織田信長の足どりを辿る旅〜プレイバック尾張国と尾張国統一編!:dreamhunterさんの旅行ブログ
織田信長が、尾張・美濃国2国を手にするまでは
決して楽をしておらず、むしろ苦労人だと思う!
尾張国をある程度平定するのも、事のきっかけは
父・信秀が没した為の家督争いと家臣の離反!
実際、尾張国統一戦でも数の不利をおしのけ
勝利しており、戦上手だったのかもしれない!
そして信長の最大のピンチが、桶狭間の戦い!
永禄3年5月(1560年)駿府・遠江・三河国の守護大名・今川義元は
尾張国侵攻の為、2〜4万の軍勢を引き連れ尾張国へ・・・
(よく京への上洛とも言われてるが、上洛時の兵力としては
必要以上多く、返って朝廷や足利幕府からもにらまれそう?)
対する信長の兵力は、1〜2割程度の2〜4千!
絶体絶命の大ピンチ!!!
そんな最大の危機を、信長が勝利した戦を
後世の歴史家は、日本三大奇襲の1つにも数えられるほど・・・
と言う事で今回は、桶狭間の戦いと過去に訪れた
桶狭間の戦い前の、プレイバック尾張国と尾張国統一編!
織田信長生誕の城の1つされる、勝幡城!
近年まで、織田信長は那古野城で生まれたという
説が有力でしたが、最近では父・信秀の那古野城
奪取は1538年いう可能性が強まり、1532年?1534年?
生まれの信長も、この勝幡城で誕生したの
ではないかと言われてます!
そして、個人的な勝幡城説の見解では
津島神社の存在!
実は勝幡城は、織田信定(信長じっちゃん)が
築いた城で、数キロ先には津島神社!
つまり、織田信定・信秀の地元に比べ
那古野城には程遠いほど安全な地だと思う!
天文17年(1548年)には、父・信秀と敵対していた
美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が
成立し、翌年の天文18年(1549年)には、
ここ正徳寺で斎藤道三と会見します!
天文20年(1551年)、父・信秀が没し
家督を嫡男・信長が継ぐ事となります!
そして、父・信秀の葬儀が行われた万松寺でも
信長は、やってくれます!
葬儀には、遅刻しておまけに正装もしない!
狩り帰りで親の葬儀の日に殺生し、挙句の果てには
信長が抹香の灰を父の位牌に投げつける醜態でした!
父・信秀が没した為の家督争いと
家臣の離反で、信長は尾張下四郡を支配する
清洲とも戦になります!
信長にとっては、尾張下四郡を支配する
清洲方は、人数では不利も叔父などに
援軍を要請するなどして
その逆行を乗り越え勝利しつつ
次第に、敵将の重臣クラス(柴田勝家・丹羽長秀)も
信長に魅了されていきます!
浮野の戦いにも敗れた、織田信賢は
最後、岩倉城にて篭城するも降伏し
追放処分を受けます!
ここで、尾張国の9割方を統一し成し得る!
ほぼ尾張国を統一もつかの間!
駿河・遠江・三河国の守護大名・今川義元は
尾張の拠点を拡大をもくろみ侵攻!
その数は、2万とも4万とも・・・
織田信長にとって、絶体絶命の大ピンチ!!!
実は、桶狭間の戦いでは織田信長以外にも
後の豊臣秀吉の名参謀・蜂須賀小六正勝は、
桶狭間の戦いに向かう際、居城の蜂須賀城から近い
蓮華寺に奉納されていた鉄地蔵を担いで
向かおうとするも、あまりにも重すぎて
途中で断念!
鉄地蔵さんが握っていた、鉄錫杖を持って参戦し
桶狭間で大勝したのを機に、蜂須賀家の家宝となり、
合戦場には、必ず持参してたとか?
その名残で、江戸期の参勤交代でも持参してたとか?
北陸将・加賀百万石にまで上りつめた
前田利家は、桶狭間の戦いでは出仕停止を
受けていたのにも関わらず、信長に無断で
桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、
本戦で二つの計三つの首を挙げる!
一説では、中島砦で信長に発見されたらしい?
また、他にも
・柴田勝家
・丹羽長秀
・池田恒興
・林 秀貞
・森 可成
・河尻秀隆
・佐久間(親子)
・佐々成政(兄弟)
と、桶狭間の戦い後でも名を残す面々!
少数ながらも、精鋭揃いだったかもしれない?
と言う事で、ここからが今回の桶狭間の戦い編!
織田信長は清洲城出立後、最初に立ち寄るのが
熱田神宮となります!
写真は、熱田神宮・東門!
愛知県民とまでは言わずとも、尾張人なら
「名古屋城と熱田神宮」に行った事が無いと
モグリとまで言われる、尾張名古屋を
代表する・熱田神宮!
高さは約8mで、日本三大燈籠の1つ佐久間燈籠!
何でも、寛永7年(1630年)佐久間大膳亮勝之が
海難にあい、当神宮に祈りその加護によって事なきを
得たので感謝して寄進されたそうです!
日本三大土塀の1つ、信長塀!
他には、
三十三間堂(京都府)の太閤塀と
西宮神社(兵庫県)の大練塀です!
熱田神宮・本宮!
東海道五十三次で41番目の
宿場・宮宿(宮の宿とも)!
当然、宮宿の宮とは、熱田神宮の事で
街道の分岐点でもあり、海路の七里の渡しで
42番目の桑名や、陸路を行く佐屋街道!
中仙道に通ずる脇街道美濃路で当時の賑わいを伺わせる!
また、三種の神器の一つ天叢雲剣
(草薙神剣)がまつられてます!
他には、八咫鏡・伊勢神宮と
皇家で唯一所有されている神器八尺瓊勾玉です!
どうやら、名古屋祭りの英傑行列の戦勝祈願?
戦国期には、桶狭間の戦いに向かう織田信長が
戦勝祈願を行った事でも有名です!
日本三大土塀の1つ、信長塀!
友人と信長塀をマジマジ見てたら、
偶然通りがかったボランティアガイドの方が
声を掛けて下さり、更に詳しく信長塀の説明を・・・
驚いたのは、ボランティアガイドさんは
他の日本三大土塀の2つも見に行かれており
写真ですが拝見させて頂きました!
レアな話では、広い熱田神宮で
何故この場所だったたかを教えて貰えます!
日本三大土塀の1つ、信長塀!
織田信長が桶狭間の戦いに向かう途中
戦勝祈願を行い、また熱田神宮の神職・千秋四郎季忠の
神兵も出陣し、佐々政次と共に300の兵を率いて、
中島砦から今川方の鳴海城攻めで討死!
そのため織田信長は、桶狭間の戦い後
大勝したその御礼として奉納した塀が
信長塀(築地塀)です!
熱田神宮・西楽所!
西楽所は貞享3年(1686年)、将軍徳川綱吉の再建で
数少ない明治以前の建造物の1つです!
桶狭間の戦いの前哨戦より更に前!
織田信長の父・信秀が没し家臣の離反します!
鳴海城主・山口教継の調略で、鳴海城・大高城・
沓掛城の3城は今川方に寝返ってしまいます!
対して信長は、前線の鳴海城に対して3つ砦、
丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を築いきます!
で、最初に丹下砦!
光明寺の裏山が丹下砦だったようです!
ただ残念な事に、説明板が無い!
さて、ここから中嶋砦と思ったのですが
中嶋砦は、現在個人邸!
なので、今回はパスして
今川軍のもう一つの前線の大高城に対して
築かれた2砦の1つ、鷲津砦!
鷲津砦は、丸根砦と同様
大高城と鳴海城の間を遮断するために
築かれた砦です!
守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が
配置されますが、勇み足だったのか?敵襲だったのか?
織田信長が熱田神宮に向かう時には、両砦は
3時頃に奇襲を受け、落城したらしです!
ちなみに、両砦は国史跡にも指定されてます!
本来なら丸根砦へ・・・
の所なのだが、どうしても丸根砦を発見できず!
やむなく、大高城へ・・・
大高城跡の説明板!
桶狭間の戦いの前日、5月18日の夜には
松平元康(後の徳川家康)が大高城に兵糧を届け、
元康が城の守備隊につく!
桶狭間の戦いの前哨戦は、当日の早朝、対大高城の
鷲津砦・丸根砦が口火を切り、元康の守備隊が
殲滅しています!
そして、今回の旅の一番やっかいな所!
桶狭間古戦場公園!
実は桶狭間古戦場は、
以前なら、桶狭間古戦場伝説地の有るお隣、豊明市!
しかし近年では、桶狭間古戦場公園の有る
名古屋市緑区も名乗りを上げ、二分してしまっている!
桶狭七石表
明和8年(1771年)、尾張藩士によって
建てられた七基の石碑!
一号碑は今川義元の戦死した場所を示すし、
二号碑は松井宗信戦死の場所で、三号碑以下は
義元の武将五人の戦死の場所としてるが
氏名は不詳です!
沓掛城址の説明板!
桶狭間の戦いの前日、1560年5月18日の夜に
今川義元が、この城に宿泊し最後の朝を迎えます!
桶狭間の戦い後は、沓掛城主・近藤景春は城に
戻りますが、織田軍による城攻めで落城!
この時、近藤景春は討死して支配は織田方となり
信長の武将・簗田政綱に城が与えられたそうです!
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