2007/04 - 2007/04
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STAMP MANIAさん
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鎌倉街道とは鎌倉時代に鎌倉から各国へ向けて放射状に整備された街道。
関東平野には、鎌倉から町田・府中・所沢を経て上州に至り、さらに越後・信濃へ向かう「上道(かみつみち)」、赤羽・岩槻・小山を経て奥州へ向かう「中道(なかつみち)」、海沿いに常陸に向かう「下道(しもつみち)」が通っていた。
町田と府中を結ぶ都道が「鎌倉街道」と呼ばれているが、それはこの上道のルートを踏襲していることに因んだもの。
その上道、所沢市内では元の街道にかなり忠実なルートで残っている。
狭山市境の南入曽から東村山まで辿ってみた。
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所沢市と狭山市の境に当たる北岩岡交差点の南側。
右を走る線路は西武新宿線で、前方が新所沢駅方面、後方には南入曽の車両基地が広がっている。
線路に沿って走る道路が、旧鎌倉街道とされている県道50号所沢狭山線で、この道路が旧鎌倉街道のルートとされている。
この道路、狭山市方面から一直線にここまで来るのだが、写真の地点で一度左にカーブした後、大きく右にカーブしてほぼ直角に線路を渡り、再び左カーブして新所沢方面に向かう。
よく見ると線路の手前と先とで道路は一直線に続いており、少なくとも鉄道開通前から道が存在していたことがわかる。 -
新宿線の線路を越える踏切。
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新所沢駅前を過ぎ、泉町交差点の先、所沢中学校附近で、左から狭い道が合流してくる。
三角形の駐車場の先端、セブンイレブンの看板が立っている所が合流点。
この道は鎌倉街道の支道「堀兼道」とされている道。
行田附近を経由して足利まで街道が続いていたとされる。
鎌倉以前には、上州と武蔵の国府を結ぶ官道「東山道武蔵路」であったとも言われている道。
現在も、主要道路でこそないが、新狭山のホンダ工場まで途切れ途切れに道が続いている。 -
峰の坂交差点。
交差点北側から南方面を望む。
江戸時代には川越・青梅方面への道も分岐していた交通の要衝。
現在でも割と大きな交差点で、旧鎌倉街道にあたる県道とR463浦和所沢バイパスが交差する。
写真左右に走る道路がR463。 -
県道は所沢の中心部へ入る直前に数十m程左に逸れ、旧鎌倉街道のルートを外れる。
旧街道のルート上には建物が並んでおり、道は一旦途切れる。
東川に架かる小さな橋の手前で右折して狭い道に入ると、新光寺という寺に突き当たり、そこに「旧鎌倉街道」と彫られた石柱が立っている。 -
前の写真の位置から左方向(南方向)を見たもの。
この道が旧鎌倉街道とされている道。
自動車の離合が困難な幅の道が一直線に続いている。
狭い生活道路が縦横に走る市街地にあって、不自然なまでに綺麗な一直線の道が続いている。 -
新光寺から南へ100m程進むと、所沢の目抜き通りの一つ「ファルマン通り」と交差する。
左右に走る道がファルマン通りで、右が西所沢駅方面、左が所沢駅方面。
奥に続く狭い道が旧鎌倉街道で、左の建物の脇に、先程のものと同じ石柱が立っている。 -
ファルマン通り。
おそらく昔はこの辺りが所沢の中心街だったと思われるが、鉄道の発達によって市街地は駅のある南東方向に移動してしまったようだ。
かつての賑わいを思わせるアーケード街が続いているが、人通りはそれ程多くない。
いささかシャッター通り然とした街並みだが、反対側は100m級の超高層マンションが建ち並ぶ人口増加地域となっており、しかもまだまだマンション建設中なので、割と将来性のありそうなエリアではある。 -
實蔵院前。
ファルマン通りの交差点を過ぎると、旧鎌倉街道は緩やかな上り坂になる。 -
途中にこんな看板が設置されていた。
以下全文引用。
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鎌倉街道
鎌倉街道は治承4年(1180)源頼朝が鎌倉に拠ってから、これに従う武士たちが「鎌倉へ - 」と馳せ参じた道であり、その代表的な道が上道・中道・下道の三道であった。上道は高崎方面から児玉・菅谷・入間川・所沢・府中・町田・瀬谷を通って鎌倉に至る道であり、中道は古河・栗橋方面から春日部・川口・池袋・渋谷・二子玉川を通って鎌倉に至り、下道は水戸・石岡方面、あるいは千葉方面から国府台・浅草・川崎・金沢を通って鎌倉に至った。これらの道は武蔵野を通過する幹道であり、その重要性は徳川家康が江戸に入府し江戸五街道ができるまで続いた。
所沢は上道のほぼ中心にあるため、古来合戦の地となり、また文人僧侶などの旅人が所沢を通過していった。所沢市の地名を有名にしたのは太平記であり廻国雑記である。太平記には小手指原の合戦が記され、また廻国雑記には「野遊びのさかなに山の芋そえてほり求めたる野老(ところ)沢かな」の歌がある。
所沢市教育委員会
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電話局の裏を過ぎると道は平坦になる。
旧鎌倉街道と思われる道は、相変わらずの道幅で住宅街を抜けていく。
街道の面影を感じるのは古い住宅街の狭い生活道路にしては不自然に真っ直ぐな道路形状だけ。
鎌倉幕府の滅亡で「(実質的な)首都」へ通じる道としての役割を終え、江戸幕府の成立で国の主要道路としての役割を中山道に奪われたのだから、旧街道の賑わいが全く感じられないのも無理はなかろう。 -
ファルマン通りから1km程で、「行政道路」と通称される県道4号東京所沢線に突き当たる。
この交差点は、旧鎌倉街道の100m西側を並行する再開発道路の開通により、ちょっと複雑な形状になっている。
写真手前を左右に走るのがその再開発道路で、その奥を左右に走るのが行政道路。
写真中央奥に旧鎌倉街道が続いている。 -
行政道路を渡ってさらに街道を辿る。
住宅街が続く。 -
南小学校前。
西武池袋線の線路が見えてきた。 -
旧街道跡と思われる道は一旦池袋線の線路に飲み込まれて消滅する。
そこから一直線に進んだ先には住宅が並んでおり、道らしきものは見当たらない。 -
線路に沿って左へ少し進んだところに歩行者用の踏み切りがある。
ここを渡って線路の反対側に出てみる。 -
踏切の先には旧鎌倉街道と思われる道が続いていた。
地図で確認すると、線路と住宅で分断されているものの、これまで来た道と一直線につながっており、線路が敷かれる前は同じ道だったと容易に推測できる。
ここから割と急な坂を南南東方向に下って行く。 -
下り終えた地点から坂を振り返る。
右は長久寺。
この寺の入口に例の石柱が立っていたので、やはりこの坂道が旧街道跡と考えて良さそうだ。 -
「この道が旧鎌倉街道跡」とはっきり確認できるのはこの地点まで。
この先鎌倉街道は東村山駅東口方面に向かって進んでいたようだが、旧街道跡は住宅街に飲み込まれてしまっている。
また、この先東村山までのルートは複数あったようだ。 -
長久寺から南東へ100m程進んだ所にある丁字路を右折し暫く行くと勢揃橋という橋がある。
橋の手前には例の石柱が立っているので、ここも旧鎌倉街道のルートの一つと考えられているようだ。
「勢揃橋」とは妙な名前だが、これは新田義貞の鎌倉攻めに由来するらしい。
新田軍がここで兵を勢揃いさせたという言い伝えに因むものだとか。 -
勢揃橋から真っ直ぐ進むと八国山緑地の遊歩道入口に突き当たる。
旧鎌倉街道のルートには諸説あり、また実際に複数の道があったらしく、八国山を越える道、東側を回り込む道などがあったとされる。 -
別の旧鎌倉街道とされている道を辿ってみた。
長久寺から、先ほどの勢揃い橋へ向かう丁字路を行き過ぎ、さらに100m程進んだ所に、右側の住宅街へ分け入る狭い道がある。
ここも旧鎌倉街道とされている道。 -
数百m程で住宅街を抜け、自動車が走るやや広い道に出る。
右を流れる川は狭山湖に源を発する柳瀬川。
写真奥の二瀬橋で八国山南側を流れる北川と合流する。 -
先程の道路は二瀬橋で大きく左カーブして西武新宿線のガードをくぐる。
ガードをくぐらずに直進する道もあり、この道には「公事道(くうじみち)」という名前が付いている。
鎌倉時代、公事所という役所があったことに因む命名らしく、もちろん、この道も旧鎌倉街道の一つと考えられている。 -
公事道は西武新宿線とほぼ並行に500m少々続いて丁字路で行き止まりとなる。
丁字路を左折するとすぐに新宿線を渡る踏切がある。
写真は東村山方向。
鎌倉街道は現在の線路上を緩い角度で斜めに横切っていたものと思われる。 -
線路上を横切った鎌倉街道は久米川少年野球場のあたりに出て来たと考えられる。
ここからは旧街道に沿った道を辿ることができる。
この道は西武新宿線東側の狭い生活道路。 -
先程の道を直線的に辿ると、一旦自動車の走る道に出た後、再び狭い路地に入る。
この路地に旧鎌倉街道であることを示す碑が立っていた。
写真奥は現在の府中街道。
旧鎌倉街道はこの先、現在の府中街道上を通っていたとされる。
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