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<br />                             <br />平成14年3月14日(木)<br /> 成田エクスプレスで空港へ向かった。集合時間までに50分程余裕があると思っていたが、ノートを買ったりしているうちに時間は過ぎてやがてツァー参加者一同の顔見せとなった。添乗員は若い女性で真鍋さんという。参加人員は32名で多いほうである。中に林(りん)さんという中国籍の人も入っていた。今回の男女二人連れの中には明らかに正規の夫婦ではないと思われる組が二組あった。<br /><br /><br /> 定刻の13時50分に離陸して上海には16時に到着。時差1時間であるから正味飛行時間は3時間10分である。上海空港は小雨であった。<br /><br /><br /> 国内線に乗り換え上海発17時55分、成都空港へは20時50分に到着した。やはり小雨が降っていた。シェラトンホテルへ投宿し持参したオールドパーを飲んで熟睡した。NHKのテレビを見ることができた。<br /><br /><br /><br />平成14年3月15日(金)<br /> 朝早い7時15分に成都市内のシェラトンホテルを出発して臥龍へ向かった。<br />臥龍まで約3時間のバスドライブであったが、中国の田舎の風景を存分に観察することができた。<br /><br /><br /> 概ね道路の両側は山に囲まれており、山の木々は新芽を吹き始めているし桜と桃が美しく今を盛りと咲き誇っていた。山の合間に開けた平地の田畑には一面に菜の花が咲き乱れておりまさに春爛漫の風情である。<br /><br /><br /> 山間を流れている川の底には砂利や岩塊ばかりが転がっていた。山間の山道は舗装されておらず左右に大きく揺れるがたがた道である。そして、至るところにスローガンを書いた横断幕をみかけたが、「開発」という文字がやたらに目についた。中国の簡体文字は判読が難しく、「開」の文字が「門構えを省略した鳥居印」のようなものであり「発」の文字が「友」+「’」と簡略化したものであると解読できるまでには相当な時間が必要であった。看板の珍しい文字を眺めながら原字を推理するのは楽しい頭の運動であった。<br /><br /><br /> 途中小休止した場所の公衆便所は典型的な中国風のもので、建物の中の便所は申し訳程度に個室として囲ってはあるものの扉もなく垣根は低く人目を気にすると出たいものも引っ込んでしまうような造りで女性泣かせの代物であった。<br /><br /><br /> 民家の門前では鉢にご飯とおかずを盛った遅い朝飯を立ち食いしている若い農婦を目撃した。以前聞いた話であるが「私はこのように朝ご飯を無事食べていますよ」ということを近隣に誇示する意味合いがあるという。農民が毎日の食に事欠く程に困窮していた頃出来た昔ながらの習俗が残っていたし、現在の中国の都会地では見られなくなった紺色の人民服を纏った老人達や農夫達を見ることもできた。<br /><br /><br /> しかしながらこのような風俗と対比するように20年前には電気が通じていなかった僻地にもパラボラアンテナがそこここに立てられていて、情報化と現代化の荒波がこの山奥にも押し寄せていることを感じさせられた。<br /><br /><br /> やがて目的地臥龍に到着した。成都の北西方向にある山奥でパンダの自然保護区があるところである。檻の中に飼っているパンダもあれば、森林に放逐されて生活している野生のものもある。野生のものは100頭前後棲息しており、国の保護施設で養育保護されているのは30数頭らしい。木の上で眠っているかと思えば、原っぱで寝ているものもいる。パンダは「ケンチク」という竹を主食にしている。一日に50kgほど食べるらしい。寝るか食べるかの生活でコアラに似た習性であるといえる。パンダの歩き方は一種独特で関節を曲げずに歩く姿に特徴がある。 ここではパンダと一緒に記念撮影をした。<br /><br />  <br />     <br /> この臥龍から岷江沿いに上流へ遡っていくと松藩、黄龍、九寨溝等の秘境がある。何れの日か再訪してみたいところである。<br /><br /><br /> 昼食はこのパンダ保護所にある食堂で田舎の四川料理を食べたが小皿は無く全てご飯を持った茶碗に料理を乗せて食べるのであり、それが中国の流儀だという。<br /><br /> 四川料理は辛さに特徴があり、唐辛子と山椒で味付けする。「脚のあるものは机以外、飛んでいるものは飛行機以外は何でも食べる」のが中国料理である。また「麻婆豆腐」は成都に住む「あばたの陳婆さんが創案した料理」のことであるという。<br /><br /><br /> 臥龍の見学を終えての帰りに都江堰に立ち寄った。今では「都江堰市」になっているが、ここの歴史は2200年前に秦王朝の官吏であった李親子が岷江の治水のために堰を設けたことに始まる。流れの激しい岷江に中州を設けて水流を調節したものであるが科学的な設計に基づいて行われた大工事であった。安瀾橋(あんらん)という吊り橋、龍を封じ込めた伏龍観(観は道教の寺院の意味である)、流れの速い宝瓶口、李氏親子の二王廟を見学した。堰周辺が公園になっている。<br /><br /><br /> ところで四川省の名の謂われは四つの川からきているが何れも長江の支流の四つの川のことである。1)岷江 2)大渡河江 3)嘉陵江 4)川江 <br /><br /><br /> ここで三国史の復習をしておくと成都(四川省)は蜀の都で劉備の本拠地、洛陽<br />(河南省)が魏の都で曹操の本拠地、武漢三鎮の一つ武昌(湖北省)を都としたのが呉の孫権である。<br /><br /><br /> 成都市内に戻り夕闇迫る頃、杜甫草堂を見学した。759年から約4年間、安禄山の乱を逃れた杜甫が厳武の庇護のもとに仮小屋を造り,質素な生活を送った場所である。彼の全作品1,400 首のうち代表作を含む247 首がここで作られた。唐末に彼を記念するため草庵が建てられたが、明代に再建され今日に至っている。草堂の敷地内には竹が沢山生い茂っており、静寂な佇まいである。<br /><br /><br /> この頃からバスの調子がおかしくなりスピードを上げると横揺れがひどくなりだした。この時点では中国の道路というのは舗装が良くなくて道路表面に余程凹凸があるのだな位の認識で未だ車の調子が悪いとは思っていなかった。<br /><br /> 車の速度が遅くなったせいで夕方の「川劇」の鑑賞は幕開き直後にあわてて飛び込むという騒ぎになってしまった。<br /><br /> <br /> 「川劇」は琴の演奏、踊り、操り人形、変面、低所潜り抜け等と幾つかの出し物があったが、圧巻は「変面」である。役者が面を付けて出演するのであるが、見せ場見せ場で顔を振り、見栄を切ると今までつけていた赤色の面が青色の面に変わったり、黄色の面が黒色に変わっているのである。まるで手品をみているようでどんな仕掛けになっているのかよく判らない。優れた演技者は一秒間に二十回も面を変えることができるというからその技術は素晴らしい。変面の芸は一子相伝の秘技で最近では後継者難になっているという。<br /><br /><br /><br />平成14年3月16日(土)<br /> 朝、成都市内の武侯祠へ立ち寄ってから大足の宝頂山の石刻と北山の石刻を見学する予定である。その後宿泊地の重慶までバスで走行する予定になっている。<br /><br /> ところが運転手が重慶出身というふれこみで地理に暗いものだから目的地の武侯祠へなかなかたどりつけない。同じ所をぐるぐる廻っているようである。ここで一時間近くも時間のロスができてしまった。<br /><br /><br /> 武侯祠は諸葛孔明の遺徳を偲んで彼を祀るために建てられた祠であるが、君臣は合祀されるべきだとの思想のもとに劉備玄徳も祀られている。そして両翼の回廊には三国史に登場する殆ど全部の英雄達の像が同時に飾られている。また、劉備の小山のような墓も独立して構内の一角にあるがこの墓は発掘調査されたことがなく何が埋葬されているか謎になっているという。<br /><br /><br /> ここには諸葛孔明が劉備玄徳の死後その後継者劉禅に奉った出師の表の前編、後編が石碑に刻まれて保存されている。このうち前出師の表は南宋の武将岳飛の筆であると伝えられている。因みに出師の表は蜀の将来や政治の根幹を説いたもので名文で知られている。<br /><br /><br /> 武侯祠の見学を終えて大足へ向けて出発したのだが、バスの横揺れが激しくなり、後続の車にどんどん追い越されるようになった。スピードメーターを見ると70kmを超えると横揺れが激しくなるようだ。横揺れするのは道路のせいではなくて車両の整備不良が原因だということに乗客達は漸く気がついた。運転手と現地ガイドが携帯電話でしきりに話しているが、どうやらバスの不調を会社に訴え、代車の手配をしているらしい。中国語で喋っているので何を話しているのかは判らなかったが、車の車軸でも折れてしまうのではないかとの不安が頭をよぎるようになりだした。よたよたした足どりで行けるところまで走る模様であるが、時間はどんどん過ぎていくし後続車にどんどん追い抜かれていく。予定では昼食をレストランで摂る筈であったが、時計は既に午後3時になろうとしている。<br /><br /><br /> やっと昼食予定地の内江にまでたどり着き、待機していた代車に乗り換えた。レストランでゆっくり食事をしている時間がないので予め連絡して用意して貰った弁当を受け取り車内で食べることとなった。車はそのまま走行を続け、遅れた時間を取り戻そうという苦肉の策である。<br /><br /> 弁当たるやゆで卵が三個とハムらしき肉片が数枚と饅頭が入っていた。<br /><br /><br /> 今回の運転手はプロ意識が全然なく、一番大切な車の整備点検を行っていないし、地理の勉強も全然していない。最低の運転手であった。事故が起こらなかったことをラッキーとするのみである。<br /><br /><br /> 時間が遅れたため最後の観光地北山にはガイドが連絡をとり、閉門時間を遅らせて係員に待っていて貰うという始末であった。<br /><br /><br /> 大足の宝頂山には一枚岩に刻まれた石刻が13個所あり、保存状態は極めて良好で像の顔面が破壊されたものは殆どない。<br /><br /> 南宋の名僧趙智鳳が70年を費やして完成させたと謂われ、500 mに及ぶ岩壁には31の石窟がある。釈迦涅槃像や六道輪廻像、千手観音、華厳三聖像、孔雀明王経変等仏教説話が系統的に造像されているところに特徴がある。<br /><br /><br /> 文化大革命の時にも都会から離れた辺鄙な山中にあったことが幸いして文化遺産が破壊されることなく保存されたようである。<br /><br /><br /> 続いて北山の石刻へ到着した頃は夕闇が迫りかけていた。係員は所在なげに待機していてくれた。感謝する気持ちを込めて「謝、謝」と何回も唱えて入場した。<br /><br /><br /> ここの仏像は唐代末期から250 年間彫り続けられたのであるが、宝頂山のそれとは異なり、彫刻全体を流れるテーマはなくめいめいがそれぞれの思いを込めて刻まれた仏像群である。従って同じ種類の仏像が沢山あるが、唐、五代、宋代と時代の特徴を表現していて面白い。保存状態は必ずしもよくなく、顔面が破壊された仏像も相当数あったのが痛々しい。<br /><br /><br /> 大足の村には水を張った水田が沢山あるので田植えがもう始まるのかなと思っていたら蓮根の特産地であるということであった。納得。<br /><br /><br /> バスの不調で約3時間のロスがあったので、重慶のレストランで名物の火鍋料理を味わってから、ホテルにたどり着いたら12時近かった。火鍋料理とは中国風シャブシャブと思えばいい。<br /><br /><br /><br />平成14年3月17日(日)<br /> 朝6時にホテルを出発して朝天門埠頭へと急いだ。重慶は嘉陵江と長江に囲まれた丘陵地帯に開けた街である。そして朝天門埠頭は嘉陵江と長江が合流する地帯に突き出た地点にある。<br /><br /><br /> 昨夜ホテル到着が遅かったので初めて見る重慶の市街は起伏の多い街で長江は遥か下方を流れている。大きな幅広の電車風のエスカレーターに乗って岸辺まで降りてから高速船に乗り込んだ。<br /><br /><br /> 埠頭には多くの人々が屯しており、担ってきた野菜や果物を並べて商っている者もいる。我々の目を最も驚かせたのは手に手に天秤棒と縄を携えた「棒棒群」と呼ばれる労働者の群れである。船に乗り降りする乗客の手荷物を運搬して料金を貰うのであるが,その数が非常に多いのである。我々のグループも彼等にスーツケースをバスから船まで運んで貰ったが、天秤棒の両端にスーツケースを二個宛吊るして計四個の荷物を肩に担って運搬するのである。昔日本でも大きな鉄道駅にはいた赤帽さんのようなものだと思えば判り易い。約70〜80kgの荷物を急坂を登り降りするのは大変な労作量であろうが、もっとも手っとり早い就業チャンスなのである。荷物一個につき2元から3元(日本円換算35円〜50円程度)であるという。<br /><br /><br /> 因みにこの地帯では新卒大学出の初任給が月額1,200 元( 日本円で2万円程度)で一カ月の生活費は食費だけで、400 元( 日本円6,800 円) 程度だという。<br /><br /><br /> 重慶の朝天門埠頭から白帝城のある奉節の町まで約8時間の船の旅である。両岸に険しくそそり立つ岩山の合間を流れる長江は世界第3位の長さを誇って土色をした水を満々と湛え悠々と流れている。<br /><br /><br /> 白帝城までには鬼城、石宝寨、帳飛廟等の旧跡があるが船の上からでは見る術もない。航行するにつれ多少様子を変える山々の岩肌や岩壁を眺めているだけの単調な退屈する8時間である。高速船なので時速50〜60kmも出ているのであろうか、甲板にでることもできず船室に閉じ込められたまま船窓から移り行く景色を眺めているか、居眠りをしているしかない。昨日睡眠時間が短かったので不足分を取り戻すにはおあつらえ向きのクルージングである。<br /><br /><br /> 長い8時間が終わってやっと奉節の町へ到着した。ここでも「棒棒群」に荷物をバスまで運んで貰い、急峻な階段を登って奉節の町中を通り抜け、白帝城入り口にやっと到着した。そこにはひょうひょうとした風情の痩身の白い杜甫像が訪問客に俯瞰する眺望の素晴らしさを指し示すかのように佇立している。<br /><br /><br /> 眺め下ろすと両側の険しい山間を流れている長江を遠望することができる。天下の絶景である。<br /><br /><br /> 前方へ伸びている岩道を眺望を楽しみながら暫く歩くと吊り橋がある。この橋を渡って赤甲楼という楼へ登り景色を眺望した。この三層の楼からは前方に三峡の始まりである瞿塘峡の入り口を見下ろすことができる。瞿塘峡の両側にそそり立つ赤甲山と白塩山の競り合う間を長江が流れていく様子がよく判る。眺めは実に素晴らしい。 <br /><br /> 瞿塘峡に続いて巫峡、西陵峡が順番にその先に控えているのである。この三つが世にいう三峡である。<br /><br /><br /> この楼から一寸前方へ進んだ地点からは、昔、岩肌に穴をあけて丸太を差し込みその上に板を並べて作った古桟道の跡を望むこともできる。今は桟道は外されて穴しか残されていないが、絶壁に懸けられた桟道を往来した旅人や住民達の苦労の程が偲ばれた。<br /><br /><br /> 三峡ダムの建設によりこの天下の名勝も過半が水没してしまう運命にあるのだ。岩肌に143.2 m、175 mと白色のペンキで記されているが、これはそれぞれ2,006 年、2,009 年時点の上昇する水面が表示してあるのである。何れも海抜であるが、175 mの地点は今立っている赤甲楼よりも遥か上方であるから、この望楼も水没してしまうのであろう。<br /><br /><br /> 来た道を暫く引き返して今度はリフト乗り場までやってきた。スキー場のリフト様のものに乗り白帝廟に到着した。ここには劉備が祀られていて「劉備託孤」のエピソードが塑像で紹介されている。<br /><br /><br /> 諸葛孔明が星を占って作戦を立てたという望星亭、杜甫が住んだ西閣などもある。また李白の代表的な詩である「朝に白帝を辞す」の詩碑が立っていたが周恩来が筆をとっている。詩碑に残すだけあって達筆で流麗な墨痕は見事である。<br /><br /><br /> 白帝城という名の謂われは前漢末期にこの地方の富裕者公孫述が独立王国を築き、井戸から白い龍が昇天するのを見て、自ら白帝と名乗ったことに因んで命名された。その後、公孫述の像は劉備の像に取って代わられたのである。<br /><br /><br /> 白帝城の見学を終えて近く水没する奉節の旧市街へ入り繁華街を通り抜けて師範学校の看板のでている学校へやってきた。校舎の裏に隠れるようにして永安宮という名の建物がある。ここは劉備が息を引き取った場所であり、元は学校構内の敷地一杯に王宮が営まれていたのである。ここにも劉備託孤の像が祀られていた。病を得て最後に死後を諸葛孔明に託す場面の木彫りの群像である。<br /><br /><br /> 本日は奉節のホテルで宿泊である。エレベーターもない8階建ての田舎のホテルであるが詩城という名がついていた。<br /><br /><br /><br />平成14年3月18日(月)<br /> 出発まで間があったので20分程朝の町中を歩いてみた。そこここに饅頭やお粥等を商う出店が並び道行く人々が立ち寄って朝の腹ごしらえをしている様子は活気があって面白かった。<br /><br /><br /> 波止場から小舟に乗って小三峡のクルーズを行った。ここは支流であるため本流とは違って水の色が紺碧に光っており、川底には砂利と岩塊が堆積していて清々しい感じである。<br /><br /><br /> 小三峡は川幅も本流よりは狭くて両側の岩肌や岸壁にはまた今までとは異なる趣があったが、日本でも見られる各所の渓谷とさしたる変わりはなく、期待外れであった感を免れない。<br /><br /><br /> この白帝城のある奉節の町の新市街のレストランで昼食を摂った。新市街は三峡ダム建設に伴い地域住民を移住させるために頂上近くに最近作られた計画都市である。ここへくるために低地の旧市街を通り抜けた。町ごと水没する運命にありながら旧市街には活気があり、商店街は夥しい群衆で賑わっていた。既に引っ越しを済ませた部落もっあって廃墟になってしまった建物が建ち並んでいるが暗さが感じられなかったのは不思議である。<br /><br /><br /> また現在、引っ越し中の部落もありそのため昼食のレストランへ向かうための迎えの車が渋滞に巻き込まれて小一時間も待たされるというハプニングもあった。交通警察官が出てきて号令をかけるまではめいめいが一車両しか通行できない細い道路に譲り合うことをせずに、双方から自己本位の割り込みを行うものだから混雑に輪をかけて渋滞はひどくなるのである。<br /><br /><br /> 三峡ダムを建設するために移住を余儀なくされる流域住民の数は200万人であるというからこのプロジェクトが国の威信と国力を注ぎ込んで実施される一大プロジェクトであることが判る。<br /><br /><br /> 昼食後再び高速船に乗り巫峡、西陵峡の絶壁を鑑賞しながら三峡クルーズ最後の町宣昌へやってきた。かくして両岸の景色にもさしたる感動を覚えることなく、三峡下りのクルーズは終了したが、ここまでくると周辺の様子はがらりと変わる。今まで高い山に囲まれた山間だったのに高い山が姿を消し丘陵地帯になる。平地もかなり広く広がっている。中国の地形は西から東に行くにつれて山から丘陵に変わりやがて広大な平野に変化していく様子がよく判る。<br /><br /><br /> ここでは三峡ダムの建設現場が眼下に見下ろせる三斗坪鎮の高台にあがり最初に模型室へ案内された。ここには三峡ダムの完成予定模型が置いてあり、全体像を理解するのを容易にしてくれる。模型を頭に入れておいてから実際の工事現場を見下ろすと今更のように国家的大プロジェクトであることがよく判る。<br /><br /> このダム建設の発想は、1911年に孫文が唱えたものであり、1992年の人民大会議で建設が決定され、1994年12月に着工したものである。<br /><br /><br /> 水門の高さは185 mで落差は103 mになる予定である。最大流量は毎秒11万m3で年間840 億キロワット時の発電量であり、完成すれば、世界一の水力発電所になるという。総工費は2500億元の文字通り大プロジェクトである。<br /><br /><br /> 最近,日本の生産拠点が中国に移転され、日本の製造業が空洞化しつつある事実や値段の安い農産物、衣料品が製品として日本国内市場に奔流の如く流入している事実と重ね合わせた時に中国の持つ底力というものを如実に実感させられる工事現場であった。<br /><br /><br /> 夜は照明の灯った公園をガイドの案内で散策した。途中太極拳をアレンジした舞踊の練習をしている女性グループと交流し一緒に舞踊を真似てみるというハプニングもあった。尿意を催す者が相当数あり、公衆便所に飛び込んだのはいいが照明がついていなくて、真っ暗な中で手さぐりで放尿するというハプニングもあった。<br /><br /><br /><br />平成14年3月19日(火)<br /> 朝7時20分に宣昌のホテルを出発して武漢の市街まで4時間半ほどの長丁場のバスドライブである。武漢では黄鶴楼を見学した。武漢は三国史の時代から争奪の的となった地味豊かで物なりも豊富な交通の要衝であり、現在の中国の重工業地帯でもある。<br /><br /><br /> 黄鶴楼の楼上から武漢市内を展望した後、友誼商店でのショッピングとなった。これをエスケープして1927年の武漢蜂起の現場となった建物を見学に行った。現在は軍関係の施設として使用されているようだが、要人の来訪があるらしく若い男女の兵士達が多数門前に整列していた。その前には孫文の立像が立っていた。<br /><br /><br /> この後武漢空港から上海空港へと移動した。上海では夜のバンドの光景を見学してホテルに入った。黄浦港の対岸には数年前にはなかったテレビ塔が建設され近代的なオフィスビルも建ち並んで一大金融街に変貌していたのは驚きであった。中国の著しい発展振りをここでも感じさせられた。<br /> ホテルからは高速道路のインターチェンジが眼下に見下ろせた。<br /><br /><br /><br />平成14年3月20日(水)<br /> 朝7時にホテルを出発して一路帰国である。上海空港は乗客がごった返していて手続きに相当時間を取られてしまう。昨夜中国の地図を買ってまだ現地通貨が17元程残っているのでビールでも飲もうと思っていたがその時間もなく、慌ただしく機上の人となった。レントゲン検査のところで上着を脱がされたため、この上着を置き忘れてしまい、あわてて取りに返ったら幸いなことに置き去りにされたまま残っていた。<br /><br /> この空港のレントゲンの場所では韓国の初老の小母さんがやはり、貴重品を入れたポシェットを置き忘れたらしくうろうろ何回も行き来して探し求めていた姿が印象に残っている。<br /><br /><br /> 機内でひと寝入りするつもりであったがその暇もなく、沖縄、九州、瀬戸内地方、関空、紀伊半島と日本地図をなぞるように、眼下に見下ろしながら富士山の見えるところまできてしまった。晴れていたので富士山やアルプスの山並みがとても美しかった。<br /><br /><br /> 今回の三峡下りの旅では都会から山間僻地に至るまで、経済大国への道を驀進中の中国社会の現状を随所につぶさに感じ取ることができた。<br /><br /><br />

経済大国への道を驀進中の中国・・・・三峡ダムの建設現場を見学

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2002/03/14 - 2002/03/20

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早島 潮

早島 潮さん


                             
平成14年3月14日(木)
 成田エクスプレスで空港へ向かった。集合時間までに50分程余裕があると思っていたが、ノートを買ったりしているうちに時間は過ぎてやがてツァー参加者一同の顔見せとなった。添乗員は若い女性で真鍋さんという。参加人員は32名で多いほうである。中に林(りん)さんという中国籍の人も入っていた。今回の男女二人連れの中には明らかに正規の夫婦ではないと思われる組が二組あった。


 定刻の13時50分に離陸して上海には16時に到着。時差1時間であるから正味飛行時間は3時間10分である。上海空港は小雨であった。


 国内線に乗り換え上海発17時55分、成都空港へは20時50分に到着した。やはり小雨が降っていた。シェラトンホテルへ投宿し持参したオールドパーを飲んで熟睡した。NHKのテレビを見ることができた。



平成14年3月15日(金)
 朝早い7時15分に成都市内のシェラトンホテルを出発して臥龍へ向かった。
臥龍まで約3時間のバスドライブであったが、中国の田舎の風景を存分に観察することができた。


 概ね道路の両側は山に囲まれており、山の木々は新芽を吹き始めているし桜と桃が美しく今を盛りと咲き誇っていた。山の合間に開けた平地の田畑には一面に菜の花が咲き乱れておりまさに春爛漫の風情である。


 山間を流れている川の底には砂利や岩塊ばかりが転がっていた。山間の山道は舗装されておらず左右に大きく揺れるがたがた道である。そして、至るところにスローガンを書いた横断幕をみかけたが、「開発」という文字がやたらに目についた。中国の簡体文字は判読が難しく、「開」の文字が「門構えを省略した鳥居印」のようなものであり「発」の文字が「友」+「’」と簡略化したものであると解読できるまでには相当な時間が必要であった。看板の珍しい文字を眺めながら原字を推理するのは楽しい頭の運動であった。


 途中小休止した場所の公衆便所は典型的な中国風のもので、建物の中の便所は申し訳程度に個室として囲ってはあるものの扉もなく垣根は低く人目を気にすると出たいものも引っ込んでしまうような造りで女性泣かせの代物であった。


 民家の門前では鉢にご飯とおかずを盛った遅い朝飯を立ち食いしている若い農婦を目撃した。以前聞いた話であるが「私はこのように朝ご飯を無事食べていますよ」ということを近隣に誇示する意味合いがあるという。農民が毎日の食に事欠く程に困窮していた頃出来た昔ながらの習俗が残っていたし、現在の中国の都会地では見られなくなった紺色の人民服を纏った老人達や農夫達を見ることもできた。


 しかしながらこのような風俗と対比するように20年前には電気が通じていなかった僻地にもパラボラアンテナがそこここに立てられていて、情報化と現代化の荒波がこの山奥にも押し寄せていることを感じさせられた。


 やがて目的地臥龍に到着した。成都の北西方向にある山奥でパンダの自然保護区があるところである。檻の中に飼っているパンダもあれば、森林に放逐されて生活している野生のものもある。野生のものは100頭前後棲息しており、国の保護施設で養育保護されているのは30数頭らしい。木の上で眠っているかと思えば、原っぱで寝ているものもいる。パンダは「ケンチク」という竹を主食にしている。一日に50kgほど食べるらしい。寝るか食べるかの生活でコアラに似た習性であるといえる。パンダの歩き方は一種独特で関節を曲げずに歩く姿に特徴がある。 ここではパンダと一緒に記念撮影をした。

 

 この臥龍から岷江沿いに上流へ遡っていくと松藩、黄龍、九寨溝等の秘境がある。何れの日か再訪してみたいところである。


 昼食はこのパンダ保護所にある食堂で田舎の四川料理を食べたが小皿は無く全てご飯を持った茶碗に料理を乗せて食べるのであり、それが中国の流儀だという。

 四川料理は辛さに特徴があり、唐辛子と山椒で味付けする。「脚のあるものは机以外、飛んでいるものは飛行機以外は何でも食べる」のが中国料理である。また「麻婆豆腐」は成都に住む「あばたの陳婆さんが創案した料理」のことであるという。


 臥龍の見学を終えての帰りに都江堰に立ち寄った。今では「都江堰市」になっているが、ここの歴史は2200年前に秦王朝の官吏であった李親子が岷江の治水のために堰を設けたことに始まる。流れの激しい岷江に中州を設けて水流を調節したものであるが科学的な設計に基づいて行われた大工事であった。安瀾橋(あんらん)という吊り橋、龍を封じ込めた伏龍観(観は道教の寺院の意味である)、流れの速い宝瓶口、李氏親子の二王廟を見学した。堰周辺が公園になっている。


 ところで四川省の名の謂われは四つの川からきているが何れも長江の支流の四つの川のことである。1)岷江 2)大渡河江 3)嘉陵江 4)川江 


 ここで三国史の復習をしておくと成都(四川省)は蜀の都で劉備の本拠地、洛陽
(河南省)が魏の都で曹操の本拠地、武漢三鎮の一つ武昌(湖北省)を都としたのが呉の孫権である。


 成都市内に戻り夕闇迫る頃、杜甫草堂を見学した。759年から約4年間、安禄山の乱を逃れた杜甫が厳武の庇護のもとに仮小屋を造り,質素な生活を送った場所である。彼の全作品1,400 首のうち代表作を含む247 首がここで作られた。唐末に彼を記念するため草庵が建てられたが、明代に再建され今日に至っている。草堂の敷地内には竹が沢山生い茂っており、静寂な佇まいである。


 この頃からバスの調子がおかしくなりスピードを上げると横揺れがひどくなりだした。この時点では中国の道路というのは舗装が良くなくて道路表面に余程凹凸があるのだな位の認識で未だ車の調子が悪いとは思っていなかった。

 車の速度が遅くなったせいで夕方の「川劇」の鑑賞は幕開き直後にあわてて飛び込むという騒ぎになってしまった。

 
 「川劇」は琴の演奏、踊り、操り人形、変面、低所潜り抜け等と幾つかの出し物があったが、圧巻は「変面」である。役者が面を付けて出演するのであるが、見せ場見せ場で顔を振り、見栄を切ると今までつけていた赤色の面が青色の面に変わったり、黄色の面が黒色に変わっているのである。まるで手品をみているようでどんな仕掛けになっているのかよく判らない。優れた演技者は一秒間に二十回も面を変えることができるというからその技術は素晴らしい。変面の芸は一子相伝の秘技で最近では後継者難になっているという。



平成14年3月16日(土)
 朝、成都市内の武侯祠へ立ち寄ってから大足の宝頂山の石刻と北山の石刻を見学する予定である。その後宿泊地の重慶までバスで走行する予定になっている。

 ところが運転手が重慶出身というふれこみで地理に暗いものだから目的地の武侯祠へなかなかたどりつけない。同じ所をぐるぐる廻っているようである。ここで一時間近くも時間のロスができてしまった。


 武侯祠は諸葛孔明の遺徳を偲んで彼を祀るために建てられた祠であるが、君臣は合祀されるべきだとの思想のもとに劉備玄徳も祀られている。そして両翼の回廊には三国史に登場する殆ど全部の英雄達の像が同時に飾られている。また、劉備の小山のような墓も独立して構内の一角にあるがこの墓は発掘調査されたことがなく何が埋葬されているか謎になっているという。


 ここには諸葛孔明が劉備玄徳の死後その後継者劉禅に奉った出師の表の前編、後編が石碑に刻まれて保存されている。このうち前出師の表は南宋の武将岳飛の筆であると伝えられている。因みに出師の表は蜀の将来や政治の根幹を説いたもので名文で知られている。


 武侯祠の見学を終えて大足へ向けて出発したのだが、バスの横揺れが激しくなり、後続の車にどんどん追い越されるようになった。スピードメーターを見ると70kmを超えると横揺れが激しくなるようだ。横揺れするのは道路のせいではなくて車両の整備不良が原因だということに乗客達は漸く気がついた。運転手と現地ガイドが携帯電話でしきりに話しているが、どうやらバスの不調を会社に訴え、代車の手配をしているらしい。中国語で喋っているので何を話しているのかは判らなかったが、車の車軸でも折れてしまうのではないかとの不安が頭をよぎるようになりだした。よたよたした足どりで行けるところまで走る模様であるが、時間はどんどん過ぎていくし後続車にどんどん追い抜かれていく。予定では昼食をレストランで摂る筈であったが、時計は既に午後3時になろうとしている。


 やっと昼食予定地の内江にまでたどり着き、待機していた代車に乗り換えた。レストランでゆっくり食事をしている時間がないので予め連絡して用意して貰った弁当を受け取り車内で食べることとなった。車はそのまま走行を続け、遅れた時間を取り戻そうという苦肉の策である。

 弁当たるやゆで卵が三個とハムらしき肉片が数枚と饅頭が入っていた。


 今回の運転手はプロ意識が全然なく、一番大切な車の整備点検を行っていないし、地理の勉強も全然していない。最低の運転手であった。事故が起こらなかったことをラッキーとするのみである。


 時間が遅れたため最後の観光地北山にはガイドが連絡をとり、閉門時間を遅らせて係員に待っていて貰うという始末であった。


 大足の宝頂山には一枚岩に刻まれた石刻が13個所あり、保存状態は極めて良好で像の顔面が破壊されたものは殆どない。

 南宋の名僧趙智鳳が70年を費やして完成させたと謂われ、500 mに及ぶ岩壁には31の石窟がある。釈迦涅槃像や六道輪廻像、千手観音、華厳三聖像、孔雀明王経変等仏教説話が系統的に造像されているところに特徴がある。


 文化大革命の時にも都会から離れた辺鄙な山中にあったことが幸いして文化遺産が破壊されることなく保存されたようである。


 続いて北山の石刻へ到着した頃は夕闇が迫りかけていた。係員は所在なげに待機していてくれた。感謝する気持ちを込めて「謝、謝」と何回も唱えて入場した。


 ここの仏像は唐代末期から250 年間彫り続けられたのであるが、宝頂山のそれとは異なり、彫刻全体を流れるテーマはなくめいめいがそれぞれの思いを込めて刻まれた仏像群である。従って同じ種類の仏像が沢山あるが、唐、五代、宋代と時代の特徴を表現していて面白い。保存状態は必ずしもよくなく、顔面が破壊された仏像も相当数あったのが痛々しい。


 大足の村には水を張った水田が沢山あるので田植えがもう始まるのかなと思っていたら蓮根の特産地であるということであった。納得。


 バスの不調で約3時間のロスがあったので、重慶のレストランで名物の火鍋料理を味わってから、ホテルにたどり着いたら12時近かった。火鍋料理とは中国風シャブシャブと思えばいい。



平成14年3月17日(日)
 朝6時にホテルを出発して朝天門埠頭へと急いだ。重慶は嘉陵江と長江に囲まれた丘陵地帯に開けた街である。そして朝天門埠頭は嘉陵江と長江が合流する地帯に突き出た地点にある。


 昨夜ホテル到着が遅かったので初めて見る重慶の市街は起伏の多い街で長江は遥か下方を流れている。大きな幅広の電車風のエスカレーターに乗って岸辺まで降りてから高速船に乗り込んだ。


 埠頭には多くの人々が屯しており、担ってきた野菜や果物を並べて商っている者もいる。我々の目を最も驚かせたのは手に手に天秤棒と縄を携えた「棒棒群」と呼ばれる労働者の群れである。船に乗り降りする乗客の手荷物を運搬して料金を貰うのであるが,その数が非常に多いのである。我々のグループも彼等にスーツケースをバスから船まで運んで貰ったが、天秤棒の両端にスーツケースを二個宛吊るして計四個の荷物を肩に担って運搬するのである。昔日本でも大きな鉄道駅にはいた赤帽さんのようなものだと思えば判り易い。約70〜80kgの荷物を急坂を登り降りするのは大変な労作量であろうが、もっとも手っとり早い就業チャンスなのである。荷物一個につき2元から3元(日本円換算35円〜50円程度)であるという。


 因みにこの地帯では新卒大学出の初任給が月額1,200 元( 日本円で2万円程度)で一カ月の生活費は食費だけで、400 元( 日本円6,800 円) 程度だという。


 重慶の朝天門埠頭から白帝城のある奉節の町まで約8時間の船の旅である。両岸に険しくそそり立つ岩山の合間を流れる長江は世界第3位の長さを誇って土色をした水を満々と湛え悠々と流れている。


 白帝城までには鬼城、石宝寨、帳飛廟等の旧跡があるが船の上からでは見る術もない。航行するにつれ多少様子を変える山々の岩肌や岩壁を眺めているだけの単調な退屈する8時間である。高速船なので時速50〜60kmも出ているのであろうか、甲板にでることもできず船室に閉じ込められたまま船窓から移り行く景色を眺めているか、居眠りをしているしかない。昨日睡眠時間が短かったので不足分を取り戻すにはおあつらえ向きのクルージングである。


 長い8時間が終わってやっと奉節の町へ到着した。ここでも「棒棒群」に荷物をバスまで運んで貰い、急峻な階段を登って奉節の町中を通り抜け、白帝城入り口にやっと到着した。そこにはひょうひょうとした風情の痩身の白い杜甫像が訪問客に俯瞰する眺望の素晴らしさを指し示すかのように佇立している。


 眺め下ろすと両側の険しい山間を流れている長江を遠望することができる。天下の絶景である。


 前方へ伸びている岩道を眺望を楽しみながら暫く歩くと吊り橋がある。この橋を渡って赤甲楼という楼へ登り景色を眺望した。この三層の楼からは前方に三峡の始まりである瞿塘峡の入り口を見下ろすことができる。瞿塘峡の両側にそそり立つ赤甲山と白塩山の競り合う間を長江が流れていく様子がよく判る。眺めは実に素晴らしい。 

 瞿塘峡に続いて巫峡、西陵峡が順番にその先に控えているのである。この三つが世にいう三峡である。


 この楼から一寸前方へ進んだ地点からは、昔、岩肌に穴をあけて丸太を差し込みその上に板を並べて作った古桟道の跡を望むこともできる。今は桟道は外されて穴しか残されていないが、絶壁に懸けられた桟道を往来した旅人や住民達の苦労の程が偲ばれた。


 三峡ダムの建設によりこの天下の名勝も過半が水没してしまう運命にあるのだ。岩肌に143.2 m、175 mと白色のペンキで記されているが、これはそれぞれ2,006 年、2,009 年時点の上昇する水面が表示してあるのである。何れも海抜であるが、175 mの地点は今立っている赤甲楼よりも遥か上方であるから、この望楼も水没してしまうのであろう。


 来た道を暫く引き返して今度はリフト乗り場までやってきた。スキー場のリフト様のものに乗り白帝廟に到着した。ここには劉備が祀られていて「劉備託孤」のエピソードが塑像で紹介されている。


 諸葛孔明が星を占って作戦を立てたという望星亭、杜甫が住んだ西閣などもある。また李白の代表的な詩である「朝に白帝を辞す」の詩碑が立っていたが周恩来が筆をとっている。詩碑に残すだけあって達筆で流麗な墨痕は見事である。


 白帝城という名の謂われは前漢末期にこの地方の富裕者公孫述が独立王国を築き、井戸から白い龍が昇天するのを見て、自ら白帝と名乗ったことに因んで命名された。その後、公孫述の像は劉備の像に取って代わられたのである。


 白帝城の見学を終えて近く水没する奉節の旧市街へ入り繁華街を通り抜けて師範学校の看板のでている学校へやってきた。校舎の裏に隠れるようにして永安宮という名の建物がある。ここは劉備が息を引き取った場所であり、元は学校構内の敷地一杯に王宮が営まれていたのである。ここにも劉備託孤の像が祀られていた。病を得て最後に死後を諸葛孔明に託す場面の木彫りの群像である。


 本日は奉節のホテルで宿泊である。エレベーターもない8階建ての田舎のホテルであるが詩城という名がついていた。



平成14年3月18日(月)
 出発まで間があったので20分程朝の町中を歩いてみた。そこここに饅頭やお粥等を商う出店が並び道行く人々が立ち寄って朝の腹ごしらえをしている様子は活気があって面白かった。


 波止場から小舟に乗って小三峡のクルーズを行った。ここは支流であるため本流とは違って水の色が紺碧に光っており、川底には砂利と岩塊が堆積していて清々しい感じである。


 小三峡は川幅も本流よりは狭くて両側の岩肌や岸壁にはまた今までとは異なる趣があったが、日本でも見られる各所の渓谷とさしたる変わりはなく、期待外れであった感を免れない。


 この白帝城のある奉節の町の新市街のレストランで昼食を摂った。新市街は三峡ダム建設に伴い地域住民を移住させるために頂上近くに最近作られた計画都市である。ここへくるために低地の旧市街を通り抜けた。町ごと水没する運命にありながら旧市街には活気があり、商店街は夥しい群衆で賑わっていた。既に引っ越しを済ませた部落もっあって廃墟になってしまった建物が建ち並んでいるが暗さが感じられなかったのは不思議である。


 また現在、引っ越し中の部落もありそのため昼食のレストランへ向かうための迎えの車が渋滞に巻き込まれて小一時間も待たされるというハプニングもあった。交通警察官が出てきて号令をかけるまではめいめいが一車両しか通行できない細い道路に譲り合うことをせずに、双方から自己本位の割り込みを行うものだから混雑に輪をかけて渋滞はひどくなるのである。


 三峡ダムを建設するために移住を余儀なくされる流域住民の数は200万人であるというからこのプロジェクトが国の威信と国力を注ぎ込んで実施される一大プロジェクトであることが判る。


 昼食後再び高速船に乗り巫峡、西陵峡の絶壁を鑑賞しながら三峡クルーズ最後の町宣昌へやってきた。かくして両岸の景色にもさしたる感動を覚えることなく、三峡下りのクルーズは終了したが、ここまでくると周辺の様子はがらりと変わる。今まで高い山に囲まれた山間だったのに高い山が姿を消し丘陵地帯になる。平地もかなり広く広がっている。中国の地形は西から東に行くにつれて山から丘陵に変わりやがて広大な平野に変化していく様子がよく判る。


 ここでは三峡ダムの建設現場が眼下に見下ろせる三斗坪鎮の高台にあがり最初に模型室へ案内された。ここには三峡ダムの完成予定模型が置いてあり、全体像を理解するのを容易にしてくれる。模型を頭に入れておいてから実際の工事現場を見下ろすと今更のように国家的大プロジェクトであることがよく判る。

 このダム建設の発想は、1911年に孫文が唱えたものであり、1992年の人民大会議で建設が決定され、1994年12月に着工したものである。


 水門の高さは185 mで落差は103 mになる予定である。最大流量は毎秒11万m3で年間840 億キロワット時の発電量であり、完成すれば、世界一の水力発電所になるという。総工費は2500億元の文字通り大プロジェクトである。


 最近,日本の生産拠点が中国に移転され、日本の製造業が空洞化しつつある事実や値段の安い農産物、衣料品が製品として日本国内市場に奔流の如く流入している事実と重ね合わせた時に中国の持つ底力というものを如実に実感させられる工事現場であった。


 夜は照明の灯った公園をガイドの案内で散策した。途中太極拳をアレンジした舞踊の練習をしている女性グループと交流し一緒に舞踊を真似てみるというハプニングもあった。尿意を催す者が相当数あり、公衆便所に飛び込んだのはいいが照明がついていなくて、真っ暗な中で手さぐりで放尿するというハプニングもあった。



平成14年3月19日(火)
 朝7時20分に宣昌のホテルを出発して武漢の市街まで4時間半ほどの長丁場のバスドライブである。武漢では黄鶴楼を見学した。武漢は三国史の時代から争奪の的となった地味豊かで物なりも豊富な交通の要衝であり、現在の中国の重工業地帯でもある。


 黄鶴楼の楼上から武漢市内を展望した後、友誼商店でのショッピングとなった。これをエスケープして1927年の武漢蜂起の現場となった建物を見学に行った。現在は軍関係の施設として使用されているようだが、要人の来訪があるらしく若い男女の兵士達が多数門前に整列していた。その前には孫文の立像が立っていた。


 この後武漢空港から上海空港へと移動した。上海では夜のバンドの光景を見学してホテルに入った。黄浦港の対岸には数年前にはなかったテレビ塔が建設され近代的なオフィスビルも建ち並んで一大金融街に変貌していたのは驚きであった。中国の著しい発展振りをここでも感じさせられた。
 ホテルからは高速道路のインターチェンジが眼下に見下ろせた。



平成14年3月20日(水)
 朝7時にホテルを出発して一路帰国である。上海空港は乗客がごった返していて手続きに相当時間を取られてしまう。昨夜中国の地図を買ってまだ現地通貨が17元程残っているのでビールでも飲もうと思っていたがその時間もなく、慌ただしく機上の人となった。レントゲン検査のところで上着を脱がされたため、この上着を置き忘れてしまい、あわてて取りに返ったら幸いなことに置き去りにされたまま残っていた。

 この空港のレントゲンの場所では韓国の初老の小母さんがやはり、貴重品を入れたポシェットを置き忘れたらしくうろうろ何回も行き来して探し求めていた姿が印象に残っている。


 機内でひと寝入りするつもりであったがその暇もなく、沖縄、九州、瀬戸内地方、関空、紀伊半島と日本地図をなぞるように、眼下に見下ろしながら富士山の見えるところまできてしまった。晴れていたので富士山やアルプスの山並みがとても美しかった。


 今回の三峡下りの旅では都会から山間僻地に至るまで、経済大国への道を驀進中の中国社会の現状を随所につぶさに感じ取ることができた。


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