日本の旅 関西を歩く 京都府舞鶴、岸壁の母の引揚桟橋周辺:さすらいおじさんさんの旅行ブログ
岸壁の母(がんぺきのはは)は第二次世界大戦後、旧ソ連に抑留された息子・新二さんが開放され、引揚船で帰ってくるのを東京都大森に居住しながら1950年1月の引揚船初入港から6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立った端野いせ(はしの いせ1899−1981年)さんの通称だ。端野いせさんをモデルにした「岸壁の母」は歌や映画にもなったが1944年に中国牡丹江で行方不明になった新二さんの死亡理由認定書が1954年に厚生省から発行された。
(歌詞)母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに ひかされて
(台詞)また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない、この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか、港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ、帰れないなら大きな声で、お願いせめて、せめて一言。
(歌詞)呼んで下さい おがみます あゝおっ母さん よく来たと 海山千里と 云うけれど
何で遠かろ 何で遠かろ 母と子に
(台詞)あれから十年あの子はどうしているじゃろう。雪と風のシベリアは寒いじゃろうつらかったじゃろうといのちの限り抱きしめてこの肌で温めてやりたいその日の来るまで死にはせん。
いつまでも待っている。
(歌詞)悲願十年 この祈り 神様だけが 知っている 流れる雲より 風よりも つらいさだめの つらいさだめの 杖ひとつ
(台詞)ああ風よ、心あらば伝えてよ。愛し子待ちて今日も又 怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を。
母の息子への深い愛情とせつなさをひしひしと感じる名曲なのだが、端野いせさんは息子を案じながら1981年に亡くなった。ところが2000年に端野新二(1926年− )さんが中国で生存していたことがわかった。新二さんは終戦前にソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され、満州に移された後は中国共産党・八路軍に従軍した。中華人民共和国の成立後は上海でレントゲン技師として暮らし、家族ももうけていた。新二さんは日本で母親のいせさんが自分の帰りを待っていたことは知っていたが、自身の生存を知らせることも帰国することもしなかった。その理由について新二さんと面会した「引揚を記念する舞鶴全国友の会」のメンバーに「母が舞鶴で待っていることは人づてに聞いて知っていたが帰れなかった。死んだことになっている自分が帰れば、歌にまでなり有名になっている母のイメージをすべて壊すことになる。今更帰れなかった」と語ったそうだ。新二さんを知る人の話では実際の理由はソ連軍一斉攻撃の際、牡丹江の陣地を無断で離れたことに後ろめたさがあったのだろうという。また新二さんは端野いせさんの実子でなく函館の資産家・橋本家から貰った養子だったことから、母への愛情をいせさんほどには感じていなかったのだろう、などさまざまな推測や憶測が流れているが真実は不明だ。息子の帰国を待ち続けたいせさんは気の毒だが、胸を張って日本に帰れなかった新二さんも戦争犠牲者の一人だろう。
(写真は平引揚桟橋の光景)

さすらいおじさんさん
こんにちは。はじめまして。なつ0905と申します。
この夏、丹後半島の方を旅しようと思っておりまして旅行記にお邪魔致しました。実は昨年の山形〜新潟の旅の際もさすらいおじさんの沢山の旅行記にお邪魔しておりましたが、ご挨拶せず大変失礼致しました。
舞鶴に是非立ち寄ろうと計画中です。戦争のこともたまには身近に感じてみようと思っておりますが、さすらいおじさんのこの旅行記で「岸壁の母」のモデルになった母子の実話を初めて知りまして。。感じることもありメッセージさせていただいた次第です。
日本地図、もうすべて埋まっていらっしゃるんですね〜。カッコいいなぁ。。これからもどうぞよろしくお願い致します。

なつ0905さん
ご訪問とコメントをありがとうございます。
こちらこそご挨拶もせず失礼しております。これからもよろしくお願いします。
私のつたない旅行記がなつ0905さんの山形、新潟、舞鶴などの旅の参考になっているとのこと、嬉しいです。
昨年春は東北、中部、若狭方面をドライブ旅行する機会に恵まれ、長年訪ねたかった名所、史跡などを見ることができよい思い出になりました。
舞鶴の「岸壁の母」の桟橋にも初めて訪問できました。舞鶴は軍港としての歴史があり、現在も海上自衛隊の基地があるので独特の雰囲気を感じました。
どうぞ楽しい旅をなさってください。
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