2008/07/16 - 2008/07/16
142位(同エリア165件中)
まみさん
2008/07/16水 アルバナシ日帰り&ヴェリコ・タルノヴォ
【宿泊:Hostel Pashov(ヴェリコ・タルノヴォ泊)】
・コンスタンツィリエフ・ハウス・ミュージーアム
・聖誕教会
・アルバナシ・バレス(外観のみ)
午後ヴェリコ・タルノヴォに戻り
・グルコ通りのサラフキナ・ハウス・ミュージーアム
・民族復興期博物館
・近現代史博物館
・サモヴォドスカタ・チャルシャで買い物
・聖ニコラ教会(着いたのが18時だったので入れず)
ブルガリア旅行をするにあたって、把握しきれないまでも、一生懸命、ブルガリア史を勉強しました。
特に、ブルガリアが露土戦争を経てオスマントルコから独立し、ブルガリアを含むバルカン半島がヨーロッパの火薬庫と呼ばれていた時代。
歴史は好きでも近現代史は苦手な私ですが、このあたりの予備知識が全然なかったら、ブルガリア観光の面白さは半減するに違いないと、必死になって。
おかげで、民俗復興期博物館にも興味を持てるようになりました。
この博物館はもともと、地下にあるというイコン・コレクションが一番の目当てでした。
でも、なぜかそのイコン・コレクションはなかったのです……(泣)。
「地球の歩き方」にもLonely Planetにもきっちりそう紹介されていたのに。
とはいえ、東欧旅行をしていると、よくあることです。そういったガイドブックとの食い違いは。
写真代を払ったのも、イコン・コレクションが目当てでした。
でも、前述のとおり、行く前に自分なりにブルガリア近現代史を勉強していったおかげで、イコン・コレクションがなくても、写真に撮っておきたいと思える展示品がありました。
展示には英語の解説はほとんどありませんでしたから、あ、これがあれだ!と思えることができたのも、そうした予習のたまものでしょう@
そうはいっても半分以上は素通りでしたけどね。
お隣の近現代史博物館は、もろに入ってみただけ、になってしまいました。
ほとんどが写真やドキュメントによる展示(多少、物品もありましたが)、しかもみんな読めないブルガリア語では、さすがに厳しかったです。
「民族復興期博物館
オスマン朝のヴェリコ・タルノヴォ総督邸だった屋敷が、ブルガリア独立運動を中心とする19世紀の社会情勢に関連した資料を展示する博物館として公開されている。ここではそれらをわかりやすく紹介している。例えば展示されている19世紀のヴェリコ・タルノヴォの全景写真を見れば、当時は巨大なイスラム寺院がこの町にあったことがわかるし、豊富な収蔵品からは近代ブルガリアの様子がリアルに伝わってくる。歴史を勉強するにはもってこいだ。ほかに、独立を達成したブルガリアの最初の国会が1879年、この建物内で開かれたことから、その模様を写した写真などもある。美術が好きな人には、地下階のイコンのコレクションは必見だ。
建物は、1872年に巨匠フィチェフによって設計された、堂々たる3階建ての木造建築。イヴァン・ヴァゾフ通りに面している。」
(「地球の歩き方 '07〜'08年版」より)
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民族復興期博物館の建物を、少しななめから
もうすこし素直な写真は、昨日撮りましたからね。
関連の写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/15416725/
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/15416726/
関連の旅行記
「2008年ブルガリア旅行第10日目ヴェリコ・タルノヴォ(3):メインストリートから博物館エリアへ」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10309514/
入場料4.00レヴァで、写真代3.00レヴァでした。
(2008年7月現在、1レヴァ=約0.5ユーロ、1ユーロ=約170円で換算)
写真はイコン・コレクションが目当てでしたが、意味の分かる展示、興味深い展示は写真に撮ってやろう!と思いながら回ると、なかなか見学に熱が入ります@
「民族復興期&憲法制定会議博物館(Museum of National Revival & Constituent Assembly)
この博物館はかつてトルコの市庁舎たった建物(1872年建築)の中にあります。1879年にブルガリアの最初の憲法制定会議が行われたのはここです。一部の見学者にとって、もしかしたら展示そのものよりも建物の方が興味深いかもしれません。展示のほとんどには英語での説明表示がないため、なおさら。
1階は、ヴェリコ・タルノヴォの歴史に関するたくさんの衣装、書籍、写真があります。2階には、地元のVIPの肖像画が飾られた、贅沢な会議室があります。地下には町の古い写真(英語の説明がなくても楽しめます)、そしていくつかの貴重なイコン(珍しいことに英語の説明札があります)があります。」
(Lonely Planet(2nd edition 2005年刊)より私訳) -
おっ、これは!
と思った、ハイドゥクの衣装と武器
ハイドゥクとは、18世紀以降に出現するようになった、ブルガリアを含むバルガン半島での無法者・義賊たちのことです。
いわばバルカン版のロビンフッドみたいなものですね。
ブルガリア語では「ハイドゥティン」といいます。私は英語のラベルを参考にしたので、旅先のメモにはHaidukと書いてあります。
これらはいかにも、バルカンの義賊らしい衣装と武器だと思いました。
(少なくとも私が漠然とイメージしていたとおり。)
以下、フリー百科事典ウィキペディアの「ハイドゥク」から引用します。
「バルカン半島の民族伝承において、ハイドゥクは、迫害者オスマン帝国に対する戦いにおいて戦士を率いたり、トルコから盗みをはたらくなど、ロマン主義的英雄像となっている。彼らは、裕福な人間から盗みをはたらき貧者に分け与え、不当な権力者に対して小さなゲリラ戦を起こしてきたイングランド伝説のロビンフッドと比較される(ハイドゥクの場合は外国人軍事支配を敵とする)。
現実には、17世紀から19世紀までのハイドゥクたちは、徒党を組んでオスマン帝国支配に抵抗するゲリラ戦士や夜盗がほとんどであり、トルコだけでなく自分たちの地元の議員、商人、旅行者をも標的にした。このように、ハイドゥクという名称はどんな泥棒のことも意味し、否定的な意味を持っていた。」 -
ハイドゥクの衣装と武器
短剣とそれを下げるための太いベルトはトルコっぽいのですが、ブルガリアの男性の伝統的な衣装もそうでした。
ただ、西欧文化が入ってきて、短剣と太いベルトの習慣は廃れてしまったようです。
絨毯生活の座る生活からイスの生活に変化したのと同様。 -
ハイドゥクの衣装と武器
しかしこの衣装は見れば見るほど、ブルガリアのハイドゥクの衣装と言われないと、トルコ人の衣装かと思ってしまいます。
バルカンの義賊の私のイメージにはぴったりなのですが……うーん、でもトルコとの違いはよく分かりません。見分けがつかないでしょうね。 -
1762年に出版された「スラブ・ブルガリア史」のページの写し
アトス山の僧侶パイシー・ヒレンダルスキーによる初めてのブルガリア史の本。
ヒレンダルスキーは中世ブルガリアの栄光をブルガリア人に伝えようとしてブルガリア人の視点から初めて歴史書を描きましたが、このことが民族意識の高揚に役立ちました。
そのため、この本の出版は、ブルガリア独立民族の先駆けとみられているようです。
───という、旅行前に大急ぎで仕入れたブルガリア近代史が役立ちました。 -
ブルガリアの独立はまずはギリシャ教会からの独立達成から
オスマントルコ時代、ブルガリア正教会はギリシャ正教会の教区の一部扱いされていました。
オスマントルコを通じて、ブルガリア正教会は独立悲願を達成しました。
このあたりはそれにまつわる展示でしょうね。
となりのガラスケースは、オスマントルコが発行した1870年2月28日のブルガリア教会独立宣言の証書です。 -
1870年2月28日のブルガリア教会独立宣言の証書の一部
一番上のいかにもトルコらしい紋章は、オスマントルコの皇帝のレターヘッド? -
ブルガリア人によるブルガリア人の子供たちのための学校を設立
ブルガリアの民族独立への動きは、次は教育面に現れました。
近代ヨーロッパにおいて、民族自立の考えは、たいてい知識階級が発達して初めて芽生えています。
知識階級であるがゆえ、ブルガリア人自身がブルガリア人の子供たちをブルガリア人として教育をすることで民族意識の高揚を図りました。
このパネル画は、タルノヴォ(=ヴェリコ・タルノヴォ)に1856年、タナー氏なる人物が学校を設立したというイラストです。
一番上のリボンのようなところには、「1859年にスラベイコフ、1859年5月24日タルノヴォ」、真ん中のキリルとメトディウスの碑の下、このイラストの中心人物の頭のすぐ上には、「1859年5月24日、タルノヴォ」、そして一番下には「1985年トドルツォネフ」と書かれてあります。 -
キリル文字の創設者といわれているキリルとメトディウス
もっとも今、ロシアやブルガリア他、いくつかの国で使われているキリル文字は、彼らが作り出した文字とは違うものです。それは正式にはグラゴール文字と呼ばれているようです。
後日、ソフィアの国立博物館で2人が創始した文字を見ましたが、キリル文字なら一応見分けくらいつく私にもチンプンカンプンでした。
ブルガリア人のガイドでも読めないと言っていました。
※グラゴール文字について
「9世紀の第一次ブルガリア帝国時代、ブルガリア人はキリスト教の中でも東方正教会に帰依し、ビザンチン文化を受け入れていった。すでにスラヴ化していたマケドニア地方出身のメソディオスとキュリロス(キリル)兄弟は、グラゴール文字を考案し、『聖書』の自らの母語への翻訳に成功する。これが後にスラヴ世界の共通文語となる、教会スラヴ語(古代ブルガリア語)である。だが、このグラゴール文字は、10世紀末、ギリシア文字を基に新たに考案された文字にとって代わられた。現在、ブルガリア語やセルビア語、ロシア語などに使われている“キリル文字”の登場である。ちなみに、キリル文字という呼称は、キュリロスが考案したグラゴール文字と混同して付けられたものであるが、実際に彼がキリル文字の作成に携わったわけではない。」
(「東欧の郷愁」(菊間潤吾・編/新潮社)より)
これまでで1階の半分くらいです。
残り半分は近代から現代にかけて、露土戦争、バルカン戦争、第一次・第二次大戦の資料などもありましたが、いまいちそのあたりはそんなに興味が持てなかったので、ざっと見るだけでほとんどスルーしてしまいました。
早くイコン・コレクションが見たい!───と気がせいていたせいもあります。 -
2階に復元されていた、ブルガリア初の憲法制定会議が行われた会議室
フルがリア最初の憲法を定めた憲法制定会議は、1879年2月16日から4月10日まで行われました。
ここ、ヴェリコ・タルノヴォで。
「第二次ブルガリア帝国の首都として200年余り栄えたこの古都は、ビザンチン帝国をも圧倒し、バルカン半島のほぼ全域を支配した。しかし、最盛期にブルガリア帝国を治めていたイヴァン・アセン王の死後は衰退、オスマントルコの統治下になる。やがて、1878年に独立。それと同時に、新生ブルガリア王国の最初の議会がここで行われた。」
(「東欧の郷愁」(菊間潤吾・編/新潮社)より) -
タルノヴォ憲法
たぶんレプリカだと思うのですが。
それともここにあるのが本物かしら!? -
なかなかお洒落な玄関部分
ひととおり見学した後、地下に行って見たら……なぁんにもありませんでした。がっくり。
イコン・コレクションはどこに行ったのでしょう(泣)。
玄関の写真でも撮ってなきゃ、やってられません。 -
もとは刑務所だったという、どこか物々しい建物の近現代史博物館
民族復興期博物館を出たあと、すぐ近くの図書館脇のベンチで休みがてらガイドブックを広げていたところ、おじさんがやってきて、「どこに行きたいんだ?」と話しかけてきました。
次に行こうとしていたこの博物館をガイドブックで示すと、おじさんはわざわざ案内してくれました。
入場料はここも4.00レヴァでした。
入ってすぐにチラッと中の様子が見えたのですが、ドキュメントが多そうだったので、ここでは写真代を払うのはやめました。
まあそれで正解でしたね。
「近現代史博物館
民族復興期博物館の横にある。建物はかつて、オスマン朝時代に刑務所として使用されていた。どっしりとしたいかにもそれらしい灰色の外観だ。対トルコ独立戦争からバルカン戦争までの、戦史博物館といった趣の内容。ブルガリアの近代の歴史は常に戦乱だったのだと、あらためて思い起こされる。当時の地図がいくつか展示されていて、ブルガリアの領土の変遷が一目瞭然だ。」
(「地球の歩き方 '07〜'08年版」より) -
近現代史博物館を、となりの建物のテラスから眺めたところ
もと刑務所というのがなんとなく納得できる重厚な建物@
近現代史博物館は、見学者がめったに来ない、ものすごくヒマそうな博物館に見えました。
館員さんは扉を閉めてしまって、外でおしゃべりしていましたから。
私が見学したい意志を見せると、館員さんはちゃんと仕事の顔に戻りましたが、私が部屋を移動するたびに館員さんが部屋の電気をつけて回って、見学が終わるのをじっと待って、いちいち電気を消していきます。
ブルガリアに限らず東欧旅行中、地方都市のあまり人が入ってなさそうな博物館では時々そういうことがありましたが……あれって結構プレッシャーです(笑)。
展示に英語解説はありませんでした。
「地球の歩き方」に書いてあるほどには、ブルガリアが戦いの歴史であるのが納得できる展示でもありませんでした。
ただし、かなり大ざっぱにしか見ていません。
展示は新聞記事の拡大コピーやら写真やらが主で、2室のみでした。
正直、私にはあんまり面白くありませんでした。
敢えて見どころをあげるなら、スタンボロフの若いときの写真と、昔は刑務所だったという建物そのものかしら。
スタンボロフは、オスマントルコから独立した後のブルガリア王国の最初の王アレクサンダルのときに首相となった人です。
その後の国王不在のときには摂政を務め、新生ブルガリア王国を支えました。
次の王フェルディナンドとは政策上、次第に対立するようになり、1894年に解任されてしまいます。
そして翌年、ソフィア市内で暗殺されてしまいました。
短い髭を生やし、髪をなでつけた、額の広いおじさま顔のスタンボロフの写真は見慣れていましたが(20レヴァ札でもお目にかかれます(2008年7月現在))、若いときはその額も目立たず、髪ももっと自然に流していて、かなりの美青年でした。
目の保養@
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