トルコ料理 トルココーヒー ―金角湾を望むチャイハネにて:marukunさんの旅行ブログ
トルコではチャイをよく飲んだ。
暑くて乾いた大地に不思議と熱くて甘い紅茶が清涼感を与えてくれ、疲れがとれた。
小さなグラスにお茶を注ぎ、砂糖をたっぷり入れて飲む。
トルコは村・集落の数だけモスクがあるとされるが、モスク以上にチャイハネ(喫茶店)があるらしい。
どんな寒村や僻地の村であろうと、ひとが集まるところにチャイハネがある。
トルコのひとびとにとって欠かすことのできないオアシスなのだ。
そして人生最大の楽しみであるのだ。
おもに男たちの社交場であるチャイハネは、朝夕問わずチャイを啜りながら水パイプの煙草を燻らせたり、バックギャモンのようなゲームをしたり、あるいは昨今のインフレ率の高さを嘆きあったり、いい儲け話はないかと職業安定所のような機能をもちあわせていたり、憩いと社交と議論の場であり、その用途はたんに茶を飲むだけにとどまらないのだ。
ところでチャイはともかく、コーヒー(カフア)はどこへ消えたのだろうか
「トルココーヒー」の名で知られているドロリとした泥のようなコーヒーは庶民には飲まれていないようだった。
大抵のひとはチャイで、トルコのイメージが変わったことのひとつだ。
トルココーヒーはどこへ消えたのか?
「――コーヒー起源伝説はすべてイスラームの僧侶伝説であり、しかも単に偉い僧侶というものではなく、一定の宗派を指定している。すべてスーフィーと呼ばれるイスラーム神秘主義の僧侶であり、さらに限定すれば、アル・シャージリーによって開かれたシャージリーア教団のスーフィーである。この教団とコーヒーの結びつきは極めて強く、アルジェリアではコーヒーをシャージリーエと呼ぶ。東アフリカを原産地とするコーヒーの木からコーヒーという飲み物を作り出すには、イスラーム神秘主義の僧侶、
スーフィーたちの関与するところが大であったと考えられるのである――。『コーヒーが廻り世界史が回る』臼井隆一著 中央公論社刊 」
著によると、アラビア語でコーヒーはワインと同義語で「カウア」であるという。
16世紀、スーフィーたちがコーヒーを伝播したのは「夜も眠らず神と一体となるべくひたすら祈り続ける」手助けとしたためだ。
カフェインの効用である。
コーヒーを巡り宗教論争が起こり、また一時弾圧を受けてきた。
しかし、コーヒーはまたたくまにトルコを席巻した。
「――オスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールには1554年、ハクムとシャムスというシリア人によって2軒の「コーヒーの家」が建てられた。その数はたちまち増え、スレイマン2世の政治下(1566−74)のイスタンブールにはすでに600余りもの「コーヒーの家」があった――。コーヒーが廻り世界史が回る」臼井隆一著 中央公論社刊 」
それなのに、どうしてトルコではコーヒーが紅茶(チャイ)にとって変わったのだろうか。
ヨーロッパにもたらしたコーヒーはまたたくまに西欧社会に根づいたというのに。
コーヒーの上澄みのみを飲み、カップの底に残った粉で占いを楽しむ、とされたトルココーヒーはついぞ旅行中おみかけせず、あるのはインスタントコーヒーだけだった。
―突厥―の名の通り、やはりトルコ人は中央アジアの民族であり、「茶の文化圏」に属するからなのだと、勝手な解釈で納得していた。
しかし、帰国後、1年たって答えが判明した。
「――外貨不足のため豆の輸入量が少なく、なかなかお目にかかれない―『地球の歩き方 92年版トルコ』ダイヤモンド社刊 」なのだそうである。
チャイはコーヒーの代用品としてトルコでは普及したようだ。
トルコの飲み物といえば、ラクを忘れてはならない。
別名「ライオンのミルク」といわれる透明なアルコール度の大変強い酒である。
水で割ると、ミルクのように白く濁るのだが、なぜライオンの〜と呼ばれるのかはわからない。
トルコ人にかぎらず、昔のアナトリアのひとびともライオンを好んでいるようだ。
アナトリア考古学博物館の展示品もことあるごとにライオン像だったし、博物館の庭園の入口も2頭のライオン像が鎮座していた。英雄アタチュルクが眠る霊廟の参道も狛犬よろしく大きなライオンが守り神のようにそびえ立っていた。ヒッタイトの首都であったボガズキョイ遺跡にも獅子門がある。
それはともかく、このスピリッツ系の酒は匂いもどきつくなかなか飲み干すのには苦労すること隣国ギリシアのウゾとまったく同じである。
白い飲み物では、「アイラン」もある。これは酸味のとても強いヨーグルトである。
ヨーグルトといえば、ブルガリアをすぐ連想してしまうが、オスマン帝国の領土拡大の賜物であろう。
トルコでは「メゼ」という前菜をはじめ、煮込み料理などにもヨーグルトがふんだんに使われる。
では、トルコの料理について話を移してみよう。
かの村上春樹氏は著にこう書いている。
「――正直にいうと、トルコ料理が苦手だった。――トルコのレストランは朝鮮料理と同じで、一歩中に入ると独特の匂いがプンと鼻をつく。そういうのが好きな人にはこたえられないのだろうし、そういにのに弱い人にはかなりきつい――。『チャイと兵隊と羊―21日間トルコ一周』村上春樹著 新潮社刊 」
私にとってトルコ料理は、こたえられないわけでも、きついわけでもなかった。
そもそも、匂いが鼻につくほどでもないのだ。
日本の保存食のほうがよっぽど鼻につく。
トルコ料理といっても、ただたんに、肉、魚、野菜を焼き、煮込み、茹で、そんな印象で、スパイスをふんだんに使うわけでもなく、食材が何だったのかわっぱりわからなくなるまでこねまわしているわけでもなく、ただただ、食材も調理も美味いと思って毎日食べていた。
そして特筆すべきことはオスマントルコ時代に世界を股にかけた栄光がトルコ料理にも反映しているということだ。
煮込み料理などはおもに東欧風であったり、肉料理おもに羊料理はアラビア風だったりする。
野菜でとくに印象深いのは、トマトとナスだ。
ナスにひき肉を詰めたもの(パトルジャンムサカ)やピラフを詰めもの(ビベルドルマ)にした料理は日本でもおなじみだ。
ブドウの葉でひき肉などをくるんだヤプラックドルマも前菜によく登場する。
クンカプのレストラン街で「食べ損ねた」ムール貝の詰め物ミディエドルマも、松の実やバターライスなどを詰めたもので、トルコ料理は「詰め物料理」ともいえる。
そのほか、今回の旅行で味わった物にキュウリのヨーグルトかけ(ジャジュック)、ジャガイモのキャセロール(パタステリ・ギュベチェ)、白豆のサラダ(クル・ファルシリラキシ)など、味付けもあっさりしており、食材の新鮮さを売り物にした料理もあるのだ。
なかでも最も印象的だったのは、アンカラ郊外のレストランでも書いたトマトだ。キュウリ、タマネギと刻んでビネガーを垂らしただけの「羊飼いのサラダ(チョバン・サラタス)」だ。
乾いた大地の草を求めて遊牧する遊牧民と羊の群れを思い浮かべ、この素朴な料理になんともいえない憧憬と郷愁までをも味わったものだ。
それにつけてもトルコのトマトは美味い。
トマトとカッパドキアの白ワインが私にとってのトルコの定番だ。
羊のように流れる雲を眼で追いながら、羊飼いのサラダをつまみつつ冷えたワインを流し込む。
至福の昼下がりである。夜も、そうであったが(笑)。
日本でも真似してみたが、湿った空気と味のしないトマトではどうしても再現できない。
肉料理に話を変えてみよう。
串にさしたおなじみの「シシケバブ」、羊肉に香辛料やミルクをまぶし、何層にもして炙り焼き、それをナイフでそいで食べる「ドネル・ケバブ」。
「キョフテ」はひき肉と香辛料をこねて、トマトで煮込んだものだ。
遊牧民の糧はなんといっても羊である。アレキサンドロスやシルクロードのキャラバンの足取りと変わらぬ各国各地域共通料理ともいえる。
トルコ料理を語るとき、ギリシア料理を語らなければすべては伝えきれない。
両国の積年の不仲はともかく、両国を旅した私たち外国人にとって、どちらも名称こそ違えども、ほとんど共通する料理が存在するというのが偽らざる感想である。
エーゲ海を挟み文化的交流の影響か、約400年にわたるトルコのギシリア支配の影響か、たぶんどちらもそうなのであろう。
しかし、実際問題としてトルコとギリシアは犬猿以上に犬猿の仲である。
日本には大変友好的なトルコのひとびとにとってギリシア問題は禁句である。
ギリシアのひとびとにとっても同じことだろう。
料理の話が政治の話しに摩り替わりそうで、このあたりでやめておこう。
旅人にとって、料理講釈は通用しても政治事情は存在しないのである。
しかし、誰もが避けてはとおれぬ道であることに変わりはない―――。
ボスフォラス海峡に架かるボスフォラス大橋を眺めることができるトプカプ宮殿内にあるレストランのテラス席にいる。
トポカプ宮殿はアンカラの博物館とは趣が異なり、オスマン帝国時代のスルタンたちの豪奢な宝石類がこれでもかこれでもかという品揃えである。
宝物殿に、無数の真珠をあしらった王座、宝石で埋め尽くされた黄金の象、エメラルドを埋め込んだ剣、そして圧巻なのが86カラット、鶏の卵ぐらいある大きなダイヤモンド――。
どれもが当時の権威を偲ばせるにありあまるいまだ輝きを保つ宝石の数々。
私にとっては、羨望よりも辟易した気分が勝り、ハーレムの見学をパスして宮殿の第4庭園にあるテラスに腰を落ち着けていたのだ。
風にあたりながら、まさしくアジアとヨーロッパを跨ぐ大橋を眺めている。
これからトルコを旅する道中に何杯も飲むであろうチャイを啜り、昨日酒を飲みすぎた胃と頭を休めながら、イスタンブールの街のことを考えていた。
この、アジアとヨーロッパの狭間でなんと多種多様な人種・民族・文化が駆け抜けていったことだろう。
首都の座は、トルコに新風を巻き起こしたムスタファ・ケマル(アタチュルク)の「近代への第一歩を踏み出す改革として」、アンカラに譲り、2千年の歴史に幕を降ろした。
しかし、それでもトルコを語るとき、イの一番に挙げる都市として誰がイスタンブールをはずすことができようか。
それは今も昔もなんら変わりがない。
この街は他に類をみない顔を持ち合わせている。
それはただたんに歴史の重みだけではなく、街があらゆるものすべてを受け入れてきたことに他ならない。歴史深い街は、都市は、イスタンブール以外にも世界中数多くある。
しかし、カイロやローマやアテネが歴史の亡霊と背中合わせでもがいてはいないか?
パリやロンドンの石畳に生の人間の息吹を感じ取ることがはたして可能か?
東京やニューヨークやシドニーにはそもそも語るものがあるか?
ここ、イスタンブールはなにもかもがありのままで、しかもあらゆるものを今日にいたってもなお吸収しつづけているような印象を受けるのだ。
雨に煙るガタラ橋、その艀から次々と魚が水揚げされてくる。
屋台ではジュウジュウと香ばしい音をたて魚が焼かれている。
急ぎ足で魚をはさんだサンドイッチをほおばる通勤者たち。
その横をイエローバスやタクシーがクラクションをけたたましく鳴らして走りすぎていく。
車の数だけクラクショの音の数がある。
そうかといえば、路地裏では昼間からチャイハネで水パイプをくゆらせ、チャイを飲むひとびと。
旅人もそのチャイハネで街の探索からひとときの癒しを求めよう。
この街では旅人さえもが、都市の時空間のなかで自由に浮遊できる。
そして、違和感なく溶け込んでいる。
イスタンブールは2千年の歴史と同じくこれからも変わることなく旅人にはコスモポリタニズムを喚起し、住民たちには貧困も繁栄も苦悩も悦びもすべてが、彼ら各々の尺度でしか意味をもたらさず、街はなにもかもに寛容なことをそっと教えられる。
なるほど、チャイハネで寛ぐ老人たちは辛苦の限り尽くした皺が顔中を覆ってはいるが、その皺が張り巡らした顔になおいっそう皺を寄せて満面の笑みをこぼすことができるのだ。
朝夕日没などの礼拝後、仕事帰りにあるいは出勤前に、昼下がりに、愛するひとと、ひとりで、友人達と、家族と、彼らにはいつも一杯のチャイがある。
彼らにはきっと、今から飲む一杯のチャイがあればそれでよいのだ。
チャイハネに行こう!
小さなグラスにはイスタンブールが凝縮された小宇宙がある。
私も彼らの流儀に習おう。
角砂糖をたくさん入れて―――。
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{%拍手webry%}Meze, a course menu of Cyprus cuisine. Common meze include meat, however, we ordered seafood meze. キプロス料理のフルコース、メゼです。一般的なメゼは肉料理が含まれますが、今回注文したのは魚料理です。...(by A GLOBETROTTER -AGT世界旅ログ- on 2008年08月05日 20:51)