彩の路(いろどりのみち)・2 【足守と吉備路】:レモンパパさんの旅行ブログ
足守は慶長6年(1601年)、豊臣秀吉の正室ねねの実兄を藩祖とする、木下家2万5千石の陣屋町です。
町の形成に本格的に着手したのは、寛永14年(1637年)に四代藩主となった木下利当(としまさ)です。
さらに、五代利貞(としさだ)のころに、完成されました。
現在もそこには、千本格子や切子格子など端正な格子を見ることができます。
『柿を喰わねば・・・ 鐘を鳴らせぬ 乗典寺』
鐘を打ちたし されど干し柿がジャマをする...
わたしゃ、どうすればいいの?
緒方洪庵、誕生の地。
蘭学者の洪庵(1810〜1863年)は、足守藩士佐伯瀬左衛門の三男として生まれました。
備中高松城跡
戦国期に、三村氏の重臣石川久武が築城したといわれる。
天正10年(1582年)、羽柴秀吉がこの周囲に堤防を築き、足守川の水を引き入れて、清水宗治が守る城を水攻めにした。
高松城水攻築堤跡(蛙が鼻築堤跡)
当時の堤防は、高さ8m・上部の幅12m・長さ3kmもあったそうです。
わずか12日間の土木工事でした。
ここは、その東端部。
しばらく車を走らせると、見えてきたのは『矢喰神社(やぐいじんじゃ)』です。
『吉備津宮縁起』によると、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の射た矢と、温羅(うら)の射た矢が空中でぶつかって落ちたところとされています。
温羅伝説では命が2本の矢を同時に放ち、1本は温羅の投げた岩とぶつかり、1本は温羅の目に命中しました。
温羅の目から吹き出した血は血吸川(ちすいかわ)に流れ、下流にある浜を真っ赤に染めたといわれています。
境内には、そのとき落ちたと伝えられる大小の5個の岩があります。
※吉備津彦命は桃太郎のモデルとされ、また温羅は鬼のモデルとされています。
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