、ローマ着が遅く、宿泊予定のNOMENTANAの宿着がかなり遅くなることが心配だった。
代理店はスカイバトラー社で、対応はしっかりとしており、予約後すぐに入金で、即、航空券が発行された。実に安心な手配であった。なお、アムスでの時間が少ないため、インターネットでアムスの空港ガイドとかを、あれこれと調査した。
KLMの乗り心地は上々で、アムスでの乗換も容易であった(E4着でB10発、審査も含めて20分未満)が、審査はユーロ国人とその他の国の人は別の窓口であった。で僕たちの並んだ窓口の標識が突然ユーロ国人に変わったので、困惑していると、大きな黒人が、かまわん、かまわんと日本語でアドバイスした。そのまま列に並んだが、案の状、検査員が、ここはユーロ国人の窓口だ、と言うので、標識が突然変わったのだ、と答えると、黙ってうなずきパスポートチェックをしてくれた。ヨーロッパ人ってかなり融通がきくのだ。
飛行機は出発、到着共に僅かに遅れて、19:45にローマに着いた。20:15に駅に出て、20:27分のNOMENTANA行きを待ったが、遅れて20:50発になった。48分で着く筈が、遅れて21:48分着となった。その間、ROMA FIUMICINO(小さな川)を出た列車は、車内放送も無く、駅の標識も不明瞭でどこに居るのか、何時着くのか全く判らず、暗闇の中を薄明かりの駅から駅への走行が続き、どうにも不安で、近くに座る人に「NOMENTANA?」と聞くと、私も行く、って言ってくれたのでほっとした。結局、NOMENTANA、地下鉄乗換えのティブルティ−ナ駅の次であった。この辺りの駅の配置は、地球の歩き方のローマ編に詳しい、と後から判った。
今回は、南イタリヤを列車で走りまくるので、TRANITARIAの時刻表を空港からの移動にそって、ずっと出力してきたが、こんな事態には全く対応できなかった。それに、NAPOLIの私鉄のデータもインターネットでは殆ど把握できなかったのも心配のひとつだ。

ローマでのB&Bは、ローマ市内から、ちょっと離れたNOMENTANAの駅の近くの住宅地帯にあり、夜9時頃に着いた。駅には全く人気の無く、駅を出て坂道を上がるとひろ〜いNOMENTANA通りで、これを越えてもうアパートが立ち並ぶ住宅街で、明かりは殆ど無い。調べておいた番地でB&Bを捜したが、番地表示は飛び飛びなのでなかなか見つからない。もう通りには人相の悪そうな連中にしか居なかったが、やむを得ず聞きまわって漸く扉をみつけた。悪そうな奴でも、懐に入ると親切にするのが、人間の習性のようだ。
今回の旅で再認識したが、イタリヤの家の門は背が高く頑丈だが本当に狭い。ところが、中に入ると、一気に内庭になっていて、本当に広々しているのだ。そのB&Bなんぞは、狭い門を入ると、広い庭があって、その向こうに住宅ビルディングが幾棟も建っていて、ひとつの住宅団地群になっていた。
その狭い門の内側に押しボタンが並んでいて、漸くB&Bの名前を見つけて押しボタンを押すと、女家主のイタリヤ語が聞こえた。この女家主は英語がしゃべれないので、しゃあないと、イタリヤ語でしゃべるはめになってしまった。

部屋は、その家主NELLYが自宅をB&Bとしているので、実に清潔で住み心地は最高であったが、PRIVATE BATHを頼んでおいたのに、家主との共同風呂の部屋だった。でもまあ、ダブルで朝食付き58EURだからしゃあないかと諦めた。それに家主の言うには、風呂は扉が開いていれば使えて、閉まっていれば使用中とのルールらしい。まあ、それなら問題なさそうだと思った。実際、このルールだと、殆ど不自由はなかった。
翌朝判ったが、ここにはドイツ人の若夫婦が泊まっていて、若者たちには、PRIVATE BATHの部屋で、僕たち老夫婦なれば、お互いに融通できるだろうと家主は考えたようだ。それとも僕らが着くのが遅く、早いもの勝ちであったと言うのが正解だろう。ひょっとすると来ない可能性も高いのだから。でも、イタリヤの検索システムは予約を不実行の場合は、キャンセル料が自動的に発生するシステムになっている。

静かで居心地良くゆっくりと休めた。朝食は8時からで、各種パン、ジュースが並び、カプチーノ、紅茶が選択で、牛乳も用意されていて、かなり豪華な様子であった。テーブルはひとつで、金髪のドイツ人夫婦と相席となった。
亭主の方はイタリヤ語がペラペラで、僕も暫くはイタリヤ語で相手をしたが、なかなか話が進まず、僕の方から「英語はしゃべれるか?」とイタリヤ語で問いかけると、「little bit」と見事な英語で応じてきた。と、イタリヤ語をしゃべれず、黙ったまま食事を続けていた彼の女房の方までもが、英語で話しかけてきた。欧米人はおしゃべりが多い。

ところで、朝は7時に目が覚めたので、NOMENTANA駅で、あさってのNAPOLIへの国内超特急ESの切符を買っておこうと出かけたのだが、部屋の鍵、B&Bの鍵、次いで、建物の鍵を開けて外に出ると、広い緑の庭と、多数の住宅ビルヂングがこの敷地の中にあることに驚いた。例の狭い門の扉と合計4個の鍵を開けて、昨日うろついた道路に出て駅に向かった。駅舎は鉄路の反対側にあり、狭い地下通路を抜けて駅舎に行ってみると、なんと、この駅は無人駅であった。てなことで、切符はローマのテルミニ駅で買うより仕方がなくなった。なんで、ローマ市の北の端の住宅群駅舎が無人駅なのだろうか。

ローマにはイタリヤ鉄道駅はいくつか有るが、その主なる駅は、TERMINI駅である。その昔、西暦0年頃に、ここには2000人も入れる巨大な共同浴場が設けられていた。ローマ人は行く先々で巨大な共同浴場を建設し、この清潔好きなローマ人の性格とその施設のおかげで、ローマ時代には伝染病はそれほどの脅威とはならなかったのに、ローマ帝国滅後の中世には、多くの疫病が欧州を襲っている。
その浴場後に建設されたので、この駅はTERMINI(温泉)駅と名づけられ、その駅が終点になっているので、終着駅のことをターミナルと称されることになった。そうして、TERMINI駅をテーマとして、終着駅なる映画が作成されたのだ。
駅周辺には、紀元前の城壁が残っていて、この城壁はガリヤ人の攻撃で簡単に破られてしまった。この教訓を元に、ローマはその後作られた半径2kmほどの城壁が周囲を囲んでいる。かって、と言っても1年前に、僕は、10日間をローマで過ごし、その間の朝早くに城壁に沿って歩き回ったが、城壁の殆どは今でも完璧で見ごたえのある代物だった。

食後、NERRYにバス停の場所を聞き、人通りの殆ど無い道を、NOMENTANA通りにと出掛けた。Yahooイタリヤで宿泊地周辺の地図は全て出力しているので、道については大体把握している。だがしかし、例え犬の糞があちこち散らばってはいても、朝の異国の道を歩くのは、いつも心躍るものなのだ。バス停近くのタバッキーで一日券を買い、聞いていたNO90のバスでTERMINIに向かった。地下鉄もこの切符で乗れるのだ。
空いてはいたが、座れるほどでは無く、乗車して吊革にぶらさがっていると、早速スリが寄ってきた。若い女のスリで容貌はイタリヤ人ではあるが、ジプシーの雰囲気を持っている。それにしてもあからさまな接近で、僕達は、あちらこちらへと車内を逃げ回った。
今から思えば、日本人が大人しいと馬鹿にしているのだから、怒鳴りつけるべきなのだ。今後は必ずそうしよう。
TERMINI駅に着き、切符売り場に行き、メモを渡し、明日の9時発ナポリ行き特急1等を買った。NAPOLIまで約2時間46EURとイタリヤの鉄道は安いのだ。ついで地下鉄に乗りスペイン広場に行き、アメックス事務所でT/C500EURをCASHに換えた。手数料無料だから日本でCASHを買うより遥かに安いのだ。
その後は、トレビの泉、コロンナ広場、パンテオンと、何度も歩いた道だが、いつもトレビの泉で方向を間違ってしまう。トレビの泉の方向が河の流れの方向と直角になるからだ。
とにかく何度も来たローマを見て歩いた。 
10月22日(日)
NERRYに7時に朝食を出来ないかと頼んだが、それは出来ないとのことで、翌日は、おいしい朝食をあきらめ宿を出て、駅の立ち食いでサンドイッチの食事を終えて9時の列車に乗った。1等は6人席のコンパートメント指定席だった。
なお、NOMENTANAからのバスだが、ローマの一日券は実際は24時間券だから、朝も有効であった。
列車の出発直前に中年の婦人が同じ部屋に入ってきたが、奇妙なことに他のコンパートメントはがらがらであった。僕と女房は向かい合って窓側に座っていた。中年の女性は僕の横に座り、自分のハンドバックを僕との間に置いたが、ハンドバックの口はぱっくりと開いたまま、手を突っ込んでくれというかのように僕の方に向いていた。僕は自分のサムソナイトが邪魔にならぬかと、外に運び出して、窓の手すりにチエンで止めたが後ろを振り向くと、女性は僕の手元を見つめているので、チエンの施錠は彼女の視線を体で遮って行った。

向かいに座った女房から見ると、彼女の一見華やかな服装にも拘らず、彼女の指や足首はあかぎれが酷かったとのことだ。
列車がNAPOLIに近づいた頃になって検札の車掌が来て、彼女は切符を買い求めてから去って行った。恐らく席が空いているので座っていた、とか何とか言っているであろう、その様子からすると、切符や指定席も無く我々の横に居座っていたことになる。
この不思議な女性をどう思いますか?とても怪しいですね。イタリヤでは、スリとか、かような怪しい人物は日常茶飯事ですから、よっぽど気をつけなきゃならんのです。

ナポリ駅の構造は今でもよく判らんのだが、とにかく、通常の国鉄列車は2階での到着出発で、終着駅となっているから、列車を降りて前に進んで行き、左前方に降りるとバスターミナルで、そこにはゴチャゴチャと車が並んでいる。TAXI乗り場には延々と人の列が出来ているから、ここで車に乗る気にはならない。後で知ったが、市電はこの広場の最も駅から遠い所にある。僕らの泊まる処は、Central areaで、旅行記を読むと普通の人は泊まると危険だと書いてあったので、少々恐れを感じていたのだが、Central areaは右前方だから、その方向に進むと通路は人二人程度しか通れない狭い通路が勾配となって地上に降りて行く。通路途中にタバッキがあったりして、昔の大阪の下町って感じですな。
宿泊場所は、FIRENZE通りのB&B FIRENZEで、22日から5泊で60EUR/夜って安さです。venere.comの評価で騒音がうるさいって書かれていたので、静かな部屋と要求しておいた。FIRENZE通りに沿って番地を見て行くと直ぐに見つかった。ぼろエレベータで上がりチェックインとなった。家主ニコラウスと手伝いの女性ターニャが居て、家主は中東系、ターニャはブラジル出身の女性であった。部屋は内庭向きの静かだが、値段並みの清潔さと住み心地であった。以後気づくのだが、イタリヤのB&Bは一般的にシャワー室の排水が不良で、水が溜まりやすい。そのため、以降の旅行では常に底の厚いスリッパを持参することにしている。なお、Central areaがNAPOLIの他の場所に比べて、特別治安が悪いとは思えなかった。
ところで午後は、NAPOLI近郊旅行の準備ってことで、駅に戻り、ARTECARDの売り場を国鉄のインフォメーションに聞こうとした。僕の前にイタリヤ人の中年の女性が何かを訪ねていたが、窓口の太った黒人女性が、突然大声で叫び、イタリヤ人女性は慌てて窓口を離れた。窓口の女はニタニタと笑っている。で、僕も「どこでARTECARDが買えるか」と聞くと、早口で答えるので理解できない。理解できないと言うと、女は叫びだした。僕が驚いて窓口を離れると、向うむきに座る同僚に、笑いながら驚かせた成果を話しているようであった。イタリヤにはかように頭のおかしい駅員や、金を誤魔化す駅員が多いので気を付けねばならない。かって僕はベローナの駅のバス切符売り場で、中年の切符売場の女性から、10EURの観光切符を買ったのにも拘わらず、1EURのバス切符を渡されていた経験があるのだ。
なんとか売り場を見つけ、25EURの3日間ARTECARDを購入したが、そのCARDをボスビオ鉄道で使えるかが判らない。そこで、チルクムベスビアナ鉄道(ボスビオ周遊鉄道)のインフォメーションに行くことにした。地球の歩き方に従って、地下のボスビオ周遊鉄道の駅に行こうとしたが、工事中の壁があって行けない。上にあがり、国鉄の職員に聞くと、プラットホームに向かって右の方に行けとのことで、どんどん行くと、ほそ〜い通路となり、これを通過するとボスビオ鉄道改札口で、そこから地下のプラットホームに階段が向かっていた。改札口の手前にインフォメーションがあり、窓口はイタリヤ人女性で、国鉄のインフォメーションとは大違いで、「一度だけ往復に使える」と丁寧に教え、更に鉄道マップ付時刻表をくれた。これは僕に取っては非常に貴重なものだった。
次いで、港に行こうとタバッキで一日券を買ったが、今日の午後に使うのかと聞かれて、そうだと答えると、3EURが2EURとなった。「へ〜ローマの一日券とは違い、ここは当日券なのだ」と感心しながら駅の前の広大なバス乗場へと向かった。このバス乗場の混雑ぶりはGOOGLEMAPでも判るありさまで、そのバスが右往左往する間を通りぬけ、その辺りに居る運転手たちに聞くと、最も向こう側のバスらしい。僕たちがそこに丁度着いたとき、港行きR-2のバスが満員状態で発車する所だった。と、そこに体の頑丈なおっさんが現れて、「このバスか?」と聞くので頷くと、発車するバスを止めにかかった。だが、バスはそのまま行ってしまった。このおっさんは、いったい何者?と僕は思った。
次のバスががらがら状態で着くと、おっさんは僕の前に立ち、あたかも紳士かのように女房を先に乗せてから、自分も乗り込んだ。次いで僕も乗り込んだが、おっさんは入口からちょっと入った所で立ち止まり、僕がすり抜けて奥に入ろうとするのを、通路左右の手すりを掴んでそれを阻止した。後ろから別のおっさんが僕の体を押し始めた。で、女房はと言えば、がらがらの車内奥の方にまで行って、吊皮を持ち気楽に窓の外を見ている。
こんなことで、がらがらの車内の入口付近に、僕を含めて3人の男だけが押しくらまんじゅうをしてるって馬鹿な状況になったのだ。
だがしかし、僕は金や貴重品が簡単に抜かれるような所には入れていない。うしろのおっさんが何かを言って、前のおっさんが諦めたかのように体をよけて後ろに回り、二人はバスから降りていった。つまり二人のおっさん達は強盗だったのだ。
イタリヤって本当に恐ろしいでしょ?
でも、僕にも一応は学習能力があります。要するに、混んだバスや市電には絶対に乗らないってことですね。で、港へは、どちらかと言えばバスよりは空いている市電で、しかも、混み易いガルバルディ広場の、そのひとつ手前、即ち北側の、プリンペシウンベルト広場、つまりは、ガルバルディ通りとFIRENZE通りの交差点で乗ることにしたのだ。以降は何度も市電を使ったが、かような危ない目に会うことはなかった。更に、僕の旅行全般で見ても、NAPOLI以降は、もっと田舎ばっかりで、全く危険な目に会うことは無かった。それどころか、NAPOLIでもその他の地域でも、イタリヤの一般市民は素朴で親切で、僕らが困っている様子を見ると、いつも必ず気安く援助してくれるのだった。
ところで市電だが、ガルバルディ通りを真っ直ぐに海岸に南下して、そこで右折して海岸通りを進み、ムニチーピオ広場の海岸側の駅で降りると、海に向かい、ずっと右手にはCAPLIへの切符売り場と船乗場、真向かいの広場の向こうにある大きな建物のマリッチマ駅(MARITTIMAってえのは、フェリー乗場駅って意味ですから、フェリーが有る町にはどこにでもマリッチマ駅があります。この事はイタリヤ旅行の際は覚えておきましょう))には、パレルモへの切符売り場があり、左手にはその船乗り場などがあるのだ。マリッチマ駅広場には、有難いことに朝6時から夜8時までで1EURって、とっても安い荷物預かり所もあるのだ。(イタリヤの国鉄の荷物預りはとても高い)
駅の建物に行ったが、パレルモへの船の切符売り場がなかなか見付からず、10/27夜の便は、TIRENNIA社の20:15発であることが判り、切符の発売は入口横の切符売り場で3時からだと判った。建物内2階の待合所で時間を潰し、3時になり下に降り切符を買ったが、当日7時にここに来れば車で乗船場に運んでくれるとの事だった。が、当日になって判ったのだが、乗船場はそこからほど近い、陸に向かって右側のフェリー乗り場で、わざわざここまで来ることも、車が遅れて長く待つことも無かったのだ。
なお、その船の窓付き側一等はTWIN(2人)で140EURと、交通費と宿泊費込みとすれば、安いながらもシャワートイレ付きで、住み心地良好で、船内設備も良かった。今回の旅行で最も住み心地が良かったと、女房の意見である。ただ、窓側の高い部屋ではあったが、10月末には日暮は早く夜明けは遅く、窓があっても何の意味もなかった。
10/23(月)
先日調べたCAPLI島へのフェリーでCAPLI島に行く。高速艇で14EUR/人。日本人グループが横入りして我先にと乗ったが、この船は立ち席がないので安心して乗ればよいのにね。グループだと必死になるんでしょうけどね。
CAPLI島で、青の洞窟船に乗り替え、10EUR、洞窟前で、小舟に乗り換えた時に船頭が、4.5EUR と洞窟入場4EURで、それにチップだと説明したが、僕は4EURだけだと記憶していた。
で、洞窟から出てきた時に、8.5EURx2人分しかやらなかったので睨まれた。後で、地球の歩き方を見ると、8.5EURにはチップは含まれてなかった。なんか今でも心苦しい。でもチップが本当に必要なの?
CAPLI港に戻り、桟橋の付け根で昼食。ピザがうまかった。ケーブルで上に上がり、アウグスト公園周辺を歩き回った。が女房の体力を考えて、VILLA JOVISとかVILLA SAN MICHELEはあきらめた。どうせ、また来るだろう。ウンベルト一斉広場周辺の家々とか辻々はなかなか気持ちの良い街なのだ。ケーブルカーを降りて高速船の切符を買うと、出港間際で走って船に乗った。
ホテルに帰り、地球の歩き方に書かれているNOVARA通りのスーパーに果物を買いに行き、その北側のコインランドリーで洗濯をした。が、イタリヤのコインランドリーには常に運転員が居て、操作は全部やってくれるのだ。なんでかな。夕食はホテルの向かいのレストランに行ったが、安くてうまかった。
10/24(火)
本日を3日有効のCAMPANIA ARTECARDの初日として、ポンペイに行くことにした。NAPOLI駅に行き、勝手知ったボスビオ周遊鉄道への細い通路を通り駅に行き、改札口にカードを突っ込んだが、改札口が開かない。駅員が寄ってきて、このCARDは初めて使うのだな?と聞いた。つまりボスビオ鉄道では一回しか使えないってことだろう。駅員の指示に従って他の改札機を使うと改札口が開き通過できた。
時刻表もマップもあり、何の心配することなく、ポンペイ遺跡駅に着き遺跡を見学した。ARTECARDで入場できるのだが、いったんはCARDで入場券を買わねばならないのだ。つまり、CARDで只のキップを買うって手続きなのだ。この手順は、どの施設も同じであった。遺跡の見学を終えて駅に戻り、駅員に「このCARDでソレントに行けるか」と聞くと、OKだと答えた。またまた何なくソレントに着き、駅から階段を降り街中に行き昼食をたべ、再び駅に戻りCARDでアマルフィには行けないことを確認してからバスの切符を買った。アマルフィ駅行きのバス停留所を探したのだが、明確な標識はなく、それに、なぜかバス事務職員の指示がバラバラで、しかも、バスの故障もあって、僕たちだけではなく他の人もうろうろとしてバスを待った。何とかバスに乗りバスはアマルフィへと向かった。
感じの良い街並みを抜けると、後は、抜けるような青い空と海、切り立った崖の中腹の上がったり、下がったりの道を、2.4EURにしては乗り甲斐のある距離を延々と走り続けた。
アマルフィに着いたが、女房は「気分が悪い、早く帰りたい」とのことで、直ぐにキップを買い、同じ道をソレントに戻り、ボスヴィオ周遊鉄道でNAPOLIに向かった。この鉄道の終着駅は、国鉄とは違って、通常のNAPOLI(GARIBALDI)駅よりは一つ先のNAPOLI駅となる。
10/25(水)
今日は、あまり知られていないが、PAESTUMに行くことにした。国鉄で行くのだが、CARDが有効な区間である。7:50発に乗ると、国鉄は、ボスビオ周遊鉄道とは、ポンペイを挟んで内陸側を進み、ソレント、アマルフィのある半島の後方を急峻な崖の間の峡谷を通過して、半島の付根のサレルノを通過して、更に進むと、寂れた何個かの駅を経て、PAESTUMに停車した。この列車は途中でBATTIPAGLIAで分岐点があるので、乗換の有無を確認してから乗らねばならない。
駅は全くの無人駅であるため、CARDを使わず、切符で来る人は、帰りのキップは駅からかなり離れた遺跡周辺のタバッキで買わねばならないことでも有名だ。
駅からまっすぐの並木道が遺跡の方まで2KM以上は続いている。本当に気持ちの良い道なのだ。遺跡もまた想像以上の規模で素晴らしく、シシリー島のアグリジェントよりも巨大な神殿が、ひっそりと佇んでいる。 なお、アグリジェントとここの神殿は、紀元前500年頃に、共にギリシャ人が建造したのである。
昼食は、遺跡前のピザレストランでピザを食べたが、そこの主人がいわく、俺の店は地球の歩き方に出ていると、僕の手にする本のページを示した。
駅への道をゆっくりと帰り、気持ちの良い散歩を楽しんだ。
NAPOLIに戻り、国立考古学博物館と国立ポディモンテ美術館を訪れた。例のアレクサンダー大王とダリウス王の戦いのモザイク絵には心から感動した。海外の旅では、かって書物や教科書の中で見た景色や絵画を肉眼でみることが出来る驚きが大きいのだ。
10/26(木)
今日はNAPOLIから北に33kmのCASERTAに向かった。CASERTAでは線路は分岐して右に行けばバーリから南部イタリヤへ、左に向かえばローマへと繋がって行く。ここへの列車時刻も十分に調べてあるし、CARDで乗れる範囲なのだ。
駅の右側に、広い庭園が広がっているので、そこから入場できると思ったらそうではなかった。庭園に沿ってずっと反時計回りに道をたどると、庭園を線路と平行に走る道があり、その更に向こう側が、CASERTAの宮殿なのだ。CASERTAはブルボン王朝がNAPOLIを中心とする南部イタリヤを支配していた頃に、海岸沿いの町々がバイキングに侵略されるのを恐れた王が、内陸に都を移すことでできた町なのだ。そんな仮住まいたる宮殿が、これほど凄い建物になるとは、と驚愕するような巨大な宮殿であり、巨大な庭園であった。
特に宮殿は、奥行き2kmもあり、歩いても歩いても、登っても登っても奥に到達しない、と思われる大きさであった。なにしろ庭園内をバスが走っているのだ。でも、僕らは何とか辿り着いたからね。(途中であきらめかけたけどね)
10/27(金)
朝は遅く起きてチェックアウトして、サムソナイトを引き摺ってFIRENZE通りをGARBARDI通りに向かった。前に書いたように、その交差点(ウンベルト王子広場ちゅうのだね)に広場がありGARBARDI駅に向かう市電の停車駅があるのだ。ここで乗れば空いた列車に乗ることができるのだ。市電に乗るのは簡単になったが降りることについて言うと、海岸通りでは、いつもどこで降りるか迷うのだが、その度に同乗するイタリヤ人の小父さんか小母さんが、「ここだよ、ここだよ」と教えてくれる。それほど、一般的イタリヤ人はおせっかいで親切で、マリチィッマ駅前は外国人が行くことで有名なのだ。さて、ここで見つけておいた預かり所に荷物を預け、ウンベルトのガレッリヤを経て、FUNICOLARE CENTRALEに乗った。この(FUNICOLARE)ケーブルカーはなかなか乗り応えのあるケーブルカーであった。
眺めが良いと評判のサンテルモ城に向かったが、ケーブルカー駅からの道筋はなかなか複雑で、通りかかる人に道を聞き聞き進んで行った。この城はなかなか構造的に面白い城で、上にはエレベータで登るのだが無料であった。眺めも良かったのだが、城の出口向かいの昼食を食べたレストランからの眺めはもっと良かった。その向かいのレストランは昼過ぎなのに僕ら夫婦以外は居なくて、後から入って来た観光客は追い出された。どうしてそうなったかは今でも判らない。かくして、僕たちのNAPOLIの日々は終わり、その夜に船に乗船してシシリー島に向かった。部屋は快適で夕食は船内の安い方のレストランで済ませた。舷側側の高価な部屋を取ったのに出発時には既に夜で、外はまるで見えなかった。あほらしい。
10/28(土)10/29 (日)
船がパレルモに着いた時には、まだ夜は明けきっていなくて薄暗かった。バスで駅に向かおうかと予定していたが、TAXIの運ちゃんに声を掛けられて、いくらだ?と聞くと、15EURだと答えた。その顔の表情から、交渉すれば下がるなと感じたが、金より時間だと考えてしまった。旅も一週間にもなると、だんだんと軟弱になってしまうのだ。で、OKと答えて車に乗った。案の定、運転手は実に楽しそうに運転したが、その有様を見ると、なぜか僕も幸せになってしまった。
TAXIはあっという間に駅に着き、運ちゃんは荷物を下ろし、金を受け取ると嬉しそうに
GRAZIE!と言い去って行った。時間は6:30だから列車には充分の時間があった。時間を金で買ったってことですね。
窓口に行き、7:35発AGURIGENTO CENRARE行きの切符を買った。次の列車は、10:35なのでTAXIを使ったのだ。アグリジェントまで2時間程度だが、元々便数が少なく、しかも土曜日だからいよいよ便数が減るのだ。
サムソナイト、バッグと4個の荷物を全てを駅の荷物預かりに預けたが、これが結局思わぬ出費になった。帰着した時の話になるが、これは仕方の無いことではあった。残念ながら受取書を失い詳細金額を示せないが、要するに5時間を越すと、追加料金が一気に増えて行くのだ。支払いの時にその高額さに驚いて抗議したのだが、「金額はCPUで計算している。計算根拠は壁に貼っている」と教えられ、概算すると間違いなかったので諦めて支払ったのだ。イタリヤ国鉄の預かり料金は全国で一律だから注意を要し、出来るだけ荷物をまとめる事が望ましいのだ。
駅でクロワッサンとかサンドイッチとカプチーノで朝食を取り、入線してきた列車に乗った。後になって乗るのだが、本土の南端辺りの列車のぼろさに比べるとシチリヤの田舎駅を走るにしてはなかなかの列車であった。
アグリジェントへの線路はその殆どが谷間を進むのだが、その両側は、谷から山の上までの全てが見事に耕作されており、いかに、紀元前の昔から営々と人々が切り開いてきたかを思わせる地域であった。アグリジェントの直前で、線路はパレルモとは島の反対側の、紺碧の海に到達するのだ。
AGRIGENTの駅前には広場があるのだが、バスの乗り場が判らず、聞く人毎に、指示する場所が違い、だんだんと駅から離れていった。が、再び駅前広場に戻ると何人かのバックパッカーが集まっており尋ねるとそこがバス停だと判った。来たバスの運転手に、「神殿の谷」と言うと、頷いたのだが、バスは、市内をぐるっと回り坂を下りて、後で分るのだが、神殿入口を通過して延々と走り、もう一度運転手に念を押すと、あっそうか、てなことを呟いた。バスは田舎の家々と畑や谷間をぐるっと回り、結局元に戻って来て神殿入口に止った。AGRIGENTの人は、なんかおかしくないかえ?結局、歩いてもそう遠くない所に行くのにバス停を聞くものだから教える方も混乱したのかもしれない。でも、軟弱な僕らに取って歩くには、ちょっと遠い距離なんだなぁ。で、最初に聞いた人々は歩いて行く方向を教えてくれて、バスは最初は神殿とは逆の方向に進み、町がある丘の麓をぐるっと回って神殿の谷に向かっているのだ。
ジュピター神殿、ディオスクロイ神殿、巨象のレプリカを見てから、道路を隔てた坂を登って、稜線に沿って建てられたコンコルディヤ神殿、ジュノーネラチニヤ神殿を見て歩いた。巨象は見ごたえが有るものの、神殿そのものは、PAESTUMEの方が素晴らしく、むしろ稜線からの眺めが、その空の青さと見事な緑と谷間と、また稜線の反対側のなだらかな紺碧の海まで続く緑が、共に素晴らしかったのだ。ひょっとすると、ギリシャ人よりも以前に地中海を庭としていたフェニキヤ人が、彼らの植民地を同じような海岸に建設したように、ギリシャ人もまた、かような海岸そばの丘陵を好んだのかもしれない。
帰りの列車を急いで2時過ぎの便に乗り、4時前にはパレルモのCENTRAL駅に着き、預けた荷物を受け取り、そこで先に書いたように、預け賃でもめたのだが、納得して荷物を引き摺って石畳の道をVIA MAQUEDAを宿へと向かった。宿はこれに交わるVIA DIVSIにあり、直ぐに見つかった。が、日本流では2階にあり、荷物を持ち上げるのが大変だった。地球の歩き方で紹介している宿は更に上階にあるから、いよいよ大変であろう。
宿は朝食込みで62EUR、部屋もまあまあで朝食は非常に良かったのだが、僕たちの部屋はVIA MAQUEDAに向いており、夜中じゅう車が走り、その石畳の走行音が、建物に反響してすさまじい騒音であった。でも、女房はぐっすりと眠れるんだなあ。
街は縦横に三本程度の主要通路があり、裏通りがこれに加わり、極めて判り易い街並みである。宿からは主要な見所は歩いて行けますし、近くには味もまあまあの中華レストランと言うよりは食堂もあり、朝には裏通りで市場が開かれ、僕のようにごちゃごちゃの街が好きな人間には、とても楽しい街であった。が、女房には面白くなかったようだ。って、これで、この街のことはわかるでしょ?ところで、市場では果物とか商品に触ってはいけません。口で何キロ(イタリヤ語を勉強してね)と言えば、店の人が新聞紙で包装してくれます。これがマナーですから気をつけてね。なお、朝の市場では、ぼられることは無かったです。目つき鋭い商売人の顔付なんだけども、本性は気の優しいのがシチリヤ人気質ですね。
バスの一日券を買ったが、バスに乗ると狭い街なのでどうしても行き過ぎてしまうようです。地図では大通りになってるんですが、実態は狭い通りなんで、見落として行き過ぎてしまうんです。なお、ORTO BOTANICO植物園は実に見ごたえのある植物園です。駅から植物園までの道は、中国人街のように安物をあれこれ売っていて、僕には興味深い道でした。
10/30(月)
さて今日は、本土のBARIまでの列車の旅です。今回の旅行ではこれが最も計画困難だった所です。最も簡単なルートは、NAPORIまで行きバーリへと後戻りするルートです。でもそれでは面白くないですよね。で、イタリヤ半島の靴の底をトコトコと行く道を選んだのです。
切符は、おとつい買っておいた。BARIまで1等で(1等列車は主ラインだけ)1人で60EURですから安いもんです。
PALERMO CENTRARE 7:30 PAOLA 13;37/13:55
CASTIGLIONE COSENTINO 14:16/14:23 SIBARI 15:22/16:22
TARANT 18:52/19:19 BARI CENTRARE 20:53
と、かなりの乗換頻度で、どこかで問題が起こると全てが狂う。それを避けようと、私鉄を調べたり、バスを調べたり、とあらゆる手立てを行ったがうまく行かなかった。結局、このエリヤはあまりにも辺鄙すぎるのだろう。だがこの辺りは、カルタゴのハンニバルが暴れまわった所である。通過するだけでも僕の人生の意義があるように思えるのだ。シチリヤを特急で縦断することにも僕には特別の意味があり、メッシーナ海峡をフェリーで渡るなんて考えるだけでも興奮するのだ。
ってことで、シチリヤの北岸を紺碧のティレニア海を眺めながら、特急の乗り心地を楽しんだ。メッシーナ駅では、南岸から来る特急を待ち、共にメッシーナのマリチィマ駅(フェリー駅)でフェリー内に入線するのだ。フェリー船内のスナック売場でサンドイッチとカプチーノを買い昼食として、メッシーナ海峡の眺めを満喫した。
対岸で列車は、徐々に遅れて行き、PAOLA駅では30分も遅れてしまった。PAOLA駅で乗換列車を探すと、向かいの車線に来るとのことで、暫く待つと列車が入線してきた。列車は直ぐにトンネルに入り、急な坂をのぼり、谷間を通りCASTIGLIONE COSENTINOに着いた。どうやらその列車は、二つの駅の間をシャットル運転しているらしく、SIBARI駅で、急いで地下通路を通り乗換に間に合った。この辺りの列車は、とても古いタイプであった。SIBARI駅からの車掌は、体の大きな金髪の映画俳優なみのハンサム男であった。恐らく、バイキングがこの辺りを占領していた時の子孫であろうと思えたTARANTへの海岸は、日没の美しい海岸が延々と続いていた。
ギリシャ時代からの軍港TARANT(この名前を聞くだけで興奮してしまう)は終着駅でプラットホームを変え鈍行から特急に乗換えた。ホームで待つ人は殆ど居なかった。列車は時間通りに入線し時関通りにBARIに着いた。駅からは簡単にホテルペンションROMEOに着いた。ここは食事無しで56EUR/日である。ここには同じビルに3軒のホテルが有り、地上階のホテルに日本人の若者を見掛けた。エレベータはまあまあの装置で安心して乗れる代物だった。オーナーはサルバトーレと言い、とても好意的で感じの良いおっさんである。例の如くスーパーとコインランドリーのありかを聞くと共に近くにあることが判った。
スーパーは何と、2,3軒先だってさ。
10/31(火)
朝食は、駅への角にあるバールで済まし、マテーラに行く私鉄の乗り場を探しまわった。何と、駅前ロータリの駅に向かって右側、一番駅から離れた、極く当り前の、普通のビルが、CalabroAppuloLucanet鉄道(FerrovieAppuloLucane)のBariCentrare駅であり、入口を入ると、普通の通路が長く建物の中に続いている。その奥の左手で切符を売っていて、(いくらであったか忘れたが多分4EUR/1人程度)どこにホームがあるのかと探したが判らずうろうろしていると、おっさんが、階段を登れと教えてくれた。なんと建物の一番上にホームがあったのだ。ホーム待合室に時刻表が貼ってあった。時刻表にはBariCentrare 8:04 Altamura9:06/9:09 MateraCentrare 9:33 MaterSud ???と書いているので、駅員に聞くと前の2両はAltamuraまで行くので、そこですぐ右側の列車に乗り換えて、MateraCentrareで降りること、って教えられた。2両以外は、Altamuraまで行かず、途中のToriffoまでとのことだった。なお、この私鉄は切符の刻印から30分以内に列車に乗らねばならないらしい。また片道だけ有効って切符に書いている。列車は、レモンとオリーブの木が延々と続く田園の中を走り続けた。無事、乗り換えも終えて、やはり同じような田園の中を通り抜け、田園は途切れ石灰石台地となり、列車は堤防の間に入り地下に潜った所が目的地であった。地上に上がり切符売り場で帰りの列車を調べると、11:50 13:11 14:18 16:12となっていた。売り場の前はロータリになっていて、道路を超えてViaRomaを抜けるとビットリベネト広場になる。ここで新市街が途切れ、くぼみのような岩の間から、有名な洞窟都市が前方の谷間いっぱいに広がっている。これを抜けると崖に沿った洞窟都市を囲む周回道路がある。この道路には殆ど観光客はおらず、洞窟との名称から与えられる惨めな町ではなく、静かで落ち着いた家並みとも言える洞窟の家が続いているのだ。散策との言葉にぴったりの石畳の道を、それぞれ個性的な洞窟の家並みの間を、なんとも静かな気持ちで歩けるのだ。僕たちは、崖に沿って右手にと歩み、崖に開けられた洞窟都市の遠景を見ながら歩み、見事な洞窟教会の所から、新市街の方に戻った。そこはもう騒々しいイタリヤの中世の城跡さえある街並みで、ViaLucanなる交通量の激しい道路を、洞窟都市に沿って歩き広場に戻り、遅めの昼食をViaRomaのレストランで食べた。
BARIに戻り、明日に予定しているアルベロベッロ行私鉄FerovieDelSudEst線のBariNord駅と、CastelDerMonteに行くFerovieBariNord線のBariNord駅を調べて歩いた。
アルベロベッロ行きが国鉄の地下道を通り一番奥にあることは直ぐに判ったが、CastelDerMonteへ行く路線は国鉄の駅のロータリー側にある筈で、これを調べ回ったが、その周辺は全て国鉄のホームであった。どうにも判らず、ホテルに帰ろうとロータリーを今朝乗った線のビルの方に歩いていて、そのちょっと手前にある建物のドアを覗くと、なんとその狭い入口の階段の下に電車が見えているではないか。そこが目的とする私鉄であったのだ。つまり路地裏の私鉄ですね。
なお、CastelDerMonteに行くには、Andriaからバスに乗るのだが、午前中に9:30発と午後3時頃発だけでTAXIも無いとのことだから、基本的には、BariNord駅発7:28に乗りAndriaに8:26着の電車に乗らねばならない。
11/1(火)
アルベロベッロへの列車は、昨日調べたところでは、7:10,8:22,9:52,10:53,11:57,12:40,13:29発があり各駅到着時間は、8:22発だとBariNord 8:22 Putignan0 9:26 Noci 9:39 Alberobello 9:50 Loco 9:58 MartinaFranca 10:04となっている。アルベロベッロの次のLocoroTondとか、MartinaFranca周辺はとても美しいとのことで出来ればゆきたいなあ、と考えているのだ。
なお、帰りのAlberobello発は,11:49,12:32,13.22,14.11,14:56,15:57,16:58,18:25となっている。
で、駅には少々早めだが、7:30には着いた。だが、切符売り場には誰も居ない。ホーム上をずっと歩いたが、そこにも誰も居ない。途方に暮れていると、バックを背中に背負った中東系青年が現れて、彼も、ホームをうろうろしてから地下道に行った。暫くして帰ってきて、「今日はホリデイだから列車は動かない。私はバスで行くよ」と傍にある入口、つまり国鉄の駅からすると裏側の出入口から外に出て行った。僕たちも彼を追って外に出たが、青年は、バス停留所を求めてか、切符売場を求めてか、広い道路のあちこちで疎らな人影を求めてうろうろしていた。言葉を話せる彼でもこれなんだから、僕はもう駄目だと諦めて今日の予定を変更し、LECCEに行くことにして国鉄の切符売場に向かった。LECCEへの時刻表は出力してあったから直ぐに8:09発の1等切符を買えた。がしかし、列車は遅れて9:07に来た。1等はとても混んでいて、空いているコンパートメントには若いインド人とイタリヤ女性のカップルが居て、二人は抱き合ったりキスしたり、膝の上に乗り合ったりと大変であったが、その合間に僕たちに話しかけるって忙しい人達であった。
LECCEは明るい砂岩を使ったバロック調の街並みの美しい街であった。ここでは、日本人夫婦とあったが、彼等もまた今日アルベロベッロに行く予定が狂ったのことであった。更に帰り道で中年の女性から声を掛けられた。彼女はアルベロベッロの土産物屋で働いていて、今日と明日は休暇でLECCEの家に居るとのことだった。
帰路、駅近くの「mannmaの店」に入ったが、CARTE(メニュー)のイタリヤ語は難しすぎて理解できなかった。「non capito」と言うと、中年のオーナーらしい美しい女性は「あ〜non capito!」と僕の言葉を繰り返した。で、PASTAとかラザーニヤって言うことで何とか食いものは出てきたが、かなり高い勘定となった。mannmaの店で注文すること、はとっても難しいんだと僕には判った。
11/2(水)
寒くなりつつあったのだが、それにくわえて今日は曇りで吹く風も冷たい。
7:30に駅に着くと、大勢の人が待っていた。観光客はそれほどの数では無く、この私鉄が生活路線であることが良くわかった。アルベロベッロまでは片道4EURで往復を買った。どうやらアルベロベッロ駅は時間的に無人駅になるらしいので、帰りの切符も買っておいたのだが、切符は、発売地から70km以内で刻印後6時間有効となっていたから、6時間以内に帰るとか、途中下車とか、もっと先まで行って、戻るとか、4EURを有効活用することも可能だろう。
列車は定刻に出て、市街地を進み、途中で大勢の人々が乗り込んできた。なかには中国系の人が大勢、小売の品物を背中いっぱいに背負って乗り込んで来た。彼等は、BARIで品物を仕入れて、田舎の町に小売りに行くのだろう。中国人たる彼等の気力には、本当に感心してしまう。
CasteLlanaGrotteには9:20に着き、洞窟で有名な無人駅GrotteDiCasteLlanaには9:25、アルベロベッロには、9:50とほぼ定刻に着いた。駅前は閑散としていて、どう進むのかも判らない。で、地球の歩き方に書いてあるViaMarugeritaと思われる道を進むことにした。僅かではあるが雨もぱらつくようになってしまった。通りは、なかなか雰囲気の良い通りで、大きな教会の見えるビットリオエマニエル大通りに出た。この道は、より観光客のために整備された気持の良い道であった。道を進むと広場があり、ここで市場が開かれていたが、衣服が主体の屋台で、地元の人のための市場と思われた。その終りの所に高台があり、その下に例の有名な三角帽子の家々が、坂の下の広い道の向うに広がっていた。さてさて遠くまで来たもんだ、と思った。この不思議な町並は、LargoMarterottaなる広い通りの向こう側に広がるのと、高台の左手の方にあるのとが見えた。余すところの無いように歩いて見て判ったが、通りの向こうは観光客向きであるが、左手の方は静かで落ち着いた街並みであった。寒くはあったが、充分に報われた一日であった。
11/3(木)
CastelDerMonteに行くか、GrotteDiCasteLlanaに行くかで悩んだが、女房の興味からすれば、洞窟の方かな、とGrotteDiCasteLlanaに行くこととした。自分一人か男同志だともっとダイナミックに行動できるのだが、仕方が無い。
昨日と同じ時間に駅に行き、片道2.6EUR(45km以内)を往復買った。昨日も通過時に確認しておいたが、その駅は完全無人駅だ。だから往復買ったのだが、有効6時間を有効に利用することも出来たかもしれない。それにしても2駅程度しか違いはないのに、なぜこんなに金額が違うのだろう。
乗る前に車掌らしき男、それも、ロバート・デ・ニーロにそっくりな男に、この列車はアルベロベッロに行くか?と確認して乗ったのだが、検札に来た時に、「GrotteDiCasteLlanaに行く」と言うと、「ああ、アルベロベッロまでは行かないんだね」と切符に鋏を入れた。
目的駅に近づいたとき、その車掌が別の車両から「次だよ」とわざわざ教えに来てくれた。
ただホームのあるだけの全くの無人駅に降り立って、出て行く列車を見ると、窓からロバート・デ・ニーロが見ているので手を振ったが、彼も唇を微笑の位置にして手を振った。こんな情景が僕は最も好きなのだ。
ホームからの降り口は列車進行方向の左にしか無くて、ホーム前はロータリーのような、とても広い空地になっている。僕たちと一緒に降りたのは青年3人で、彼等に洞窟への道を聞くと、ロータリーの道に沿って、列車線路とは直角に真っ直ぐに行くのだと教えてくれた。教えられた通りに行くと、道路に突き当り、そこを左に暫く行くと道の左手に公園のようなものがり、ここが洞窟の入口への公園であった。
事務所で切符を13EUR/人で買うと待合所で、10:00まで待たされた。ガイドが来て、事務所の奥に進むと、扉がありここが洞窟の入口となっていた。なかなか壮大な洞窟で、見所も多く、特に最深部の結晶は一見の価値がある。ガイドは必要な所でライトのスイッチを入れるが直ぐにスイッチを切るのだ。だから、できるだけガイドの傍に居ることが重要だ。
帰路はエレベータで地上に戻り、出口周辺には、土産物屋とかバールとかがあり、バールでサンドイッチとカプチーノを頼んだ。店のおっさんがパソコンを操作しているので、勘定書きでも付けているのかと覗いてみると、株の罫線が見えた。僕に気づいたおっさんが、ウインクして「ニッケイヘイキン」だと言った。パソコンはこんな田舎まで浸透しているのかと感心したのだ。
11/4(金)〜
ってことで、無事、ほぼ全ての目的を果たして、BARI発7:43のESでローマに向かった。列車は山の中を走り、ナポリへの分岐点LECCEを通過して、12:30頃にローマterminiに着いた。列車の旅って窓の外を見ているだけでも楽しいものだ。さて、宿泊は4youって60EUR/日のB&Bで、ビットリオ・エマニエール広場の直ぐ傍であった。TERMINI駅のG.GIOLITTI通り側出口をまっすぐにナポレオン通りに突き当った辺りで、非常に便利ではあるが、中国人や韓国人の店が集まっている辺りで、市内の中でも閑散とした地域である。でも、市電は常時走っている。なお、その近くに地球の歩き方にも書いているホテルマリアーノがあるのだが、ここの地上階のレストランは値段は手ごろで親切で、しかも、おいしいのだ。そこでスエーデンの農業をやっている夫婦と合い席になったが、彼等は毎年海外旅行をしていて、僕らと楽しく話し合いながら食事をした。感じの良いレストランって、たまたま一緒になる人との会話も楽しいものなのだ。
11/5をローマで、女房のお供で買い物をして、11/6 10:25ローマ発、AMS経由で成田へと立った。

やれやれ、あ~疲れた。よく書くでしょ?自分でも感心しちゃう。
さて所要費用集計は下記となりました。
航空運賃:2人 231,480円
宿泊、交通費 2人 320,000円
合計 約550.000円/2人 275,000円/1人(18日) 

同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
鉄道
航空会社
KLMオランダ航空

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