2013/07/07 - 2013/07/07
780位(同エリア1830件中)
まみさん
2013/07/07日 モスクワ観光1日目
・赤の広場<世界遺産>
カザンの聖母聖堂
ヴァスクレセンスキー門のイベルスカヤ礼拝堂
・国立歴史博物館(約3時間)
・革命広場と観光案内所
・劇場広場
ロシア青年劇場のBox Office でバレエ「ジゼル」のチケットをゲット
・民芸品博物館(約1時間半)
【モスクワ泊:マキシマ・パノラマ・ホテル】
いくら本日の本命だからといって、やばいでしょう、これは───。
と、途中から思ったくらい、時間をかけて写真を撮りまくってしまった国立歴史博物館。
しかも、価値ある、宝物のような展示ぞろいの中で、私はほんとのところはその歴史的価値が分かっているとは言い難いのです。
でも、2階と3階に分かれた常設展のうち、2階だけで2時間もかけてしまったので、さすがにこのペースでは、本日楽しみにしているもう一つの博物館である民芸品博物館に行く時間がなくなってしまう、と我に返り、後半はだんだんと写真を撮る頻度を減らすようにしました。
なので、だいたい被写体としたのは、近代ロシアの展示くらいまでです。
ちなみに、私は、特に学生時代の話ですが、ドストエフスキーやトルストイなどの近代文学が大好きでした。
私のロシアへの関心は、まずそこから始まりました。
国立歴史博物館の近代の展示には、そんなロシア文学を思い出させるものもあって、興味深かったです。
ただ、近代以降になると、大きい展示物が増え、写真を撮ろうとするとガラスへの反射が厳しくて、撮りづらくなってしまったものも多く、ある意味、撮るのをあきらめるのも容易でした。
<2013年ロシア旅行:簡易旅程>
7/06土 出国&モスクワ到着
7/07日 モスクワ1日目(国立歴史博物館と民芸品博物館)★
7/08月 モスクワ2日目(クレムリン)
7/09火 モスクワ3日目(トレチャコフ美術館)
7/10水 ズズダリ
7/11木 ウラジーミル
7/12金 モスクワ4日目(コローメンスコエ)
7/13土 ペトロザヴオーツク経由でキジ島へ
7/14日 ソロヴェツキー島1日目
7/15月 ソロヴェツキー島2日目(ザヤツキー島エクスカーション)
7/16火 サンクトペテルブルグ1日目(ロシア民族学博物館ほか)
7/17水 サンクトペテルブルグ2日目(エルミタージュ美術館)
7/18木 パヴロフスク宮殿&庭園
7/19金 ノヴゴロド1日目
7/20土 ノヴゴロド2日目
7/21日 サンクトペテルブルグ3日目(宗教博物館・ユスポフ宮殿ほか)
7/22月 サンクトペテルブルグ4日目(ロシア美術館)&出国
7/23火 成田空港着
※この旅行記の対象の日に★印をつけました。
詳細旅程はこちら。
「2013年ロシア旅行~13年ぶりの再訪を3年前にあきらめた旅行計画で実現させた旅行【旅程一覧】」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10797557
準備編や帰国後の全体の感想は、ブログ「まみ's Travel Diary」(http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/)に掲載しました。
「ロシア屈指の大博物館 国立歴史博物館
(前略)常設展示は、2階と3階に分かれ、(中略)3階では、18世紀から20世紀初頭まで、つまりピョートル大帝以降のロマノフ王朝の歴史についての資料が展示されている。政治色はそれほど強くなく、王朝貴族の暮らしぶりや服装、武器などの展示が多い。最後の39室には、画家アポリナリー・ヴァスネツォフによる、17世紀モスクワの市場を描いた絵が展示されている。なお、革命後の展示については、トゥヴェルスカヤ通り沿いの現代史博物館が扱っており、合わせて見学することでロシア史の全貌をつかむことができるだろう。(後略)」
(「地球の歩き方 ロシア(2012~2013年版)」より)
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第18室 イワン雷帝時代/モスクワ・クレムリンにあるツァーリ(皇帝)のウスペンスキー教会の間のつづき
この人だあれ?
この肖像画の写真を撮ったときは、イワン雷帝ルームだったのでてっきりイワン雷帝と思いこんでしまいましたが、よくよく見ると、他のイワン雷帝(4世)の肖像画とも、その先々代のイワン3世の肖像画とも似ていません。
ロシア語オンリーでも、説明ラベルがあったはずですが、その写真は撮ってこなかったですし、メモもしてきませんでした。
というわけで、いまとなってはこの人が誰か分からなくなってしまいました(苦笑)。 -
双頭の鷲の王座
いくら15世紀の中世とはいえ、この素朴さからすると、王座は王座でも、宮廷にあって、皇帝が謁見の場で座るときの王座ではなく、ロシア正教会内にある王座の方かもしれません。
教会の王座も、場所によってはもっと豪華でしたが。 -
イワン雷帝のものらしいガウン
実際にイワン雷帝が着用していたかどうか分からないですが、肖像画などを見ると、こういうかんじのガウンを着ています。 -
金の宗教宝物
皿には、聖母マリアが両手を広げてすべてを受け止めるような慈母の包容力を見せた「オラントの聖母」のデザイン。
儀式で使われると思われる聖杯やスプーン。
それから、おそらく宗教儀式に使われるものを収める入れ物。
フタの浮彫は、上の段は最後の晩餐、下の段はよく分からないですが、鎧を着た天使は戦いの天使のミカエルではないかと思います。 -
嗅ぎ煙草セットかな
エネメルで彩色された浮彫装飾が見事です。 -
第19室もイワン雷帝時代
ツァーリの王冠
ツァーリの称号を初めて使用したのはイワン3世(大帝)ですが、そのときは「タタールの君主やロシア近隣諸国の王を指す時に使われるもので、もともとは「カエサル」(ローマ副帝)に語源をもつとはいえ、当時のロシアでは「王」「独立した君主」程度の意味しかなかった」(ウィキペディアフリー百科事典「イヴァン4世」より)わけですが(引用の続き:ツァーリ称号を使用し始めたことを、ビザンツ皇族女性との結婚によって東ローマ帝国の後継者になったという政治的主張と解釈するのは、当時のロシアの国際的地位から見ても無理があると思われる。しかし後世になって、ロシア国家が「第三のローマ」として世界帝国の継承国家を自認するうえで、この結婚が大きく影響したことは間違いない。)、その意味を拡大して名実共に「全ルーシのツァーリ」としたのは、イワン雷帝でした。
「(イワン雷帝の)主な事績
対外的には、東方への領土拡大が進められ、アストラハン・ハン国とカザン・ハン国をモスクワ国家に組み入れて、治世末期にはシビル・ハン国征服事業も成功裡に進んでいた。しかし、西部国境で長期にわたって続けられたリヴォニア戦争(主にモスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)、ポーランド・リトアニア連合、スウェーデン王国が、リヴォニアを主戦場にして戦った戦争)は、完全な失敗に終わり、国内を激しく疲弊させる結果となった。内政面では、16世紀ヨーロッパにおける絶対君主制の発展の中で、ツァーリズムと呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、大貴族の専横を抑えることに精力を傾注した。1547年の「全ルーシのツァーリ」の公称開始、行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治が試みられた。その反面、強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治というマイナス面も生じた。結果的に大貴族層は権力を保持し、イヴァン4世の亡き後のツァーリ権力の弱体化に乗じ、ロマノフ朝の成立までモスクワ国家を実質的に支配することになる。」
(ウィキペディアフリー百科事典「イヴァン4世」より引用) -
金の宗教宝物
どういう使い方をするのか……デザインが面白いです。
キリストの血のワインを受けた皿かもしれません。 -
ロシア正教史上に大きな存在感のある人物といえば……
総主教ニコンの肖像かなと思ったし、確認したはずなのですが、17世紀の人なのに16世紀のイワン雷帝の部屋に展示されていたのが腑に落ちない……。
「17世紀になると外来文化の流入がロシア正教をも刺激し、総主教ニコンの原理主義的改革が始まった。改革は、例えば十字を切る手を2本指から3本指に変えるなど教会儀礼にまで及び、古い儀礼を固守しロシア正教会に反旗を翻す分離派「ラスコーリニク」を生み出した。分離派は弾圧され、シベリア奥地や国外に逃亡し、近年まで閉鎖的な集団生活を続けている例もあった。」
(「地球の歩き方 ロシア(2012〜2013年版)」−「ロシア正教について」より) -
リーザが金箔豪華な、聖ニコラウスのイコン
正教会でも代表的な聖人です。
カトリックではいろんな聖人が出て来ますが、正教会でイコンなどに描かれる聖人の大半は聖ニコラウスです。
というか、聖ニコラウスくらいしか、私には判別がつかない(苦笑)。
判別の仕方といっても、こういう髪型でこういう帽子をかぶり、ガウンに白字に黒い十字架模様がある、こんなかんじの聖人は、みんな聖ニコラウスと思っています。
また、リーザとはイコンの聖母子の顔や手以外を隠した金属製の覆いの部分のことです。 -
第20室 ボリス・ゴドノゥフ時代(在位:1598年〜1605年)
教会のイコノスタシス(礼拝所と信者のエリアの聖俗を分けるイコンの壁)のイコン部分
16〜17世紀のイコンは、だいぶ絵画チックで、筆致もやわらかいイコンが主流になります。
私の好みは、それよりもっと時代をさかのぼる、いかにも中世チックなプリミティブなイコンの方ですけどネ。
ボリス・ゴドゥノフという人は、ロシア史に詳しくない私がいうのもなんですが、実に気の毒な為政者だと思います。
実際に権力を握る過程で手段を選ばなかったかもしれないですし、ドミトリー王子の殺害にかかわっていたかもしれないですが、皇妃の兄で皇帝の摂政という立場から権力を握ったので、もともと周りからうさんくさく思われやすかったところに(タタール人であることも影響したかどうかは不明)、性格的にも好かれるタイプではなかったのかもしれません。
内政も外交も苦しい時代、きまじめなタイプが頑張れば頑張るほど、民衆や貴族たちに好かれにくい気がします(このあたりは、ムソルグスキーのオペラでの人物像の影響あり)。
女の私からすると、勝ち取った権力の果てにそんな苦労を背負い込んで、意味があったの?
と思ったりしますが、上昇志向にある途上では、そんな結果が見えていたわけではないですし、もともとの身分が高くないけれど有能な人物ほど、見返してやりたいという思いは強かったでしょうし、政治的困難な時代に、誰かがやらねばならぬ、という使命感もあったかもしれません。 -
豪華なオクラードの聖母子のイコン
オクラードとは、イコンの聖母子の顔や手以外を隠した金属製の覆いであるリーザを宝石や真珠でぎっしり飾ったものです。
このイコンは、フタが閉じられるようになっています。
フタや周りにも、聖書のエピソードや聖母子が彫られています。 -
エナメル・ペインティグの皿
これは動物や植物が生き生きと描かれているのと色彩感覚が気に入りました。 -
エナメル装飾で華やかなオクラードの聖母子イコン
エナメル装飾は真珠や宝石でぎっしり覆うよりは費用はかからないかもしれませんが、とても豪華に見えます。
ミーハーな私好み@ -
廊下に展示されていた皇帝の馬車(1800年代)
この階段から上のフロア(3階)へ行きました。
上のフロアはピョートル大帝からロマノフ王朝の歴史展示です。
2階に比べたら、かなり駆け足で回りました。 -
豪華な手すりの階段と踊り場のどこかソ連チックな天使の彫刻
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ピョートル大帝の肖像画
「ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保。また黒海海域をロシアの影響下におくことを目標とした。これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下におき、帝国における全勢力を皇帝のもとに一元化した。また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く徴用して、国家体制の効率化に努めた。
1721年11月2日には大北方戦争の勝利を記念し、元老院にインペラートルの称号を贈らせ、国家名称をロシア帝国に昇格させた。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評される。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典「ピョートル1世」より引用) -
そり馬車
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大砲
ピョートル大帝は軍事増強のために大砲を増産し、西欧式の軍隊制度を整えました。 -
海軍の船の模型かな
ピョートル大帝は、ヨーロッパの造船技術を学んで、ロシア初の海軍を編成しました。 -
ひげ刈りの風刺画
ロシア人の特徴であるひげを「前近代的だ」として強引に刈らせ、刈らない人には「ひげ税」をかけたという、ピョートル大帝による西欧化改革の一端の風刺画。
ほかの改革はともかく、この命令は民衆に評判が悪かったようです。 -
文化の近代化の象徴ともいえる印刷機
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18世紀貴族の衣装や時計やサーベルやインテリア
特に衣装を見て、プーシキン時代やその作品の登場人物を思い浮かべました。 -
豪華なそり
駆動力はやっぱり馬かしら。 -
象牙の箱
このタイプの箱は、ロシアの代表的な民芸品の一つらしく、次に訪れた民芸品博物館、それからサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館やロシア美術館にも展示がありました。 -
エリザヴェータ1世
ピョートル大帝と2番目の妻で農夫の娘出身のエカテリーナ1世との間の娘。
ピョートル大帝以後、エカテリーナ2世までの間に続いた女帝の中では、その治世について唯一評価されている女帝と記憶しています。
どうやら側近の功績だったようですけど。
また、コミックや小説の影響で、エカテリーナ2世の義理の姑の立場だった人物としても記憶しています。
エカテリーナ2世から息子のパーヴェルを取り上げて養育した人物です。
「(前略)エリザヴェータの治世は、以前は宮廷を中心に奢侈に流れ、国際戦争に巻き込まれ、農奴制の強まった時代として評価が低かった。しかしそれらは間違いなく文化的発展や国際的地位の向上、経済成長として理解できるものであり、ロシアが強国化していく過程で重要な役割を果たしていたとみるのが妥当といえよう。(中略)
国政に興味のないエリザヴェータは、文化事業にその熱意と才能を遺憾なく発揮した。ヴェルサイユ宮廷に倣ったロシア宮廷の西欧化を熱心に進め、ファッションにも強い関心を持った。さらに学芸保護にも積極的で、西欧の学識を摂取させるべくロシア科学アカデミーを支援し、科学者ロモノーソフの建言を容れて1755年にはモスクワ大学を創設した。芸術家の育成にも取り組んでいった。しかし最も重要な事業は建築分野である。宮廷首席建築家ラストレッリに命じて数多くの宮殿を建築ないし大幅に改築させ、壮麗なロシア・バロック様式に変貌させた。現在のサンクトペテルブルクを魅惑的にしている諸宮殿の多くは、エリザヴェータの治世に築かれたものである(後略)。」
(ウィキペディアフリー百科事典「エリザヴェータ(ロシア皇帝)」より引用) -
たぶん軍隊の楽器
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さきほどの楽器らしき展示のそばに展示されていたイラスト
でもイラストを見ると、楽器の吹き口の付け根が曲がっているようには見えないです。うーむ。 -
ここからフォークアート部門
最後の晩餐場面の木彫り
プリミティブで温かみを感じる木彫りです。 -
ロシア娘の伝統衣装の人形
頭にかぶっているものは、ココシュニックです。 -
赤ちゃんのお立ち台
ベビーカーみたいなものかしら。
上に展示されているのは、右は馬の形の台。子供のおもちゃかしら。
左は、たぶん機織り機の一部。糸をかける部分かしら。
ペインティングがすばらしく、ロシアに限らず東欧では、フォークアートとして注目されています。 -
鳥の形をした容器
なかなかユニークです。 -
美しいペインティングのあるジョッキ
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豪華なかぶりもの〜伝統衣装のココシュニック
ココシュニックはもともと既婚女性の被り物で、未婚女性の場合はココシュニックとよく似たpovyazkaというのをかぶるようです。
でも、ココシュニックは総称的に使われているようで、いろんな形のものがあります。
ちなみに、建築用語としても、ロシア教会などで見られる屋根の鱗模様をココシュニックと呼ぶようです。 -
エカテリーナ2世の肖像画
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エカテリーナ2世と廷臣たちの陶製人形
天使などもいたりするので、エカテリーナ2世の文化的功績も象徴しているかもしれません。
「(前略)ロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据え、ロシア語辞典の編纂事業に着手、後世のロシア文学発展の基盤を造る。ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿(現在の小エルミタージュのこと。後に隣接する冬宮など新旧の宮殿と合わせ、現在はエルミタージュ美術館として一般公開)の建設にも熱心であった。また、女子貴族のための学校「スモーリヌィ女学院」を設立し、ヨーロッパ諸国の宮廷・社交界に送り込む貴婦人の養成にも力を入れた。エカチェリーナ2世自身も文筆に勝れ、回想録、書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残している。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典「エカチェリーナ2世」より引用) -
エカテリーナ2世時代のインテリアなど
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美しい家具と、ココシュニックをかぶった女性の肖像画
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科学の発展を示す展示
望遠鏡など。 -
農民の服
エカテリーナ2世時代に起きたプガチョフの乱を連想しました。
「プガチョフの乱は、ロシアのヴォルガ川・ウラル川流域で1773年から1775年に発生した大規模な農民の反乱であり、農民暴動としてはロシアの歴史上最大のものである。ロシアの歴史学界では、「1773-1775年の農民戦争」との呼び方が一般的である。(中略)
ピョートル1世は農奴制を強化、エカチェリーナ2世も貴族の支持を取り付けるために農奴制を推し進めた。そのため、農民の反乱が頻発、1762年から1769年の間だけで、ロシア中で50を越える農民暴動が発生した。エカチェリーナ2世が女帝であり、夫であり先帝のピョートル3世が謎の死を遂げた、とされたことも、事態を悪化させた。(中略)
皇帝・エカチェリーナ2世は、啓蒙専制君主として知られたが、乱の後、農奴への恐怖から反動的な姿勢に転じることになる。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典「プガチョフの乱」より引用) -
教育の発展を示す展示〜アルファベット板
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そろばんみたいなものかな
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めがねとめがねケース
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帆船の模型や大砲や鎧や刀など
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女性の伝統衣装と本棚(たぶん)
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可愛らしいペインティングが施された衣装箱と子供のおもちゃ
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19世紀の女性の衣装
チェーホフやプーシキンの小説や戯曲の登場人物を思い浮かべました。 -
19世紀の貴族の男性の衣装
チェーホフやプーシキンの……以下同文。 -
ティーセット
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サモワール
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鷲の彫刻のある銀器
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ペインティングがすばらしい陶器の容器と人形
真ん中に穴が空いた容器がとりわけ面白いです。 -
美しい景色が描かれた、素敵なデザインの磁器
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肖像画ルームの様子
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当時の旅行用品・その1
旅行カバンを開けたところです。
中に入ったものがごちゃごちゃと動かないように型が入っていますが、現代のコンパクトな旅行用品に比べると、とっても重そうです@ -
当時の旅行用品・その2
洗面道具や便利グッズといったところでしょうか。 -
ドストエフスキーやトルストイの小説の登場人物を連想させる貴族の衣装
映画「アンナ・エカテリーナ」や「戦争と平和」などでなじみのある衣装です。 -
サモワールとティーセット
いろんなサモワールがあって、面白いです。
それだけロシアの人々の生活に重要なものだったといえます。 -
貴族のピストル
19世紀ロシア文学の決闘シーンを連想しました。
プーシキンも決闘で命を落としたことは有名です。 -
これも19世紀ロシア文学の登場人物を連想させた衣装
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かつてあったというネグリンナヤ川から見た夜のクレムリンの絵(1896年)
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鳥の彫刻や外側の浮彫がばらしい木箱
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クジャクの形の陶器
このデザインもとっても気に入りました。 -
ヴァスネツォフ(弟)による17世紀モスクワの市場の絵
「アポリナリー・ヴァスネツォフ(1856年8月6日 ヴャートカ県リアボヴォ村 - 1933年1月23日 モスクワ)はロシアの画家・美術家。より著名な兄ヴィクトルもまた美術家である。モスクワ中世史からの場面を専門とした。
正規の専門教育を受けてはおらず、有名な画家の兄ヴィクトルより指導を受ける。1883年から兄とともにアブラムツェヴォに暮らして創作し、その地でワシーリー・ポレーノフの感化を受けた。1898年から1899年までヨーロッパ中を遍歴する。
アポリナリー・ヴァスネツォフは、ロシアの自然の壮大な景観の描写に加えて、歴史的・考古学的な資料に基づき、歴史的な光景を再構築するという独自のジャンルを創り出した。その絵画は、中世のモスクワを視覚的に説明するものだった。
1899年から移動派の一員となり、1900年からペテルブルク帝国美術アカデミーに奉職した。「芸術世界」の後身である「ロシア美術家連盟」の創設者に名を連ね、その監督を務めた。
(ウィキペディアフリー百科事典「アポリナリー・ヴァスネツォフ」より引用) -
陶製の装飾タイル
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黄金の四輪馬車
以上で、旅行記を3本に分けましたが、モスクワで1番楽しみにしていたと言っても過言でない、国立歴史博物館で撮った展示の写真はおわりです。
民芸品博物館編へとつづく。
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