「戦場のピアニスト」の世界 ワルシャワ蜂起記念碑 ・ ムラヌフ地区 ・ ゲットー蜂起記念碑 ・ ウムシュラークプラッツ(UMSCHLAGPLATZ) 第二次世界大戦下のポーランド:straszewskaさんの旅行ブログ
1939-1945年の第二次世界大戦で、ポーランドは未曾有の被害をこうむりました。特に首都ワルシャワでは、市民蜂起軍とナチス・ドイツ軍の徹底抗戦の末、見渡すかぎり 一面焦土とかし、20万人以上の戦死者を出しました。
この市民蜂起は、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻から5年が経過した1944年8月1日に起こりました。ドイツ軍 に各地で連勝していたソ連軍がついにヴィスワ川右岸に達したことを見計らい、ソ連軍という強力な後ろ盾を支えに、ワルシャワ各地で市民が武器を手に一斉蜂起 したのです。
ところで後ろの青い柱とガラス張りの建物は、ワルシャワ最高裁判所です。青い柱は広場正面からBonifraterska 通りを横切って、通りの向こうまで続いており、はっきりいってワルシャワ蜂起記念碑よりも最高裁の建物のほうが目立っています。
バルバカン外壁にたつ少年蜂起兵の像
Pomnik Małego Powstańca
ワルシャワ市民蜂起では、10代以下の少年・少女も、手に手に武器を取り、ドイツ軍に立ち向かいました。
体の大きさに見合わない大きな銃を下げている姿が涙を誘います。。ワルシャワ市民蜂起の様子は、アンジェイ・ワイダ監督の映画「地下水道」に詳しく描かれています。
ワルシャワ ゲットー記念碑 ムラヌフ地区
ムラヌフ地区はもともと戦前にユダヤ人が多く住んでいた地区で、1939年ワルシャワがナチス・ドイツ軍に占領されると、このムラヌフ地区にユダヤ人居住区(ゲットーgetto)が設けられました。 ユダヤ人は腕に青いユダヤの星をつけることを義務付けられ、ゲットーに強制移住となりました。一方、ゲットーに設定された地区に住んでいたポーランド人も、逆にゲットーの外に強制移住になりました。
ゲットー記念碑は、観光客が大勢集まる旧市街広場・王宮前広場から歩いて10分ほどのところ 、ザメンホフ通り(ul. Zamenhofa)の一角にあります。碑の表側には1943年のゲットー蜂起の様子が彫刻されています。ここはうってかわって観光客の姿はまばらです。
パネル展にて当時のゲットーの様子を紹介していました。
ゲットーが設立された当初、ゲットー内には30万人以上のユダヤ人がひしめき合って住んでいました。ゲットーは大ゲット ーと小ゲットーからなり、2つの区画は歩道橋で結ばれていました。しかし飢えや衛生状態の悪化からゲットーの人口はどんどん減っていき、更に1942年夏にゲットーから収容所へのユダヤ人輸送が開始されると、まずは小ゲットーが解体され、1942年9月にはついに大ゲットーも解体され、残っていた人々はザメンホフ通り東側の閉鎖された居住区に追い立てられました。
ゲットー蜂起英雄の碑
ザメンホフ通りとミワ通りの交差点に、ゲットー蜂起の指導者らを追悼するモニュメントが建っています。イスラエルからの修学旅行生が必ず立ち寄る場所で、いつもたえることなくお花が飾れれていますが、他の観光客の姿はほとんどありません。
死の待合室ーウムシュラークプラッツ
UMSCHLAGPLATZ
ウムシュラークプラッツは、もともとはグダニスク方面へ向かう貨物列車の荷物詰め替え場所でした。しかしワルシャワがナチス・ドイツ軍に占領され、ゲットー にいたユダヤ人の収容所への輸送が開始されると、この広場が、絶滅収容所行き列車の待合室となりました。
現在この場所は、芝に覆われた空き地になっています。空き地の南東の一角に は、貨物列車一両分の大きさをかたどったモニュメントが建ち、英語・ポーランド語・ヘブライ語で追悼文が刻まれています。
映画「戦場のピアニスト」でもウムシュラークプラッツの様子が詳しく描かれています。主人公ヴワデッ
ク・シュピルマンの一家は、ゲットーからウムシュラークプラッツへと追い立てられ 、収容所行きの列車に乗る列にならばされました。その時運良く、ユダヤ人自衛警察となっていた友人ヘス がヴワデック・シュピルマンの姿を見つけ、彼を列から引きずり出しました。こうしてヘスに助けられ、トレブリンカ行きを逃れたシュピルマンは 、その後ゲットーからも脱走し戦争を生き延びることができました。しかし彼の家族はそのまま列車でトレブリンカ収容所に運ばれ、助かりませんでした。写真は当時の様子(パネル展から )
続きは私のウェブサイトにてご覧ください。
http://sachiko.vip.interia.pl/polska/waw5.html
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