大学キャンパスめぐり VOL.2 清泉女子大本館〜旧島津公爵邸〜:ぬいぬいさんの旅行ブログ
私の住んでいる五反田には駅の北側に島津山と池田山と呼ぶ2つの高級住宅街があります。いずれも江戸の頃の有力大名であった仙台伊達藩と鳥取池田藩の下屋敷のあったところで、明治6年伊達藩の下屋敷だったところを桜田門に下屋敷のあった旧島津藩の島津公爵が手に入れ公式行事の場として使っていました。
明治39年に160年近く経過した建物は老朽化し、ジョサイア・コンドルに設計を依頼し英国風の洋館に建替えることになりました。設計と施工に9年の歳月を費やし、大正4年(1915年)に竣工しました。3万坪の広大な敷地にはピーク時には200名を超える使用人がいたといいますから半端なお金持ちではなかったようですね。
そんな島津家も昭和初期の金融恐慌のあおりで昭和4年に8000坪だけ残して周辺部を売却、戦時中自宅の維持も困難になり日銀に売却、戦後はGHQに接収され29年まで駐留軍将校の宿舎として使用されてきました。その後昭和36年清泉女子大学に売却され、校舎として使われ現在に至っています。
内部の使用用途は変わったものの、大正初期の栄華を誇った華族の生活を髣髴させる素晴らしい建物でした。
最後に見学をご希望の方は、清泉女子大学のホームページを見ると予約方法が記載されています。詳しくはこちらにアクセスしてみてください。
http://www.seisen-u.ac.jp/shimazu/03_3indoor.html
尚、男性の方一人の見学は肩身の狭い思いをしますので、できれば女性を伴っての見学をお勧めします。
山手線の五反田駅の北側には地元の人たちが島津山と呼んでいる高級住宅街があります。その島津山にある清泉女子大学、その敷地内に旧島津公爵邸があります。
門の入口には守衛さんがいますからいきなり行っても中に入れてはくれません。
この島津公爵邸は1906年(明治39年)にジョサイア・コンドルに設計を依頼し、1917年(大正6年)竣工するまで足掛け9年かけて建てられました。なぜこんな長い年月を要したのか不思議に思って調べてみると、途中設計段階での大幅な変更が2,3度あり、明治天皇の崩御の影響もあり、長引いてしまったようです。
建物は煉瓦造地下1階、地上2階建で、現在は清泉女子大の本館として利用されています。
玄関ポーチは、堂々とした構えで、独立した円柱と半円柱がパラペットを受けています。外壁の隅石や円柱に用いられた石は新小松石(伊豆石)で、伊豆の真鶴から採れる安山岩を使用しています。この玄関部分は普段は開いておりませんので、入口はぐるり北側をまわってRC棟の校舎から入る事になります。
年に12回だけ午前と午後に分けて都合1日4回の内部見学会があり、人数も1回10名限定とされています。
人数がそろうまでホールのソファで渡された資料を見ながら待ちます。
なんせ女子大ですから、おじさん一人ではまずいと思い、今日だけは女房を連れての見学です。
でも正解でした。見学者残り8人すべて女性、案内してくれたのは史学科の現役女子大生、歩いているのは女子大生・・・女の園で、おじさん一人カメラをもってふらふらしてたら通報されてしまいますよね。
それでは建物の内部を見ていきましょう。
清泉女子大学はキリスト教系の学校のため、本館内にチャペルがありますが、ここはもとはバンケットホールとして使われていた部屋です。
この部屋はベランダに面した応接室として使われていた部屋です。いまも同じような使われ方をしています。この窓はアールになっていてガラス自体がアールが付いて今のガラスと違ってガラスに凹凸がありそれがいい味出しています。
この建物の特徴は、ほとんどの部屋が廊下に面した出入り口以外に、隣に出入りする出入り口が部屋の中についていることです。ほとんどが続き部屋になっているんですね。唯一どの部屋か忘れましたが、一室だけ出入り口が一ヶ所だけの部屋があります。
ここが最初にあった写真の正面玄関ポーチの内側です。大邸宅の割りに玄関部分が狭いような感じを受けました。
でもこの玄関は来客用のもので、家族の中では公爵しか使うことはできず、家族や使用人は別の出入り口を利用していたそうです。
それだけ家長である公爵の権力は絶大だったんでしょうね。
玄関ドアにはめ込まれたステンドグラスの中央部を良く見てください。丸に十字の島津家の家紋が入っています。
これは玄関を入って右手の壁がガラスのパネルの間仕切りになっていて、何箇所かカットガラスの中央がレンズ状になっている窓で、正面から見ると普通の厚いガラスのように見えますが角度を変えるとレンズを通して違った光景を見ることができます。
この建物で一番のお気に入り部分です。カットガラスのレンズを通して映るステンドグラスいいなあ〜。このガラスもたった頃のままで、同じ物を現在作ろうとするととんでもない金額がかかるとか・・・。
家族の食堂の奥にある宿直室の脇の出入り口の床タイル。結構おしゃれです。今でも十分通用しますね。
ここが使用人や家族の出入り口で、子供たちの出入りは宿直室にいる守衛がチェックしていたとか。当然門限などもあって厳しい教育をされていたんでしょうね。
室内の共用部はほとんど赤いじゅうたんが敷かれていましたがもともとは板張りだったようです。
米軍に接収された際、結構内装を変えられてしまったようで2階の部屋などはほとんど白いペンキを塗られた壁などが残ったままになっています。
この写真何気なく手摺を写してみましたが結構いい感じですね。
ここは2階の階段上のホールになっている場所。2階のほとんどの部屋は教室や事務室の使われていてバルコニーに面した部屋はほとんど見ることができませんでした。
レッドカーペット敷きになっています。
子供室に残っていた鍵穴隠し
この部屋の建具は米軍に接収されていた頃白く塗られてしまったようで、素人仕事と明らかにわかるようなムラだらけのペンキ仕上げとなっていました。もともとこの鍵穴隠しはすべてのドアについていたようですが残されているのはここを含めて数えるほどに減っていました。
外観はイタリアルネッサンスの邸宅建築に用いられたモチーフを取り入れた、古典的規範が継承された建物です。これはジョサイア・コンドルの晩年の作で、現存して一般公開しているのは建物は6つだけになってしまいましたので貴重な存在です。都内に残る岩崎邸、古河邸、綱町三井倶楽部、三菱開東閣 皆雰囲気が違います。
この建物煉瓦造りですが外壁には白いタイルを貼っています。当時の煉瓦造というとすべて赤レンガの地肌がむき出しの建物ばかりでしたから、その上に白いタイルを貼った外壁は当時としては珍しい斬新な仕上げだったようです。
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ぬいぬいさんへ
はじめまして、ジョサイアコンドルが出ていので、
拝見していましたら、鹿鳴館のオブジェを発見。
壁紙に金唐紙はありませんでしたか、なんて。
護国寺の外人墓地に妻のくめさんと眠っていて、
合掌。
懐かしく拝見しました。
ありがとうございまいました。
一歩人より

一歩人さん こんばんは
ジョサイアコンドルが大好きでいろいろ見て回りましたが、島津邸は家の近所でいつでもいける場所だったのですが、女子大ということもあり、どうも敷居が高くて、なかなか行けなかった所でした。
この写真のこれって鹿鳴館にあったものなんですか?
岩崎邸には金唐革紙ありましたが島津邸にはありませんでしたね。
もっとも米軍が接収していた時期に、壁もドアもすべてペンキで真っ白に塗りたくってしまったそうですからもともとはあったのかも知れませんが、どうも定かではありません。
護国寺のコンドル御夫妻のお墓にもお参りに行きました。
http://4travel.jp/traveler/nuinui/pict/12271788/

なんと、島津邸見学できるのですね。
知らなかった。。。
しかも清泉って入校厳しいので、緊張しそうですね。
やはりコンドル先生の作品だけあって、美しいですね。
私も教えていただいたサイトより応募してみます。
楽しみ!!

島津邸 女子大の校舎で使っているので、授業をやっている部屋は見れませんが、ちゃんと史学科の女子大生が説明付きで案内してくれます。
見学のあとは庭も散策できます。
ここ 絶対お勧めです。
ジョサイア・コンドル大好きで東京に残っているほとんどの建物見ています。
1年前に発売になった「物語 ジョサイア・コンドル」と言う本まで読んで、彼の教え子たちの建物も見て回りました。
彼の眠る護国寺のお墓にもお参りに行きました。
結構はまりましたが、この夏は、メンソレータムの創業者でもあるヴォーリズにはまって近江八幡、京都、大阪、神戸とヴォーリズの遺構を捜し求めて彷徨っていました。
とことん突き詰めないと気がすまない性格なんでしょうか?
自分でもかなりマニアックかと思うけどやめられないなあ〜。

建てた方によって、建物のにも顔があるのか、なんとなく同じ雰囲気がありますよねぇ。
弟子の作品にもやはり共通した影響が見られるのでしょうか?
名建築家の建物も面白いですが、田舎の棟梁が建てた洋館風もあるいみ顔が見えて面白いですよね。
中込小学校とか、開智小学校とか。
また、洋館が見たくなってきました。
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