2007/07/13 - 2007/07/13
340位(同エリア456件中)
まみさん
2007/07/13(金)第6日目:クルージ・ナポカ
【宿泊:Hotel Capitol(クルージ・ナポカ)】
12:04発の急行列車でクルージ・ナポカ着15:16(時刻どおり)
《午前:シギショアラ観光》
テルナヴァ・マーレ川近くの正教会、1918年11月1日通りを散策して城山のホテルに戻る
《午後:クルージ・ナポカ観光》
ヴィクトール・バベス通りの正教会、聖ミハイ教会、国立美術館、エロイロール大通りの正教会2つ、Avram Iancu広場の正教聖堂
クルージ・ナポカに到着して駅前に出たとき。
その喧噪を目の当たりにして一気に疲れました。
特に車の多さと混雑ぶり。
いままでブカレストを除き、シナイアもシビウもシギショアラも、駅前は閑散として静かだったので、そのギャップにしばし圧倒されました。
しかしタクシーでホテルに向かうと、あの喧噪は夢かと思うような静かなエリアにでした。
ホテルから観光の中心の統一広場まで出てくると、駅前ほどではないにしろまた喧噪が戻ってきましたが、今度はパステルカラーなバロックな街並みに圧倒されました。
こちらは喜びの悲鳴の方。
東欧にハマるまでドイツやオーストリアなどさんざんバロックの街並みを見てきた私。
そして去年(2006年)もハンガリーで、ハプスブルグ家の二重帝国の名残りのバロックな街並みをさんざん堪能してきた私。
もうバロックな街並みは、ルーマニアでは今更……と思っていました。
とんでもないっ!
いいもんはやっぱりいいもんですわ@
なぜ去年、あれだけ街並みの写真撮影に夢中になれたのか。
デジカメを初めて持参した海外旅行だからという理由だけではありませんでした。
やっぱり私はこういう街並みが大好きみたいです@
クルージ・ナポカには、今日は15時すぎに到着したので午後しか過ごすことができませんでしたが、明日のバイア・マーレ行きは15時30分の列車なので、明日の午前中も観光することができます。
午前と午後、あるいは夕方、日の当たる方向が反対なので、午後では逆光で写真映りがいまひとつ……というところでも、明日の楽しみが残りました。
まずは、クルージ・ナポカの午後から夕方にかけての街並みの写真を。
夏の日長の利点をたっぷり生かし、夕食後もホテルに戻るまで、21時近くまで撮影散策を楽しむことができました@
「12世紀からハンガリー王国の支配下に置かれたクルージ・ナポカは、15世紀に入るとハンガリー王・マーチャーシュのもと急成長を遂げた。16世紀に王国がオスマントルコに敗けるとオーストリアに統合され、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立する。第一次大戦で一時的に大ルーマニアに統合されるが、1940年にはトランシルヴァニアの北東部がハンガリー領として返還され、第二次大戦後に再びルーマニアに戻された。全人口の半分以上のハンガリー人が住むクルージ・ナポカは、ルーマニアの中のハンガリーといわれる。
15世紀の急成長時代に建てられたゴシック様式のセント・ミハイ教会は、長い間時代の波に翻弄されたハンガリー系住民の心のよりどころとなってきた。教会前にはこの町で生まれたマーチャーシュ王の騎馬像が堂々と立ち、ハンガリー統治時代の建物に囲まれた自由広場に面している。」
(「東欧の郷愁」菊間潤吾・監修(新潮社)より)
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ペトル・マイオール(Petre Maior)通りのバロックな建物
ホテルを出てまもなく見かけたバロックの建物。
こういう建物はルーマニアでなくても見られる……と思っても、惹かれずにはいられませんでした。
それにしてもなっがーいですね@ -
ペトル・マイオール(Petre Maior)通りのバロックな建物
さきほどの建物の塔を中心に、縦で撮ってみました。 -
晴天の空の下のエロイロール大通り(Bd. Eroilor)
統一広場の聖ミハイ教会とクルージ国立美術館見学後、アヴラム・イアンク(Avram Iancu)広場に向かう途中の大通りです。
左側は工事中でしたが、この見晴しの良いこと!
清々しい空!
そしてカラフルなバロックの建物! -
晴天の空の下のエロイロール大通り(Bd. Eroilor)
白い雲のおかげで、空がもっと魅力的になりました。
これでも18時すぎ。夕方の方が涼しく、太陽の光線も柔らかく、空はドラマチックになるようです。
工事中のところをなるべくファインダーの外に出して@
手前はギリシャ・カトリック聖堂です。 -
聖母マリア被昇天教会
ギリシャ・カトリック聖堂(Catedrala Gerco-Catolica)
中を見学しましたが、写真は撮れず@
フランシスコ派の修道僧たちによって1775年から1779年に建てられました。
1778年に火事で屋根が焼け落ちましたが、1782年、クルージ国立博物館であるバーンフィ宮殿を建てた建築家(ヨハン・ブラウマン(Johann Blaumann))が、マリア・テレジアの経済支援のもとで塔を加えて建て直しました。塔の高さは28m。
1926年、時の法王ピウス2世によって、この地のカトリック教区の大聖堂に認められました。
1998年以降、クルージとゲルラ教区のカトリック大聖堂となりました。 -
エロイロール大通り(Bd. Eroilor)のバロックな建物
きりがないくらいステキな建物ぞろい。
これでも厳選してます@ -
アヴラム・イアンク(Avram Iancu)広場の建物とルーマニアの旗
1992年から市長に就任したGeorge Funar は国粋主義者で、ハンガリー系の多いこの町の看板にハンガリー語を禁じたり、聖ミハイ教会の前にあるマーチャーシュ・コルヴィアヌス王の騎馬像の文字から「ハンガリー王」という部分を削らせたり(さすがに彫像撤去まではいかなかったようです)、町中にたくさんのルーマニア国旗や国旗の三色のデザインをちりばめたりなどしたそうです。
といっても実は私はここに至るまで半日歩き回っていても、あまりそれを感じませんでしたが(確かにハンガリー語の看板はありませんでした)、この広場に至って初めてなぁるほどと思いました(ちょっとにぶいですか@)。
といってもこの写真はどちらかというとお向かいの建物を撮りたかったんですけどね。 -
正教聖堂とアヴラム・イアンク(Avram Iancu)広場
モニュメンタルなアヴラム・イアンク(Avram Iancu)広場です@
ルーマニア国旗は、風にきれいにたなびいています。
正面の正教聖堂の中の写真は、この前の前の旅行記「2007年ルーマニア旅行第6日目(3):クルージュ・ナポカの教会めぐり・その1」をご参考あれ! -
正教聖堂とアヴラム・イアンク(Avram Iancu)広場
この教会と像の組み合わせ、とっても気に入ってしまいました@
アヴラム・イアンク広場にある像なのできっとこの方がアヴラン・イアンクだと思うのですが。
※アヴラム・イアンク(Avram Iancu)(1824〜1872)
1848年から1849年にかけてオーストリア・ハプスブルグ帝国のあちこちで1848年革命の嵐が吹き荒れましたが、アヴラム・イアンクはルーマニアにおける1848年革命で重要な役割を果たしたトランシルヴァニアのルーマニア人革命家だそうです。
アプセニ山脈地方の農村の生まれで、クルージで人文科学を学び、法律学校を卒業しました。
ウィーンやブダペストでの1848年蜂起を知ったとき、トゥルグ・ムレシュで弁護士書記をしていました。要するに知的階級。
1948年革命の進展については、トランシルヴァニア地方のハンガリー人とルーマニア人とでは利害が一致しませんでした。
ハンガリー人はトランシルヴァニア地方とハンガリーの統合を望み、ルーマニア人は独立を望みました。
アヴラム・イアンクはやがてアプセニ山脈を中心とした農民や鉱夫たちによる軍のリーダーの1人となり、ハンガリー人勢力に対抗します。
このハンガリー人とルーマニア人との対立はハプスブルグ家に利用されてしまいます。両者の対立が深まるほど、互いに勢力は弱体化しました。
アヴラム・イアンクは最後まで抵抗しましたが、結局、武装解除に応じざるをえなくなります。
革命の収束は、ハプスブルグ家はハンガリー人側を優遇し、ハンガリー人が望む形に近い二重帝国の実現に至りますが、ルーマニア人の独立の約束は反故にされました。
ハプスブルグ家は、ルーマニア人が大セルビア主義に加わり、同じ正教徒の縁でセルビアとロシアの仲立ちとなることを恐れていたようです。
情報源:ウィキペディア・フリー百科事典英語版
http://en.wikipedia.org/wiki/Avram_Iancu
http://www.ici.ro/romania/en/istorie/hi44.html -
国立劇場とイアンク像
アヴラム・イアンク広場の向かいのステファン大公広場の国立劇場を背景に。 -
イアンク像と正教聖堂のシルエット
教会を見学した後で撮りました。19時半頃です。
爽やかな空に焦点を合わせたら建物と像が暗くなってしまいましたが、思いきってこんな写真もいいかと思って@ -
ステファン大公広場の国立劇場(Lucian Blaga State Theatre)兼オペラ座
1906年に建てられたバロック・ロココ様式。
建物の前に彫像が2体ありました。
劇場ゆかりの人だと思いますけど。
ルキアン・ブラガ国立劇場(Lucian Blaga State Theatre)の設立はルーマニア統一(1918年)後まもない1919年9月19日。
オペラ座も同じ日に設立され、こけら落としは1920年の「アイーダ」。 -
エロイロール大通り(Bd. Eroilor)のバロックな建物
20時近くなっていたので、まだ明るいものの日は落ちていたため、パステルカラーが少しくすんでいますが。。。でも十分、ステキな建物です。
去年(2006年)のハンガリー旅行のときにこういう建物に惹かれて何枚も撮った気がするのですが……でも、気に入ったものは気にいったんです@ -
1894-1994年メモリアルの一部とエロイロール大通り(Bd. Eroilor)
晴れ渡って見晴しのよいエロイロール大通りにほれぼれしてまた一枚!
今度はこのメモリアルの一部を一緒にファインダーの中に収めてみました。
このメモリアルが1894〜1994年の何の記念か不明。
関係ないかもしれませんが、1994年というのは不吉な符号。
この町に住んでいた16,700人のユダヤ人がアウシュヴッツに送られた年だそうです。 -
統一広場に面するバロックな建物
聖ミハイ教会のある統一広場です。
この写真を撮っている私の背中にその聖ミハイ教会とマーチャーシュ・コルヴィアナス騎馬像がありますが、そちらは逆光なので、明日の午前に撮り直すことにしました。 -
統一広場の角に面したクルージ・ナポカ市庁舎
夕日が当たってメロドラマチックな色合いになっていたので。
てっぺんの3つの塔のある門あるいは城の紋章は、市の紋章でしょうか。 -
統一広場のマーチャーシュ王の像
騎馬像は逆光で暗くてもいいので撮ってみました。
群像の一部、マーチャーシュ王だけにフォーカス。
見上げるアングルで、迫力を強調@
マーチャーシュ・コルヴィアヌス王は、もちろん、ハンガリーの王様です。
在位1458〜1490年。
オスマン・トルコと戦った英雄フニャディ・ヤーノシュの息子で、彼もオスマン・トルコの侵入をハンガリー南部で食い止めています。
その後、チェコとモラヴィア地方も占領しています。一時、ウィーンすら占領して手中に収め、ハンガリーの全盛期を築いています。
彼はルネサンス君主として有名です。 -
ルーマニア国旗を背景に、マーチャーシュ王の像のシルエット
こちらの写真は思いっきり暗く、シルエットにしてみました。
国旗がきれいに風に翻る瞬間を撮りたかったのですが、風が弱くて、これでせいいっぱいでした。
ハンガリー王の背景にルーマニア国旗という皮肉。
国粋主義の市長さんのことがあるので余計に皮肉に感じられます。 -
共和国通り(Str. Republicii)の出窓のすてきな家
夕食を終えて、ホテルに戻る途中に見つけました。
21時近かったので、さすがに薄暗くなっていますけどね。 -
ヴィクトール・バベシュ通り(Str. Victor Babes)の面白い家
いわば塔の部分だけ木造なのです@
ホテルはもうすぐです。
あの家の向こう側あたりです。
クルージ・ナポカの一日目はこれで終わり。
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