2014/06/08 - 2023/09/17
7位(同エリア17件中)
砂布巾さん
1944年9月17日~26日 「遠すぎた橋」~連合軍の敗北(オランダ)
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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連動して行われた2つの作戦の総称。マーケット作戦はアイントホーフェン、ナイメーヘン、アルンヘムにかかる橋梁確保のための空挺作戦であり、ガーデン作戦は、これによって確保した橋梁と道路を使用して一気に進撃しようとする機甲部隊による作戦。
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本作戦はドイツへの進撃が思うように進まないため、イギリス軍のバーナード・モントゴメリー将軍が提案した。準備期間が極端に短い上に無謀な点も多いことから、実行部隊の将軍から疑問の声があがったが、モントゴメリーの精力的な活動に、最高司令官ドワイト.D.アイゼンハウアー将軍がゴーサインを出した。
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アメリカ軍はナイメーヘンでは橋梁確保に成功したものの、手前側のアイントホーフェンでは確保に失敗し、破壊されてしまった。そのため臨時架橋を使用し進撃は遅れた。イギリス軍も橋梁は確保したものの主力部隊と切り離されて孤立し、天候悪化により出発の遅れたポーランド空挺旅団と合流できなかった。肝心の機甲部隊もナイメーヘンで食い止められ、本作戦において連合軍は敗北した。連合軍空挺部隊は六千名以上の捕虜、千五百名近い戦死者を出した。
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本作戦の失敗で1944年中に戦争を終わらせる見込みが失われたとさえ言われている。 (以上 福田誠・松代守弘編著 「第二次大戦作戦名事典」より)
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映画の冒頭ナレーションから、当時の軍事・政治情勢に触れる。
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「だが(ノルマンディー上陸後の連合国軍の)反攻も頓挫する。長く延びた補給線のために燃料弾薬が不足して前進できなくなった。もう1つ連合軍の悩みは、南部軍司令官パットン将軍と北部軍司令官モントゴメリーとが激しく憎みあっていたことだ。どちらへ優先補給するか。どちらも先にベルリンへ進撃したがった。9月にモントゴメリーは大規模な攻撃作戦を提案した。最高司令官アイゼンハウアーも政治的圧力によってこれを採用。この作戦も古来あまたの例と同じく、クリスマス前に戦いを終わらせようとしたものだ」。
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2004年秋に初めて映画を観て以来この作戦にこだわり、2005年3月に訪問した。アムステルダム、スキポール空港から現地へ直行。16時半には到着した。
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*映画にも登場するイギリス軍が占領した家の跡地はBASFになっていた
橋は駅から旧市街を通り、下流にしては狭いネーデル・ライン川に架かっていた。 -
*砂布巾注 やっぱり世界のヤマハ
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2時に目が覚めた翌日は再び周辺も含めて見学。Hotel Old Dutch(この旅ではYHに泊まらず)での朝食後、
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トロリーバスで10分の
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連合軍総司令部があったオースターベークのハルテンシュタイン・ホテル(泊まれない)に向かった。
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オスナブリュックに移動する関係で、博物館は大急ぎの見学となったが、当時の写真や武器、地下には司令部や戦場のジオラマもあった。
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開館まで2時間近くあったので、ライン川を目指す。26日夜、連合国軍が渡河して撤退できたのは1万人のうち2,163人という激戦地だったからだ。川の近くには小さい教会があり、
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裏手には弾痕が無数に残っていた。原作のコーネリアス・ライアン著「遙かなる橋」下巻(早川書房)に載っている写真は、ここに違いないと確信した。
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作戦が失敗に終わったのは、立案から実行まで1週間しかなかった事前の準備不足、周波数の未確認でフロスト中佐の隊と本部の無線連絡が取れなかったこと、アルンヘムには老人と子ども兵しかいないとされていた情勢分析の誤り、ドイツ軍の増強に警告を与えていたオランダ・レジスタンス組織との連携不足などがあげられるだろう。真っ平らで道路が狭いオランダの地形も災いした。
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*牧歌的な風景
映画の最後で「作戦は90%成功だった、あの橋は少し遠すぎたな」と語る。究極の負け惜しみにも思えるが、「遙かなる橋」が引用している研究書にはこのような記述がある。「アーンエム(原書通り)を除き、目的の全部を達成したとはいえ、アーンエムをとらなければ、その他は無きに等しかった。連合軍が獲得したものは、そこからどこへも行けない戦線を80キロ突破したにとどまった」。若い頃のオードリー・ヘップバーンは、アルンヘムに住んでいて、ドイツ軍の占領を経験した。 -
*空挺部隊が降り立った場所にあるモニュメント
カナダ軍が解放する1945年4月8日まで、オランダ人はこの周辺に住むことを許されなかった。
作戦が成功し、アルンヘムへの一本道を確保したとしても、連合国軍がそこを拠点にドイツに突入出来たとも思えない。一体この作戦は何だったのだろうか?
(初めて映画を見た日 2004年9月24日 2005年3月19日~20日訪問)
映画「遠すぎた橋」予告編 https://www.youtube.com/watch?v=ZDxz6JBfero -
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*HIROさんのページが特に写真が充実しており、とても参考になります
https://topicsfaro.com/warruins21.html -
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*スキポール空港から乗った列車。形が愛らしい
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*乗り換えてアルンへムまで乗った列車。確か経由地のユトレヒトで撮った写真
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*こうやって手帳にステッカーを貼るのが恒例
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この旅行記へのコメント (3)
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- しょうちゃんさん 2015/10/08 20:56:30
- Re:ダンケルク・バストーニュ・エマエル要塞・ アーネム訪問
- 同志 砂布巾!
やっと、2015年9月29日ダンケルク(Memorialdu souvenir, 75周年)、
30日 バストーニュ(Bastogne war museum)、
10月2日エベン・エマエル要塞(Fort Eben Emael)、
3日から5日までアーネム駅前にあるOld Dutch Hoelに宿泊、
3日 アーネム市&郊外(Airborne Museum'Hartenstein)、ジョン・フロスト橋(John Frostbrug)および橋の麓にある戦争博物館(Infomatic centrum slag om Arnhem)、
4日東(国立公園脇)にあるOorlogsmuseum 40ー45博物館、を訪問した。
以上 要件のみ
- しょうちゃんさん からの返信 2015/10/17 00:12:35
- RE: ダンケルク・ アルンヘム依頼
- 砂布巾さん
ダンケルク(Memorialdu souvenir)、
とアーネム市郊外(Airborne Museum'Hartensteinの写真1葉を
4Tのホームページに掲載していただけるようお願いします。
本日 4Tよりページに掲載できるようになりました。 以上 要件のみ
- 砂布巾さん からの返信 2015/10/18 22:59:13
- 掲載している写真が所有している写真の全てです
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