熊本城探訪記:山菜迷人さんの旅行ブログ
9月半ば熊本城を訪ねた。熊本城は、大阪城、名古屋城と並んで日本三名城の一つとされる。
戦国時代の肥後国は、守護菊池氏の衰退の後、長らく50余りの国衆が割拠する状態が続いた。1580年代に入ると肥後は薩摩の島津氏の支配下に納まるが、1587年5月、豊臣秀吉の九州征伐により肥後は島津氏から没収され、同年6月、佐々成政に与えられ、52人といわれる国衆の本領は安堵された。
国衆の独立志向が強いことを察知した秀吉は成政に、統治にあたっては一揆が起こらないように配慮し、検地(太閤検地)は3年間行わないなど融和的な政策を採るよう指示していた。しかし、成政はこれを守らずただちに検地を行った。ただし、この根拠となっている秀吉文書は偽文書の可能性が高いという話もあるのだが・・・
同年7月、隈部親永(隈府城主)・親泰(山鹿城村城主)父子が、秀吉の安堵を受けているのだから検地を受け入れる必要はない、として検地に反抗して挙兵すると、国衆の多くがこれに呼応し、肥後全域を巻き込んだ大規模な反乱へと発展。成政は隈部父子の居城を攻撃するが守りが堅く手こずり、逆に居城の隈本城が甲斐親英・菊池武国らの猛攻撃を受け落城寸前まで追い込まれるなど、大苦戦をやむなくされた。九州を「唐入り」の兵站基地と位置づける秀吉は、一揆が拡大することに危機感を抱き、九州・四国の諸大名を総動員し、同年12月にようやく一揆は鎮圧された。これが肥後国人一揆と呼ばれる騒動である。佐々成政はその責任をとって切腹。加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入った。
加藤清正は1591年、茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始める。松本城の美しさを基に築かれたというその城は、名前も熊本城と改められ1632年以降は細川藩の居城として栄えたのだった。熊本城は、西南の役の最中1877年に焼失し、1960年に再建され、現在に至っている。
とまあ、熊本城の歴史をおさらいした上で、熊本城を訪れたのだが、名古屋城にしろ、大阪城にしろ何だか二次元的な感じなのだが、この城は立体的である。城郭の面積という意味では山形城、姫路城、江戸城、大阪城のほうが広いと思う。しかし、石垣の高さ、重層的な構造、その存在感は僕の見てきた城の中で随一である。しかも、本丸御殿は当時の工法、当時の材料を使って、残っている資料に基づき忠実に再現されるなど、保存の仕方、残し方も意義深い。良い物を見せてもらいました。
本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建てられたため、地下通路がある。御殿への正式な入口であり、「闇り通路」と呼ばれているが、このような地下通路を持つ御殿建築は全国にも例がないのではないかなぁ。
本丸御殿内の厨房部分の天井の梁。煙だしのためのまどがあり、雨が降ると吹き込んでくるという。熊本産の赤松がメインで、全て国産の松を使っているという。しかも、工法も当時のまま、若い人にも参加してもらって、伝統技術の伝承もできたと説明されていた。
熊本城にまつわる雑学
熊本城の別名「銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられたこの銀杏の木である。これは万一、籠城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという。ただし、この大銀杏の木は雄木で実は生らないため、後世生まれた俗説と考えられている。また、清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」とつぶやいたというが、明治時代、清正が植えた銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになり、奇しくも明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦場となった。
くまもと阪神8階には、熊本城を望む絶好のスポットがある。その窓越しに写した一枚。雨が降っているので、少し霞んだ感じで天守、その右に本丸御殿が写る。
ゆっくり堪能した後、同じフロアーにある中華園でタイピーエンをいただいた。これがまた旨かったなぁ。
西南戦争の際、薩軍に包囲されている最中、伍長谷村圭介は高瀬の本体まで状態を報告する命令を受け、2度も薩軍に捕まりながら、隙を見て逃げ出して無事任務を遂行したのだそうな。
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