池上本門寺お会式:のださんの旅行ブログ
10月13日は、日蓮聖人入滅の日ということで、各地でお会式という法要が催されます。
池上本門寺では、11日〜13日に盛大に行われ、特に12日の「万灯練供養」は、多くの参拝客でにぎわうそうです。
本門寺は近くにあるのに、今まで参拝したことはありませんでした。
13日は土曜日ですので、この機会に参拝します。
まず概要としては、1282年(弘安5年)9月8日、日蓮は湯治療養のため久遠寺を下山し、9月18日信徒の池上宗仲邸に到着し、10月13日8時ごろ入滅した。
池上宗仲は、武蔵国池上を治めていた人物だそうです。
その後、池上が土地を寄進し、日蓮の直弟である日朗が本門寺を創建した、ということですが、日蓮がこちらに来る前にすでに本門寺は存在していた、とする説もあるらしく、はっきりしないようです。
日蓮が入滅したとされる池上宗仲邸は、現在は本行寺という別の寺院だそうです。
池上本門寺を参拝し、その後大田区立郷土博物館に行こうと思います。
今回は自転車で。
総門に着きました。
本阿弥光悦の揮毫による扁額が掲げられています。
広重の浮世絵などにも描かれており、著名です。
こちらは戦災では焼け残ったのでしょうか?
参道の石段。
加藤清正の寄進・造営だそうです。
ここでのキーワードは「池波正太郎」「鬼平犯科帳」だそうです。
私は小説も読んでいませんしドラマも観ていないのでよく知りませんが、ファンにはたまらないシーンだそうです。
ここは、桜の季節にはさぞかしきれいなのでしょう。
参道を上がってから進むと、立派な仁王門が見えてきます。
こちらが三門。
旧三門は徳川秀忠の建立で、旧扁額は本阿弥光悦の揮毫だったということです。
ということは、戦災で消失した、ということでしょうか?
三門をくぐって煩悩を解脱すると、これまた立派な大堂(祖師堂)が姿を現します。
これは本殿とは別で、本殿はさらに奥に控えています。
実は違いをよくわかっていません。
加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立したそうですが、1710年に焼失。
1723年に吉宗の用材寄進により再建されたが、倹約時代ですので規模は縮小。
先の大戦でまた焼失し、現在は日蓮聖人坐像、日朗聖人坐像、日輪聖人坐像が安置されているとのことです。
まだ8時にはなっていませんが、宗徒さん達が祈祷を捧げています。
私もお祈りを。
8時になり、鐘の音がどこからか聞こえてきます。
しかしすぐ見える鐘楼からではありません。
こちらに置かれている旧梵鐘は、加藤清正の娘で、紀州徳川家の祖・徳川頼宣の正室でもある瑤林院が寄進したもので、空襲により亀裂が生じたため現在では使われていないそうです。
日朝堂。
眼病救護に霊験あらたかな日朝上人を祀っているそうです。
61歳のときに両目の光を失ったが、それを自らの不徳とし、懺悔し不借身命の精進を続けたところ、何と光を取り戻した!
これは見習わなければ。
五重塔までの参道は、墓地を通り抜けています。
その途中。
前田利家室の層塔。
元は11重あったが、現在は5重しか残っていません。
前田利家の側室である寿福院が、逆修供養のために建立したそうです。
逆修供養というのは、死後に行う供養を自ら生前に行うことです。
そしてシンボルとも言える五重塔。
徳川秀忠の乳母である岡部局が、秀忠の病気平癒のために発願したそうです。
元は鐘楼堂と対の位置に建っていたが、5代将軍綱吉の命で現在地に移転したということです。
関東では最大最古の五重塔ですね。
本門寺には力道山など有名人のお墓も多数安置され、どこにあるのかよくわからないので今回は見て回ることはしませんが、その中に幸田露伴の墓もあるそうです。
五重塔があるからこちらに眠っているのかは知りませんが、やはり五重塔とは切り離せない人物ですね。
小説「五重塔」の舞台は、池上ではなく谷中です。
本殿へ入ってじゃましてはいけないので、先に本行寺へ向かいます。
こちらから下りていくようです。
境内に入ると、島根県の海岸で生まれ、久留米に移植して7、80年育てたという松が迎えてくれます。
茶褐色の石は、京都鞍馬産の鞍馬石、青みがかっているのは、愛媛伊予産の伊予石、だそうです。
本堂向かって左手には、「ご臨終の間」。
入滅までの日々をこちらで過ごしたということですね。
池上宗仲夫妻坐像も安置されているそうです。
本行寺前の道路を挟んで向かい側には、南之院。
開山である日昭上人の坐像が安置されています。
こちらは狩野家の菩提寺だそうで、狩野探幽らのお墓もあると聞きましたが、私にはどれかはわかりません。
再び本門寺方向へ上がっていって、歴代墓所。
第4世日山聖人以後の歴代貫首が眠っているという聖域です。
道路を渡って本門寺境内に入ります。
境内最奥にあたる「御廟所」。
中央に日蓮聖人の墓塔、向かって左に日朗聖人の墓塔、右には日輪聖人の墓塔。
3世までは歴代墓所ではなくこちらに安置されているということなのでしょう。
そしてやっと本殿。
比較的新しい昭和44年に造られた鉄筋コンクリート造の仏堂です。
久遠の本師釈迦牟尼仏像、法華経に説かれる本化の四大菩薩像、そして祖師像を祀っているとのことです。
ちょっと寺務所に入っていって、松涛園を廊下の窓から覗きます。
この素晴らしい名園は普段は公開されていないので入ることはできませんが、たまに特別公開されているようです。
ここでは勝海舟と西郷隆盛が無血開城の会談を行ったとされ、碑も建っているそうですが、これがよくわからない。
会談は三田で行われたのではなかったのか?
総門まで下りていこうとすると、日蓮大聖人が迎えてくださいます。
こんなところにいらっしゃったのか。
でかいけど、上がっていくときは気づかなかったな。
宗祖七百遠忌記念として昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたもので、北村西望氏作だそうです。
妙見堂までの道標がありますので進んでみると、芳心院の墓。
徳川頼宣の娘です。
芳心院が生前蛇嫌いだったことから、蛇を遠ざける目的で墓の周りに二重に溝が掘られています。
建設費が1万両に及んだことから、俗に「万両塚」と呼ぶそうです。
傍らには「シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑」。
建立されたのは1983年(昭和58年)だということですが、当時照栄院住職だった田中日淳氏が、戦後チャンギー刑務所で教誨師をしていたそうです。
かの地で処刑されたBC級戦犯の供養のため、幸いにして極刑を免れて帰国した人々が協力し、妙見堂に碑を建てた、ということです。
もうとっくに10時を過ぎている。
時間かけすぎだ。
再び自転車に乗り、南側へ。
日蓮宗では定番、なのかは知らないが、鬼子母神堂がありますね。
萬屋酒店から東に向かい、六郷用水跡碑を見つけました。
六郷用水は、小泉次太夫によって開削された農業用水です。
この界隈はその中でも北堀と呼ばれ、ここから流れが3つに分かれていたそうです。
地図を見ながら博物館方向に進んでいますが、アップダウンが激しいから疲れるな。
当然かなり汗をかいています。
結構な距離を走って大田区立郷土博物館に到着。
ピーボディー・エセックス博物館と姉妹提携を結んでいます。
最寄りは都営浅草線西馬込駅ですが、私の自宅からだとぐるっと回らねばならないので便が非常に悪く、かと言ってわざわざバスで来るというのもなあ・・・って感じなので、自転車に乗っているこの機会に来てみました。
入館は無料、三脚等を使用しなければ撮影もOKとのことです。
大田区と言えば大森、大森と言えば貝塚、ということで、当然モース博士と大森貝塚の特集には力を入れているようですが、大田区には他にも古墳が多いようです。
ここはかなり展示数が多いので、さらっと見て回ります。
こちらは多摩川台古墳から出土したという太刀。
多摩川台公園にも古墳展示室があり、ここにもいつか行ってみます。
海苔と言えば浅草が有名ですが、産地としては大森・品川辺りが開けていたそうです。
浅草では埋め立てが進むにつれて海苔が採れなくなり、他所で採れた海苔を加工販売するようになったと聞いています。
こちらで紹介されているヒビと言うのは、海苔を育てるために海中に立てた木や竹、網などのことです。
木→竹→網と使われていって、現在は網が主流だということです。
日比谷っていう場所がありますが、あの辺も江戸時代までは海だったわけですね。
細長い入り江で両岸が陸だったのを谷に見立て、海苔の養殖が盛んだったこともあり、「ひびや」と名づけられたとされています。
昭和の前半頃までは、大森海岸から羽田空港沖まで似たような光景が見られたそうです。
江戸以降、埋め立てが急速に進んでいったのがよくわかります。
大田区と言えば羽田空港でもありますので、その紹介が。
私は空港の近くに住んでいる今のうちにもっと空港を利用すべきだと思っていますが、まあなかなかね・・・。
私は知らなかったが、「大森麦わら細工」と言って、大森はかつて麦わら細工で栄えており、東海道を行き交う旅人のお土産としても親しまれたそうです。
江戸名所図会や浮世絵などにも描かれています。
残念ながら現在ではほぼ途絶えてしまったとのことです。
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