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東山道は律令国家成立期の地方区分である五畿七道の一つであるとともに、都から東山道に属する諸国の国府を結ぶ古代の幹線道路。<br />武蔵国は東海道に属していた期間が長いが、律令国家成立から奈良時代までは東山道に属していた。<br />そのため、東山道の本道が通る上野国国府(現在の前橋市とされる)から武蔵国国府(現在の府中市)まで、支道として「東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)」が整備されていた。<br />近年の発掘調査の結果から、当時の幹線道路は幅員10m前後で驚くほどの直進性を持ったハイウェイであったとされている。<br />その東山道武蔵路が、所沢市を南北に横切っていたらしい。<br />北半分は鎌倉時代に整備されたいわゆる鎌倉街道に流用されたと考えられている。<br />現在でもそのルートは生活道路として所々残っており、その直進性が古代の幹線道路であったことを偲ばせる。<br />南半分は、鎌倉時代以降、八国山を東に迂回するルートがメインとなったため道は廃れたが、遺跡の発見により、ある程度ルートは推測できる。<br />そんな東山道武蔵路の所沢市内区間を辿ってみた。

所沢の鎌倉街道を辿る 【弐】東山道武蔵路

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2007/04 - 2007/04

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STAMP MANIA

STAMP MANIAさん

東山道は律令国家成立期の地方区分である五畿七道の一つであるとともに、都から東山道に属する諸国の国府を結ぶ古代の幹線道路。
武蔵国は東海道に属していた期間が長いが、律令国家成立から奈良時代までは東山道に属していた。
そのため、東山道の本道が通る上野国国府(現在の前橋市とされる)から武蔵国国府(現在の府中市)まで、支道として「東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)」が整備されていた。
近年の発掘調査の結果から、当時の幹線道路は幅員10m前後で驚くほどの直進性を持ったハイウェイであったとされている。
その東山道武蔵路が、所沢市を南北に横切っていたらしい。
北半分は鎌倉時代に整備されたいわゆる鎌倉街道に流用されたと考えられている。
現在でもそのルートは生活道路として所々残っており、その直進性が古代の幹線道路であったことを偲ばせる。
南半分は、鎌倉時代以降、八国山を東に迂回するルートがメインとなったため道は廃れたが、遺跡の発見により、ある程度ルートは推測できる。
そんな東山道武蔵路の所沢市内区間を辿ってみた。

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  • 東山道武蔵路は現在の群馬・栃木県境付近で本道から分岐し、ほぼ真っ直ぐに府中市を目指していたとされる。<br />鎌倉時代になると、鎌倉を中心とした街道整備が行われたためか、上野国の国府に通じる上道(かみつみち)は、現在の八高線に近いルートを取るようになり、所沢以北はメインルートから外れたが、街道自体は上道の支道として残っていたようで、鎌倉街道堀兼道などと呼ばれている。<br /><br />写真は狭山市と所沢市の市境。<br />直進する道路が旧堀兼道とされている。<br />ここの市域境界線は、狭山市の中に所沢市が角のように突き刺さった形になっている。<br />写真中央、幅十数mの緑地帯が所沢市下富で、緑地帯両側の道路が市境を成し、左側が狭山市堀兼、右側は狭山市加佐志。<br />緑地帯の左側(東側)には、片側1車線の車道が一直線に続いている。<br />右側(西側)には、幅数mで所々砂利道の副道が、本道と並行に走っている。<br />この「角」は約700m程続いている。

    東山道武蔵路は現在の群馬・栃木県境付近で本道から分岐し、ほぼ真っ直ぐに府中市を目指していたとされる。
    鎌倉時代になると、鎌倉を中心とした街道整備が行われたためか、上野国の国府に通じる上道(かみつみち)は、現在の八高線に近いルートを取るようになり、所沢以北はメインルートから外れたが、街道自体は上道の支道として残っていたようで、鎌倉街道堀兼道などと呼ばれている。

    写真は狭山市と所沢市の市境。
    直進する道路が旧堀兼道とされている。
    ここの市域境界線は、狭山市の中に所沢市が角のように突き刺さった形になっている。
    写真中央、幅十数mの緑地帯が所沢市下富で、緑地帯両側の道路が市境を成し、左側が狭山市堀兼、右側は狭山市加佐志。
    緑地帯の左側(東側)には、片側1車線の車道が一直線に続いている。
    右側(西側)には、幅数mで所々砂利道の副道が、本道と並行に走っている。
    この「角」は約700m程続いている。

  • 「角」の部分はフラワーヒルという団地で終了し、その先は完全に所沢市域に入るが、奇妙な並行道路区間はさらに1km程続く。<br /><br />写真は東側の本道。<br />森や茶畑が広がる所沢っぽい景色の中をほぼ一直線に走る。<br />右側の緑地帯の向こうに副道が並行している。

    「角」の部分はフラワーヒルという団地で終了し、その先は完全に所沢市域に入るが、奇妙な並行道路区間はさらに1km程続く。

    写真は東側の本道。
    森や茶畑が広がる所沢っぽい景色の中をほぼ一直線に走る。
    右側の緑地帯の向こうに副道が並行している。

  • 本道から副道を見るとこんな感じ。<br />本道も副道もかなり昔からあるらしく、なぜ2本の道が並行に続いているのかはよく分かっていないらしい。<br />緑地の部分が東山道武蔵路だという説もあるが、決定的な証拠は見付かっていないようだ。

    本道から副道を見るとこんな感じ。
    本道も副道もかなり昔からあるらしく、なぜ2本の道が並行に続いているのかはよく分かっていないらしい。
    緑地の部分が東山道武蔵路だという説もあるが、決定的な証拠は見付かっていないようだ。

  • こちらは副道。<br />本道の方には歩道がほとんど設置されていないので、歩道代わりに利用されているようだった。

    こちらは副道。
    本道の方には歩道がほとんど設置されていないので、歩道代わりに利用されているようだった。

  • 旧堀兼道/東山道武蔵路と思われる道は、途中数百m程途切れるものの、ほぼ一直線に新所沢へ向かう。

    旧堀兼道/東山道武蔵路と思われる道は、途中数百m程途切れるものの、ほぼ一直線に新所沢へ向かう。

  • 西友所沢花園店裏。<br />ここで県道6号川越所沢線に合流して車道は途切れるが、県道の先にも狭い道が一直線に続いている。

    西友所沢花園店裏。
    ここで県道6号川越所沢線に合流して車道は途切れるが、県道の先にも狭い道が一直線に続いている。

  • 西友所沢花園店裏。<br />ここで県道6号川越所沢線に合流して道は途切れるかに見えるが、よく見ると県道の先にも狭い道が一直線に続いている。

    西友所沢花園店裏。
    ここで県道6号川越所沢線に合流して道は途切れるかに見えるが、よく見ると県道の先にも狭い道が一直線に続いている。

  • 県道を越えた所の道。<br />写真奥で新所沢駅西口の市街地にぶつかり、旧街道は途切れる。<br />新所沢駅西口は線路と並行の碁盤目状に区画整理されているので、旧街道跡を辿るのは不可能。

    県道を越えた所の道。
    写真奥で新所沢駅西口の市街地にぶつかり、旧街道は途切れる。
    新所沢駅西口は線路と並行の碁盤目状に区画整理されているので、旧街道跡を辿るのは不可能。

  • 西武新宿線を越えて新所沢駅の反対側に出る。<br />駅南側で新宿線をくぐるトンネルを抜けた所に、旧街道の続きと思われる道が再び現れる。<br />地図と照らし合わせてみると、確かに堀兼から新所沢まで辿ってきた道と一直線につながる位置にある。<br />

    西武新宿線を越えて新所沢駅の反対側に出る。
    駅南側で新宿線をくぐるトンネルを抜けた所に、旧街道の続きと思われる道が再び現れる。
    地図と照らし合わせてみると、確かに堀兼から新所沢まで辿ってきた道と一直線につながる位置にある。

  • 500m程で県道50号所沢狭山線と合流。<br />この県道は【壱】で紹介した鎌倉街道上道のルートとされている道。<br />写真奥のセブンイレブンの看板の地点で合流。<br />一見、こちらの道が県道の方に合流しているように見えるが、県道はこの先すぐに緩やかな左カーブを描いており、広い範囲で見るとむしろ県道の方がこちらに合流する線形になっている。<br />この先、所沢市街地の旧鎌倉街道も、上道よりむしろ堀兼道と一直線を成している。<br />堀兼道が平安以前の主要街道である旧東山道武蔵路のルートを踏襲した証拠だろうか?

    500m程で県道50号所沢狭山線と合流。
    この県道は【壱】で紹介した鎌倉街道上道のルートとされている道。
    写真奥のセブンイレブンの看板の地点で合流。
    一見、こちらの道が県道の方に合流しているように見えるが、県道はこの先すぐに緩やかな左カーブを描いており、広い範囲で見るとむしろ県道の方がこちらに合流する線形になっている。
    この先、所沢市街地の旧鎌倉街道も、上道よりむしろ堀兼道と一直線を成している。
    堀兼道が平安以前の主要街道である旧東山道武蔵路のルートを踏襲した証拠だろうか?

  • この先所沢市街地まで、旧鎌倉街道上道は東山道武蔵路を流用したと考えられている。<br />所沢市街地より南側には東山道武蔵路跡と思われる道は残っていないが、発掘された遺跡との位置関係から、ほぼ一直線に東村山駅北側の大踏切附近に続いていたと考えられている。<br />写真は所沢のNTT裏。<br />この道は【壱】で紹介した旧鎌倉街道上道とされる道。<br />東山道武蔵路が一直線の道だとすると、写真奥で道がやや左にカーブする所を真っ直ぐに進んでいたのではないかと考えられる。

    この先所沢市街地まで、旧鎌倉街道上道は東山道武蔵路を流用したと考えられている。
    所沢市街地より南側には東山道武蔵路跡と思われる道は残っていないが、発掘された遺跡との位置関係から、ほぼ一直線に東村山駅北側の大踏切附近に続いていたと考えられている。
    写真は所沢のNTT裏。
    この道は【壱】で紹介した旧鎌倉街道上道とされる道。
    東山道武蔵路が一直線の道だとすると、写真奥で道がやや左にカーブする所を真っ直ぐに進んでいたのではないかと考えられる。

  • 道は残っていないものの、地図上で一直線に進むと南陵中学校北側で西武池袋線を渡ることになる。<br />この南陵中学校グランドで、東山道武蔵道と考えられる道路遺構「東の上(あずまのうえ)遺跡」が発掘されている。

    道は残っていないものの、地図上で一直線に進むと南陵中学校北側で西武池袋線を渡ることになる。
    この南陵中学校グランドで、東山道武蔵道と考えられる道路遺構「東の上(あずまのうえ)遺跡」が発掘されている。

  • 学校の敷地外には、この場所で東山道武蔵路の遺構が発掘されたことを紹介する看板が設置されていた。<br />以下全文引用。<br /><br />****************************************<br />推定『東山道武蔵路』 東の上遺跡36次調査<br /><br />平成元年十月、市立南陵中学校で雨水対策として貯留浸透工事が計画されたため、工事に先立ち教育委員会がグランド部分の発掘調査を実施している(東の上遺跡第36次調査)。発見されてた多数の竪穴住居跡・掘立柱建物跡のほか、特に注目されたのは幅12メートル規模を保ちながら一直線上の道路跡の発見であった。道路の両側には側溝が備えられ、中央部分は固く突きかためられているなど、きわめて計画性に富む工法を用いていたことが判明した。出土した遺物から少なくとも七世紀中頃から後半にかけて造られたと考えられる。これと同規模な道路跡はすでに東京都府中市や国分寺市等でも調査されており、東の上遺跡とつながる可能性がもたれるようになった。そのことは「続日本紀」宝亀2年(771)の東山道から東海道に所属替えの記載のなか、群馬県から武蔵国府(府中市)へつながる「推定東山道武蔵路」の実態をより現実的にしたと評価される。東の上遺跡より北側については不明な点も多いが、直線的な基本構造を考えると、埼玉県の西部を北上し、群馬県へ向かうルートの可能性が出てきたといえる。<br /><br />所沢市教育委員会<br />****************************************

    学校の敷地外には、この場所で東山道武蔵路の遺構が発掘されたことを紹介する看板が設置されていた。
    以下全文引用。

    ****************************************
    推定『東山道武蔵路』 東の上遺跡36次調査

    平成元年十月、市立南陵中学校で雨水対策として貯留浸透工事が計画されたため、工事に先立ち教育委員会がグランド部分の発掘調査を実施している(東の上遺跡第36次調査)。発見されてた多数の竪穴住居跡・掘立柱建物跡のほか、特に注目されたのは幅12メートル規模を保ちながら一直線上の道路跡の発見であった。道路の両側には側溝が備えられ、中央部分は固く突きかためられているなど、きわめて計画性に富む工法を用いていたことが判明した。出土した遺物から少なくとも七世紀中頃から後半にかけて造られたと考えられる。これと同規模な道路跡はすでに東京都府中市や国分寺市等でも調査されており、東の上遺跡とつながる可能性がもたれるようになった。そのことは「続日本紀」宝亀2年(771)の東山道から東海道に所属替えの記載のなか、群馬県から武蔵国府(府中市)へつながる「推定東山道武蔵路」の実態をより現実的にしたと評価される。東の上遺跡より北側については不明な点も多いが、直線的な基本構造を考えると、埼玉県の西部を北上し、群馬県へ向かうルートの可能性が出てきたといえる。

    所沢市教育委員会
    ****************************************

  • 看板の発掘現場写真によると、道路遺構はほぼ北北西から南南東に向かって伸びている。<br />遺構から推定されるルートには既に道は存在していない。<br />写真左側が南陵中グランド南縁。<br />発掘現場写真によれば、東山道武蔵路はグランドから右側のアパートのあたりを通過していたようだ。

    看板の発掘現場写真によると、道路遺構はほぼ北北西から南南東に向かって伸びている。
    遺構から推定されるルートには既に道は存在していない。
    写真左側が南陵中グランド南縁。
    発掘現場写真によれば、東山道武蔵路はグランドから右側のアパートのあたりを通過していたようだ。

  • 南陵中東側の道路。<br />通称「じゅうにん坂」。<br />道路遺構を一直線に辿ると、この坂の下あたりに出る。

    南陵中東側の道路。
    通称「じゅうにん坂」。
    道路遺構を一直線に辿ると、この坂の下あたりに出る。

  • 坂の下から見たじゅうにん坂。<br />坂道頂上付近の左側に南陵中のグランドがある。<br />ちょうど写真撮影方向の向きに東山道武蔵路が通っていたと思われる。

    坂の下から見たじゅうにん坂。
    坂道頂上付近の左側に南陵中のグランドがある。
    ちょうど写真撮影方向の向きに東山道武蔵路が通っていたと思われる。

  • 柳瀬川に架かる吾妻橋。<br />所沢市久米のJA前にある橋。<br />東山道武蔵路にあたる道は存在していないが、この附近で渡河していたと思われる。

    柳瀬川に架かる吾妻橋。
    所沢市久米のJA前にある橋。
    東山道武蔵路にあたる道は存在していないが、この附近で渡河していたと思われる。

  • さらに一直線に進むと松が丘団地のバス通りに突き当たる。<br />ちょうどその附近に「悲田処跡」なるバス停がある。<br />悲田処とは、平安時代に設置された旅人の救護施設。<br />その目的からして、街道の近くに設置されたであろうから、当時の主要道路であった東山道武蔵路はやはりこの附近を通っていたと考えられる。

    さらに一直線に進むと松が丘団地のバス通りに突き当たる。
    ちょうどその附近に「悲田処跡」なるバス停がある。
    悲田処とは、平安時代に設置された旅人の救護施設。
    その目的からして、街道の近くに設置されたであろうから、当時の主要道路であった東山道武蔵路はやはりこの附近を通っていたと考えられる。

  • その悲田処跡バス停から南に入った所に「悲田処跡公園」という小さな公園がある。<br />所沢市はこの位置に悲田処があったと考えているらしく、簡単な碑を立てている。<br />悲田処は入間郡と多摩郡の境(現在の所沢市・東村山市の境)にあったという大雑把な記録しかなく、正確な位置は分かっていない。<br />もちろん、遺跡もまだ見つかっていないので、ここが本当に悲田処跡かどうかは分からない。<br />実際、東村山市はこことは別の場所(もちろん東村山市内)を悲田処跡だと主張している。

    その悲田処跡バス停から南に入った所に「悲田処跡公園」という小さな公園がある。
    所沢市はこの位置に悲田処があったと考えているらしく、簡単な碑を立てている。
    悲田処は入間郡と多摩郡の境(現在の所沢市・東村山市の境)にあったという大雑把な記録しかなく、正確な位置は分かっていない。
    もちろん、遺跡もまだ見つかっていないので、ここが本当に悲田処跡かどうかは分からない。
    実際、東村山市はこことは別の場所(もちろん東村山市内)を悲田処跡だと主張している。

  • 東の上遺跡の道路遺構を一直線に辿ると、悲田処跡公園の西方で八国山にぶつかる。<br />八国山は高さ数十mの低い丘で、駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の山々が見渡せたことからその名で呼ばれているらしい。<br />道が直線だったと仮定すると、八国山の東端附近にある「将軍塚」のやや西側を越えていたことになる。<br /><br />ちなみに、映画『となりのトトロ』に出てくる「七国山」という地名は八国山をもじったものと言われている。

    東の上遺跡の道路遺構を一直線に辿ると、悲田処跡公園の西方で八国山にぶつかる。
    八国山は高さ数十mの低い丘で、駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の山々が見渡せたことからその名で呼ばれているらしい。
    道が直線だったと仮定すると、八国山の東端附近にある「将軍塚」のやや西側を越えていたことになる。

    ちなみに、映画『となりのトトロ』に出てくる「七国山」という地名は八国山をもじったものと言われている。

  • 前の写真の案内看板の位置。<br />この遊歩道の先が将軍塚。<br />この先はやや低くなっており、そこを東山道武蔵路が通っていたのではないか。

    前の写真の案内看板の位置。
    この遊歩道の先が将軍塚。
    この先はやや低くなっており、そこを東山道武蔵路が通っていたのではないか。

  • 将軍塚。<br />新田義貞の鎌倉攻めの際、義貞がこの場所に一時逗留したとされている。

    将軍塚。
    新田義貞の鎌倉攻めの際、義貞がこの場所に一時逗留したとされている。

  • 東山道武蔵路が通っていたと思われるあたりに、南側へ下って行く遊歩道があった。<br />もちろんこれは最近整備された遊歩道であろうが、だいたいこのあたりを東山道武蔵路が通っていたはず。<br /><br />東山道武蔵路が八国山を越えていたことの根拠は、堀兼道の向き・東の上遺跡の道路遺構の向き・東村山駅北側で発掘された遺跡の位置が奇妙なまでに一直線上に並んでいることだが、ちょっと疑問もある。<br />というのも、この場所は八国山の東端も東端。<br />あと東へ500mも迂回すれば平坦な土地を進めるのに、数十mの丘とはいえ、わざわざ山に挑むような道を作るだろうか。<br />悲田処東村山説の根拠の一つもそれであろう。<br />ただ、当時の八国山周辺は湿地帯だったであろうから、幅12mの幹線道路を引くならむしろ山を越えた方が土木的には楽だった、と考えることもできる。

    東山道武蔵路が通っていたと思われるあたりに、南側へ下って行く遊歩道があった。
    もちろんこれは最近整備された遊歩道であろうが、だいたいこのあたりを東山道武蔵路が通っていたはず。

    東山道武蔵路が八国山を越えていたことの根拠は、堀兼道の向き・東の上遺跡の道路遺構の向き・東村山駅北側で発掘された遺跡の位置が奇妙なまでに一直線上に並んでいることだが、ちょっと疑問もある。
    というのも、この場所は八国山の東端も東端。
    あと東へ500mも迂回すれば平坦な土地を進めるのに、数十mの丘とはいえ、わざわざ山に挑むような道を作るだろうか。
    悲田処東村山説の根拠の一つもそれであろう。
    ただ、当時の八国山周辺は湿地帯だったであろうから、幅12mの幹線道路を引くならむしろ山を越えた方が土木的には楽だった、と考えることもできる。

  • 先程の遊歩道は、八国山の緑地帯を抜けると、北川に架かる将陣場橋の近くに出る。<br />東山道武蔵路はこの橋附近を通っていたと思われる。

    先程の遊歩道は、八国山の緑地帯を抜けると、北川に架かる将陣場橋の近くに出る。
    東山道武蔵路はこの橋附近を通っていたと思われる。

  • 東村山市諏訪の諏訪神社前。<br />所沢市街地からここまで、東山道武蔵路の推定ルートに一致する現道は全く無かったが、唯一、この道だけは旧道のルートにほぼ一致する。<br />もっとも、その先に続く道が無いので単なる偶然かもしれない。<br />写真奥に東村山駅北側の大踏切がある。

    東村山市諏訪の諏訪神社前。
    所沢市街地からここまで、東山道武蔵路の推定ルートに一致する現道は全く無かったが、唯一、この道だけは旧道のルートにほぼ一致する。
    もっとも、その先に続く道が無いので単なる偶然かもしれない。
    写真奥に東村山駅北側の大踏切がある。

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