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【南アフリカの旅】道路には「ペンギン注意」手が届く距離の大自然<br />http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100923/mds1009231201004-n1.htm<br /><br /><br /><br />「移民襲撃」「スト」… 南ア、W杯の陶酔去り混乱の現実再び(2010.9.1 01:15)<br />http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100901/mds1009010117000-n1.htm<br /><br /><br /><br />平成13年12月8日(土)<br /> 成田空港で最初の顔合わせである。集まった顔ぶれは合計7人でその内訳は初老の夫婦一組と初老の単身女性2人、若い単身女性1人、初老の単身男性1人である。今回はこの単身の男性と同室になるのだろうと予測し、それとなく人と為りを観察するが旅慣れている人のようで預ける荷物もなく機内持ち込み分だけで身軽な人である。多分うまくやっていけるであろうとほっとする。<br /><br /><br /> 免税店では1l入りのオールドパーを一本仕入れた。同室の相手が左党であれば、足りないかもしれないが、彼は彼なりに持ち込むことだろう。一人で飲むには多すぎる程であるが、足りなくなって貰い酒するのもみっともない。つまみには鱈のすり身を鯣状に加工したものとおかきが託送荷物の中に入っているから十分であろう。<br /><br /><br /> 飛行機は16時20分に始動して4時間半後には雨の降っている香港空港へ到着した。香港空港は二回目の利用である。前回きた時はもうかれこれ20年も昔であろうか。啓徳空港で山と高層ビルの合間をかいくぐって着陸するパイロット泣かせの狭い空港であったと記憶するが、今回は海に拡張したとても広い大きな空港であることが一目見ただけでも判る。英国から中国に返還されてから二年を過ぎようとしているから、それなりに発展しているのであろう。<br /><br /> 香港空港を現地時間24時10分に始動した飛行機は一路ヨハネスブルグへ向かって飛び立った。時差は香港とヨハネスブルグ間で七時間である。実飛行時間は12時間25分であった。暫し持参した雑誌を読んでから専ら寝ることに努めた。<br /><br /><br />平成13年12月9日(日)<br /> 朝7時にヨハネスブルグ空港に到着した。佐原さんという大柄な若い女性ガイドが出迎えてくれた。台湾出身の女性で日本語がうまい。「どうぞよろしくお願い致します」という一言がフレーズの語尾に必ずつくのが耳に残った。肝っ玉母さんという感じのする信頼感を寄せ得る女性である。<br /><br /><br /> このあたりの標高は1400メートル程あるらしく、三〇度Cを越える温度で暑いことは暑いのであるが空気が乾燥していて体感温度はそれほど高く感じない。<br /><br /><br /> 最初バスでプレトリアへ向かった。アフリカだから砂漠が多いのだろうという予想に反して車窓の外に広がる風景は緑が多く建物もまばらで意外な感じである。先入観が災いしたともいえる。要は自分の目でしっかりと観察することである。<br /><br /> プレトリアは行政府のある首都で標高1370メートルの盆地である。ヨハネスブルグの北方60kmに位置し計画的に作られた街は碁盤の目のように整然と区画され美しい町並みが続いている。一人当たりの公園の面積はアフリカ一を誇り、折りから咲き残ったジャカランタの花もちらほらと紫色の装いで街並に風情を添えている。<br /><br /><br /> プレトリアは別名「ジャカランタシティー」と呼ばれジャカランタの並木道がいたるところにみられる。<br /><br /><br /> 因みに南アフリカは三権を司る機関が三つの首都に分散されている珍しい国である。 立法府はケープタウン市にあり司法府はブロムフォント市にある。この国の建国に伴う複雑な事情のあることが窺える。<br /><br /><br /> 開拓者記念館を最初に訪問した。プレトリアの郊外の丘の上に建つ高さ41mの立方体の建物は、19世紀の中頃に南のケープタウン方面から大移動してきたボーア人(オランダ系の白人で農民という意味)開拓者の歴史と偉業を讃えるため、グレートトレック(大移動)100周年を記念して1937年から12年かけて建てられたボーア人の聖域である。記念館の四隅には四人の大きな大理石製の肖像が飾られている。その名はHendrik Potgieter,Andries Pietorius,Piet,Retief である。<br /><br /><br />ボーア人は現在では白人間の混血が進んでアフリカーナと呼称されている。彼らは何れもヨーロッパを本貫の地とする人々であるが、アフリカーナというオランダ語を母体とする言語を使用している。<br /><br /><br /> 開拓者記念館の入り口には幌馬車が一台置いてあり、建物を取り巻く外壁には幌馬車が彫刻されている。この幌馬車は荷物を運搬することの他に別の大きな機能を担っていた。移動中に襲撃してくる土着人と戦う時に並べて弓矢からの防護壁として使用されたのである。従って幌は布製ではなくて鉄板で作られている。<br />     <br /><br /> 記念館の中には開拓時代のボーア人の生活の様子や移動中に現地人から襲われて防戦する様子等が絵画として年代順に展示されていてズール族との戦闘場面等はなかなかの迫力である。当時の生活用具等も展示されていて興味が尽きない。<br /><br /> 次にポール・クルーガーの居宅を見学した。居宅の道路を挟んだ向かい側にはクルーガー教会が建っており、教会の名前は彼に因んでつけられたという。トランスバール共和国の第三代大統領で最後の大統領であった彼の居宅は意外に質素で慎ましやかなものであった。門前に横たわる二頭のライオン像は彼の象徴だということだが印象に残る像であった。<br /><br /> この後、近くのジャカランタ並木道で殆ど散ってしまったが,ただ一本だけ残って満開の花を咲き誇っているジャカランタの木をカメラに収めてからヨハネスブルグ市内中心街へ向かった。チャーチ・スケアを徐行して中心街の佇まいを巡回しながら車窓観察し、ユニオンビルをカメラに収める時だけ下車して後は通り抜け、ヨハネスブルグ中心街の観光を終えた。この間バスから降りることを許されなかった。これは最近ヨハネスブルグ中心街の治安が悪化しているため観光客が歩いていると襲撃されるケースが多いからだという。  <br /><br /> 世界に悪名高かったアパルトヘイト政策が廃止され、黒人政権になってからとみにヨハネスブルグの治安が悪化したのだという。僻地や田舎に住んでいた黒人達が今まで立ち入ることを禁止されていた憧れの都市の中心部へいけば成功のチャンスがあるだろうと考えどっと流入したせいらしい。ところが現実は厳しく、新政権のもとでの経済政策は行き詰まりで失業率は高まる一方なので失業者が生活に困窮してひったくり等の犯罪行為に及ぶせいである。<br /><br /><br />失業率はどれぐらいかとの質問にガイドは人口調査自体正確な数字のない国だからまだ失業率の正確な統計はとられていないとの回答であったが、50%を上回っているのではないかと言っていた。<br /><br /><br /> 黄色人種に属するガイド嬢は「現在南アフリカでは黒人によって白色人種や黄色人種に対する逆差別が行われている」と嘆いていた。彼女の挙げた一例は銀行からの借入金に対する利率にもみられるという。即ち中国人に対する利率23%、白人に対して15%、黒人に対して2 %であり、銀行に対して不公平ではないかと抗議すると「有色人種はお金持ちだからいいではないか」という答えがかえってきたと嘆いていた。激動する社会の変革期の悩みを今南アフリカの人々は体験しているのである。<br /><br /><br /> 次にレセディ文化村を見学した。ヨハネスブルグから1時間弱のところにあるこのテーマパークにはズール族、コサ族、ペディ族、ソト族の四部族に関する生活用具や住居、民俗が集められている。<br />                        <br /> 文化村の入場門の前には四つの民族の人々がそれぞれに動物の毛皮等の民族衣装を纏った半裸体姿で7〜8人待機しており、観光客が到着すると文化村の門前で歌を歌い楽器を奏でて歓迎してくれる。   <br /><br /> この文化村には共同の演芸場と民芸品売り場等が備えられていて、民族舞踊や歌を披露してくれる。民族料理のレストランも設置されている。<br />   <br /><br /><br /> 彼らの生活する住居もこの近くの林の中に村落の形で保存されていて実際にここで一族が生活しているのである。村落は民族毎に別々の場所に設置されていて、それぞれ5〜6戸の住居と家畜小屋の単位からなっており、住居は草葺屋根の竪穴式住居に似た形態で室内には照明もなく床は土間である。中央に火を焚く小さな石組が並んでいるだけで丁度品らしきものもみあたらない。祈祷師の住居が特別に設けられている村もあった。<br /><br /><br />我々の見学した村の一つには酋長の二人の妻が同一村落内に生活しており住まいこそ分かれてはいるが、同じ村落内でそれぞれに顔を突き合わせて家事を分担して仲良く生活しているのを目撃した。一人は戸外に持ち出した石臼で粉を引き、その傍らで他の一人が子供の守をしていた。<br /><br /><br /> ズール部族では酋長は妻帯四人が公認されていて、牛13頭が嫁一人に相当するというから、人権意識やプライバシィー意識に馴染んだ我々には異様な生活に見えるのだが、生まれたときから生活とはそんなものだと信じこんでいる彼女等にはこれを異様と考える我々の方が不思議に見えるようである。文化の違いというものであろうか。<br /><br /> そして彼らには容易にその属する部族の生活習慣や風俗を変えようとしないで伝統文化を守っていこうとする頑さがある。これを文明に目を背ける蒙昧な停滞とみるか自然と共生する心穏やかな安定とみるか、一種のカルチヤーショックを受けた体験であった。<br /><br /><br /> 南アフリカ成立の歴史を簡単に繙いてみれば以下のようになる。<br /><br /><br />1.大航海時代の1488年にアフリカ南端の「嵐の岬( 後改名されて喜望峰) 」にポルトガルの航海者バートロミュ・ディアスが到着して東アフリカ事情を調査。<br /><br /><br />2.ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマが1497年に喜望峰近くのセントヘレナ湾に上陸。<br />3.ポルトガル人達が喜望峰を放棄した後、1,652 年オランダ人ヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の東方貿易の寄港補給基地としてケープ植民基地の経営を開始し、野菜類の栽培を始めるためオランダ農民を入植させた。彼らがボーア人の先駆けである。当時この地方にはブッシュマン、ホッテントット等の土着民が生活していた。彼らはその後砂漠地帯へ追いやられたり、欧州人達が持ち込んだ病原菌に耐えられなくて死滅したりした。<br /><br /><br />4.ナポレオン戦争の時、1795年にオランダ領のケープ植民地はイギリス艦隊の襲撃を受け奪取された。その後1814年のウィーン会議の結果、イギリスの直轄領に編入されイギリス人の入植が引き続き行われた。<br /><br /><br />5.先着して生活基盤を築いていたボーア人達はイギリスの圧迫を嫌い自由な新天地を求めて1837年に北の内陸部へ大移動を開始した。家財道具を牛車に乗せ家族を連れて、アフリカ原住民の襲撃を防ぎつつ現在の自由州やプロビンス州まで1,600 kmにも及ぶ苦難の旅であった。とりわけズール族の襲撃は苛烈を極めた。<br /><br /><br />6.イギリス人の圧迫に抵抗してヴァール川の北方に定住したボーア人達は1,852 年イギリス政府に独立を承認させて旧南アフリカ共和国( 現在の国名と区別するためにトランスバール共和国と一般に呼称されている) を建設した。<br /><br /><br />7.1871年トランスバールのヨハネスブルグで金鉱が発見されるに及びイギリスはトランスバール共和国の併合を策したが、1,881 年マシュバの戦闘で敗北した。このためイギリスは一時併合の企図を放棄しプレトリア協定によって「女王陛下の宗主権のもとでの完全な自治」を認め、ついで1,884 年ロンドン協定により宗主権を捨て、外交上の制限を加えたほかは、共和国の凡その主権を認めた。<br /><br /><br />8.1,886 年頃トランスバール共和国で世界有数の金鉱が発見されるに及んでヨハネスブルグにはイギリス系等の在留外国人が激増し、時の第三代大統領ポール・クルーガーの共和国政府の打倒を狙う動きが活発となり、ジェームスン侵入事件のような露骨な事件まで起こった。<br /><br /><br />9.共和国政府はボーア人の民兵遊撃隊の迅速な動員によりこの難を逃れたが、イギリス高等弁務官ミルナーの強力な圧力により、1,899 年開戦を余儀なくされた。ボーア戦争である。<br /><br /><br />10. 共和国政府は執拗に抵抗したものの1,902 年遂に敗北しイギリス植民地に編入され、共和国政府は消失したが1,906 年に州として自治を認められ、1,910 年に南アフリカ連邦の一州となった。この時の南アフリカ連邦の構成はケープ植民地、ナタール、トランスバール、オレンジの四州であった。<br /><br /><br />11. この時の南アフリカ連邦の首相はポーター、副首相はスマッフで何れもボーア人であった。両者は連邦内閣を組織し第一次世界大戦では積極的にイギリスに協力してドイツ領の西南アフリカと東アフリカを征服した。戦後両者はパリの平和会議に出席し、スマッフは更に国際連盟創立者の一人となった。<br /><br /><br />12. 南アフリカ連邦の人口構成はボーア人やイギリス系の白人が僅か20%であるにもかかわらず、白人が排他的に政治権力を掌握し、パントゥ人( 黒人) 、インド人、カラード( 混血人) 等の非白人に対する人種差別政策を推進した。<br /><br /><br />13. 第二次世界大戦後にはナショナリスト党が政権を取り人種差別政策( アパルトヘイト) をおし進め1,961 年イギリス連邦を離脱し共和国となった。<br /><br /><br />14.1,989年に就任した国民党のデ・クラーク大統領はアパルトヘイト廃止の方向で改革路線を推進し、これによって1,990 年黒人解放組織、アフリカ民族会議のネルソン・マンデラが27年の禁固生活から解放され、1,991 年にはアパルトヘイト政策は全廃された。<br /><br /><br />15.1,994年初めての全国民総選挙の結果黒人指導者であるマンデラが新大統領に選出された。<br /><br /><br />16.1,999年にマンデラ大統領は引退し, 後継者にターボ・ムベキ大統領が就任した。<br />簡単に近代史を概観しただけでもこの国は欧州の白色人種達が利権を求めて争うエゴイズムに翻弄され、支配され続けて屈従の年月を過ごしてきた歴史であった。今白色人種の支配から解放されて新しい国作りに船出したばかりであり、新生の息吹のようなものを、中心街の猥雑な雑踏の中に感じ取ったのは一人筆者だけであっただろうか。<br /><br /><br /> ヨハネスブルグのホテルの近くのフリーマーケットを閉店ま近に訪問し、活気に満ちた庶民の台所を見学した。青空市場ではなく鉄筋コンクリート4 階建ての屋上駐車場も設置された建物が市場として提供されていて、生活用品や食品工芸品等が並べられていた。売り主は概してアフリカーナが多いように見かけたが、黒人の売り主もいた。一定の権利金さえ払えば誰でも店がだせるということであった。<br /><br /><br /> これで長かった一日は終わりホテルへチェックインしたが、予想通り同室の人は武田さんという絵が上手で登山を趣味とする横浜市本牧から参加した人であった。<br /><br />平成13年12月10日(月) ジンバブエ訪問(別掲)<br />平成13年12月11日(火) ボツワナ訪問(別掲)<br /><br />平成13年12月12日(水)<br /> 朝9時半にホテルを出てクラフトビレッジへ立ち寄り、ブッシュマン等の住居を見学したが生憎、俄雨に遭遇したので写真もそこそこに土産物屋へ駆け込んで雨宿りをした。<br /><br /><br /> この日はヘリコプターに乗って滝を空から見学する予定であったが、生憎大統領が視察に来訪するとのことで警備上の必要からヘリコプターの飛行が禁止され、取りやめとなってしまった。その代わりにアドバルーンに乗って上空から滝の見学をすることになったが、雨のためこれも中止になってしまった。今回の旅行で雨に邪魔されたのはここだけであった。<br /><br /><br /> このあとヴィクトリアフォールズ空港からヨハネスブルグ空港を経由してケープタウン空港まで機上の人となった。過半の時間が移動のために費やされた一日であった。<br /><br /> ケープタウンに到着したのは18時であったが、夏のためまだ日は高かった。出迎えたガイドはベンさんという日本生まれの日系人で植物の名前に詳しい人であった。<br /><br /> 折からテーブルマウンテンには雲がかかり、あたかもテーブルクロスをかけた趣があった。<br /><br /><br /> バスで一回りケープタウン市内を見学してからホテルに入った。印象に残っているのはケープ・マレー・スケアと呼ばれる地域である。ここはインドネシアからの移民が住んでいる地域でイスラム教信徒が多く、特色があるのはパステルカラーで町並みが華やかに彩られている光景であった。<br /><br /><br />平成13年12月13日(木)<br /> 朝7時50分にホテルを出発してテーブル・マウンテンへ登った。折からの快晴で空は抜けるように青くテーブルマウンテンの頂上台地を散策しながら眺める四囲の風景は絶景であった。特にライオンズヘッドやケープ岬先端まで伸びる山並みは印象に残る光景である。ケープタウン市街地の展望も素敵な光景である。<br /><br /><br /> この後、喜望峰までドライブしたが途中、ハウト湾より舟でシールアイライドの海豹を見学に行ったり、ボルダーズ・ビーチでぺんぎんの棲息地を見学した。<br /><br /><br /> 道々並木として植えられているユーカリの木に赤色や白色の花が咲いておりとても風情があった。ユーカリの花を見るのは初めての経験であった。またフィッシュ・ホーク・ギャレイで食べた生牡蠣は新鮮でとても美味しかったし昼食のメーンディッシュのロブスターも美味かった。<br /><br /><br /> ケープボイントの灯台まで山道を登り四囲に開ける雄大な景色を堪能した。<br /><br /><br /> 再びケープタウンの市内へ戻り、ウォーターフロントのショッピング・モールでウインドウショッピングで時間を費やした。別に買い物があるわけでもないので与えられた時間を消化するのを持て余し、大道芸人が芸を披露するのを見て過ごした。<br /><br /><br /> 今回の旅行の最後の晩餐をウォーターフロント内の洒落たレストランで食べたがイタリアレストランで魚料理であったのは嬉しかった。たまたま井上夫人の誕生日ということで店からケーキとキャンドルサービスがあり井上夫人の感激は極まり、晩餐会の雰囲気も大いに盛り上がった。<br /><br /><br /> 日暮れまで時間があるのでウォーターフロント内を散策したら港の中にあざらしが集まっていて予期せぬ光景に一行は歓声を上げて喜んだ。<br /><br /><br /> 暗くなるのを待ってシグナルポイントまでバスで登攀しケープタウンの夜景を見学した。ネオンサインが見当たらず、蝶々の羽の形で広がっている夜景はどこか函館を思い出させる光景であった。リオデジャネイロ、サイフランシスコと並んで世界の三大夜景であるとガイドのベンさんが言っていたが、うべなるかなとの思いであった。<br /><br /> 夜景の見学を終えて市内へ戻ってくるとクリスマスのイルミネーションが華やかに点滅しておりこれも錦上花を添える光景であった。かくして南アフリカの旅は最後の時を迎えたのである。<br /><br /><br />平成13年12月14日(金)<br />今日は南アフリカ最後の日である。朝9時にホテルを出発してカーステンボッシュ植物園へ行った。この植物園は、テーブルマウンテンの南東斜面に広がる、敷地面積560haの世界でも有数の植物園である。南アフリカ産の植物の保護育成にあたるため、南アフリカに育つ9000種類の植物が植えられ、その総数は20万本と言われている。<br /><br /><br /> 斜面に広がっているためだらだらと登っていく通路は散策にはよい運動ではあるが汗をかきやすい。折から快晴で雲一つなく照りつける太陽の日差しはきつい。木陰へはいると空気が乾燥しているだけに汗がサット引き心地よい。花壇に沢山夏の可憐な花が咲いていた。エリカの花だけは覚えたがその他の花の名前はメモしておかなかったので、その時は判ったつもりになっていたが、今ではもう思い出せない。旅行中メモをとることには心掛けているつもりでもこうして日記を整理しているとメモ帳のどこにも書いていないのでがっかりする。その時は億劫でも心してメモしなければならないとつくづく思った。<br /><br /><br /> 温室へはいるのは蒸し暑いだろうからやめて、配給されたランチボックスを芝生へ持ち込んで食べた。握り飯二つと沢庵が入っており、大根と厚揚げの煮染めが美味しかった。腹は全然すいていないが、何せ10時半に配給されて荷物になるものだから早めに食べた。飛行機に乗ればまた機内サービスがある筈なので、全部食べてしまうと消化不良をおこしてしまいそうである。鶏肉のから揚げは、腹にもたれるので捨てた。味噌汁はインスタントの物であったが久しぶりに美味しかった。<br /><br /> 食後芝生の上で時間まで昼寝をした。傍らでは同室の武田さんが熱心にスケッチをしている。今回の旅行では武田さんには二つの刺激を与えられた。一つは暇さえあればスケッチブックを開いてスケッチすることと、朝必ず腹筋運動をすることの二つである。これは帰国したら見習いたいと思ったことである。<br /><br /><br /> このあと空港へ向かい、ケープタウン空港からヨハネスブルグへ向かった。途中窓から外の景色をつぶさに観察したら、荒蕪地の山脈を幾つか越えてヨハネスブルグ近くなったとき、田畑が丸く作られている光景を目撃した。アメリカのロスアンジェルス空港近くで見たのと同じ光景である。<br /><br /><br /> ヨハネスブルグ空港では2時間も出発が遅れてしまっい離陸は20時になってしまった。持参したコスモス文学の残りの部分を読むことに専念した。やがて香港向け南アフリカ航空の機上の人となった。<br /><br /><br /> 同じ飛行機には中国人の団体が乗っており賑やかなことこの上もない。<br /><br /><br /> 夕食後持参したコスモス文学の残りの部分を読み切って捨てることができた。岩崎弥太郎の土佐商会長崎支店での物語であり、結構面白かった。このあと熟睡できたと思う。<br /><br />平成13年12月15日(土)<br /> 機内で夜をあかし気がついたら朝食の時間になっていた。ヨハネスブルグで出発が遅れた影響がでて香港では予定の飛行機に間に合わなかった。15時20分発の予定のところが次の便となり、16時40分に離陸できた。機内はガラガラで窓際の席で窓の外の光景を眺めることができた。機内サービスで貰った三杯の白ワインが効いて暫しうたた寝をした。目が覚めたら眼下に伊豆半島の夜景が広がっていた。成田空港へ到着するまで暫し日本の夜景を楽しんだ。<br /><br /><br />

アパルトヘイトを廃して逆差別の始まった国のペンギン

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2001/12/08 - 2001/12/15

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早島 潮

早島 潮さん

【南アフリカの旅】道路には「ペンギン注意」手が届く距離の大自然
http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100923/mds1009231201004-n1.htm



「移民襲撃」「スト」… 南ア、W杯の陶酔去り混乱の現実再び(2010.9.1 01:15)
http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100901/mds1009010117000-n1.htm



平成13年12月8日(土)
 成田空港で最初の顔合わせである。集まった顔ぶれは合計7人でその内訳は初老の夫婦一組と初老の単身女性2人、若い単身女性1人、初老の単身男性1人である。今回はこの単身の男性と同室になるのだろうと予測し、それとなく人と為りを観察するが旅慣れている人のようで預ける荷物もなく機内持ち込み分だけで身軽な人である。多分うまくやっていけるであろうとほっとする。


 免税店では1l入りのオールドパーを一本仕入れた。同室の相手が左党であれば、足りないかもしれないが、彼は彼なりに持ち込むことだろう。一人で飲むには多すぎる程であるが、足りなくなって貰い酒するのもみっともない。つまみには鱈のすり身を鯣状に加工したものとおかきが託送荷物の中に入っているから十分であろう。


 飛行機は16時20分に始動して4時間半後には雨の降っている香港空港へ到着した。香港空港は二回目の利用である。前回きた時はもうかれこれ20年も昔であろうか。啓徳空港で山と高層ビルの合間をかいくぐって着陸するパイロット泣かせの狭い空港であったと記憶するが、今回は海に拡張したとても広い大きな空港であることが一目見ただけでも判る。英国から中国に返還されてから二年を過ぎようとしているから、それなりに発展しているのであろう。

 香港空港を現地時間24時10分に始動した飛行機は一路ヨハネスブルグへ向かって飛び立った。時差は香港とヨハネスブルグ間で七時間である。実飛行時間は12時間25分であった。暫し持参した雑誌を読んでから専ら寝ることに努めた。


平成13年12月9日(日)
 朝7時にヨハネスブルグ空港に到着した。佐原さんという大柄な若い女性ガイドが出迎えてくれた。台湾出身の女性で日本語がうまい。「どうぞよろしくお願い致します」という一言がフレーズの語尾に必ずつくのが耳に残った。肝っ玉母さんという感じのする信頼感を寄せ得る女性である。


 このあたりの標高は1400メートル程あるらしく、三〇度Cを越える温度で暑いことは暑いのであるが空気が乾燥していて体感温度はそれほど高く感じない。


 最初バスでプレトリアへ向かった。アフリカだから砂漠が多いのだろうという予想に反して車窓の外に広がる風景は緑が多く建物もまばらで意外な感じである。先入観が災いしたともいえる。要は自分の目でしっかりと観察することである。

 プレトリアは行政府のある首都で標高1370メートルの盆地である。ヨハネスブルグの北方60kmに位置し計画的に作られた街は碁盤の目のように整然と区画され美しい町並みが続いている。一人当たりの公園の面積はアフリカ一を誇り、折りから咲き残ったジャカランタの花もちらほらと紫色の装いで街並に風情を添えている。


 プレトリアは別名「ジャカランタシティー」と呼ばれジャカランタの並木道がいたるところにみられる。


 因みに南アフリカは三権を司る機関が三つの首都に分散されている珍しい国である。 立法府はケープタウン市にあり司法府はブロムフォント市にある。この国の建国に伴う複雑な事情のあることが窺える。


 開拓者記念館を最初に訪問した。プレトリアの郊外の丘の上に建つ高さ41mの立方体の建物は、19世紀の中頃に南のケープタウン方面から大移動してきたボーア人(オランダ系の白人で農民という意味)開拓者の歴史と偉業を讃えるため、グレートトレック(大移動)100周年を記念して1937年から12年かけて建てられたボーア人の聖域である。記念館の四隅には四人の大きな大理石製の肖像が飾られている。その名はHendrik Potgieter,Andries Pietorius,Piet,Retief である。


ボーア人は現在では白人間の混血が進んでアフリカーナと呼称されている。彼らは何れもヨーロッパを本貫の地とする人々であるが、アフリカーナというオランダ語を母体とする言語を使用している。


 開拓者記念館の入り口には幌馬車が一台置いてあり、建物を取り巻く外壁には幌馬車が彫刻されている。この幌馬車は荷物を運搬することの他に別の大きな機能を担っていた。移動中に襲撃してくる土着人と戦う時に並べて弓矢からの防護壁として使用されたのである。従って幌は布製ではなくて鉄板で作られている。
     

 記念館の中には開拓時代のボーア人の生活の様子や移動中に現地人から襲われて防戦する様子等が絵画として年代順に展示されていてズール族との戦闘場面等はなかなかの迫力である。当時の生活用具等も展示されていて興味が尽きない。

 次にポール・クルーガーの居宅を見学した。居宅の道路を挟んだ向かい側にはクルーガー教会が建っており、教会の名前は彼に因んでつけられたという。トランスバール共和国の第三代大統領で最後の大統領であった彼の居宅は意外に質素で慎ましやかなものであった。門前に横たわる二頭のライオン像は彼の象徴だということだが印象に残る像であった。

 この後、近くのジャカランタ並木道で殆ど散ってしまったが,ただ一本だけ残って満開の花を咲き誇っているジャカランタの木をカメラに収めてからヨハネスブルグ市内中心街へ向かった。チャーチ・スケアを徐行して中心街の佇まいを巡回しながら車窓観察し、ユニオンビルをカメラに収める時だけ下車して後は通り抜け、ヨハネスブルグ中心街の観光を終えた。この間バスから降りることを許されなかった。これは最近ヨハネスブルグ中心街の治安が悪化しているため観光客が歩いていると襲撃されるケースが多いからだという。  

 世界に悪名高かったアパルトヘイト政策が廃止され、黒人政権になってからとみにヨハネスブルグの治安が悪化したのだという。僻地や田舎に住んでいた黒人達が今まで立ち入ることを禁止されていた憧れの都市の中心部へいけば成功のチャンスがあるだろうと考えどっと流入したせいらしい。ところが現実は厳しく、新政権のもとでの経済政策は行き詰まりで失業率は高まる一方なので失業者が生活に困窮してひったくり等の犯罪行為に及ぶせいである。


失業率はどれぐらいかとの質問にガイドは人口調査自体正確な数字のない国だからまだ失業率の正確な統計はとられていないとの回答であったが、50%を上回っているのではないかと言っていた。


 黄色人種に属するガイド嬢は「現在南アフリカでは黒人によって白色人種や黄色人種に対する逆差別が行われている」と嘆いていた。彼女の挙げた一例は銀行からの借入金に対する利率にもみられるという。即ち中国人に対する利率23%、白人に対して15%、黒人に対して2 %であり、銀行に対して不公平ではないかと抗議すると「有色人種はお金持ちだからいいではないか」という答えがかえってきたと嘆いていた。激動する社会の変革期の悩みを今南アフリカの人々は体験しているのである。


 次にレセディ文化村を見学した。ヨハネスブルグから1時間弱のところにあるこのテーマパークにはズール族、コサ族、ペディ族、ソト族の四部族に関する生活用具や住居、民俗が集められている。
                        
 文化村の入場門の前には四つの民族の人々がそれぞれに動物の毛皮等の民族衣装を纏った半裸体姿で7〜8人待機しており、観光客が到着すると文化村の門前で歌を歌い楽器を奏でて歓迎してくれる。   

 この文化村には共同の演芸場と民芸品売り場等が備えられていて、民族舞踊や歌を披露してくれる。民族料理のレストランも設置されている。
   


 彼らの生活する住居もこの近くの林の中に村落の形で保存されていて実際にここで一族が生活しているのである。村落は民族毎に別々の場所に設置されていて、それぞれ5〜6戸の住居と家畜小屋の単位からなっており、住居は草葺屋根の竪穴式住居に似た形態で室内には照明もなく床は土間である。中央に火を焚く小さな石組が並んでいるだけで丁度品らしきものもみあたらない。祈祷師の住居が特別に設けられている村もあった。


我々の見学した村の一つには酋長の二人の妻が同一村落内に生活しており住まいこそ分かれてはいるが、同じ村落内でそれぞれに顔を突き合わせて家事を分担して仲良く生活しているのを目撃した。一人は戸外に持ち出した石臼で粉を引き、その傍らで他の一人が子供の守をしていた。


 ズール部族では酋長は妻帯四人が公認されていて、牛13頭が嫁一人に相当するというから、人権意識やプライバシィー意識に馴染んだ我々には異様な生活に見えるのだが、生まれたときから生活とはそんなものだと信じこんでいる彼女等にはこれを異様と考える我々の方が不思議に見えるようである。文化の違いというものであろうか。

 そして彼らには容易にその属する部族の生活習慣や風俗を変えようとしないで伝統文化を守っていこうとする頑さがある。これを文明に目を背ける蒙昧な停滞とみるか自然と共生する心穏やかな安定とみるか、一種のカルチヤーショックを受けた体験であった。


 南アフリカ成立の歴史を簡単に繙いてみれば以下のようになる。


1.大航海時代の1488年にアフリカ南端の「嵐の岬( 後改名されて喜望峰) 」にポルトガルの航海者バートロミュ・ディアスが到着して東アフリカ事情を調査。


2.ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマが1497年に喜望峰近くのセントヘレナ湾に上陸。
3.ポルトガル人達が喜望峰を放棄した後、1,652 年オランダ人ヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の東方貿易の寄港補給基地としてケープ植民基地の経営を開始し、野菜類の栽培を始めるためオランダ農民を入植させた。彼らがボーア人の先駆けである。当時この地方にはブッシュマン、ホッテントット等の土着民が生活していた。彼らはその後砂漠地帯へ追いやられたり、欧州人達が持ち込んだ病原菌に耐えられなくて死滅したりした。


4.ナポレオン戦争の時、1795年にオランダ領のケープ植民地はイギリス艦隊の襲撃を受け奪取された。その後1814年のウィーン会議の結果、イギリスの直轄領に編入されイギリス人の入植が引き続き行われた。


5.先着して生活基盤を築いていたボーア人達はイギリスの圧迫を嫌い自由な新天地を求めて1837年に北の内陸部へ大移動を開始した。家財道具を牛車に乗せ家族を連れて、アフリカ原住民の襲撃を防ぎつつ現在の自由州やプロビンス州まで1,600 kmにも及ぶ苦難の旅であった。とりわけズール族の襲撃は苛烈を極めた。


6.イギリス人の圧迫に抵抗してヴァール川の北方に定住したボーア人達は1,852 年イギリス政府に独立を承認させて旧南アフリカ共和国( 現在の国名と区別するためにトランスバール共和国と一般に呼称されている) を建設した。


7.1871年トランスバールのヨハネスブルグで金鉱が発見されるに及びイギリスはトランスバール共和国の併合を策したが、1,881 年マシュバの戦闘で敗北した。このためイギリスは一時併合の企図を放棄しプレトリア協定によって「女王陛下の宗主権のもとでの完全な自治」を認め、ついで1,884 年ロンドン協定により宗主権を捨て、外交上の制限を加えたほかは、共和国の凡その主権を認めた。


8.1,886 年頃トランスバール共和国で世界有数の金鉱が発見されるに及んでヨハネスブルグにはイギリス系等の在留外国人が激増し、時の第三代大統領ポール・クルーガーの共和国政府の打倒を狙う動きが活発となり、ジェームスン侵入事件のような露骨な事件まで起こった。


9.共和国政府はボーア人の民兵遊撃隊の迅速な動員によりこの難を逃れたが、イギリス高等弁務官ミルナーの強力な圧力により、1,899 年開戦を余儀なくされた。ボーア戦争である。


10. 共和国政府は執拗に抵抗したものの1,902 年遂に敗北しイギリス植民地に編入され、共和国政府は消失したが1,906 年に州として自治を認められ、1,910 年に南アフリカ連邦の一州となった。この時の南アフリカ連邦の構成はケープ植民地、ナタール、トランスバール、オレンジの四州であった。


11. この時の南アフリカ連邦の首相はポーター、副首相はスマッフで何れもボーア人であった。両者は連邦内閣を組織し第一次世界大戦では積極的にイギリスに協力してドイツ領の西南アフリカと東アフリカを征服した。戦後両者はパリの平和会議に出席し、スマッフは更に国際連盟創立者の一人となった。


12. 南アフリカ連邦の人口構成はボーア人やイギリス系の白人が僅か20%であるにもかかわらず、白人が排他的に政治権力を掌握し、パントゥ人( 黒人) 、インド人、カラード( 混血人) 等の非白人に対する人種差別政策を推進した。


13. 第二次世界大戦後にはナショナリスト党が政権を取り人種差別政策( アパルトヘイト) をおし進め1,961 年イギリス連邦を離脱し共和国となった。


14.1,989年に就任した国民党のデ・クラーク大統領はアパルトヘイト廃止の方向で改革路線を推進し、これによって1,990 年黒人解放組織、アフリカ民族会議のネルソン・マンデラが27年の禁固生活から解放され、1,991 年にはアパルトヘイト政策は全廃された。


15.1,994年初めての全国民総選挙の結果黒人指導者であるマンデラが新大統領に選出された。


16.1,999年にマンデラ大統領は引退し, 後継者にターボ・ムベキ大統領が就任した。
簡単に近代史を概観しただけでもこの国は欧州の白色人種達が利権を求めて争うエゴイズムに翻弄され、支配され続けて屈従の年月を過ごしてきた歴史であった。今白色人種の支配から解放されて新しい国作りに船出したばかりであり、新生の息吹のようなものを、中心街の猥雑な雑踏の中に感じ取ったのは一人筆者だけであっただろうか。


 ヨハネスブルグのホテルの近くのフリーマーケットを閉店ま近に訪問し、活気に満ちた庶民の台所を見学した。青空市場ではなく鉄筋コンクリート4 階建ての屋上駐車場も設置された建物が市場として提供されていて、生活用品や食品工芸品等が並べられていた。売り主は概してアフリカーナが多いように見かけたが、黒人の売り主もいた。一定の権利金さえ払えば誰でも店がだせるということであった。


 これで長かった一日は終わりホテルへチェックインしたが、予想通り同室の人は武田さんという絵が上手で登山を趣味とする横浜市本牧から参加した人であった。

平成13年12月10日(月) ジンバブエ訪問(別掲)
平成13年12月11日(火) ボツワナ訪問(別掲)

平成13年12月12日(水)
 朝9時半にホテルを出てクラフトビレッジへ立ち寄り、ブッシュマン等の住居を見学したが生憎、俄雨に遭遇したので写真もそこそこに土産物屋へ駆け込んで雨宿りをした。


 この日はヘリコプターに乗って滝を空から見学する予定であったが、生憎大統領が視察に来訪するとのことで警備上の必要からヘリコプターの飛行が禁止され、取りやめとなってしまった。その代わりにアドバルーンに乗って上空から滝の見学をすることになったが、雨のためこれも中止になってしまった。今回の旅行で雨に邪魔されたのはここだけであった。


 このあとヴィクトリアフォールズ空港からヨハネスブルグ空港を経由してケープタウン空港まで機上の人となった。過半の時間が移動のために費やされた一日であった。

 ケープタウンに到着したのは18時であったが、夏のためまだ日は高かった。出迎えたガイドはベンさんという日本生まれの日系人で植物の名前に詳しい人であった。

 折からテーブルマウンテンには雲がかかり、あたかもテーブルクロスをかけた趣があった。


 バスで一回りケープタウン市内を見学してからホテルに入った。印象に残っているのはケープ・マレー・スケアと呼ばれる地域である。ここはインドネシアからの移民が住んでいる地域でイスラム教信徒が多く、特色があるのはパステルカラーで町並みが華やかに彩られている光景であった。


平成13年12月13日(木)
 朝7時50分にホテルを出発してテーブル・マウンテンへ登った。折からの快晴で空は抜けるように青くテーブルマウンテンの頂上台地を散策しながら眺める四囲の風景は絶景であった。特にライオンズヘッドやケープ岬先端まで伸びる山並みは印象に残る光景である。ケープタウン市街地の展望も素敵な光景である。


 この後、喜望峰までドライブしたが途中、ハウト湾より舟でシールアイライドの海豹を見学に行ったり、ボルダーズ・ビーチでぺんぎんの棲息地を見学した。


 道々並木として植えられているユーカリの木に赤色や白色の花が咲いておりとても風情があった。ユーカリの花を見るのは初めての経験であった。またフィッシュ・ホーク・ギャレイで食べた生牡蠣は新鮮でとても美味しかったし昼食のメーンディッシュのロブスターも美味かった。


 ケープボイントの灯台まで山道を登り四囲に開ける雄大な景色を堪能した。


 再びケープタウンの市内へ戻り、ウォーターフロントのショッピング・モールでウインドウショッピングで時間を費やした。別に買い物があるわけでもないので与えられた時間を消化するのを持て余し、大道芸人が芸を披露するのを見て過ごした。


 今回の旅行の最後の晩餐をウォーターフロント内の洒落たレストランで食べたがイタリアレストランで魚料理であったのは嬉しかった。たまたま井上夫人の誕生日ということで店からケーキとキャンドルサービスがあり井上夫人の感激は極まり、晩餐会の雰囲気も大いに盛り上がった。


 日暮れまで時間があるのでウォーターフロント内を散策したら港の中にあざらしが集まっていて予期せぬ光景に一行は歓声を上げて喜んだ。


 暗くなるのを待ってシグナルポイントまでバスで登攀しケープタウンの夜景を見学した。ネオンサインが見当たらず、蝶々の羽の形で広がっている夜景はどこか函館を思い出させる光景であった。リオデジャネイロ、サイフランシスコと並んで世界の三大夜景であるとガイドのベンさんが言っていたが、うべなるかなとの思いであった。

 夜景の見学を終えて市内へ戻ってくるとクリスマスのイルミネーションが華やかに点滅しておりこれも錦上花を添える光景であった。かくして南アフリカの旅は最後の時を迎えたのである。


平成13年12月14日(金)
今日は南アフリカ最後の日である。朝9時にホテルを出発してカーステンボッシュ植物園へ行った。この植物園は、テーブルマウンテンの南東斜面に広がる、敷地面積560haの世界でも有数の植物園である。南アフリカ産の植物の保護育成にあたるため、南アフリカに育つ9000種類の植物が植えられ、その総数は20万本と言われている。


 斜面に広がっているためだらだらと登っていく通路は散策にはよい運動ではあるが汗をかきやすい。折から快晴で雲一つなく照りつける太陽の日差しはきつい。木陰へはいると空気が乾燥しているだけに汗がサット引き心地よい。花壇に沢山夏の可憐な花が咲いていた。エリカの花だけは覚えたがその他の花の名前はメモしておかなかったので、その時は判ったつもりになっていたが、今ではもう思い出せない。旅行中メモをとることには心掛けているつもりでもこうして日記を整理しているとメモ帳のどこにも書いていないのでがっかりする。その時は億劫でも心してメモしなければならないとつくづく思った。


 温室へはいるのは蒸し暑いだろうからやめて、配給されたランチボックスを芝生へ持ち込んで食べた。握り飯二つと沢庵が入っており、大根と厚揚げの煮染めが美味しかった。腹は全然すいていないが、何せ10時半に配給されて荷物になるものだから早めに食べた。飛行機に乗ればまた機内サービスがある筈なので、全部食べてしまうと消化不良をおこしてしまいそうである。鶏肉のから揚げは、腹にもたれるので捨てた。味噌汁はインスタントの物であったが久しぶりに美味しかった。

 食後芝生の上で時間まで昼寝をした。傍らでは同室の武田さんが熱心にスケッチをしている。今回の旅行では武田さんには二つの刺激を与えられた。一つは暇さえあればスケッチブックを開いてスケッチすることと、朝必ず腹筋運動をすることの二つである。これは帰国したら見習いたいと思ったことである。


 このあと空港へ向かい、ケープタウン空港からヨハネスブルグへ向かった。途中窓から外の景色をつぶさに観察したら、荒蕪地の山脈を幾つか越えてヨハネスブルグ近くなったとき、田畑が丸く作られている光景を目撃した。アメリカのロスアンジェルス空港近くで見たのと同じ光景である。


 ヨハネスブルグ空港では2時間も出発が遅れてしまっい離陸は20時になってしまった。持参したコスモス文学の残りの部分を読むことに専念した。やがて香港向け南アフリカ航空の機上の人となった。


 同じ飛行機には中国人の団体が乗っており賑やかなことこの上もない。


 夕食後持参したコスモス文学の残りの部分を読み切って捨てることができた。岩崎弥太郎の土佐商会長崎支店での物語であり、結構面白かった。このあと熟睡できたと思う。

平成13年12月15日(土)
 機内で夜をあかし気がついたら朝食の時間になっていた。ヨハネスブルグで出発が遅れた影響がでて香港では予定の飛行機に間に合わなかった。15時20分発の予定のところが次の便となり、16時40分に離陸できた。機内はガラガラで窓際の席で窓の外の光景を眺めることができた。機内サービスで貰った三杯の白ワインが効いて暫しうたた寝をした。目が覚めたら眼下に伊豆半島の夜景が広がっていた。成田空港へ到着するまで暫し日本の夜景を楽しんだ。


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  • プレトリア近郊。開拓者記念館

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  • 防弾壁として使用した幌馬車

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  • プレトリア近郊。開拓者記念館の内壁

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  • ポールクルーガ邸の前のライオン像

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  • ポールクルーガ邸

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  • ジャカランタの木

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  • プレトリア遠望

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  • レセディ文化村

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  • レセディ文化村。民族ダンス

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  • ケープタウンの街並み

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  • ケープタウン遠望

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  • ライオンズ・ヘッド

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  • テーブルマウンテン上のハイラックという動物

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  • 名も知らぬ花

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    海豹

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  • ケープタウン市内よりとテーブルマウンテン遠望

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