2008/10/12 - 2008/10/13
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ライオンベラーさん
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1 (周遊編) http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10282400/ の続きです。
クイズ:江戸時代後期では、江戸、大坂、京都を人口の多かった順に並べるとどんな順になるでしょう?(答はこのブログの最後)
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3日目(10月13日)です。
今日中に帰らなければならないので、昼頃には東京を出なければなりません。
5時半頃、チェックアウトした後、浅草橋駅の西口へ行くとまだシャッターが降りたままでした。
シャッターの張り紙には6時に開くと書いてあったので、しばらく待っていましたが、東京の駅でこの時間に始発が出ていないのはおかしいと思って東口に行ってみました。
やっぱり東口は開いていました。
さっそく1日券を使って改札を出ました。 -
今日半日は、銀座、日本橋近辺を知るために、そこを歩き回ることにしました。
東京駅で電車を降りました。
写真は東京駅の八重洲口(やえすぐち)です。
向きは北西向きです。
昔、イギリスから来た友人が帰国するとき、ここまで送ってきて、ここで別れた懐かしい場所です。
昔のことなので、ここまでどうやって来たのか覚えていませんが、確かに彼は大きなリュックを背負ってこの横断歩道を駅の方へ去って行きました。 -
ここに東京駅ができたのは意外にも、1914年(大正3年)の第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した年だったようです。
最初の新橋駅ができたのが1872年(明治5年)で、その後は山手線の西側が品川から上野まで開通しましたが、この東京駅ができたのはその後のことでした。
そして、その時は駅の入り口は丸の内側(西側)だけで、この南北の通りは江戸城の外堀でした。
この八重洲口ができたのは1929年(昭和4年)で、その頃もまだ、この駅前の道は堀のままでした。
その後、堀が埋められたのは1948年(昭和23年)から1967年(昭和42年)にかけてのことだったようです。
そして、この下に地下街ができたのは1969年(昭和44年)のことでした。
この駅前を通る道は、外堀を埋めて造ったので、”外堀通り”といいます。
ここで新幹線の電車をこの写真に納めようと、しばらく待ちましたが来ないので、あきらめて列車なしで撮りました。
まずは、この外堀通りを左(南)に歩いて行くことにしましょう。 -
中央右のこげ茶色っぽい色のビルが東京駅ビルで、その向こうの高いビルが”グランドトウキョウノースタワー”で、写真左端が”グランドトウキョウサウスタワー”です。
この道路が昔は外堀で、水が張ってありました。
写真の東京駅や線路、そしてその向こう(皇居側)の丸の内のビル街は、江戸時代は武家屋敷でした。
そして、この堀よりこちら側(東側)が、いわゆる下町と呼ばれる庶民(しょみん)の町でした。
東京駅から南が京橋地区で、北が日本橋地区になります。
このあたりは京橋地区です。
今は、この外堀通りの下(地下)には高速道路が走っています。
この通りに沿って、どんどん南下してみましょう。 -
外堀通りを南下しています。
このあたりも京橋地区です。
写真右の青い道路標示版には、(写真の右奥へ)直進すると”飯田橋””神田橋”へ、左折すると”二重橋”へ、右折すると”永代橋”へ向かうと描いてあります。
この写真では、新幹線の列車も捉(とら)えることができました。
このままどんどん(写真の左手前に)南下して行きます。 -
前の写真から目を左側(進行方向)に向けて、少し南下したところです。
向きは南西向きで、右が北西、左が南東になります。
ここまでが京橋地区で、ここからが銀座地区になります。
銀座はこの左のブロック(区画)から南へ1丁目、2丁目・・・となります。
右側の店舗(てんぽ)の上は高速道路で、その向こう側(西側)にJRが新幹線、東海道本線、山手・京浜東北線の順に走っています。
店舗の上の高速道路はこの写真の右で別れ、一本はカーブしてこの写真の上の部分に続き、もう一本は直進して地下に入り、先ほどの東京駅前の地下に続いています。 -
地下鉄(東京メトロ)有楽町線の銀座一丁目駅です。
有楽町線は、ここでこの通り(外堀通り)と交差している通り(銀座柳通り)の下を走っています。
有楽町線で西(この写真の右)方面へ行くと池袋、東(写真の左)方面へ行くと水族館のある葛西臨海(かさいりんかい)公園まで行けます。
そして何と、地下鉄(東京メトロ)の丸の内線が東京駅の西側(丸の内側)からカーブしてきて、この交差点の下で有楽町線と交差しています。
そして、そのままこの外堀通りに沿ってカーブしながら南下していきます。 -
歩いてきた方向を振り返っています。北向きです。
左の店舗の上を高速道路とJR線が走っています。
この写真の奥の部分で、高速道路の半分は右に曲がって、この道路の上を横切っています。
もう半分はそこで直進して地下にもぐっています。
地下鉄の丸の内線は写真右の柳の木の向こうに見える高いビル(グランドトウキョウサウスタワー)の左側からカーブしてきて、この写真の道路(外堀通り)の右下部分を通って、道路に沿って南下していきます
有楽町線は写真奥の信号機(黄色に点灯)のある交差点を左右(東西)に横切っています。 -
2つ前の写真の向きに進んで来ました。
銀座西三丁目あたりです。
この右あたりにJRの有楽町駅があります。
この外堀通りは、ここで少し右に折れます。
地下鉄丸の内線も、この道路に沿ってカーブして進んでいきます。
写真右の青い道路表示は、この先の数寄屋(すきや)橋交差点のもので、そこでこの外堀通りは晴海通りと交差しています。
表示板には直進すると”新橋”、晴海通りに右折すると”日比谷”、左折すると”晴海”に続くと示してあります。
数寄屋橋交差点まで進んでみましょう。 -
数寄屋橋の交差点です。南西向きです。
赤レンガのとんがり屋根の建物は交番です。
ここで左右に交差するのが”晴海通り”で、半年前に晴海ふ頭に行った時、ここを都バスで通りました。(旅行記「ライオンベラー再び東京に現る!」)
地下鉄丸の内線はここで外堀通りから外れて、高速道路に沿って、斜め右に進んでいきます。
実際の外堀もここで、斜め右に曲がっていました。
(高速道路は外堀を埋め立てて造られています。)
丸の内線の銀座駅は、この交差点の真下にあります。 -
地下鉄はこの丸の内線のほかにこの写真の右奥から左手前に(晴海通りに沿って)日比谷線(東京メトロ)が走っています。
写真右奥のJR線を越えた向こう側には日比谷線の日比谷駅があって、六本木から恵比寿(えびす)方面に続いています。
写真の左手前側は、日比谷線の銀座駅、そのひとつ向こうが東銀座駅で、そのまま上野まで続いています。
実際の数寄屋橋は江戸時代から外堀にかけられていた大きな橋でしたが、太平洋戦争後には、さらに大きくて丈夫な石橋に架け替えられていました。 -
外堀通りを南下して数寄屋橋交差点を振り返ったところです。
この道路を右奥からここまで歩いてきました。
東京駅から1kmぐらいでしょうか。
この右側一帯が、銀座の中心部です。
外堀は、写真の向こう側からこの交差点まで続いていて、ここで写真の左手前に斜めにカーブしていたようです。
数寄屋橋はこの写真の交差点か、そのやや左のあたりに、こちら側から交番側に向かってかかっていたようです。
太平洋戦争直後は、写真の交番の後の建物(有楽町マリオン)のあたりに、石造りで7〜8階立ての朝日新聞ビルが建っていたようです。
後はほとんど空爆によって焼け野原になっていました。
その焼け土の処理を兼(か)ねて、堀が埋め立てられたといいます。
このあたりの外堀が埋められたのは1958年(昭和33年)といいますから、橋は50年前まで、ここにかかっていたことになります。 -
銀座西6丁目の北西向きです。
外堀通りを右(北東)から左(南東)に歩いています。
数寄屋橋までこの通り(外堀通り)と平行して走っていた高速道路とJR線は、ここではこの写真の向きの100mほど向こうを走っています
昔の堀もそこを通っていました。
江戸時代は、その堀までが庶民の住む下町で、そこから向こうは武家屋敷でした。
正面(北西)に見える先が塔のように尖(とが)っているビルは日比谷にある東京宝塚劇場のビルです。
徳川家康が江戸に入った頃は、あのビルの向こう側の日比谷公園から皇居のあたりまでは、大きな入り江(日比谷入江)になっていましたが、家康が命じて埋め立ててしまいました。 -
土橋(どばし)交差点です。
南西(進行)方向です。
写真上部の高架(こうか)は高速道路です。
この高速道路は、外堀通りの右手の店舗の上を走っていたもので、数寄屋橋からはJRに沿って走り、この写真の右側で左にカーブして、ここに続いています。
写真の正面はJR線(新幹線など)で、写真左奥のここから100〜200mぐらいのところがJR新橋駅です。
家康以前は新橋駅から向こうは日比谷入り江でした。 -
土橋の交差点から今、通って来た通りを振り返ったところです。北東向きです。
あのずっと向こうからここまで歩いて来ました。
東京駅からは1.5kmぐらいでしょうか。
時間は30分少しかかりましたが、JRや地下鉄の階段を上り下りして、列車待ちをしながら来るのと時間的にはあまり変わらないでしょう。
この道路の右手一帯が銀座の町で、その向こうの東京駅から南の部分が京橋の町です。
そこから北が日本橋の町で、そのまた北が神田の町です。
江戸時代の建物はほとんどが平屋だったので、このあたりからも、少し高いところに登れば、下町一帯が相当遠くまで見渡せたかも知れません。
今から思えば、このまま(写真の後方に)直進して新橋駅まで行ってみればよかったのですが、その時は昼頃東京を出なければいけないということばかりが頭にあって、時間的にあせっていました。
そこで、ここ(土橋交差点)を左折して東に向かいました。 -
先ほどの高速道路に沿って東に100mほど進んで来ました。
写真の向きは南東向きです。
前回行った、汐留(しおどめ)の高層ビルが見えます。
この高速道路は1954〜1963年(昭和29〜38年)に汐留川を埋め立て造られました。
ということは、今から50年ぐらい前には、ここにはまだ汐留川が流れていたということになります。
ここは土橋交差点から100mほど来たところですが、このままさらに100数十mほど行ったところに中央通り(昔の東海道)があります。
このあとその中央通りを日本橋まで北上するつもりですが、その前に少し、ここにある並木通りという通りを歩いてみることにしましょう。
並木通りは、ここからこの写真の左後方に向かって伸びています。 -
並木通りです。
北東向きです。
前の写真の左後方になります。
この左100mほどのところに先ほど通ってきた外堀通りが、この右100数十mのところに中央通りが、この通りに平行して走っています。
おお、この並木通りには、おびただしい数のバーやスナックの看板があります。
♪心の底からしびれるよぉ〜な〜・・・
♪東京でひとつ、銀座でひとつ・・・
というような歌が聞こえてくるようです。
このあたりの地価は信じられないような高さでしょう。
そして、ここで飲まれるような酒も、地価相応の高級酒に違いありません。
う〜ん。
今はその香りをイメージして、飲んだ気分になって満足しましょう。 -
カラスです。
ゴミを漁(あさ)っています。
今はまだ朝早いので、道路にはたくさんのゴミが出されています。
それを何台もの回収車が、回収して回っています。
しかし何と、その回収される前のゴミをカラスが漁っているのです。
おびただしいほどの数のカラスが飛び回っています。 -
そして、至(いた)るところでこの有様です。
-
ここでこのようなカラスを見ようとは、思いもよりませんでした。
ずっと以前にテレビでこのようなニュースを見たことがあります。
でも、もうとっくの昔に解決していると思っていました。
これからもこのカラスはますます増えていくのでしょうか?
いつかはカラスも人間に慣れてしまって、そのうちに人間を攻撃してくるものまで現れそうな気がします。
ああ、何と恐ろしいことでしょう! -
並木通りを四丁目で右折して100mほど進んで来ました。
銀座四丁目の交差点です。
写真は東向きです。
昨晩も知人とここに来ていました。
今、進んできた、写真の左後方から右前方に続いている通りが”晴海通り”です。
そして、交差点でこの晴海通りと左右に交差しているのが中央通り(昔の東海道)です。 -
晴海通りを左後方に戻って、200mほど行くと、外堀通りの数寄屋橋交差点に出ます。
この晴海通りの下には地下鉄日比谷線が通っていて、ちょうどこの写真の下あたりが銀座駅です。
中央通りの下にも地下鉄(東京メトロ)の銀座線が走っていて、この写真の交差点で、日比谷線と交差しています。
銀座線の銀座駅は、この交差点から北東の部分の真下になります。
写真正面の建物は銀座三越(みつこし)デパートです。 -
今、時間は7時半で、東京駅を出発してからちょうど1時間になります。
今はこの前の写真の範囲には、数十人の人しかいませんが、もう少しすれば、ここは、地上、地下を含めると、何千人という人で埋め尽くされてしまいます。
デパートの中の人や、通りを歩く人や、通過するバスや乗用車に乗っている人、そして、満員の地下鉄がここで4本停車している時のことなどを考えると、数万人になるかも知れません。
おおおおお!!!
こうしてみると、東京の地価が高いのも十分にうなづけます。
この写真は、先ほどの銀座三越ビルのちょうど対角線のビルです。
西向きです。
この右下の歩道を、ここまで歩いて来ました。 -
前の写真の角を右に曲がったところです。
南西向きです。
この通りが現在の中央通りで、昔はここが東海道でした。
この前方が新橋方面で、後方が日本橋方面になります。
写真のずっと前方に、汐留川を埋め立てて造ったという高速道路が見えます。
ここが銀座4丁目で、あの高速道路のあたりが8丁目になります。
その間に順に5丁目、6丁目、7丁目があります。 -
日本橋方面(北東向き)を振り返りました。
右の角に銀座三越デパートがあります。
そこが銀座四丁目で、写真奥(日本橋方向)に向かって、3丁目、2丁目、1丁目と続きます。
江戸時代に銀貨などを造っていたという本物の銀座は、2丁目の南東側にあったようです。
地下鉄の中央線はこの中央通りに沿って走っています。
この写真の下あたりが銀座駅です。
その後、京橋駅、日本橋駅と続きます。
神田、上野を経(へ)て、浅草まで続いています。
本当はこのまま日本橋まで歩きたいところですが、まだこの後ろの通り(5〜8丁目)を歩いていません。
銀座を知り尽(つ)くすという目的のためには、どうしてもこちら側も、歩いておかなければなりません。 -
再び、新橋方面(南西向き)です。
さあ、これからこの道を、あの高速道路のあたりまで歩いて行きます。
松坂屋デパートが見えます。
その手前の信号機よりこちら側が五丁目、向こう側が六丁目です。
先ほど通ってきた並木通りもこの通り(中央通り)と平行に走っています。
並木通りはこの右側3本目の通りです。
あの高速道路までは500mぐらいでしょうか。
さあ、ウォーキング開始!
ハイ、ハイッ、ハイッ、ハイッ!
頑張るぞ! オー!
という感じです。 -
銀座五丁目までやって来ました。
この交差点から六丁目になります。
あの向こうの高速道路が目標です。 -
銀座五丁目の交差点で、南東方向を見ています。
進行方向に対して左向きです。
この通りはみゆき通りという通りです。
四丁目の晴海通りはこの一本左です。
中央通を写真左から右に向かって歩いています。 -
ついに八丁目までやってきました。
並木通り入り口で見た汐留の高層ビルです。
この高速道路が汐留川を埋め立てて造った高速道路です。
先ほどいた並木通りの入り口はこの右に150mぐらい進んだところにあります。
写真は南向きです。
ここまで中央通りの下を走ってきた地下鉄銀座線は、この高速道路を越えて100mほど進んだ後、新橋交差点で右折します。
そこが新橋駅です。
JRの新橋駅もそこにあります。
銀座線はそのまま渋谷に向かいます。 -
この高速道路のには「銀座新橋」と書いてあります。
昔、ここを流れていた汐留川にかかっていた橋が”新橋”でした。昔の東海道では、日本橋、中橋、京橋に続く4番目の橋でした。
人々はこの橋を渡って、最初の宿場、品川を目指していました。
戦国時代までは、この先は日比谷入り江でしたが、家康が命じて埋め立ててからは、陸続きで品川まで行けるようになりました。
品川の旧東海道の様子はブログ「東京散策 品川編」を見てください。(当時の品川は風光明媚(ふうこうめいび)な海岸だったようです。) -
さあ、これからターンして、今来た道を戻っていきます。
写真は、中央通りを振り返ったところです。
先ほどは、道の北西側(写真の左側)を歩いてきましたが、今度は南東側(写真の右側)を歩いていきます。
昔の東海道では、新橋の町を過ぎて、銀座の町に入ってきたような場所です。
これから終着の日本橋をめざします。
日本橋までは、距離にして2kmぐらいです。
市民マラソン(昔、よく参加していました。)では、40kmを過ぎて、あと少しでゴールといったところです。
さあ、それでは出発しましょう。 -
このあたりはまだ、銀座八丁目です。
-
銀座七丁目です。
この交差点から向こうは六丁目になります。
この中央通りの下には地下鉄銀座線が通っています。 -
銀座五〜六丁目あたりです。
通りの右手には松坂屋デパートがあります。 -
さあ、ついに四丁目まで戻って来ました。
向きは北向きです。
正面のビルは和光のビルで、時計台で有名ですが、その時計台は今、修理中です。
中央通をはさんで右側が銀座三越デパートです。
この中央通りに沿って、地下鉄銀座線が走っていて、この交差点の下が銀座駅です。
交差する晴海通りには地下鉄の日比谷線が走っています。
日比谷線の銀座駅は、この100mほど左(北西)になります。
右に300mほど行けば、日比谷線の東銀座駅です。
さあ、交差点を渡って、日本橋を目指しましょう。 -
四丁目の交差点を渡って、西の角を見たところです。
今、銀座三越デパートの前にいます。
時間はちょうど8時です。
東京駅を出てから1時間半、距離にして3.5kmほどでしょうか。
昔の日本橋ー品川間の半分ぐらいは歩いたでしょうか。
もしそうだとすれば、1日で歩くには短すぎるかも知れません。
実際の旅立ちの時には、家族や村人が品川まで見送りに行ったり、出迎えに行ったりしていたようで、品川もけっこう宿場町として栄えていたようです。 -
銀座三越前から、今通ってきた中央通りを見たところです。
南西向きです。
こちらは品川向き、後ろは日本橋向きです。
この写真の右から晴海通りに沿ってやってきて、この角を右に曲がって、この中央通りの500mほどの距離を往復して来ました。
この中央通りが昔の東海道で、日本橋を基点にして、東海道は品川など53の宿場をはさんで、京都まで続いていました。 -
銀座三越デパート前のライオンです。
北向きです。
このあたりが銀座四丁目です。
現在は世界的にも有名な銀座ですが、江戸時代は銀座という町は存在せずに、東京駅から八丁目まではすべて京橋と言っていたようです。
銀座が京橋から独立したのは明治以降のことだそうです。
しかもそれは、この四丁目までで、これまで通ってきたところ(五〜八丁目)は、明治になっても銀座には含まれていなかったようです。
銀貨などを造る本物の銀座は、この先の二丁目にあったそうです。(この通りに沿って右側)
明治の始めまでは、銀座は手工業などを中心にした地味な町であったということです。 -
三越側から西を見ています。
明治の文明開化以降は、銀座は急速に発展して、当時の流行の担い手となっていきました。
そして、現在でもそのような街として発展し続けています。
そして、この四丁目の交差点が現在の銀座の中心地になっています。 -
銀座二丁目の交差点です。
この先の右側に、江戸時代、銀貨を造っていた銀座がありました。
江戸時代はこのあたりも京橋でしたが、明治になってから銀座として独立しました。
この中央通りに沿って、地下鉄銀座線が走っています。
この次は京橋駅、そしてその次が日本橋駅です。
その後、銀座線は上野から浅草へと向かいます。 -
銀座二丁目の交差点で左(北西)を見たところです。
面白いビルがあったので撮りました。
通りはマロニエ通りというようです。
ここを進んでいくと、早朝に通ってきた、銀座西二丁目に出ます。
現在の進行方向は右(北東)です。 -
途中に鏡があったので撮りました。
-
写っているのは私です。
-
銀座一丁目の交差点です。
この下を地下鉄有楽町線が走っています。
有楽町線の銀座一丁目駅はこの交差点の真下から左(北西)にかけてです。
その先は市ヶ谷から池袋に向かいます。
反対方向(右)に行けば、月島から葛西臨海公園に至(いた)ります。
正面に見える高速道路よりこちら側が銀座で、向こう側が京橋です。
昔は、あの高速道路に沿って京橋川が流れたいました。
昭和30年代に埋め立てられて、その上にあの高速道路ができました。
このように、このあたりの高速道路はほとんどが、昔の堀や川を埋め立てて造られました。
そのため、用地買収をする必要はまったくありませんでした。 -
銀座一丁目で、今来たところを振り返っています。(南西向き)
以前、車でこのあたりを走っていて、ビルの壁が延々と続く光景に衝撃を受けたのだろうと思います。
(旅行記「ライオンベラー再び東京に現る!」)
そして、何とかこの光景を写真に収めたいと思い続けていました。
しかし今、実際に来てみると、思っていたほどはすごい光景とは思えません。
今は朝早いけど、車で通ったときは、おそらく午後か夕刻だったのでしょう。
その頃は、このあたりは歩道には人があふれ、車道には車が連なっているでしょう。
この写真の風景にそのような人や車を配置してみると、それはそれはすごい風景になるでしょう。
昨晩はビルの上から、この通りの夜景写真を撮ろうと思って、2〜3のビルに登ってみましたが、結局外は見えなくて、あきらめました。
と、いうことで、仕方なくこの風景で我慢(がまん)せざるを得ません。 -
さあ、高速道路の下までやって来ました。北東向きです。
橋げたには「銀座京橋」と書いてあります。
この高速道路の真下に京橋川が流れていました。
江戸城築城のときに造られた古い川です。
そして、ここに京橋がかかっていました。
品川方面から来れば、新橋を渡ってから、この京橋を渡って、日本橋に向かいます。 -
江戸時代は前の写真の高速道路(昔、京橋がかかっていたところ)を含む一帯から新橋にかけて(銀座を含んで)すべて京橋の町と呼んでいました。
現在は、その高速道路から向こうが京橋三丁目で(そのあと二丁目、一丁目と続く)、こちら側が銀座一丁目です。(そのあと二丁目、三丁目・・・と八丁目まで続く)
この写真は地下鉄銀座線の京橋駅です。
京橋二丁目あたりです。
北東(日本橋)向きです。
この次の駅が日本橋駅です。
そして、この交差点でこの中央通と交差している道路の下には、JR京葉(けいよう)線が走っています。
何とこの京葉線は地下鉄銀座線の下で、銀座線と交差しています。
つまり、地下鉄の下を通るJR線ということになります。
始発の京葉線東京駅も地下のかなり深いところにあります。 -
東京駅から千葉のデズニーランドに行くときに、この電車に乗ります。
前の写真の右方向が東京駅方面、左方向が八丁堀駅方面です。
八丁堀駅方面からは、舞浜(デズニーランド)や千葉の幕張に向かいます。
この写真は、その交差点から左(北西)を見たところです。
今、歩いている中央通りの日本橋方向は、写真の右方向になります。
この写真の通りの地下の深いところをを京葉線が走っています。
写真中央の、この写真の中で最も高いビルがグラントウキョウサウスタワーです。
その手前が外堀通りで、今朝の6時半ごろに、そこをこの写真の左に向かって歩き始めました。
その向こうのビル群は丸の内で、そことサウスタワーの間をJR線が走っています。 -
少し進んで左(北西)を見たところです。
先ほどのグラントウキョウサウスタワーが正面に見えます。
中央通りを日本橋に向かって写真右方向に進んでいます。 -
さらにもう少し進んで、後ろ(南西方向)を振り返りました。
中央通りです。
ずっと向こうに先ほどくぐってきた高速道路の橋げたが見えます。
昔の東海道では、あの下に京橋がかかっていました。
現在はこの下に、地下鉄銀座線が走っていて、その途中に京橋駅がありました。
現在はここは京橋一丁目になります。
昔(江戸時代)は、このずっと先の新橋までが、京橋の町でした。
落語や時代劇に出てくる町人の町はこのあたりでした。 -
前の写真をアップにしたものです。
あの高速道路の下に京橋がかかっていました。
現在ではそこまでが京橋で、その向こうは銀座になります。(昔は銀座も京橋に含まれていました。) -
写真の左手前から右奥に続いているのが、今進んでいる中央通りです。
交差している広い道路は八重洲通りです。
写真は北向きです。
八重洲通りを2〜300m進んだところが、東京駅の正面(このブログの最初の写真)です。
昔は、ここに川が流れていて、東海道には中橋という橋がかかっていたようです。 -
東京駅です。
写真は東向きです。
今朝、あの前から左向きに歩き始めました。
今、8時半なので、ちょうど2時間歩いたことになります。
歩いた距離は4kmほどでしょうか。 -
同じ所です。
正面は東京駅で、東向きです。
この八重洲通りより向こう側(南東(写真の左)側)が、京橋地区で、こちら側(北西
(写真の右)側が日本橋地区になります。
ここは日本橋の三丁目です。
京橋も日本橋も一〜三丁目まであります。
今日、歩いているところはすべて中央区です。 -
八重洲北口通りです。
北西向きです。
正面のビルがグラントウキョウノースタワーです。
中央通りを写真の右向きに進んでいます。 -
次の通り(さくら通り)です。
同じ向きです。
写真正面のビルは第二鉄鋼ビルで、その左隣の高いビルが、先ほどのグラントウキョウノースタワーです。 -
そのまま右に目をやれば日本橋高島屋デパートがあります。
写真の向きは北東です。
今、この中央通りを写真の手前側から向こう側に進んでいます。
この先に日本橋があります。 -
地下鉄銀座線の日本橋駅です。
正面の信号(黄色に点灯)が日本橋の交差点です。
写真は北東向きです。
銀座線はこの後、三越(みつこし)前駅、神田駅と続いて、秋葉原、上野、浅草へ向かいます。 -
前の写真の交差点から左(北西)を見たところです。
正面のビルはさきほど見ていた第二鉄鋼ビルです。
写真右に進んでいます。 -
前の写真と同じ向きです。
正面が第二鉄鋼ビルです。
その左隣にグラントウキョウノースタワーが見えます。
日本橋はもうすぐです。
3 (帰路編) http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10285708/
に続く)
クイズの答:江戸、大坂、京都
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