奥の早道 黄色い東北高速道路千円の旅 3 黄色い秋田と尾去沢鉱山 09秋:ライオンベラーさんの旅行ブログ
(この旅行記は1 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10400781/ から始まります。)
秋田の街を少し周った後、北へ向かいました。
目指すは旧鉱山町の尾去沢(おさりざわ)と小坂です。
どちらも日本の産業の発展を支えてきたところなので、今はそこがどうなっているのか、興味は津々(しんしん)です。
では幕を開けてみましょう。
スルスルスル〜〜・・・
朝、8時に宿を発ちました。
さっそく市民市場に行ってみました。
しかし・・・
市場は閉まっていました。
今日は日曜日です。
どうやらこの市場は日曜日は閉まるようです。
が〜〜ん!
楽しみにしていただけに、とても残念でした。
そのまま、秋田自動車道の秋田中央JC(ジャンクション)に向かいました。
すぐに太平山PA(パーキングエリア)がありました。
一月少し前、竿灯(かんとう)祭りを見た後、ここで泊まりました。
そのときのことが、とても懐かしく思い出されました。
(旅行記「奥の早道 東北6大祭りを巡る高速道路千円の旅 8 秋田竿灯祭り」を見てください。)
ここ秋田は道端によくこのようなアイスクリーム売りのオバサンが座っています。
前回(夏)はいつも通り過ぎてしまっていました。
今度こそはと、U(ユー)ターンして車を停めました。
先客がいて、たくさん買っていたので、少し待ちましたが、ようやく買うことができました。
アイスキャンディのようなザラザラしたクリームをチューリップの花形に盛りつけてくれました。
写真を撮らせてください。
いいですか、はいっ、カシャリ!
この鉱山の模型です。
明治22年(1889年)には岩崎家、26年(1893年)には三菱合資会社の経営となりました。
太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、超非常時増産態勢となって、月産10万トン、従業員は5千人近くになりました。
写真は地下に張り巡らされた坑道の模型です。
その後、鉱山は次第に枯渇(こかつ)していき、昭和42年(1966年)には精錬(せいれん)部門が廃止されました。
昭和47年(1972年)には三菱金属鉱業(株)より分離し、尾去沢鉱山(株)となりました。
そして昭和53年(1978年)、銅価格の低迷と銅量の枯渇のために、ついに閉山となりました。
ここで確認してもらって、坑道に入っていきます。
無事に戻ってこられたらやれやれです。
もしものときは、このとき確認した人たちが、まだ坑道の中にいるということがわかります。
小坂にやってきました。
ここも鉱山町でしたが、この鉱山が発見されたのは尾去沢よりもずっと後で、江戸時代の後期のことでした。
江戸時代は南部藩が所有していましたが、明治になって、いったん官営となった後、1884年に藤田組に払い下げられました。
その後、全国有数の産出量を誇る鉱山となり、小坂の町も人口が集まって、栄えました。
その頃、町の娯楽施設としてできた芝居小屋、康楽館(写真の右にある)は、今も興行を続けています。
小坂鉱山自体は、1990年に閉山しました。
是非、芝居を見てみたいと思いましたが、今日はこの後、奥入瀬渓流(けいりゅう)の下半分を歩くことにしているので、少し急がなければなりません。
是非またいつか、ここに芝居を見に来たいと思いながら、先を急ぎました。
芝居小屋の先には、写真のような旧鉱山事務所がありました。
すると中に、このような人形の家族が乗っていました。
ナレーションが始まって、窓には外の風景が流れ始めました。
まるで、銀河鉄道の旅のような不思議なストーリーが展開されていきました。
そして物語は終って、またこの風景に戻りました。
十分に楽しむことができました。
さあ、これから奥入瀬渓流に向かいます。
前回は上流半分を歩いて(走って)陽が暮れてしまったので、今回は下流の半分を歩くつもりです。
またあの風景と出会えると思うと、わくわくした気持ちになってきました。
時刻は2時を回りました。
十和田湖はもうすぐです。
(4 再び奥入瀬を歩く http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10401907/ に続く)
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