2007/07/27 - 2007/07/27
340位(同エリア456件中)
まみさん
2007/07/27(金)第20日目:ティミショアラ
【宿泊:一等寝台列車】
22:50発の急行列車(寝台)でブカレスト着7/28の7:26(ほぼ時刻どおり)
勝利広場と正教聖堂、自由広場、統一広場、美術館(ダリ展と常設展)
※民俗博物館は予測していたが改装中で閉鎖
1989年革命記念博物館
※バナト博物館・勝利広場の正教聖堂の地下博物館は閉館16時だったので入れず(泣)
テケーシュ牧師の教会(エリザベス教会)
※テケーシュ牧師は、1989年ルーマニア革命のきっかけとなったハンガリー系牧師
寝台車往復でむりやり旅程にねじ込んだティミショアラ。
トラムでセントラルに向かい、勝利広場で正教聖堂を見学したときに、これだけのためでもやって来た甲斐があったと思いました。
今回のルーマニア旅行の立案当初は、フライトをブカレスト往復ではなく、ティミショアラINブカレストOUTも考えました。
あるいは寝台車で往復にするにしても、最低2泊はして、アラドなど日帰り旅行ができたらいいな、と思っていたものです。
しかし、だんだんと旅行計画は、ルーマニアの北部、ウクライナやモルドヴァとの国境に近いマラムレシュ地方とブコヴィナ地方に比重が移動し、ティミショアラを中心とするバナト地方に費やす日数が足らなくなってしまいました。
それに、ティミショアラの街並みは美しいとはいっても、ハプスブルグ家支配のハンガリー・オーストリア帝国時代の影響が濃く残っているためのようです。
そういう街並みなら、去年(2006年)のハンガリーでもたくさん見てきました。
その前に旅行したチェコだってポーランドだって、美しい街並みといえば、たいてい、ヨーロッパで建築ラッシュが起きたバロック時代(18世紀頃)、ハプスブルグ家支配下時代のものです。
さらに、2003年には、ここ数年の私の中・東欧ブームのスタートといえるオーストリア旅行をしています。
ハプスブルグ時代の街並みなら、無理してわざわざ見に行かなくても───と思ったのは確かです。
それでもティミショアラを旅程から外せなかったのは、ティミショアラが1989年ルーマニア革命の発祥の地だからです。
私の東欧旅行への興味が歴史に寄るところが大きい以上、そんなティミショアラは逃せません。
また、同じく東欧への興味の軸となっているフォークロア文化の点からも、バナト地方に全く足を踏み入れないのは惜しくなりました。
ティミショアラのような都会であっても、民俗博物館や民芸品のおみやげなどから、フォークロア文化の一端に触れることが可能ですから。
それにしても、ティミショアラを、ルーマニア旅行3週間の最後のしめくくりにもってきたのは正解でした。
ティミショアラを旅程最初にもってきても、去年までのハンガリーの街並みを思い出して、さほど新鮮な気持ちで眺めることはできなかったに違いありません。
それに、ここ2日のブカレストの街並みにはさすがに飽きてきて、一日の写真の撮影枚数がぐっと減っていました。
チャウシェスクによる近代化の無残な爪跡。ルーマニア観光するならブカレスト以外、と言われてしまうのも納得できると思いました。
撮影意欲が下がると、旅行のテンションも下がります。というより、街歩きに対するテンションが落ちたから、撮影意欲も落ちたのでしょう。
それが、ここにきてティミショアラで、美しい広場や街並みに感動しました。
再び、街並み撮影に燃えました。
確かに、美しいなと思える街角や広場は、ハンガリーで見たような街並みです。
やっぱりハンガリーって、都市の街並みでいうと、ルーマニアよりずっときれいだったんだなぁって改めて思いました。
ただし、ハンガリーはカトリック教会の国です。正教の教会はほとんどありません。
ティミショアラの勝利広場の正教聖堂!
これまでの2週間半、観光といえばまず教会を追い求め、たくさんの正教会を見てきましたが、それでも、この正教聖堂には感動しました。
寝台車で往復してまでやって来た甲斐があったといえます。
その寝台車利用も、なかなか楽しい経験でした。
ルーマニアの寝台車の1等は2人部屋ですが、同室となったルーマニア人女性と楽しく過ごすことができました。
内気な私が旅先で人と触れ合えるのはせいぜい鉄道やバスなどの中なのですが、寝台車利用だと朝はわりと時間がありますから、旅行者同士のささやかな交流のチャンスでもあります。
7時20分と早い時間にティミショアラに着いたため(といっても予定の6時50分より30分遅れ)、同室の彼女と一緒にトラムでセントラルまで行き、正教聖堂を見学し、マクドナルドで朝食をすませました。
ビジネスでやって来た彼女も、ティミショアラは初めてでしたので、周りの人にセントラルへの行き方を聞いてくれたり、随分と助かりました。
「ティミショアラの名を世界的に知らしめたのは、民主革命への口火を切ったチャウシェスク政権への抗議運動であった。1989年12月、ハンガリー人牧師テケーシュ・ラースローの退去命令に反発した市民はデモを行うが、治安警察軍によって武力制圧され、多数の犠牲者を出してしまう。だが、結果的にこの惨劇がブカレスト市民を蜂起させる引き金になり、流血民主革命へと発展していった。」
トランシルヴァニアの各都市同様、第一次世界大戦まではオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、住民にもハンガリー、ドイツ、セルバア系の住民が多い。そのため町に残るバロック様式の建築物も見所のひとつだ。」
('07〜’08年版「地球の歩き方」より)
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勝利広場のルーマニア正教聖堂と1989年革命の碑
寝台車で同室だった女性と一緒に見学しました。
1936年から1946年にかけて建てられました。
地下には16〜19世紀のイコンのある博物館があります。
午後それを目当てにこの聖堂を再訪したのですが、16時までとは知らなかったので、入り損ねました。 -
朝陽を浴びた正教聖堂、少し近付いて
美しいレンガのしま模様に、美しい屋根模様!
「勝利広場(Piata Victoriei)
この広場にある通りの旧名は、1989年12月16日通り(Bd. 16 Decembrie 1989)という。その名は故チャウシェスク独裁政治末期の1989年12月16日、ハンガリー人牧師退去命令に対する抗議運動がルーマニア正教会前のこの通りで始まったことに由来する。
この抗議運動はたちまち全国規模に発展し、いわば革命の導火線となった。ここは激しい銃撃戦の舞台となり、1000人以上ともいわれる犠牲者を出した。」
('07〜’08年版「地球の歩き方」より) -
勝利広場のアールヌーヴォーな建物
細かく施された浮彫り模様がすばらしいです。 -
1989年革命で血みどろの事件を見つめたオペラ座
なかなか個性的な形をしているオペラ座です。
チャウシェスク夫妻の処刑という衝撃的なクライマックスを迎えたルーマニアの1989年革命は、ここティミショアラでまず発生しました。
ルーマニア国内では、長く少数派であるハンガリー人への差別待遇をめぐって摩擦が耐えませんでしたが、国外で反政府的な発言をしたハンガリー人牧師テケーシュに対して教会からの退去命令が出されたのが、革命のきっかけとなりました。
市民の抗議デモに対し、チャウシェスクは軍に発砲を命じ、ついに市民と治安部隊とのと戦車、装甲車を交えた銃撃戦にまで及んでしまいました。
ここ勝利広場は、その銃撃戦の舞台でした。 -
オペラ座、もう少し近付いて
美しい柱頭に、ギリシャ風の美しい浮彫り@
「1989年12月16日、何千ものデモ隊が、テケーシュ・ラースロー氏の家を囲んだあとに集結したのは、まさにこのオペラ座の前でした。12月17日、戦車がオペラ座前広場に進撃し、群衆に銃を放ちました。12月20日までに、10万強もの人々が何台もの戦車を乗っ取り、軍は撤去しました。流血沙汰はその後、ブカレストへと溢れ出しました。」
(Lonely Planet(3rd edition)より私訳) -
勝利広場のアールヌーヴォーな建物と電灯
Politenica
かつて大学だったのかしら。それとも警察かな。
正面に彫刻が見られます。 -
勝利広場のアールヌーヴォーな建物
こちらも花やキューピットの浮き彫りがなかなかすてきです。 -
広々とした勝利広場
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バルコニーと半円に盛り上がった壁がすてきな建物
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アールヌーヴオーなカラフルな建物の並び
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ロムレス・レムス像と勝利広場のすてきな建物
あら、このアングルだと、オオカミの乳を飲んでいるロムルスとレムスの像が見えませんね。
屋根の曲線が、いかにもアールヌーヴォーらしいです。 -
正教聖堂前の1989年革命の碑
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正教聖堂のすばらしい木彫りのトロイツァ
自由広場に行く前に、またちょっと聖堂を覗きに行きました。
トロイツァとは、ルーマニア版道祖神、道端の十字架ともいうべきものですが、教会には必ずあります。
三次元のキリスト像などがあれば、その教会はカトリックであり、基本的に二次元であれば、その教会は正教会に捧げられている、と分かります。
トロイツァについての説明コメントのある写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/13025468/
関連の旅行記
「2007年ルーマニア旅行第11日目(4)マラムレシュ地方:ボティザの司祭宅とカーペットと木造教会」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10197613/ -
聖ネポムクとマリア像の柱のある自由広場
こういうマリア像はハプスブルグ時代のバロックの街並みにはよくあります。
この柱はペスト終焉の記念に1756年にウィーンで造られ、ドナウ川を利用してルーマニアに運ばれました。
(出典:Lonely Planet 3rd edition)
「この街のもう一つの注目すべき広場は、すばらしいセセッション(ユーゲントシュティール)建築がある自由広場です。バナト地方は、1552年以来、1716年にオーストリア・ハプスブルグ家のサヴォイ公オイゲンがティミショアラを占拠するまで、オスマントルコ支配下にありました。その時に、ハプスブルグ家の新総督マーシー将軍により、7角の星型の要塞と門塔が建築され、町を囲む沼地が排水されました。自由広場は行政の中心地となり、すばらしいバロック様式の旧市庁舎が1731年から1734年にかけて建築されました。建物にはかつてそこにあったトルコ式浴場の唯一の名残であるアラビア文字が今でも見られます。」
(ルーマニア国営観光局(http://www.romaniatourism.com/)のティミショアラ観光情報から私訳) -
ユリを持つマリア像とハト
ハトをファインダーに入れて撮るのに夢中になってしまいました。
あらかじめシャッター半押しでピントを合わせて、ハトがファインダーの中に飛び込んできそうだな、というところで、ファインダーをいちいち確認せずにシャッターを続けざまに押せば、なんとか撮れることが分かりました。
マリアの持つユリと頭上の黄金の光輪は、2000年の修復のときに加えられたものだそうです。
(出典:Lonely Planet 3rd edition) -
自由広場のセセッショニズム建築
マリア像の背後の建物です。
時計は描かれたもので、にせものです。
その上の煙突のある要塞のような浮彫りに惹かれました。 -
自由広場の軍事省の前の大砲
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砲台に近付いて
「Respect‘89」(1989年革命を敬意を払え)とあります。 -
自由広場前に来た1番トラム
1番トラムはティミショアラの主要な駅(ノルド駅)とこのあたりをつないでいます。
奥にあるのは停留所です。
「ここ自由広場では、1514年、農民反乱のリーダー・ゲオルゲ・ドジャ(Gheorghe Doja)が処刑の前に拷問を受けた場所です。ドジャの農民軍は、初戦には勝利を収めたものの、たちまち蹴散らされ、捉えられ、殺されてしまいました。伝説によると、ドジャの公開処刑後、彼の信奉者たちは自身の処刑の前の前菜として、ドジャの肉体の一部を食べるよう強制されました。」
(Lonely Planet(3rd edition)より私訳) -
自由広場近くの大シナゴーグ
大シナゴーグはLonely Planetで紹介されていました。
「バナト地方のユダヤ人の存在は紀元後2世紀までさかのぼれますが、ティミショアラのユダヤ人コミュニティが最初に公文書に記載されたのは1716年です。その年は、オーストリアのサヴォイ公オイゲンに対峙していたトルコ軍指揮者が街を包囲していました。
セファルディ(スペイン系ユダヤ人)の墓地には、トルコ支配時代の墓が見られます。もっとも古いのは、1636年に亡くなったラビ(ユダヤ教指導者)であり外科医だったアズリエル・アサエル(Azriel Assael)の墓です。一世紀後、イスタンブール出身のラビ・メイヤー・アミーゴ(Meir Amigo)と4人の信奉者が町に滞在を許されました。オーストリア・ハンガリー帝国における市民権法の施行後、ティミショアラのユダヤ人コミュニティは繁栄し、人口は約7,000人に達しました。1867年、オーストリア・ハンガリー帝国成立後、街には6つのシナゴーグが建てられました。今日、3つ残るうち、1つが現在も活動しています。」
(ルーマニア国営観光局(http://www.romaniatourism.com/)のティミショアラ観光情報から私訳) -
大シナゴーグを見上げて
建物の前の道路が狭いので、こんな形でしか撮れません。
「大シナゴーグは1856年に建築されました。ユダヤの歴史の重要な建築です。オーストリア・ハンガリー帝国のユダヤ人は1864年に完全に解放されました(彼らはついには自分の土地と職業を持つことができました)。その年に、シナゴーグを建てる許可も与えられました。シナゴーグではかつてフィルハーモニー・オーケストラのコンサートが行われました。彼らはナチ信奉者だったリヒャルト・ワーグナーの音楽を演奏することは拒絶しました。」
(Lonely Planet(3rd edition)より私訳) -
美しいバラ窓のある大シナゴーグ
れんが造りの美しい大シナゴーグといえば、すぐに思い出すのはハンガリーのブダペストの大シナゴーグです。
ブカレストの大シナゴーグのある旅行記
「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第14日目(8)ブダペスト:大シナゴーグのある夜景と、翌々朝の大シナゴーグ」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10120606/
「2004年夏のブダペスト・ウィーン・チェコ旅行20日間 (1)ハンガリー編(続き)ブダペスト観光 長めの感想(ハイライトその2)」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10038942/
このあとは、3つ目の広場、統一広場を目指しました。
まずは町の中心の3つの広場を制覇しなきゃね、って気分でしたので。
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