2007年9月 川中島古戦場(武田信玄公Vs上杉謙信公):めるくんさんの旅行ブログ
海津城です。永禄3年(1560年)頃、武田信玄公が上杉謙信公との決戦に備え、家臣の山本勘助に命じて築かせたお城です。
甲府を出陣した信玄公は一旦茶臼山(長野市)に陣を置きます。そして妻女山(長野市)に陣をおいた謙信公と数日対峙した後に海津城に入城しました。
海津城方面です。妻女山に陣を置いた謙信公は、信玄公が海津城に入城した後も全く動きませんでした。そこで武田軍は軍を二手に分けて、一方は妻女山の陣所を奇襲、一方は妻女山麓で待ち伏せする啄木鳥戦法を用いることとしました。(啄木鳥がくちばしで木を突き、驚いて穴から出てきた虫を捕獲する事に例えた)山本勘助の提案といわれております。
そして永禄四年(1561年)9月10日早朝、武田軍奇襲隊は妻女山の上杉陣地を奇襲しますが、そこはもぬけの殻でした。一方武田軍待ち伏せ隊も八幡原付近に陣をおきますが深い霧のため見通しがききませんでした。やがて夜が明け徐々に霧が薄れると、何と目の前には上杉軍全軍が陣を構えてました。
かくして八幡原で両軍の死闘が始まりました。武田軍は全軍の約半数を妻女山の奇襲に充てたため、兵力に勝る上杉軍が優勢となりました。防戦一方の武田軍は信玄公の実弟で武田軍副将の武田信繁公、重臣の諸角虎定、山本勘助などが相次いで討ち死にしました。
三太刀七太刀の石碑です。謙信公は馬上より三度太刀で斬りつけ、信玄公は軍配でその攻撃を防いだそうです。しかし後にその軍配を調べたところ、刀傷が七ヶ所あったために三太刀七太刀といわれるようになりました。
南長野運動公園にある館助宮跡地です。この付近で山本勘助は上杉軍に討ち取られたそうです。啄木鳥戦法の失敗の責任を感じて敵陣めがけて突進したそうです。
八幡原史跡公園の南側におぎのやという釜飯屋があります。そこの駐車場の片隅に胴合橋という史跡があります。上杉軍に討ち取られた山本勘助の首を武田軍が奪い返し、この付近で首と胴を合わせて勘助であると確認したそうです。
諸角虎定のお墓です。81歳の討ち死にだったそうです。
この戦いで甲越両軍は三万人前後の兵力を動員しましたが、七〜八千人もの戦死者を出したそうです。武田軍としては川中島一帯を引き続き支配下に置くことができ、上杉軍としては武田軍の北進をこの地で阻止することができたので、この戦いについては両軍引き分けとの評価となってます。

有名な像ですね。
ところで
>軍配を調べたところ、刀傷が七ヶ所あったために三太刀七太刀といわれるようになりました。
すごいよね。
皆、一騎打ちを信じてしまうよ。
本当は何の時の刀傷なんだろう・・・

有名な像ですがあくまでも伝説です。数万の兵が入り乱れる大混戦の中、
総大将が単騎で敵陣に乗り込むなどあり得ないと思われます。
しかしながら戦国を代表する英傑同士ですから、
それに近い出来事があったのかも知れません。
誰にも真実がわからない・・・まさに伝説・・・戦国浪漫ですな。
現在、トラックバックはありません。