1980/01 - 1989/12
2位(同エリア6件中)
アリヤンさん
70年代から80年代にかけて駐在していたクウェートからよく出張で出かけていたイエメン。
当時は自由主義陣営の北イエメンと社会主義陣営の南イエメンの2国家に分断されていた。
ワタクシがビジネスで訪問していたのは北イエメンのほうで、首都はサナアだがビジネスは貿易港だったホデイダ訪問が多かった。
「イエメン」という国名を初めて耳にしたとき、ワタクシの中では「ファンタジックな響きのある国」だと思ったが、アメリカの若者の口癖だった「イエー!メーン!」(Yeh! men!!)を連想して「なんか楽しそうな国だなあ」と感じた。
しかし、地図を眺めてその未知・未開なる地域を考えると「地の果て」の国、イエーメンだ!と思えてならなかった。
駐在地クウェートからサウジアラビアのジェッダに飛び、そこでイエメン・エアに乗り換えて首都のサナアを目指す。
このイエメン・エアというのが全くのクセモノで、「いつ到着するのか?いつ出発するか?」予測困難なエアラインだった。
ある時ジェッダ国際空港でイエメン・エアを待っていた。
当初の待合ゲートナンバーで待っていたら珍しくイエメン・エアの機体が遠くに見えた。
「どうせ予定時間通りには飛ぶまい」とのんびりと構え、同僚と色んなおしゃべりをしていた。予定時間がきてもなんのアナウンスもなかったので「今日も1時間くらいの遅れだろう」とタカをくくっていた。
イエメン・エアの機体はアソコにいるのだから、と時々確認はしていた。
その後、おしゃべりをしていてフト滑走路を見ると、ナント!イエメン・エアの機体が消えていた!!
あわてて空港内警察官に聞いたところ、ワレワレの乗るべきイエメン・エアは当初の待合ゲートとは違うゲートから乗客が乗ってサナアに飛んでしまったのだった。
警察官はパスポート提示を求め、応じたところそのまま空港滞在者専用ルームに放り込まれてしまった。パスポートは返してくれず、行く先のない難民ばかりの部屋に閉じ込められた。パスポートの返還とその大部屋からの解放を求めたが、空港警察はガンとして拒否。ワレワレのパスポートは係官の引き出しにはいったままだった。
いつまでもソコに居ては空港難民になってしまうので、必死に考えた。
まずは、とにかくソノ難民大部屋から外に出ることが先決だ。
ソウダッ!砂漠の民はよそ者でも水だけは求められれば提供する、という性質をくすぐることを試してみよう!
「のどがカラカラで水を飲みに行きたい~」と訴えると、いとも簡単に「行ってこい」と閉じ込め部屋から一時外に出られた。
水飲み場を探すフリして空港内を走り回った。イエメン・エアのグランドスタッフを探すのだ。運よく彼らを見つけて、事情説明。これまた運よく数時間後にサナア行きがもう一便あるとのことだった。グランドスタッフが難民部屋まで迎えに来てもらえるように頼み込んだ。
半信半疑で彼らの来ることを信じて待った。
はたして彼らは約束通りに難民部屋に来てくれたのだった!
パスポートは無事に手元に戻り、無事に夜のサナア行き便に乗れたのでした。
同僚とともに「アア~イエメン・エアがホントに居てるウ~ヤッタア、ヤッタア!」とゲート前で叫んでいたらイエメイニアのスタッフは「シーッ!シーッ!」っと指を口に当てて静かにするように指示をした。
どうもワレワレのこれから乗るイエメニア便はどうもジェッダ国際空港からデパートできる正式な便ではないようだ。
それが証拠にゲートにはなんの便名表示がなかった。
秘密の便で夜の闇に紛れてこっそりとその便はジェッダを後にしてサナアに飛び立ったのだった。
かくしてやっとの思いでサナアまで行きついた、というアンビリバボな事件もあった。
このイエメン行き、イエメン入国時などには数々のアンビリバボなお話しがありました。アンビリバボーな70年代~80年代当時のイエメンでした。
さほどイエメンは当時では「地の果ての響き」のあるお国であったのです。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー
- 航空会社
- イエメニア
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-
当時のフランスのある出版社のイエメン写真集に載っていたイエメン周辺の地図。
拡大版⇒http://www.geocities.jp/skfdc390/YemenMap.jpg
訪問地は主に首都のサナアと港町のホデイダだったが、時にはタイーズにも行った。 -
お隣のサウジアラビアのジェッダからイエメン航空に乗ってサナ入りする事が多かった。
空港に着くと、空港前駐車場ですぐに調子の良さそうなメルセデス・ベンツ タクシーを捕まえ、運チャンの人柄をチェック。
オーケなら即、ホデイダに向けて出発だ。
本格的にホデイダへのロング・ドライブに入る前に運チャンが必ずやる事、2点。
①途中、家に寄って家族に別れを告げる。
②カーツ屋に行って良質のカーツ(覚醒作用のある低木の葉っぱ)を両手に一杯購入。
助手席にカーツをドッサリ置いて、その葉っぱを口に放り込み、方頬をパンパンに膨らませる。
それでカーツのエキスを吸うのだ。
覚醒作用が起こり集中力が増すのである。
昼間の移動はまだしも、夜間の移動は危険だ。
中国人の作った道路には時々穴ボコがあって、それに乗り上げ崖下に転落したらしい車やトラックの残骸を時々見るからだ。
道路沿いに街灯などのない真っ暗闇を切り裂いて、穴ボコ道を進むのである。
しかも、麻薬に酔った運チャンに命を預けるのである。
この際は開き直って、日本の歌謡曲カセットでもかけてもらい、当方は後部座席にひっくり返って満天の星空を見ながら進むのでした。
イエメンの星空には不思議と八代亜紀の歌が良くマッチしたものでした。
写真のようなロック・パレスのことはなにも知らなかった。
初めて見た時は、「よう、あんな所にヒトが住んでいるなア!不思議な民族だなア!?」っと驚いたし感動もした。
2千㍍前後の山道が続くので昼間の移動は絶景の連続で結構楽しかった。
(ポスト・カード) -
イエメンに来て驚くのは、
①行きかう人々(男性)のほっぺたが異様に膨らんでいる事。
②腰に(腹前)三日月形の刀(ジャンビア)を差している事。
である。
この刀、男子の誇りであり、その一族の誇りである。
古ければ古いほど良い。
柄が対岸のアフリカのサイの角で出来たものは特級品で、古くて半透明になって何とも言えぬ奥ゆかしい色になったものは特別に価値があり、一振り何百万円もするらしい。
(ポスト・カード) -
サナのオールド・スークの奥のほうには、ジャンビア専門店が立ち並び、その専門性は更に細分化されて、刀身のみ、鞘のみ、柄のみ、ベルトのみの専門店と細分化されている。
人々は、それぞれにパーツを選んで自分の好みのジャンビアとするのだ。
ワタクシもそのようにした。
帰国当時、日本の税関でこのジャンビアの扱いが問題となった。
刃渡りが13cm以上のものは刀剣類となるので、面倒な事になる。
それ以下なら、美術品としての扱い。
で、税関職員に頼んで13cm?以下になるように刃渡りを切って貰った。
それが今もわが家にある。 -
イチオシ
スークの中の専門店。
鍛冶屋。
もちろん、ジャンビアの刃部分を作っている。
(ポスト・カード) -
さて、サナアから乗ったタクシーは、殺風景な絶壁ロードから海抜ゼロm地帯に下りて行く。
当方もホッと一息。
辺りはだだっ広くなり、砂が強風にあおられ、這うように道路を横切る。
同時に蒸し暑くなる。
港町、ホデイダが近い。
ホデイダに着くと町一番のホテル・アンバサドールに入る。
ここは大したホテルではないが、他のホテルはヒドイのでこれがNo.1なのだ。
町で唯一、テレックスがあった。
サナアから来たタクシーの運チャンは、トランクで寝泊りして、サナ行きの客が見つかるまで待つ事になる。
ある時、この町いちのホテル・アンバサドールが満室で、仕方なくアジア・ホテルというオンボロ・ホテルに泊まったことがある。
部屋のエア・コンがちょうど、ベッドの枕の真上にあり、「ゴオン、ゴオ~ン」と唸りを立てていた。
悪いことに、そのエア・コンから水がしたたり落ち、枕に「ポタン、ポタン」と落ちてきたのだ。
とても寝られない。
でも、覚悟を決めて、寝た。
朝食は、屋上でミルク紅茶とホブツ(パン)。
テーブルは黒だかりのハエで食器が見えないくらい。
あまりの多くのハエに、ワタクシは大きくタメ息を付いた。
息を吐いて、息をスーッと吸い込むと、何と!飛んでいるハエを生きたまま「スポン」と吸い込み、そのまんま飲み込んでしまったのだ!
アワテテ吐き出そうとしたが、ハエはあえなく当方の朝飯となってしまったのでした。
人生で初めてでした。飛んでいるハエを飲み込んだのは。 -
イチオシ
兎に角その時は、なんでも大変だった。
当方のオンボロホテルにはテレックスが無いので、夜中にテレックスを打ちにアンバサドールへ歩いて行った。
(テレックスが何か?? ウィキペディアで調べてください)
打ち終わって、アンバサドール・ホテルからわがオンボロ・ホテルへ帰るのに暑く、暗く、砂ぼこり舞い立つ、メインストリートをトボトボ歩いていると、銃を持って辻に立っていた兵士に呼び止められた。
エライ事になったナア、っと思いながら兵士に近づくと、ほんの14,5才の少年兵ではないか!
「話しの途中で、興奮されて撃ち殺されたら、、、」っとの心配が頭をよぎった。
つとめて平静をよそおって、にこにこしながら少年兵の質問に答えた。
何故、こんな時間帯に通りを歩いているのか?とか国籍は?とかetc.
しかし、中々開放してくれない。
困った!
しばらく質問に応えながら様子を観察していると、この少年はどうもタイクツしているらしかった。
そうだ!
「お金をいくらか渡して、開放してもらおう」、と考えた。
でも、あからさまに金は渡せない。
誤解されると大変だ。コーフンして撃ち殺される!!
ここで撃ち殺されたら、犬死にだ!っと考えた。
で、話題を彼の家族のことにして、色々と必死で情報を集めた。
でも穏やかに、落ち着き払った態度で、ニコニコと、、、
最終的に、「病気のお母さんになにか美味しいものでも買ってやってクレ、これはキミじゃなくてお母さんにあげるんですヨ」と言って、幾らかのお金を渡した。
功を奏した!
彼はニッコリ笑って金を受け取ったのだ。
それでやっと開放してくれた。
ニコニコしながら「マッサラーマ」(さようなら)と挨拶して別れた。
アラビア語が少しでも出来たことを今でも感謝している。
写真はカーツを頬張りながら水パイプ(シーシャ)を吸う商店主。
かような場所とかようなおじさん達とかようなシチュエーションで商売のお話をしていました。
(ポスト・カード) -
スーク。
市場はワタクシの楽しみだ。
ホデイダの浜辺近くのスークは、市場と言うより、「三途の川の河原」のように砂ケムリ舞う悲惨な風景だった。
掘っ立て小屋が立ち並び、まさに「地の果て」に来てしまった、という感じだった。
それに比べ、首都のサナアのオールド・スークはさすがな賑わいだった。
このスークの奥では、不思議なものが売買されていた。
どこからとも無くジャラン、ジャランと金属の音がする。
何なんだろう?と思い、しばらく見回してみると、大きなシルバー・コインを右手から左手にトランプのカードのように落としているのだった。
それを繰り返すので、「ジャラン、ジャラン」、がアチコチから聞こえてくる。
面白くてそばに寄って、「エイシュ、ハーダ?そりゃ、何だい?」と聞くと「何枚買う?」と聞いてきた。
銀貨の売買だった。
その銀貨を見せてもらい驚いた。
(ポスト・カード) -
1780年発行のマリア・テレジア銀貨。
一枚の価格は変動しており、安くなったり高くなったりする。
今日の価格と昨日の価格は違うのだ。
1780年のオーストリア銀貨が、イエメンでいまだに流通していたのだ。
銀貨によっては、飾りに使ったのか銀の輪っかが付いたものが多かった。
イエメン女性のアクセサリーに使われていたらしい。
何べんもその売り場に通っていると、相場が分かってきて、安くなった時に数十枚買ってクウェートに持ち帰った。
クウェートに帰って、ご近所の知り合いへのお土産にしたりした。
珍しがられた。
今もパートナーのタンスの中に数枚は残っている。
最近のワタクシの研究でこの銀貨の由来が分かった。
1839年にイギリスがアデンをイエメン(オスマントルコ統治下)から租借した。
その見返りに毎年6,500枚のマリア・テレジア銀貨でイエメンに支払っていたのだ。
さすがに、今では日常生活上、流通していないが、つい最近までイエメン社会に流通していたそうだ。
(1960年代くらいまでと思う) -
裏に1780の刻印が見える。
-
イエメン人は小柄で、田舎の人特有の「ヒトの良さが表にでた」風貌の人が多かった。
田舎に行けば、女性でもアッバイヤ(黒い被い)は被っておらず、顔を出している場合が多かった。
顔立ちは可愛らしい女性が多かった。
シバの女王の末裔でもある。
(ポスト・カード) -
当時の南イエメンのお札。
イエメンは一種独特な雰囲気のある国だ。
貧乏ではあるが、自分達の文化と誇りを捨てずに生き抜いている、愛すべき人々が居る「地の果て」のくにである。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- arfaさん 2018/07/29 13:17:24
- ロック・パレス
- こんにちは、arfaです。
ロックパレスは例のウサマ・ビン・ラディンの生家もロックパレスですね。なにかの写真で見ましたがかなり大きな建物でした。
このビン・ラディンの生家を見に行こうと考えたこともありましたが治安もさることながら、もう体力がこういう厳しいところでは持たないかもしれませんね。
いろんなことがあったようで面白く読ませていただいていますが元気なうちに行けたアリヤンさんは幸せですね。
- アリヤンさん からの返信 2018/07/29 14:59:37
- Re: ロック・パレス
- クウェートの駐在時代は30才台で元気が良かったし、当時のアラビア半島は冒険旅行をしながらの営業活動でした。
オサマ・ビン・ラディンの生家がロックパレスだったとは知りませんでした。ビン・ラディン家は南イエメンのハドロモウト地方の出身者です。(サウジの主だった商売人の多くがこのハドロモート出身者です。サウジの経済の主力です)。南イエメンにもこんなロックパレスのような大きな岩山地帯があるのかどうか知りませんが、治安が大丈夫ならば見に行くのにはそんなに体力は要りませんヨ。金を出せばつい最近まで観光客が行っていましたから。
当方のような取引先ルート開拓営業では何でも自分でやらねば、知らねば相手になめられるので、行き方、泊まり方、しゃべり方(現地の言語含め)、連絡方法、商売相手の魅了の仕方まですべて独自色が必要でした。それで競合会社営業マンと差別化を図り取引を進めていたのです。
ま、冒険と商売と観光のコラボレーションですかね?
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