2004秋、吉野参詣(1):はじめに:旅人のくまさんさんの旅行ブログ
熱田法人会の元城北支部の日帰り金峯山寺旅行に参加させて頂きました。その写真記録です。世界遺産登録を記念しての特別ご開帳を見学しました。その金峯山寺のあらましです。いくつかのインターネット情報を参考にさせて頂きました。
金峯山寺(きんぷせんじ)は、白鳳年間(7世紀後半)に、修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)(菩薩号:神変大菩薩(じんべんだいぼさつ))によって開創されました。
役行者は、『続日本紀によりますと、舒明天皇6年(634年)1月元旦、御所市茅原で挺生しました。幼名は小角(おづぬ)といい、幼少の頃より葛城山で修行し、のち、金峯山にて壱千日の苦行の末、金剛蔵王大権現を感得しました。
また、全国の霊山名峯で役行者の開山伝説を持たない所は希有なほど、その足跡を多くの行所に残しています。その行力によって、超人的な境地に達し、宗教家としての名声が当時の天下に鳴り響いていたのは間違いないと言えます。
文武天皇3年(699)、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の諌により伊豆大島に流罪になり、3年後の大宝元年(701)、許されて都に戻ったと続紀は語ります。また、同年6月7日箕面天上ケ岳において昇天されたと伝えられていますが、異説も多くあります。その1つに、海を渡って入唐したなどとも伝説されています。
その役行者によって桜の木に刻まれた蔵王権現像は、山上ケ岳と吉野山の2ヶ所に安置され、これが山上山下の蔵王堂の興りであり、金峯山寺の草創です。
平安時代から中世にかけては、奈良の興福寺と深い関係がありました。平安時代以降、金峯山は多くの僧徒と寺領荘園を有し、僧兵の活動も顕著でした。元弘3年(1333)に鎌倉幕府の大軍に攻め寄られ、堂舎は多く焼かれてしまいました。
江戸時代になりますと、金峯山は、天台宗の僧で、徳川家康の顧問である天海僧正に支配され、日光輪王寺、比叡山延暦寺と、たいへん深い関係を持つことになりました。
明治維新ののち、政府によって神仏分離が断行され、一時は、修験道自体が廃止されました。しかし、政府への嘆願の功が成り、明治19年に、仏寺に復帰しました。これ以後、山上は大峯山寺、山下は金峯山寺として、別々に歩むことになりました。
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