シンドラーを決断させたもの(占領下のポーランド)〜印象に残った映画第2位、でも憂鬱になるので無人島には持って行けない:砂布巾さんの旅行ブログ
1943年3月13日
大戦中のナチス・ドイツの蛮行については、記録フィルムなどで見たことがあったし、前述のようにアウシュビッツにも行ったので、ある程度知っていた。しかし再現された映画とは言え、やはり迫力が違う。そう自らもユダヤ系であるスティーブン・スピルバーグ監督による‘シンドラーのリスト’を初めて観た時の衝撃は今でも忘れられない。そして自分にとっては‘サウンド・オブ・ミュージック’とともに人生観に決定的な影響を与えた映画だった。どちらも大戦に関係が深いのは、考えてみれば運命的だ。
ナチス党員でグラウゼビッツの放送局襲撃事件ではポーランド軍の軍服を手配するなど、諜報員としても活躍していたオスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)は、戦争で一儲けしてやろうとドイツ軍占領下のポーランド、クラクフにやって来た。そしてユダヤ人評議会のメンバーであるシュターン(ベン・キングズレー)のコネを利用してユダヤ人の資金を集めて工場を買い取り、そこをホーロー容器工場とした。自らはナチスの幹部に賄賂を渡して近づき、ゲットー(周囲から隔離されたユダヤ人居住区)に移送されていたユダヤ人の安い労働力を利用して経営も軌道に乗る。
ブワシュフ収容所に新しい所長ゲートがやって来ると、収容所は恐怖の処刑場と化した。そしてこの日ゲットーが解体され、住んでいたユダヤ人はプワシュフ収容所に入れられた。シンドラーは丘の上から愛人のイングリートとともにこの光景を見ていた。そのシンドラーの目に突如赤い服の女の子が目に止まった。
(旧ユダヤ人地区、カジミエーシュ地区 映画で見覚えがあるような気がする建物)
1944年4月に入ると迫り来るソ連軍を前に、証拠隠滅のため無造作に埋めた死体を掘り起こし焼却処理する命令が出る。その死体の山から偶然シンドラーは赤い服の女の子を発見する。シンドラーの心の中に蓄積されていたナチスに対する怒りがこみ上げてくる。そして彼はユダヤ人を買い取り、自分の故郷に近いチェコスロヴァキアのブリンリッツに工場を造ることを決意する。こうして結果的に約千人のユダヤ人の命が救われた。
戦争が終わってシンドラーが工場から去る最後の別れのシーンで「車を売っていたらあと10人救えたのに」、「バッジを売っていたらあと2人、いやあと1人でも救えたのに」と泣き崩れる場面(ただし原作にはない)は涙無しには観られない。平時だったら人間を買う行為など許される筈もないが、戦争中でしかも政策としてユダヤ人絶滅が実行されていた以上、シンドラーがユダヤ人を救うのはあの方法しかなかった。一部にはナチス党員としての責任を問われることを逃れるためではないか、との見方もあるようだが、単にそれだけの動機であれだけの神懸かり的なことは出来ないだろう。
(シナゴーグ、ユダヤ教の教会)
トーマス・キニーリー原作による小説にも女の子が登場している。そしてスピルバーグは「原作の中でもこのシーンに最も圧倒された」と語っている。あの死体の山の中で赤い服の女の子を見つけだしたのは出来過ぎた話でスピルバーグの創作だったとしても、白黒で創った映画の中敢えてあの場面だけ赤を使ったのは、シンドラーの心に焼きついた色であるからに違いない。つまりあの女の子がシンドラーにユダヤ人救出を決断させたのだ! 実際にスピルバーグはテレビのインタビューにこのように答えている。「最初シンドラーは金儲けしか考えていませんでした。でも何かが彼を変えたのです」。
ゲットー解体のシーンや虐殺シーンはもちろん迫力があるが、この映画の主人公はあくまでシンドラーだ。しかしスピルバーグは決してシンドラーをただのカリスマとして描いているわけではない。無類の女好きで酒好き、といった人間くさい面もユーモアを交えて紹介している。
戦後のシンドラーはドイツで工場を経営したり、アルゼンチンで牧場を経営したりするものの、成功したとは言えなかったし、エミーリェ(2001年10月5日ベルリンで死去)との結婚生活も順風満帆とは行かなかった。あれだけのことをやった人としては意外にも思えるが、大戦下のあの異常な状況の中でこそシンドラーという人の凄み、カリスマ性が発揮できたのだろう。
戦後のユダヤ人の運命も決して平坦なものではなかった。それはソ連軍の兵士がブリンリッツの工場解放を告げるためにやって来た時、「東へは行かん方が良い。歓迎されんだろう。私だったら西へ行くのも止める」と言ったのが暗示している。このように大戦中に限らず、ユダヤ人が本当に気の毒な運命にあったことについては同情を禁じ得ない。ただ忘れてはならないのは、戦後になって多くのユダヤ人がパレスチナに移住し、イスラエルが建国されて現在に至る過程で、今度はユダヤ人がパレスチナに住んでいたアラブ人に対して、加害者になったケースも数多くあったことだ。
この映画を観るにあたっては、これが厳然たる歴史的事実であること、中国をはじめとするアジアへの戦争中の行為を考える時、単に我々にとって「ドイツは酷い」では済まされない問題を含んでいること、シンドラーや前述のワレンバーグ、日本人外交官杉原千畝、アンネ一家を匿った人々、そして名も知られない多くの人々のように、自らの危険を顧みずユダヤ人を救った人々の存在も、大いなる悲劇の中の一筋の光として忘れられない。
シンドラー本人は次のように語っている。「私はキリスト教徒として、ユダヤ人達がひどい仕打ちを受けているのを見て関心を持たざるを得ませんでした。人間として当たり前のことをしようとしたのです」。そんなシンドラーも戦後のドイツでは、裏切り者として罵声を浴びせられる場面もあったそうだ。ユダヤ人に対する根深い差別感情を感じさせる。
(第二アウシュビッツとも言われるビルケナウの死の門、映画にも登場する)
シンドラーの工場だった住所がガイドブックに書いてあったので訪れた。クラクフのゲットーがあった旧ユダヤ人地区(カジミエーシュ地区)から比較的近い川向こうの筈だった。幸い町中に簡単な地図があったのでそのイメージを頭に入れて向かったが、何人もの人に聞いても肝心のリポヴァ通りが見つからない。探し始めて2時間近く経って諦めかけていた頃、1人のおじさんが連れて行ってくれた。結果的には地図の位置とはずいぶんかけ離れた場所だった。今ではもちろん他の会社となっているが、まぎれもなく映画に登場したあの建物だ。おじさんは写真を撮らせてくれないばかりか、名前も教えてくれなかった。でもこんな人との出会いが、旅を楽しくまた充実したものにしてくれる。お土産を渡し、お礼を言って24番のトラムでさわやかな気分の中、駅前のホテルに帰った。
(初めて映画を観た日 1994年5月9日 2001年8月1日訪問)
(写真は泊まったホテル オイロペイスキー)
現在、コメントの書き込みがありません。
現在、トラックバックはありません。