タイムアップ寸前の出島観光:ぬいぬいさんの旅行ブログ
これは15分の1に縮小した出島の模型。もともとこの場所はシーボルトが作った薬草園だったところだそうです。
倉場富三郎(T.B.グラバーの息子)や荘田平五郎などを発起人として、英国人のF.リンガーによって建てられた英国式の洋風建築で、当時は、会議室、応接室、遊技場、図書室、食堂、バー等があり、女人禁制だったので婦人トイレは設けてなかったようです。
出島の西側にあるこの門は水門と呼ばれ、表門より重要な役割をになっていました。この門の前に船をつけて西洋と日本の文化・学術・貿易品が最初に出入りした門です。
この旧石倉は2階建ての石造倉庫で、安政6年(1859年)に出島オランダ商館が閉鎖された後の建物です。昭和31年に残っていた礎石の上に古い写真を参考に半分を復元し、更に平成8年現在の形に整備復元しました。
この時鐘は「メイザン」の名で多くの資料に記録されていますが、その位置は建替の度に移動したようです。ひもを引いて鳴らす西洋式の鐘で、18世紀のオランダで実際に用いられたものを吊っているそうです。
当時の出島の商館員は、昼夕2回、カピタン部屋に集まり食事をとる習慣があり、オランダ人のほか、東南アジアの人や日本人の使用人が調理をしていたそうです。
出島の歴史について全く触れないで写真の説明が進んでしまいましたが、今更ですがちょっと雑学程度に説明を・・・
出島が造られたのは、鎖国の体制強化を図る幕府が、キリスト教の布教を阻止するために、当時市内に雑居していたポルトガル人を収容する目的がありました。はじめはオランダ人を対象としていたものではなかったのですね。
出島の完成により幕府はキリシタンの取締りと同時に外国との貿易も掌握できるというメリットももたらされました。
築造当時の出島の広さは、約15,000平方メートルあり、庭園をはじめ家屋、倉庫、炊事場、飼育小屋など数十棟が建ち並び、一つの町を形成していました。
築造に要した工事費用は、長崎の豪商たち25人が出資し、居住するポルトガル人の支払う家賃によって返済されることになっていたそうです。
しかし、予定通りにはいかないもので、完成の翌年「島原の乱」の勃発により、キリシタン弾圧をさらに強化され、1639年にはポルトガル船の日本渡航を全面禁止し、ポルトガル人を国外へ追放してしまいました。
スポンサーの豪商たちは莫大な費用をかけて造った出島の家賃収入が途絶え、官民あげて幕府へ窮状を訴えたようです。
以来、安政の開国(1859年)までの218年間、出島は鎖国の日本にあって、西欧の新しい文化や知識をもたらす唯一の窓口となったわけです。
この門柱は陶製で、柱にはオランダのペトゥルス・レグゥー窯のマークが刻まれていて、当時出島にあった店舗に使用されていたようです。
初めて訪れた長崎の町でしたが、この町すごく気に入ってしまいました。また近いうちに訪れることになりそうな予感がします。

こんばんわ〜〜
門司〜長崎の旅行記を参考にさせていただきたくじっくり拝見させていただきました。
私も長崎滞在が約3時間強の予定なので、
かなり時間的に忙しく見て周らないといけないなと
今旅行記を拝見していて思いました。
出島にはこんなにたくさん見学できる建物があるんですね〜〜
これは、かなり絞っていかないと
当日大変なことになりそうな予感・・・・
あれも見たいこれも見たいと思いながら後ろ髪引かれながらの旅になりそうです。
たらよろ

たらよろさん こんばんは
3月は九州横断ですか。もしかして車で?
長崎は見所満載で3時間ではちょっと回りきれないかも。
まだ写真アップしてませんが、やっぱりグラーバー園と大浦天主堂ははずせま
せんよ。出島はテーマパークといった感じでこれは行かなくてもいいかも。
中華街も日本最古の割には200m程度の2本の交差する通りだけで、横浜や
神戸と比べるとかなり小さくて10分もあれば十分です。
九州はどこまで足を伸ばすんですか?

こんばんわ〜
早速ありがとうございます。
グラバー園と大浦天主堂は必ず行きたいと思ってます。
出島は絶対ではないのですね。
後、眼鏡橋も悩んでたのですが、やめになりそう・・・・
中華街はお昼ご飯を食べるつもりです。
もしかして、、、とおっしゃるように、九州は車です。
といっても、旦那様が休みを1日私より多く取れたので
先に出発し、私は飛行機で追いかけ、福岡で合流予定です。
その後、長崎〜熊本、宮崎、鹿児島まで足を伸ばします。
走行距離は果たしてどれだけ???
忙しくも楽しい、美味しい旅になりそうです。
たらよろ
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