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スペシャル・ハワイ7日間 2008 6/3〜9 115800円(35日割り)パールハーバー 真珠湾のアリゾナ記念館(無料)<br /><br />「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号を受け、ハワイ・真珠湾を奇襲攻撃した日本軍。作戦は成功したが、宣戦布告が遅れ「卑怯なだまし討ち」としてアメリカ国民の戦意を高揚させるきっかけに…。1941年12月7日日曜の平和な朝、大日本帝国太平洋連合艦隊の戦闘機が真珠湾(パールハーバー)に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を宣戦布告なくして奇襲攻撃し、戦艦アリゾナをはじめ主力戦艦(船舶12隻、航空機160機を大破、2400名の命を奪った)に突如攻撃した壊滅的な打撃を与えたのである。この日本軍の真珠湾を奇襲攻撃をアメリカ人が許しがたく思う気持ちも分かるような気がします。そして終戦となり戦艦ミズーリ上で文書の調印が行われ、3年8ヶ月にわたった太平洋戦争は終わった。ハワイ真珠湾の戦艦アリゾナの眠る海中は、これをきっかけに太平洋戦争が勃発することになった歴史的な場所です。戦後60余年が経過し、今なお多くの事を私たちに語りかける太平洋戦争…。これが戦争の悲惨さです。アリゾナ記念館には、多くの散っていった日米軍人達の姿と家族の写真などが展示されています。これら多くの犠牲のもとに今の日本の平和があるのです。死を前提とした日本軍の特攻隊の様子も真珠湾に停泊する戦艦「ミズーリ」の甲板上で確認する事が出来ます。<br />−−−−−−−−−−−−−−−−<br />【追記】第2次世界大戦と言えば、日本にとって「原子爆弾」を思い出すでしょう。<br />■広島や長崎には今でも放射能が残っている。    <br /> 原子爆弾が、それまでの火薬を爆発させる爆弾と違うのは、爆発した時のエネルギーが大く放射線を出すことです。原子爆弾により発生したエネルギーの内、5%が「初期放射線となり、10%が「残留放射線」となりました。原爆によって発生したエネルギーの初期放射線は、原子爆弾が爆発したときに出ました。これが人の体に大きな被害をもたらしたのです。特に、爆心地から1キロメートル以内で直接放射線を受けた人は、ほとんど亡くなりました。そのあとに「残留放射線」が出ました。<br />Mayors for Peace<br />Secretariat<br />C/O Hiroshima Peace Culture Foundation, 1-5 Nakajima-cho Naka-ku Hiroshima 730-0811 Japan<br />Phone:81-82-242-7821 Fax:81-82-242-7452 E-mail:mayorcon@pcf.city.hiroshima.jp<br />August 12, 2008<br />To the Honorable Mayor<br />Mayors for Peace member city<br />Dear Mayor,<br />Let me begin by thanking you for your ongoing support for Mayors for Peace.<br />Since its establishment in 1982, Mayors for Peace has initiated various activities to “arouse international public demand for the abolition of nuclear weapons” including letters of protest against nuclear testing and lobbying to nuclear-weapon states.<br />However, the elimination of nuclear weapons has yet to be achieved. Nuclear-weapon states have not pursued nuclear disarmament in good faith and rapid proliferation is a growing possibility. In fact, the Nuclear Non-Proliferation Treaty (NPT), the primary international agreement for the abolition of nuclear weapons, is on the verge of collapse.<br />As we all know, if a nuclear weapon is used, cities and citizens will be the ones to suffer most. Cities and mayors are duty-bound to protect the lives and properties of our citizens. We believe that the collective demand of cities around the world for the elimination of nuclear weapons will lead to changes in national policies, including those of the nuclear-weapon states, and a nuclear-weapon-free world.<br />Thus, Mayors for Peace has been promoting the 2020 Vision Campaign, calling for a nuclear weapon free world by the year 2020. As a part of this campaign, Mayors for Peace launched a petition drive participated by citizens called “Cities Are Not Target (CANT)” campaign in February 2007, and then, announced “the Hiroshima-Nagasaki Protocol” in April 2008, which outlines a process leading toward the total abolition of nuclear weapons by the year 2020. We are working to have the Protocol adopted at the NPT Review Conference in May 2010.<br />Mayors for Peace holds quadrennial general conferences. Given the above, we consider the 7th General Conference, to be held in Nagasaki, August 2009, a vital opportunity to discuss preparations for the NPT Review Conference in May 2010 and subsequent plans.<br />To ensure that the general conference is guided by the member cities, we are sending this form to survey your opinions. We will be most grateful if you could kindly fill in the enclosed questionnaire and send it back to the Secretariat in Hiroshima by Friday, September 12 by e-mail, fax or airmail.<br />You can also download the form from the Mayors for Peace website at:<br /><br />I close with best wishes for your health and the sound development of your city.<br />Sincerely,<br />Tadatoshi Akiba<br />Mayor, the City of Hiroshima<br />President, Mayors for Peace<br />http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html<br />■アメリカ兵が、原爆を落とす。  <br /> アメリカは、爆弾を落として攻撃するための大型の飛行機B29を原子爆弾のために特別に作り変えました。この飛行機の名前を「エノラ・ゲイ」号と言う。 そして、原子爆弾を落とすために、特別の訓練をした軍人たちによって操縦された「エノラ・ゲイ」号から原子爆弾が投下されました。この爆弾は約43秒後に爆発し、この間に、飛行機は安全な所へ退避しました。 <br />−−−−−−−−−−−−−−−<br /> ■「広島平和記念式典」 毎年8月6日開催!<br /> 広島平和記念式典は、広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌に広島平和記念公園で毎年行われています、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典です。式典は、平和公園平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前において、原爆死没者の遺族や市民多数の参加のもとで行われている。毎年行われる平和宣言は、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けられているものであり、世界各国に発信されている。<br />-----------------<br /> 第二次世界大戦末期の1945年8月6日にアメリカ合衆国が日本の広島市に投下した原子爆弾の記述。<br /><br /> この核兵器は、実戦で使用された世界初の都市攻撃であり、一つの爆弾で一般市民十数万人が死亡して市街地は壊滅した。<br />■8月14日、御前会議においてポツダム宣言受諾が決定され、日本政府は連合国に受諾を伝える。 <br />■8月15日、玉音放送。国民への終戦の告知。 <br />■8月28日、連合国占領軍上陸。<br /> 終戦とGHQ支配により、軍は武装解除し兵の復員が開始された。<br />広島は、最初から投下候補都市に選定されていた。その理由は,?重要な陸軍兵站(戦場の後方にあり作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などに当たる)基地であり,市街工業地域の真中に兵員の積出港「宇品港」を持っている。?まだ空襲が行なわれていない。?レーダー攻撃の目標として格好の地理的条件にある。?規模からして市街の大部分を広範囲に破壊することができ,また丘陵に取り囲まれていることから爆撃効果を相当程度増大させることができる」ということであった。<br /> 同時に政治的な検討を行うためスチムソン陸軍長官は,45年5月4日,陸・海・国務3省および原爆の開発に従事した科学者の最高幹部からなる暫定委員会を設置した。暫定委員会は同年6月1日,政治的・軍事的・科学的な諸問題を検討した結果,満場一致で以下の勧告を採択している。<br />『?日本に対して早急に原爆を使用すべきであること。?それは,最も破壊されやすい家屋その他の建築物,これらに隣接した軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきであること。?それは原爆であるとの事前の通告(警告)なしに使用するべきであること。』。広島への原爆投下に先だって前月の7月26日,米英中の3か国は,日本政府に対し即時無条件降伏を要求(ポツダム宣言)したが,日本政府はこれを黙穀する。トルーマンはこれを口実に原爆投下を指令したのである。その真意は,日本占領と戦後世界における対ソ優位を確保することにあった。「核兵器を背景とする世界戦略」の一環としての原爆投下ということである。「広島、長崎の人口密集地帯への原爆投下により、アメリカ軍は、多くの人々を壊滅させ、多大な心理的打撃を与える狙いがあった。トルーマンは、「日本に対する原爆投下は出来るだけ早く、そして、労働者の多い軍事工場に投下、警告なしで行なうこと」との自分の一番信頼する側近のビルンス顧問の提案に賛同した。そしてこの提案はその通り遂行された。<br /> アメリカの日本への原爆投下には、もう一つの重要な目的があった。それは、ソ連とその他諸国を脅かし核独占の脅威により戦後の世界体制でアメリカの支配権を勝ち取る目的である。<br /> 1944(昭和19)年9月のハイドパークの会談において,アメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルの間で,日本に対する原爆使用の合意がなされた。翌45年,ドイツの降伏(5月7日)が目前にせまるや,マンハッタン計画に参加した科学者および兵器専門家によって構成された原爆投下目標選定委員会において,原爆の対日使用の具体的方法が軍事的観点から検討されはじめた。最初の委員会は1945年4月27日(4月12日ルーズベルトが脳溢血で63歳で急逝。1月に就任したばかりの61歳の副大統領トルーマンが第33代大統領に就任)に開かれ,数次の会議を経て,原爆投下目標都市として,京都・広島・小倉・新潟の4つが選定された。だが,広島は最初から投下候補都市に選定されていた。8月6日の早朝,テニアン基地を出発した3機の天候観測機が原爆投下目標の広島・小倉・長崎の上空に向かった。そのうちの一機,イーザリー少佐を機長とするストレート・フラッシュ号は,午前7時9分,広島上空に到着し,目視攻撃が可能なことを確認,その1時間5分後,午前8時14分17秒,2機の観測機とともに飛来したティベッツ大佐(機長)操縦のB-29「エノラゲイ」号は,市中心部に位置する相生橋を照準点として高度9600メートルからウラニウム原爆「リトル・ボーイ」を投下する。広島に原爆を投下した米・爆撃機B−29の原爆投下時の乗員は12名であった。<br />-------------<br /> 同年の8月8日には、ソ連が対日宣戦布告(モロトフが8月9日以降ソ連が日本と戦争状態に入る旨の宣戦布告文を8日夜佐藤大使に通達)した,この報に日本が接した同月9日午前,最高戦争指導会議構成員会議が開かれ,ポツダム宣言受諾のための条件について,「皇室の安泰」とか,「本土占領の制限」などといった議論が行われているさ中の11時2分,今度は長崎にB-29「ボックス・カー」号からプルトニウム型原爆「ファットマン」が投下された。この2つの原爆と同月8日のソ連参戦により,日本政府はついにポツダム宣言を受諾した。8月15日正午,昭和天皇(44歳)の終戦の詔書(玉音放送)が発せられて,「15年戦争」は日本の敗戦で終結を迎えることとなった。 <br />−−−−−−−−−−−−−−−<br /> 1995(平成7)年に米・スミソニアン航空博物館でB-29「エノラゲイ」号の機体が公開されたが,当初予定されていた原爆被害の実態の同時展示は,米・退役軍人らの猛烈な反対で中止となった。<br />−−−−−−−−−−−−−−−<br /> ■加害責任のすり替え、悪いのは米国ではなく、戦争<br /><br /> 米軍の心理作戦による洗脳の効果が、その後の平和運動家の思考に影響を及ぼし、原爆投下についても悪いのは投下という残虐行為をした米国ではなく、日本人が起こした(?)戦争であるとして、米国の加害責任を巧みに日本人の責任にすり替えると共に、米国への責任追求をタブー視させました。<br /> もしこの考え方が正しいのであれば、政治手法としてことあるごとに日本人の贖罪意識を掻き立て、カネや謝罪を要求する中国や韓国に対して是非主張すべきです。悪いのは日本人ではなく、戦争であると…。ドイツ人は、戦後一貫してガス室における六百万人の大量虐殺はナチがしたのであってドイツ人ではないとしています。ナチスの構成員はドイツ人であったにもかかわらず…。<br />−−−−−−−−−−−−−−−−−<br /> ■その後「世界遺産登録」<br /> 平成八年十二月六日(日本時間)、ユネスコ世界遺産委員会は、原爆ドームをアウシュビツツと共に世界遺産に登録することを決定しました。米国は原爆ドームの指定には最後まで反対していましたが、それはアウシュビツツこそ米国が叩き潰した「人類に対する犯罪」の象徴ですが、それと共に自分達が犯した非戦闘員の大量虐殺の象徴が同列に扱われることになるからでした。<br />  ■二十世紀における二十大ニュース<br /> 平成11年(1999年)12月20日に世界三大通信社の一つである、AP通信に加盟する、世界三十六ヶ国にある71の報道機関が選んだ二十世紀における二十大ニュースの一位に選ばれたのは、広島、長崎に対する原爆投下でした。ちなみに日本軍の真珠湾攻撃は十八位でした。世界のジャーナリストが原爆投下を二十世紀最大のニュースとしたのは、核兵器の使用が人類史上、希にみる残虐な行為であり、 国家(米国)が犯した最大の過ちだったからです。<br /> 以上の事実を考えると日本は、「二種類の原爆性能実験」のモルモットにされながら、臆面もなく加害者に代わり、犠牲者への理不尽な謝罪を続けている。日本人の歴史に対する無知、自虐性、事大主義に基づくものと言うべきでしょうね。皆さんは、どの様に思われますか…。<br />−−−−−−−−−−−−−−<br />【旅行日程】<br />アンバサダー・ホテル・オブ・ワイキキ(部屋指定なし)<br />代金は1名1室利用時の、おとな1名様の旅行代金。。 <br />旅行日数7日間旅行代金に、関空2650+燃費など33450=36100円<br /><br />1日目 夜:22:00〜大阪(関空)発(日付変更線通過)ホノルル<br />午前:ホノルル着 空港にて、必要書類を渡され、その後は自由。<br /><遊びたい!><br />‘OLI‘OLIエアポート・エクスプレスにて空港から約15分のアロハタワーへ<br />‘OLI‘OLIエンジョイクーポンあり。<br /><滞在中の計画は><br />‘OLI‘OLIパークにて現地係員がさまざまな相談を受けられる。その後、ホテルへ<br /><ホテルへ><br />‘OLI‘OLIエアポート・エクスプレスにてアロハタワー経由でワイキキへ<br />−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−<br />オプションは、ネットで下記の格安会社に事前予約。<br /> ◎ハワイジャパンHAWAII JAPAN TOUR<br />  aloha@hawaiijapan.com 2008年5月31日 10:52<br /> ◎ザ・ツアーショップ 4.のみ<br />  TEL: 808-524-5302 営業時間: 9:00〜18:00  日本語でお問合せ可能。<br /><br />1日目.6/3(火) ビショップ博物館 レッドラインで<br />           シェラトン・ポリネシアン・ディナーショー  1人 49?<br />2日目.6/4(水) ダイヤモンドヘッド・サンライズとハナウマ湾 1人 29?<br />                    第9回ワイキキビーチ花火大会<br />3日目.6/5(木) ホノルル美術館・イオラニ宮殿 レッドラインで<br />          ナバティク・ロイヤル・サンセットディナークルー 1人  99?<br />4日目.6/6(金) アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ、パールハーバー<br />             (真珠湾)観光1人 US$95<br />−−−−−−−−−−−−−−−−−<br />第二次世界大戦の幕開けとなり、今でも海に沈む戦艦アリゾナの上に建つ記念館と、日本の対馬丸の悲劇を生んだ潜水艦のボウフィン潜水艦、それにマイティーモーの愛称で親しまれるアメリカ最後の戦艦ミズーリ号を見学します。<br /><br />概要 <br />アリゾナ記念館 <br />パールハーバーの海上に建設された白亜の慰霊塔アリゾナ記念館は、足元に眠る戦艦アリゾナの姿を肉眼で見ることができる。 <br />1941年12月7日(日本時間8日)早朝、日本軍の奇襲攻撃によって、戦艦アリゾナは1000名を越える乗組員とともに海に沈み、その後の太平洋戦争の火蓋を切ることになった歴史的場所。 <br /><br />戦艦ミズーリ <br />大日本帝国の降伏文書調印式が甲板上で行われたという歴史的な場所。 <br />降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送され、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダ・中華民国・カナダが調印して日本の降伏を受け入れる。その後、退役まで朝鮮戦争・湾岸戦争にも参加した歴史の証人とも呼べる戦艦。 <br /><br />ボウフィン潜水艦 <br />パールハーバーの入り口に位置する、不気味な様相の潜水艦。 <br />第二次大戦では、戦闘潜水艦として活躍し、日本の対馬丸の悲劇を生んだ潜水艦としても有名。<br /><br />スケジュール <br />7: 30  ワイキキ最終ホテル発 <br />8: 00  パールハーバー到着 <br /> アリゾナ記念館、ボーフィン潜水艦と記念館へ <br />11: 00  トロリーに乗車、ミズーリへ(約90分のミズーリ内ガイド付き・観光) <br />12: 40  トロリーでボウフィン潜水艦に到着 <br />13: 00  パールハーバー出発 <br />13: 45  ワイキキ到着 <br /><br />スリッパ サンダル、水着等での参加はご遠慮ください。警戒体制のため、バック、ポーチ等 持込禁止(カメラ、帽子、貴重品のみ)。ツアー参加は、2人から可能<br />【警告】<br /> 油の高騰により燃油特別深運賃が高騰しているが、20008年7月から更に急高騰し、総旅費の半分以上になる場合が発生している。ゆえに当分海外良好は見送った方がよい。<br /><br />■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。<br />copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.<br />

ハワイ7日間 ?アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ、パールハーバー

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2008/06/06 - 2008/06/06

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スペシャル・ハワイ7日間 2008 6/3〜9 115800円(35日割り)パールハーバー 真珠湾のアリゾナ記念館(無料)

「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号を受け、ハワイ・真珠湾を奇襲攻撃した日本軍。作戦は成功したが、宣戦布告が遅れ「卑怯なだまし討ち」としてアメリカ国民の戦意を高揚させるきっかけに…。1941年12月7日日曜の平和な朝、大日本帝国太平洋連合艦隊の戦闘機が真珠湾(パールハーバー)に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を宣戦布告なくして奇襲攻撃し、戦艦アリゾナをはじめ主力戦艦(船舶12隻、航空機160機を大破、2400名の命を奪った)に突如攻撃した壊滅的な打撃を与えたのである。この日本軍の真珠湾を奇襲攻撃をアメリカ人が許しがたく思う気持ちも分かるような気がします。そして終戦となり戦艦ミズーリ上で文書の調印が行われ、3年8ヶ月にわたった太平洋戦争は終わった。ハワイ真珠湾の戦艦アリゾナの眠る海中は、これをきっかけに太平洋戦争が勃発することになった歴史的な場所です。戦後60余年が経過し、今なお多くの事を私たちに語りかける太平洋戦争…。これが戦争の悲惨さです。アリゾナ記念館には、多くの散っていった日米軍人達の姿と家族の写真などが展示されています。これら多くの犠牲のもとに今の日本の平和があるのです。死を前提とした日本軍の特攻隊の様子も真珠湾に停泊する戦艦「ミズーリ」の甲板上で確認する事が出来ます。
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【追記】第2次世界大戦と言えば、日本にとって「原子爆弾」を思い出すでしょう。
■広島や長崎には今でも放射能が残っている。  
 原子爆弾が、それまでの火薬を爆発させる爆弾と違うのは、爆発した時のエネルギーが大く放射線を出すことです。原子爆弾により発生したエネルギーの内、5%が「初期放射線となり、10%が「残留放射線」となりました。原爆によって発生したエネルギーの初期放射線は、原子爆弾が爆発したときに出ました。これが人の体に大きな被害をもたらしたのです。特に、爆心地から1キロメートル以内で直接放射線を受けた人は、ほとんど亡くなりました。そのあとに「残留放射線」が出ました。
Mayors for Peace
Secretariat
C/O Hiroshima Peace Culture Foundation, 1-5 Nakajima-cho Naka-ku Hiroshima 730-0811 Japan
Phone:81-82-242-7821 Fax:81-82-242-7452 E-mail:mayorcon@pcf.city.hiroshima.jp
August 12, 2008
To the Honorable Mayor
Mayors for Peace member city
Dear Mayor,
Let me begin by thanking you for your ongoing support for Mayors for Peace.
Since its establishment in 1982, Mayors for Peace has initiated various activities to “arouse international public demand for the abolition of nuclear weapons” including letters of protest against nuclear testing and lobbying to nuclear-weapon states.
However, the elimination of nuclear weapons has yet to be achieved. Nuclear-weapon states have not pursued nuclear disarmament in good faith and rapid proliferation is a growing possibility. In fact, the Nuclear Non-Proliferation Treaty (NPT), the primary international agreement for the abolition of nuclear weapons, is on the verge of collapse.
As we all know, if a nuclear weapon is used, cities and citizens will be the ones to suffer most. Cities and mayors are duty-bound to protect the lives and properties of our citizens. We believe that the collective demand of cities around the world for the elimination of nuclear weapons will lead to changes in national policies, including those of the nuclear-weapon states, and a nuclear-weapon-free world.
Thus, Mayors for Peace has been promoting the 2020 Vision Campaign, calling for a nuclear weapon free world by the year 2020. As a part of this campaign, Mayors for Peace launched a petition drive participated by citizens called “Cities Are Not Target (CANT)” campaign in February 2007, and then, announced “the Hiroshima-Nagasaki Protocol” in April 2008, which outlines a process leading toward the total abolition of nuclear weapons by the year 2020. We are working to have the Protocol adopted at the NPT Review Conference in May 2010.
Mayors for Peace holds quadrennial general conferences. Given the above, we consider the 7th General Conference, to be held in Nagasaki, August 2009, a vital opportunity to discuss preparations for the NPT Review Conference in May 2010 and subsequent plans.
To ensure that the general conference is guided by the member cities, we are sending this form to survey your opinions. We will be most grateful if you could kindly fill in the enclosed questionnaire and send it back to the Secretariat in Hiroshima by Friday, September 12 by e-mail, fax or airmail.
You can also download the form from the Mayors for Peace website at:

I close with best wishes for your health and the sound development of your city.
Sincerely,
Tadatoshi Akiba
Mayor, the City of Hiroshima
President, Mayors for Peace
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html
■アメリカ兵が、原爆を落とす。
 アメリカは、爆弾を落として攻撃するための大型の飛行機B29を原子爆弾のために特別に作り変えました。この飛行機の名前を「エノラ・ゲイ」号と言う。 そして、原子爆弾を落とすために、特別の訓練をした軍人たちによって操縦された「エノラ・ゲイ」号から原子爆弾が投下されました。この爆弾は約43秒後に爆発し、この間に、飛行機は安全な所へ退避しました。
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 ■「広島平和記念式典」 毎年8月6日開催!
 広島平和記念式典は、広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌に広島平和記念公園で毎年行われています、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典です。式典は、平和公園平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前において、原爆死没者の遺族や市民多数の参加のもとで行われている。毎年行われる平和宣言は、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けられているものであり、世界各国に発信されている。
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 第二次世界大戦末期の1945年8月6日にアメリカ合衆国が日本の広島市に投下した原子爆弾の記述。

この核兵器は、実戦で使用された世界初の都市攻撃であり、一つの爆弾で一般市民十数万人が死亡して市街地は壊滅した。
■8月14日、御前会議においてポツダム宣言受諾が決定され、日本政府は連合国に受諾を伝える。
■8月15日、玉音放送。国民への終戦の告知。
■8月28日、連合国占領軍上陸。
 終戦とGHQ支配により、軍は武装解除し兵の復員が開始された。
広島は、最初から投下候補都市に選定されていた。その理由は,?重要な陸軍兵站(戦場の後方にあり作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などに当たる)基地であり,市街工業地域の真中に兵員の積出港「宇品港」を持っている。?まだ空襲が行なわれていない。?レーダー攻撃の目標として格好の地理的条件にある。?規模からして市街の大部分を広範囲に破壊することができ,また丘陵に取り囲まれていることから爆撃効果を相当程度増大させることができる」ということであった。
 同時に政治的な検討を行うためスチムソン陸軍長官は,45年5月4日,陸・海・国務3省および原爆の開発に従事した科学者の最高幹部からなる暫定委員会を設置した。暫定委員会は同年6月1日,政治的・軍事的・科学的な諸問題を検討した結果,満場一致で以下の勧告を採択している。
『?日本に対して早急に原爆を使用すべきであること。?それは,最も破壊されやすい家屋その他の建築物,これらに隣接した軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきであること。?それは原爆であるとの事前の通告(警告)なしに使用するべきであること。』。広島への原爆投下に先だって前月の7月26日,米英中の3か国は,日本政府に対し即時無条件降伏を要求(ポツダム宣言)したが,日本政府はこれを黙穀する。トルーマンはこれを口実に原爆投下を指令したのである。その真意は,日本占領と戦後世界における対ソ優位を確保することにあった。「核兵器を背景とする世界戦略」の一環としての原爆投下ということである。「広島、長崎の人口密集地帯への原爆投下により、アメリカ軍は、多くの人々を壊滅させ、多大な心理的打撃を与える狙いがあった。トルーマンは、「日本に対する原爆投下は出来るだけ早く、そして、労働者の多い軍事工場に投下、警告なしで行なうこと」との自分の一番信頼する側近のビルンス顧問の提案に賛同した。そしてこの提案はその通り遂行された。
 アメリカの日本への原爆投下には、もう一つの重要な目的があった。それは、ソ連とその他諸国を脅かし核独占の脅威により戦後の世界体制でアメリカの支配権を勝ち取る目的である。
 1944(昭和19)年9月のハイドパークの会談において,アメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルの間で,日本に対する原爆使用の合意がなされた。翌45年,ドイツの降伏(5月7日)が目前にせまるや,マンハッタン計画に参加した科学者および兵器専門家によって構成された原爆投下目標選定委員会において,原爆の対日使用の具体的方法が軍事的観点から検討されはじめた。最初の委員会は1945年4月27日(4月12日ルーズベルトが脳溢血で63歳で急逝。1月に就任したばかりの61歳の副大統領トルーマンが第33代大統領に就任)に開かれ,数次の会議を経て,原爆投下目標都市として,京都・広島・小倉・新潟の4つが選定された。だが,広島は最初から投下候補都市に選定されていた。8月6日の早朝,テニアン基地を出発した3機の天候観測機が原爆投下目標の広島・小倉・長崎の上空に向かった。そのうちの一機,イーザリー少佐を機長とするストレート・フラッシュ号は,午前7時9分,広島上空に到着し,目視攻撃が可能なことを確認,その1時間5分後,午前8時14分17秒,2機の観測機とともに飛来したティベッツ大佐(機長)操縦のB-29「エノラゲイ」号は,市中心部に位置する相生橋を照準点として高度9600メートルからウラニウム原爆「リトル・ボーイ」を投下する。広島に原爆を投下した米・爆撃機B−29の原爆投下時の乗員は12名であった。
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 同年の8月8日には、ソ連が対日宣戦布告(モロトフが8月9日以降ソ連が日本と戦争状態に入る旨の宣戦布告文を8日夜佐藤大使に通達)した,この報に日本が接した同月9日午前,最高戦争指導会議構成員会議が開かれ,ポツダム宣言受諾のための条件について,「皇室の安泰」とか,「本土占領の制限」などといった議論が行われているさ中の11時2分,今度は長崎にB-29「ボックス・カー」号からプルトニウム型原爆「ファットマン」が投下された。この2つの原爆と同月8日のソ連参戦により,日本政府はついにポツダム宣言を受諾した。8月15日正午,昭和天皇(44歳)の終戦の詔書(玉音放送)が発せられて,「15年戦争」は日本の敗戦で終結を迎えることとなった。
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 1995(平成7)年に米・スミソニアン航空博物館でB-29「エノラゲイ」号の機体が公開されたが,当初予定されていた原爆被害の実態の同時展示は,米・退役軍人らの猛烈な反対で中止となった。
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 ■加害責任のすり替え、悪いのは米国ではなく、戦争

 米軍の心理作戦による洗脳の効果が、その後の平和運動家の思考に影響を及ぼし、原爆投下についても悪いのは投下という残虐行為をした米国ではなく、日本人が起こした(?)戦争であるとして、米国の加害責任を巧みに日本人の責任にすり替えると共に、米国への責任追求をタブー視させました。
 もしこの考え方が正しいのであれば、政治手法としてことあるごとに日本人の贖罪意識を掻き立て、カネや謝罪を要求する中国や韓国に対して是非主張すべきです。悪いのは日本人ではなく、戦争であると…。ドイツ人は、戦後一貫してガス室における六百万人の大量虐殺はナチがしたのであってドイツ人ではないとしています。ナチスの構成員はドイツ人であったにもかかわらず…。
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 ■その後「世界遺産登録」
 平成八年十二月六日(日本時間)、ユネスコ世界遺産委員会は、原爆ドームをアウシュビツツと共に世界遺産に登録することを決定しました。米国は原爆ドームの指定には最後まで反対していましたが、それはアウシュビツツこそ米国が叩き潰した「人類に対する犯罪」の象徴ですが、それと共に自分達が犯した非戦闘員の大量虐殺の象徴が同列に扱われることになるからでした。
  ■二十世紀における二十大ニュース
 平成11年(1999年)12月20日に世界三大通信社の一つである、AP通信に加盟する、世界三十六ヶ国にある71の報道機関が選んだ二十世紀における二十大ニュースの一位に選ばれたのは、広島、長崎に対する原爆投下でした。ちなみに日本軍の真珠湾攻撃は十八位でした。世界のジャーナリストが原爆投下を二十世紀最大のニュースとしたのは、核兵器の使用が人類史上、希にみる残虐な行為であり、 国家(米国)が犯した最大の過ちだったからです。
 以上の事実を考えると日本は、「二種類の原爆性能実験」のモルモットにされながら、臆面もなく加害者に代わり、犠牲者への理不尽な謝罪を続けている。日本人の歴史に対する無知、自虐性、事大主義に基づくものと言うべきでしょうね。皆さんは、どの様に思われますか…。
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【旅行日程】
アンバサダー・ホテル・オブ・ワイキキ(部屋指定なし)
代金は1名1室利用時の、おとな1名様の旅行代金。。
旅行日数7日間旅行代金に、関空2650+燃費など33450=36100円

1日目 夜:22:00〜大阪(関空)発(日付変更線通過)ホノルル
午前:ホノルル着 空港にて、必要書類を渡され、その後は自由。
<遊びたい!>
‘OLI‘OLIエアポート・エクスプレスにて空港から約15分のアロハタワーへ
‘OLI‘OLIエンジョイクーポンあり。
<滞在中の計画は>
‘OLI‘OLIパークにて現地係員がさまざまな相談を受けられる。その後、ホテルへ
<ホテルへ>
‘OLI‘OLIエアポート・エクスプレスにてアロハタワー経由でワイキキへ
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オプションは、ネットで下記の格安会社に事前予約。
 ◎ハワイジャパンHAWAII JAPAN TOUR
  aloha@hawaiijapan.com 2008年5月31日 10:52
 ◎ザ・ツアーショップ 4.のみ
  TEL: 808-524-5302 営業時間: 9:00〜18:00  日本語でお問合せ可能。

1日目.6/3(火) ビショップ博物館 レッドラインで
           シェラトン・ポリネシアン・ディナーショー  1人 49?
2日目.6/4(水) ダイヤモンドヘッド・サンライズとハナウマ湾 1人 29?
第9回ワイキキビーチ花火大会
3日目.6/5(木) ホノルル美術館・イオラニ宮殿 レッドラインで
          ナバティク・ロイヤル・サンセットディナークルー 1人  99?
4日目.6/6(金) アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ、パールハーバー
             (真珠湾)観光1人 US$95
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第二次世界大戦の幕開けとなり、今でも海に沈む戦艦アリゾナの上に建つ記念館と、日本の対馬丸の悲劇を生んだ潜水艦のボウフィン潜水艦、それにマイティーモーの愛称で親しまれるアメリカ最後の戦艦ミズーリ号を見学します。

概要
アリゾナ記念館
パールハーバーの海上に建設された白亜の慰霊塔アリゾナ記念館は、足元に眠る戦艦アリゾナの姿を肉眼で見ることができる。
1941年12月7日(日本時間8日)早朝、日本軍の奇襲攻撃によって、戦艦アリゾナは1000名を越える乗組員とともに海に沈み、その後の太平洋戦争の火蓋を切ることになった歴史的場所。

戦艦ミズーリ
大日本帝国の降伏文書調印式が甲板上で行われたという歴史的な場所。
降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送され、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダ・中華民国・カナダが調印して日本の降伏を受け入れる。その後、退役まで朝鮮戦争・湾岸戦争にも参加した歴史の証人とも呼べる戦艦。

ボウフィン潜水艦
パールハーバーの入り口に位置する、不気味な様相の潜水艦。
第二次大戦では、戦闘潜水艦として活躍し、日本の対馬丸の悲劇を生んだ潜水艦としても有名。

スケジュール
7: 30 ワイキキ最終ホテル発
8: 00 パールハーバー到着
アリゾナ記念館、ボーフィン潜水艦と記念館へ
11: 00 トロリーに乗車、ミズーリへ(約90分のミズーリ内ガイド付き・観光)
12: 40 トロリーでボウフィン潜水艦に到着
13: 00 パールハーバー出発
13: 45 ワイキキ到着

スリッパ サンダル、水着等での参加はご遠慮ください。警戒体制のため、バック、ポーチ等 持込禁止(カメラ、帽子、貴重品のみ)。ツアー参加は、2人から可能
【警告】
 油の高騰により燃油特別深運賃が高騰しているが、20008年7月から更に急高騰し、総旅費の半分以上になる場合が発生している。ゆえに当分海外良好は見送った方がよい。

■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
3.5
グルメ
4.5
ショッピング
1.5
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
観光バス 徒歩 飛行機
航空会社
JAL
旅行の手配内容
個別手配

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  • この木なんの木<br /><br />日立のコマーシャルでおなじみのノースショア近くの♪「この木なんの木」のモアナルアガーデンの木。奥の真ん中にある木のようです? ハワイでは、これと良く似た木が沢山あります。パールハーバーの真珠湾へ行く車窓からバチリ

    この木なんの木

    日立のコマーシャルでおなじみのノースショア近くの♪「この木なんの木」のモアナルアガーデンの木。奥の真ん中にある木のようです? ハワイでは、これと良く似た木が沢山あります。パールハーバーの真珠湾へ行く車窓からバチリ

  • アリゾナ記念館入り口にあった「この木なんの木」<br /><br />写真は、ノースショア近くのアリゾナ記念館入り口にあった内の一番かっこよい「この木なんの木」です。アリゾナ記念廟や戦艦ミズーリの見学ツアーは、この木の静寂を左右に見ながら入場します。このアリゾナ記念館は、常夏のリゾート地であるハワイと別の面を持っていて、日本と米国の悲しい歴史の証人でもあるハワイの一面も見ることができる場所です。入り口では、開場前にもかかわらず沢山の外国人が長い列を作り並んでいましたが、日本人は、後にも先にも私達の団体8名だけでした。

    アリゾナ記念館入り口にあった「この木なんの木」

    写真は、ノースショア近くのアリゾナ記念館入り口にあった内の一番かっこよい「この木なんの木」です。アリゾナ記念廟や戦艦ミズーリの見学ツアーは、この木の静寂を左右に見ながら入場します。このアリゾナ記念館は、常夏のリゾート地であるハワイと別の面を持っていて、日本と米国の悲しい歴史の証人でもあるハワイの一面も見ることができる場所です。入り口では、開場前にもかかわらず沢山の外国人が長い列を作り並んでいましたが、日本人は、後にも先にも私達の団体8名だけでした。

  • パールハーバーの見学「アリゾナ記念館」(無料)<br /><br />慰霊塔のアリゾナ記念館は、海中のアリゾナをまたぐようにして建っており、ハワイでは最も有名な観光スポットですが、ここを訪れる日本人はあまり多くないようです。館内は、日本語ナレーション用のヘッドフォン(有料)が借りられますので是非利用してほしいものです。アリゾナ記念館への入場は無料で、セキュリティチェックのあとに記念館へ渡る整理券を受け取り、順番を待たねばなりません。その間にビジターセンター内に展示されている模型や史実の展示品など色々な展示物を見学することができます。順番が来るとまずはビジターセンター内の映画館で当時のドキュメンタリーフィルムを見ることになります。アリゾナが攻撃を受けた真珠湾攻撃の映像だけではなく、第2次世界大戦へのプロセスがよく分かる貴重な映画です。映画鑑賞後は、無料の海軍の送り迎えをしてくれる専用のシャトルボートで海上に建つ写真の「アリゾナ記念館」へ向かいます。記念館では、今も沈んだままのアリゾナが真下に見え、船体からはいまだに重油が流れ続けているのがわかります。パールハーバーの見学コースは、第2次世界大戦拡大のきっかけとなった、真珠湾攻撃(アリゾナ記念館)から始まり、潜水艦ボウフィン号、降伏文書の調印式の舞台となった戦艦ミズーリでツアーが終了しますので、歴史の流れからも是非3つセットのツアーで参加する事をお奨めします。

    パールハーバーの見学「アリゾナ記念館」(無料)

    慰霊塔のアリゾナ記念館は、海中のアリゾナをまたぐようにして建っており、ハワイでは最も有名な観光スポットですが、ここを訪れる日本人はあまり多くないようです。館内は、日本語ナレーション用のヘッドフォン(有料)が借りられますので是非利用してほしいものです。アリゾナ記念館への入場は無料で、セキュリティチェックのあとに記念館へ渡る整理券を受け取り、順番を待たねばなりません。その間にビジターセンター内に展示されている模型や史実の展示品など色々な展示物を見学することができます。順番が来るとまずはビジターセンター内の映画館で当時のドキュメンタリーフィルムを見ることになります。アリゾナが攻撃を受けた真珠湾攻撃の映像だけではなく、第2次世界大戦へのプロセスがよく分かる貴重な映画です。映画鑑賞後は、無料の海軍の送り迎えをしてくれる専用のシャトルボートで海上に建つ写真の「アリゾナ記念館」へ向かいます。記念館では、今も沈んだままのアリゾナが真下に見え、船体からはいまだに重油が流れ続けているのがわかります。パールハーバーの見学コースは、第2次世界大戦拡大のきっかけとなった、真珠湾攻撃(アリゾナ記念館)から始まり、潜水艦ボウフィン号、降伏文書の調印式の舞台となった戦艦ミズーリでツアーが終了しますので、歴史の流れからも是非3つセットのツアーで参加する事をお奨めします。

  • パールハーバー 戦艦アリゾナの一部。<br /><br />海兵隊が操縦する船で慰霊塔アリゾナ記念館へ。アリゾナ号には約1500人の乗組員がいたが、1177人は艦と共に海中に沈んだ。60年以上経つ今でも遺体が海底にあり、船体も引き上げないままだそうです。現在でも海底の船体からは、油が少しずつもれているのを確認することができました。記念館は、アリゾナの上に設けられていて自由に見学出来ますが、大きな窓から下の様子を見ると、真下にアリゾナの船体が沈んでいるのを見る事が出来ます。船体は、長い歳月が経過しているが、錆びずに今も海底にうっすらと船体の一部が見えています。

    パールハーバー 戦艦アリゾナの一部。

    海兵隊が操縦する船で慰霊塔アリゾナ記念館へ。アリゾナ号には約1500人の乗組員がいたが、1177人は艦と共に海中に沈んだ。60年以上経つ今でも遺体が海底にあり、船体も引き上げないままだそうです。現在でも海底の船体からは、油が少しずつもれているのを確認することができました。記念館は、アリゾナの上に設けられていて自由に見学出来ますが、大きな窓から下の様子を見ると、真下にアリゾナの船体が沈んでいるのを見る事が出来ます。船体は、長い歳月が経過しているが、錆びずに今も海底にうっすらと船体の一部が見えています。

  • パールハーバー(真珠湾)「慰霊塔アリゾナ記念館」(無料) <br /><br />戦艦アリゾナの船体上に設けられた記念館を見学する人達です。見学者は、全員沈黙したままで一言も話す人はありませんでした。さすがアメリカ人も真剣な表情で生々しい複雑な気持ちのようでした。パールハーバーの日本人観光客は、私たち8名だけで少なかった。日本が攻撃した場所なのだからハワイを訪れたなら絶対行って欲しい場所です。いかに戦争が悲惨なものであるかが判ります。

    パールハーバー(真珠湾)「慰霊塔アリゾナ記念館」(無料) 

    戦艦アリゾナの船体上に設けられた記念館を見学する人達です。見学者は、全員沈黙したままで一言も話す人はありませんでした。さすがアメリカ人も真剣な表情で生々しい複雑な気持ちのようでした。パールハーバーの日本人観光客は、私たち8名だけで少なかった。日本が攻撃した場所なのだからハワイを訪れたなら絶対行って欲しい場所です。いかに戦争が悲惨なものであるかが判ります。

  • パールハーバー アリゾナから出る油<br /><br />海兵隊が操縦する船で慰霊塔アリゾナ記念館へ。60年以上経つ今でも遺体が海底にあり、船体も引き上げられないままだそうです。そんな戦争から60年以上経過した今でも、かすかに見える海底の船体からは、油が少しずつもれているのが撮影できました。

    パールハーバー アリゾナから出る油

    海兵隊が操縦する船で慰霊塔アリゾナ記念館へ。60年以上経つ今でも遺体が海底にあり、船体も引き上げられないままだそうです。そんな戦争から60年以上経過した今でも、かすかに見える海底の船体からは、油が少しずつもれているのが撮影できました。

  • 慰霊塔アリゾナ記念館の「戦没者名簿の碑」パールハーバー(真珠湾)<br /><br />慰霊塔の戦艦アリゾナ記念館の奥に置かれている1100余名の戦没者名簿の名前が刻まれた大理石の大きな石碑が安置されている。60年以上経つ今でも遺体が海底にあります。写真は、ここで犠牲になった人達の名前が刻まれた戦没者名簿の石碑を食い入るように見ている見学者です。

    慰霊塔アリゾナ記念館の「戦没者名簿の碑」パールハーバー(真珠湾)

    慰霊塔の戦艦アリゾナ記念館の奥に置かれている1100余名の戦没者名簿の名前が刻まれた大理石の大きな石碑が安置されている。60年以上経つ今でも遺体が海底にあります。写真は、ここで犠牲になった人達の名前が刻まれた戦没者名簿の石碑を食い入るように見ている見学者です。

  • 海に沈む戦艦ミズーリの模型(無料)<br /><br />私は、現地のツアーショップで行く!アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ、パールハーバー(真珠湾)観光に参加しました。ここは、日本とアメリカの歴史的にも重要な場所です。アリゾナ記念館では、日本語のイヤホンガイド(有料$5)があり安心して見学できました。写真は、日本軍の奇襲攻撃によって戦艦ミズーリが沈没した様子の模型です。ビジターセンターやミリタリー博物館などを見学後、シアターで当時の貴重なフィルムを鑑賞しました。その後、アリゾナ記念館を見学しました。アリゾナ記念館は、海中に没した戦艦アリゾナを跨ぐように造られた記念館で、記念館まではボートで行きます。ここのウィラー陸軍航空基地は、映画「トラトラトラ!」や「パールハーバー」にも登場した場所で、現在陸軍ヘリコプターの主力基地となっています。またスコーフィールド兵営は、映画「From Here to Eternity(地上より永遠に)」や「プラトーン」で知られる、アメリカ本土以外で最大規模の陸軍基地となっています。(定休日:月曜)。また併設されたミリタリーショップではTシャツ、キャップ、ワッペン各種、徽章、軍服各種などが購入できます。<br />

    海に沈む戦艦ミズーリの模型(無料)

    私は、現地のツアーショップで行く!アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ、パールハーバー(真珠湾)観光に参加しました。ここは、日本とアメリカの歴史的にも重要な場所です。アリゾナ記念館では、日本語のイヤホンガイド(有料$5)があり安心して見学できました。写真は、日本軍の奇襲攻撃によって戦艦ミズーリが沈没した様子の模型です。ビジターセンターやミリタリー博物館などを見学後、シアターで当時の貴重なフィルムを鑑賞しました。その後、アリゾナ記念館を見学しました。アリゾナ記念館は、海中に没した戦艦アリゾナを跨ぐように造られた記念館で、記念館まではボートで行きます。ここのウィラー陸軍航空基地は、映画「トラトラトラ!」や「パールハーバー」にも登場した場所で、現在陸軍ヘリコプターの主力基地となっています。またスコーフィールド兵営は、映画「From Here to Eternity(地上より永遠に)」や「プラトーン」で知られる、アメリカ本土以外で最大規模の陸軍基地となっています。(定休日:月曜)。また併設されたミリタリーショップではTシャツ、キャップ、ワッペン各種、徽章、軍服各種などが購入できます。

  • パールハーバー 真珠湾攻撃の写真展示(無料)<br /><br />このパールハーバーは、ホノルルでアメリカ人の観光客が一番多いところらしく、早朝の開門時間前から長蛇の列でした。しかし日本人は私たち8人だけでした。パールハーバーは、太平洋戦争のきっかけとなった日本の奇襲攻撃が有名で、この攻撃により沈められた戦艦アリゾナの記念墓地であるアリゾナ記念館があります。私は戦後の生まれなので戦争体験はありませんが、このメモリアルの記録をヘッドフォン(有料)による日本語の案内解説を聞いていると当時の様子がわかり感慨深いものとなりました。また、メモリアルの横には、珍しい潜水艦の展示もあり見学出来ます。是非日本人の多くの方もパールハーバーに来られることを願っています。

    パールハーバー 真珠湾攻撃の写真展示(無料)

    このパールハーバーは、ホノルルでアメリカ人の観光客が一番多いところらしく、早朝の開門時間前から長蛇の列でした。しかし日本人は私たち8人だけでした。パールハーバーは、太平洋戦争のきっかけとなった日本の奇襲攻撃が有名で、この攻撃により沈められた戦艦アリゾナの記念墓地であるアリゾナ記念館があります。私は戦後の生まれなので戦争体験はありませんが、このメモリアルの記録をヘッドフォン(有料)による日本語の案内解説を聞いていると当時の様子がわかり感慨深いものとなりました。また、メモリアルの横には、珍しい潜水艦の展示もあり見学出来ます。是非日本人の多くの方もパールハーバーに来られることを願っています。

  • 奇襲攻撃で死亡した米軍兵士 パールハーバー <br /><br />パールハーバーの海上に建設された白亜の慰霊塔アリゾナ記念館は、足元に眠る戦艦アリゾナの姿を肉眼で見ることができる。1941年12月7日(日本時間8日)早朝、日本軍の奇襲攻撃によって、戦艦アリゾナは、1100余名を越える乗組員とともに海に沈みました。この場所は、その後の太平洋戦争の火蓋を切ることになった歴史的場所なのです。また、アリゾナ記念館内の博物館では、戦艦アリゾナに乗船していた若い将校の死が妻に伝えられた電報などのオリジナル等も展示されています。また奇襲攻撃で死亡した米軍兵士の夫婦で幸せそうに写っている写真も展示してあり、なんともいえない気持ちになりました。 <br /><br />

    奇襲攻撃で死亡した米軍兵士 パールハーバー 

    パールハーバーの海上に建設された白亜の慰霊塔アリゾナ記念館は、足元に眠る戦艦アリゾナの姿を肉眼で見ることができる。1941年12月7日(日本時間8日)早朝、日本軍の奇襲攻撃によって、戦艦アリゾナは、1100余名を越える乗組員とともに海に沈みました。この場所は、その後の太平洋戦争の火蓋を切ることになった歴史的場所なのです。また、アリゾナ記念館内の博物館では、戦艦アリゾナに乗船していた若い将校の死が妻に伝えられた電報などのオリジナル等も展示されています。また奇襲攻撃で死亡した米軍兵士の夫婦で幸せそうに写っている写真も展示してあり、なんともいえない気持ちになりました。

  • パールハーバーを見学する人達<br /><br />何故パールハーバー?なのかおわかりですか、昔は、真珠が捕れたそうで、パールハーバーだそうですよ。これ本当の事です。当事の様子のフィルムとか展示している写真を見ると、ここで戦争が始まったなんて本当に信じられませんでした。アメリカ人からは、日本人を見る目が違って見られてしまいそうですが、今の若者は、昔の歴史の出来事の一部として見ているようです。備考:見学の注意事項として。1.クーラーが効いているため、寒い場合があります。2.セーフティボックス設置なし、大きな荷物は持ち込めません。3.真珠湾内観光中、バックを持って行く事ができません。カメラ、お財布などは大丈夫です。

    パールハーバーを見学する人達

    何故パールハーバー?なのかおわかりですか、昔は、真珠が捕れたそうで、パールハーバーだそうですよ。これ本当の事です。当事の様子のフィルムとか展示している写真を見ると、ここで戦争が始まったなんて本当に信じられませんでした。アメリカ人からは、日本人を見る目が違って見られてしまいそうですが、今の若者は、昔の歴史の出来事の一部として見ているようです。備考:見学の注意事項として。1.クーラーが効いているため、寒い場合があります。2.セーフティボックス設置なし、大きな荷物は持ち込めません。3.真珠湾内観光中、バックを持って行く事ができません。カメラ、お財布などは大丈夫です。

  • 真珠湾 パールハーバー<br /><br />トラトラトラの映画で有名な真珠湾の戦跡見学。アリゾナ記念館の下に沈む戦艦アリゾナの後方に見える船は、戦艦ミズーリです。戦艦ミズーリは、1945年8月15日の終戦後、9月2日の東京湾上で日本が降伏文書に調印した場所となった船です。ミズーリは、第2次大戦後も朝鮮戦争や湾岸戦争などで活躍し、いまは現役を退いてパールハーバーに係留され、歴史博物館としての役目についています。その手前の右に見える3つのブイは、真珠湾攻撃時に日本軍によって沈められたBB36 NEVADA等の船の場所を示しています。<br />

    真珠湾 パールハーバー

    トラトラトラの映画で有名な真珠湾の戦跡見学。アリゾナ記念館の下に沈む戦艦アリゾナの後方に見える船は、戦艦ミズーリです。戦艦ミズーリは、1945年8月15日の終戦後、9月2日の東京湾上で日本が降伏文書に調印した場所となった船です。ミズーリは、第2次大戦後も朝鮮戦争や湾岸戦争などで活躍し、いまは現役を退いてパールハーバーに係留され、歴史博物館としての役目についています。その手前の右に見える3つのブイは、真珠湾攻撃時に日本軍によって沈められたBB36 NEVADA等の船の場所を示しています。

  • 戦艦ミズーリ博物館<br /> <br /><br />たまたま行ったったときに、来ていた米国の高校のマーチングバンドです。このようなバトントワラーズをともなった音楽隊の行進が年間を通じて色々な記念日に戦艦ミズーリ博物館前で行われているようです。

    戦艦ミズーリ博物館


    たまたま行ったったときに、来ていた米国の高校のマーチングバンドです。このようなバトントワラーズをともなった音楽隊の行進が年間を通じて色々な記念日に戦艦ミズーリ博物館前で行われているようです。

  • 戦艦ミズーリ博物館 (有料)<br /><br />この博物館の敷地内には、潜水艦バウフィン号の見学ツアー(有料)と、写真の戦艦ミズーリの見学ツアー(有料)があります。両方のチケット売り場は同じ場所で買い求める事が出来ます。たしか20ドルくらいだっのではないでしょうか。トロリーバスに乗って、米軍の敷地内に入っていきますので、この間は一切撮影禁止です。全長230メートルもある巨大な戦艦ミズーリは、大きな主砲やミサイルの発射台、船内の施設などを見学することが出来ます。日本では今や大半の世代が戦争を知らない時代になりましたが、旅行でハワイを訪れる機会があれば、このアリゾナ記念館と戦艦ミズーリそれに潜水艦バウフィン号の3施設を訪れる意義は大きいといえます。この戦艦ミズーリは、大日本帝国の降伏文書調印式が、甲板上で行われたという歴史的な場所なのです。降伏調印式は、23分間にわたって世界中に放送されアメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダ・中華民国・カナダが調印して日本の降伏を受け入れました。その後、退役まで朝鮮戦争・湾岸戦争にも参加した歴史の証人とも呼べる戦艦なのです。 <br />

    戦艦ミズーリ博物館 (有料)

    この博物館の敷地内には、潜水艦バウフィン号の見学ツアー(有料)と、写真の戦艦ミズーリの見学ツアー(有料)があります。両方のチケット売り場は同じ場所で買い求める事が出来ます。たしか20ドルくらいだっのではないでしょうか。トロリーバスに乗って、米軍の敷地内に入っていきますので、この間は一切撮影禁止です。全長230メートルもある巨大な戦艦ミズーリは、大きな主砲やミサイルの発射台、船内の施設などを見学することが出来ます。日本では今や大半の世代が戦争を知らない時代になりましたが、旅行でハワイを訪れる機会があれば、このアリゾナ記念館と戦艦ミズーリそれに潜水艦バウフィン号の3施設を訪れる意義は大きいといえます。この戦艦ミズーリは、大日本帝国の降伏文書調印式が、甲板上で行われたという歴史的な場所なのです。降伏調印式は、23分間にわたって世界中に放送されアメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダ・中華民国・カナダが調印して日本の降伏を受け入れました。その後、退役まで朝鮮戦争・湾岸戦争にも参加した歴史の証人とも呼べる戦艦なのです。

  • 真珠湾に浮かぶ戦艦ミズーリ博物館(有料)<br /><br />戦艦ミズーリーには、上甲板に3基の砲塔があり全部で9門搭載されています。写真は、艦首の前列砲の3門が上下に並んだ16インチ砲です。戦艦ミズーリは、全長270.4m、全幅33m、高さ63.9m、総排水量53785トン、速力33ノットだそうです。ミズーリは「マイティーモ」の愛称で米国民に親しまれている米国最後の戦艦です。昭和16年1月6日ニューヨーク州ブルックリンのニューヨーク海軍造船所で着工されました。3年後の昭和19年1月29日に進水式を迎え、その際命名者となったのが、ミズーリ州選出国会議員であったハリー・トルーマン氏の愛娘マーガレット・トルーマンでした。そして同年の昭和19年に就役した後、第二次世界大戦中は主に太平洋中心に活動。昭和19年12月24日にパールハーバーに寄港し、昭和20年空母レキシントン卒いる戦隊に加わり、同年2月19日硫黄島上陸作戦に参加。また3月には沖縄での攻撃作戦、4月の沖縄上陸作戦も海上から砲撃射撃を行っている。4月11日、初めての日本軍の特攻隊戦闘機(1機)が甲板付近に当たり少し破損した。

    真珠湾に浮かぶ戦艦ミズーリ博物館(有料)

    戦艦ミズーリーには、上甲板に3基の砲塔があり全部で9門搭載されています。写真は、艦首の前列砲の3門が上下に並んだ16インチ砲です。戦艦ミズーリは、全長270.4m、全幅33m、高さ63.9m、総排水量53785トン、速力33ノットだそうです。ミズーリは「マイティーモ」の愛称で米国民に親しまれている米国最後の戦艦です。昭和16年1月6日ニューヨーク州ブルックリンのニューヨーク海軍造船所で着工されました。3年後の昭和19年1月29日に進水式を迎え、その際命名者となったのが、ミズーリ州選出国会議員であったハリー・トルーマン氏の愛娘マーガレット・トルーマンでした。そして同年の昭和19年に就役した後、第二次世界大戦中は主に太平洋中心に活動。昭和19年12月24日にパールハーバーに寄港し、昭和20年空母レキシントン卒いる戦隊に加わり、同年2月19日硫黄島上陸作戦に参加。また3月には沖縄での攻撃作戦、4月の沖縄上陸作戦も海上から砲撃射撃を行っている。4月11日、初めての日本軍の特攻隊戦闘機(1機)が甲板付近に当たり少し破損した。

  • 真珠湾に浮かぶ戦艦ミズーリ博物館(有料)<br /><br />戦艦ミズーリ自慢の砲台は、主砲16インチ砲(40.6cm)中央だけ蓋を付けずに、砲身をのぞけるようになっている。最大射程距離は37kmだそうですが、一度は40kmもぶっ放したことがあるという。凄く遠くまで飛ぶようです。16インチ砲は全部で9門搭載していて上甲板に3基の砲塔があり2基は艦首に一基は艦尾に有ります。写真は艦尾の後列砲です。この戦艦は、まさに鉄のかたまりと言えるでしょうね。

    真珠湾に浮かぶ戦艦ミズーリ博物館(有料)

    戦艦ミズーリ自慢の砲台は、主砲16インチ砲(40.6cm)中央だけ蓋を付けずに、砲身をのぞけるようになっている。最大射程距離は37kmだそうですが、一度は40kmもぶっ放したことがあるという。凄く遠くまで飛ぶようです。16インチ砲は全部で9門搭載していて上甲板に3基の砲塔があり2基は艦首に一基は艦尾に有ります。写真は艦尾の後列砲です。この戦艦は、まさに鉄のかたまりと言えるでしょうね。

  • 真珠湾に浮かぶ戦艦ミズーリ博物館(有料)<br /><br />戦艦ミズーリの甲板上で日本の降伏調印が行われた歴史的な場所です。真珠湾攻撃の犠牲者の象徴、アリゾナ記念館の横には、敗戦後、東京湾で日本が降伏文書を調印した戦艦ミズーリが退役して係留され、「戦艦ミズーリ博物館」に生まれ変わりました。戦後民主主義も、平和憲法も、戦後の経済発展も、米軍基地の問題も、みんなここが起点だったのです。日本人は1945年9月2日の東京湾での降伏文書調印式を忘れないでほしい。<br />【ポツダム宣言受諾にいたる主な出来事】<br />1945/05/07ドイツ、無条件降伏 (ベルリン陥落) <br />1945/05/14最高戦争指導会議、対ソ交渉方針を決定 (終戦工作開始) <br />1945/06/03広田・マリク(駐日ソ連大使)会談 <br />1945/06/08御前会議、本土決戦決定 (「今後採るべき戦争指導の基本要綱」) <br />1945/06/18天皇、和平交渉推進を決定 <br />1945/06/23沖縄守備隊全滅 <br />1945/07/10最高戦争指導会議、近衛特使ソ連派遣を決定 <br />1945/07/17ポツダム会談 (〜08/02) <br />1945/07/18ソ連、近衛特使派遣について否定的回答 <br />1945/07/26連合国、ポツダム宣言発表 <br />1945/07/28鈴木首相記者会見「ポツダム宣言黙殺」 <br />1945/07/30佐藤尚武駐ソ大使、ソ連政府に和平斡旋を依頼 <br />1945/08/06アメリカ軍、広島に原爆投下 <br />1945/08/08ソ連、対日参戦 (08/09 満州侵攻開始) <br />1945/08/09アメリカ軍、長崎に原爆投下 <br />1945/08/10御前会議、条件付きでポツダム宣言受諾を決定 <br />1945/08/10政府、ポツダム宣言の条件付き受諾を連合国に申入れ <br />1945/08/12日本降伏に関する連合国回答到着 <br />1945/08/14御前会議、ポツダム宣言受諾を決定 <br />1945/08/14政府、ポツダム宣言受諾を連合国に通告 <br />

    真珠湾に浮かぶ戦艦ミズーリ博物館(有料)

    戦艦ミズーリの甲板上で日本の降伏調印が行われた歴史的な場所です。真珠湾攻撃の犠牲者の象徴、アリゾナ記念館の横には、敗戦後、東京湾で日本が降伏文書を調印した戦艦ミズーリが退役して係留され、「戦艦ミズーリ博物館」に生まれ変わりました。戦後民主主義も、平和憲法も、戦後の経済発展も、米軍基地の問題も、みんなここが起点だったのです。日本人は1945年9月2日の東京湾での降伏文書調印式を忘れないでほしい。
    【ポツダム宣言受諾にいたる主な出来事】
    1945/05/07ドイツ、無条件降伏 (ベルリン陥落)
    1945/05/14最高戦争指導会議、対ソ交渉方針を決定 (終戦工作開始)
    1945/06/03広田・マリク(駐日ソ連大使)会談
    1945/06/08御前会議、本土決戦決定 (「今後採るべき戦争指導の基本要綱」)
    1945/06/18天皇、和平交渉推進を決定
    1945/06/23沖縄守備隊全滅
    1945/07/10最高戦争指導会議、近衛特使ソ連派遣を決定
    1945/07/17ポツダム会談 (〜08/02)
    1945/07/18ソ連、近衛特使派遣について否定的回答
    1945/07/26連合国、ポツダム宣言発表
    1945/07/28鈴木首相記者会見「ポツダム宣言黙殺」
    1945/07/30佐藤尚武駐ソ大使、ソ連政府に和平斡旋を依頼
    1945/08/06アメリカ軍、広島に原爆投下
    1945/08/08ソ連、対日参戦 (08/09 満州侵攻開始)
    1945/08/09アメリカ軍、長崎に原爆投下
    1945/08/10御前会議、条件付きでポツダム宣言受諾を決定
    1945/08/10政府、ポツダム宣言の条件付き受諾を連合国に申入れ
    1945/08/12日本降伏に関する連合国回答到着
    1945/08/14御前会議、ポツダム宣言受諾を決定
    1945/08/14政府、ポツダム宣言受諾を連合国に通告

  • 戦艦ミズーリ「日本降伏文書調印式会場」<br /><br />昭和20年(1945)9月2日午前9時02分東京湾停泊の戦艦ミズーリの右舷01デッキにて日本降伏文書調印式が行われた。写真は、大日本帝国の降伏文書調印式が甲板上で行われたという歴史的な場所を示す表示板です。これが噂の「シゲミツ・プレート」甲板である。このプレートの上で、日本の降伏文書調印が行われた。日本側は全権大使重光葵、アメリカ側はマッカーサー元帥を始めとする連合軍が署名した。これにより第二次世界大戦は完全に終結したのである。「降伏文書調印」は、ミズーリの歴史でもっとも華やかなもので艦内の展示でも大々的に取り上げられていました。そのほか、トルーマン大統領が食堂でほかの船員達と一緒に並んだといわれている『トルーマン・レーン』がありました。

    戦艦ミズーリ「日本降伏文書調印式会場」

    昭和20年(1945)9月2日午前9時02分東京湾停泊の戦艦ミズーリの右舷01デッキにて日本降伏文書調印式が行われた。写真は、大日本帝国の降伏文書調印式が甲板上で行われたという歴史的な場所を示す表示板です。これが噂の「シゲミツ・プレート」甲板である。このプレートの上で、日本の降伏文書調印が行われた。日本側は全権大使重光葵、アメリカ側はマッカーサー元帥を始めとする連合軍が署名した。これにより第二次世界大戦は完全に終結したのである。「降伏文書調印」は、ミズーリの歴史でもっとも華やかなもので艦内の展示でも大々的に取り上げられていました。そのほか、トルーマン大統領が食堂でほかの船員達と一緒に並んだといわれている『トルーマン・レーン』がありました。

  • 戦艦ミズーリ博物館「降伏文書調印式」<br /><br />真珠湾は、私達日本人団体八名だけで他は外人ばかりの大行列でした。第二次世界大戦勃発のきっかけとなり今も油が出ている沈船アリゾナと、最後のミズーリー甲板上でのマッカーサーとの歴史的な調印式の現場が見られました。降伏調印式は、23分間にわたって世界中に放送されアメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダ・中華民国・カナダが調印して日本の降伏を受け入れられました。写真は、降伏文書調印式の時の写真です。

    戦艦ミズーリ博物館「降伏文書調印式」

    真珠湾は、私達日本人団体八名だけで他は外人ばかりの大行列でした。第二次世界大戦勃発のきっかけとなり今も油が出ている沈船アリゾナと、最後のミズーリー甲板上でのマッカーサーとの歴史的な調印式の現場が見られました。降伏調印式は、23分間にわたって世界中に放送されアメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダ・中華民国・カナダが調印して日本の降伏を受け入れられました。写真は、降伏文書調印式の時の写真です。

  • 戦艦ミズーリ博物館「降伏文書調印式」<br /><br />大日本帝国の降伏文書調印式が甲板上で行われたという歴史的な写真です。最後のミズーリー甲板上でのマッカーサーとの歴史的な調印式の現場写真が、戦艦ミズーリの甲板上に展示されていました。その後、戦艦ミズーリは、退役まで朝鮮戦争・湾岸戦争にも参加した歴史の証人とも呼べる戦艦です。<br />

    戦艦ミズーリ博物館「降伏文書調印式」

    大日本帝国の降伏文書調印式が甲板上で行われたという歴史的な写真です。最後のミズーリー甲板上でのマッカーサーとの歴史的な調印式の現場写真が、戦艦ミズーリの甲板上に展示されていました。その後、戦艦ミズーリは、退役まで朝鮮戦争・湾岸戦争にも参加した歴史の証人とも呼べる戦艦です。

  • 戦艦ミズーリ博物館「日本降伏文書」<br /><br />大日本帝国の降伏文書調印式が甲板上で行われたという歴史的な場所です。写真は、その時の日本降伏文書の、重光葵、陸海軍参謀総長梅津美治郎、マッカーサー元帥のサインした調印文章です。

    戦艦ミズーリ博物館「日本降伏文書」

    大日本帝国の降伏文書調印式が甲板上で行われたという歴史的な場所です。写真は、その時の日本降伏文書の、重光葵、陸海軍参謀総長梅津美治郎、マッカーサー元帥のサインした調印文章です。

  • 戦艦ミズーリのフライング・ブリッジ司令席<br /><br />戦艦の一番上から見たフライング・ブリッジ司令席です。戦艦の昇降は、梯子が原則で両手があいてないと急な梯子段の上り下りは危険です。最初の梯子段は、司令官クラスが利用する場所につながるので木製の立派なものですが、上に行くにつれ、狭い急な梯子段になります。ここまでは団体では見学できません。写真のフライング・ブリッジ側には、通信機器が備わっていて、ここからも全艦に司令が出せる仕組みとなっているようです。しかし普段は、下の司令塔から指令が出されるようです。1986年それまで退役して余生を送っていたミズーリは、突如復役。トマホークミサイルなど当時最新鋭の兵器を搭載したときに設備もバージョンアップされたようです。アメリカ最後の戦艦ミズーリは、1941年起工、1944年竣工された。

    戦艦ミズーリのフライング・ブリッジ司令席

    戦艦の一番上から見たフライング・ブリッジ司令席です。戦艦の昇降は、梯子が原則で両手があいてないと急な梯子段の上り下りは危険です。最初の梯子段は、司令官クラスが利用する場所につながるので木製の立派なものですが、上に行くにつれ、狭い急な梯子段になります。ここまでは団体では見学できません。写真のフライング・ブリッジ側には、通信機器が備わっていて、ここからも全艦に司令が出せる仕組みとなっているようです。しかし普段は、下の司令塔から指令が出されるようです。1986年それまで退役して余生を送っていたミズーリは、突如復役。トマホークミサイルなど当時最新鋭の兵器を搭載したときに設備もバージョンアップされたようです。アメリカ最後の戦艦ミズーリは、1941年起工、1944年竣工された。

  • 戦艦ミズーリ博物館の司令室内部<br /><br />真珠湾のすべてを見学するお得なツアーでは、パールハーバー資料館や、ボートに乗り海上アリゾナ記念館等を見学後、ミズーリへ。更にミズーリ号の降伏文章調印式場、特攻機激突場所など、一般公開されていないトマホークミサイルの発射ボタンの有る指揮所内も特別の許可を得て見学する事が出来ました。この写真は、作戦会議をしてミサイル等を発射する司令室です。現在の日本の自衛隊と余り変わらない所のようです。通常指令を発信している場所は、厚さ40Cmの鋼鉄製の円筒のようにつくられていてどんな攻撃にも耐えられ、有事の時はこの扉が閉ざされて入出は一切禁止されるそうです。

    戦艦ミズーリ博物館の司令室内部

    真珠湾のすべてを見学するお得なツアーでは、パールハーバー資料館や、ボートに乗り海上アリゾナ記念館等を見学後、ミズーリへ。更にミズーリ号の降伏文章調印式場、特攻機激突場所など、一般公開されていないトマホークミサイルの発射ボタンの有る指揮所内も特別の許可を得て見学する事が出来ました。この写真は、作戦会議をしてミサイル等を発射する司令室です。現在の日本の自衛隊と余り変わらない所のようです。通常指令を発信している場所は、厚さ40Cmの鋼鉄製の円筒のようにつくられていてどんな攻撃にも耐えられ、有事の時はこの扉が閉ざされて入出は一切禁止されるそうです。

  • 戦艦ミズーリ博物館の司令室内部<br /><br />司令室のレーダー装置です。戦艦ミズーリ上甲板船首部の先端のアンテナは、1986年近代設備搭載時に設置されたものでニックネームはクリスマスツリーと呼ばれています。ミズーリの一般公開されていないトマホークミサイルの発射ボタンの有る指揮所内も特別の許可を得て見学する事が出来ました。トマホークミサイルは、昭和61年(1986)470億円をかけ搭載の最新兵器や設備を備えた艦は、平成3年(1989)湾岸戦争へ出動して1月17日最初のトマホークミサイルを発射されました。この部屋に入ったときは、第二次世界大戦や朝鮮戦争それに湾岸戦争で実際に使用された司令室だけに大変複雑な思いでした。

    戦艦ミズーリ博物館の司令室内部

    司令室のレーダー装置です。戦艦ミズーリ上甲板船首部の先端のアンテナは、1986年近代設備搭載時に設置されたものでニックネームはクリスマスツリーと呼ばれています。ミズーリの一般公開されていないトマホークミサイルの発射ボタンの有る指揮所内も特別の許可を得て見学する事が出来ました。トマホークミサイルは、昭和61年(1986)470億円をかけ搭載の最新兵器や設備を備えた艦は、平成3年(1989)湾岸戦争へ出動して1月17日最初のトマホークミサイルを発射されました。この部屋に入ったときは、第二次世界大戦や朝鮮戦争それに湾岸戦争で実際に使用された司令室だけに大変複雑な思いでした。

  • 戦艦ミズーリ博物館の司令室内部<br /><br />作戦会議をしてミサイル等を発射する司令室です。 海図を見る装置です。一般公開されていないトマホークやミサイルの発射ボタンの有る指揮所内も特別の許可を得て見学する事が出来ました。この真珠湾に展示されている最初の敗北である慰霊塔アリゾナ記念館に沈む「アリゾナ」と、最後は勝利を表すモニュメントとしての「戦艦ミズーリ」との両艦がアメリカ人に貴重な存在であることを痛感しました。<br />

    戦艦ミズーリ博物館の司令室内部

    作戦会議をしてミサイル等を発射する司令室です。 海図を見る装置です。一般公開されていないトマホークやミサイルの発射ボタンの有る指揮所内も特別の許可を得て見学する事が出来ました。この真珠湾に展示されている最初の敗北である慰霊塔アリゾナ記念館に沈む「アリゾナ」と、最後は勝利を表すモニュメントとしての「戦艦ミズーリ」との両艦がアメリカ人に貴重な存在であることを痛感しました。

  • 戦艦ミズーリの日本特攻機攻撃場所<br /><br />1945年4月11日午後2時43分、沖縄海戦で日本の特攻隊が戦艦ミズーリーめがけて攻撃して突っ込んだ時に出来た甲板のへこんだ写真です。甲板の右舷艦尾付近には、&quot;Kamikaze Attack Site&quot;があります。一機の特攻機が突撃して激突したという場所です。

    戦艦ミズーリの日本特攻機攻撃場所

    1945年4月11日午後2時43分、沖縄海戦で日本の特攻隊が戦艦ミズーリーめがけて攻撃して突っ込んだ時に出来た甲板のへこんだ写真です。甲板の右舷艦尾付近には、"Kamikaze Attack Site"があります。一機の特攻機が突撃して激突したという場所です。

  • 戦艦ミズーリに体当たり攻撃する日本軍の零式艦上戦闘機<br /><br />この戦艦ミズーリ艦内に展示の写真は、1945年4月11日午後2時43分、沖縄海戦で戦艦ミズーリーに、上空30mで体当たり攻撃する日本海軍の零式艦上戦闘機『Kamikaze Attack 』(神風特攻機)日本の特攻隊が突っ込んだ瞬間です。爆弾は海に落ち機体(写真左上部)は主翼が甲板に接触し海へ落ち19歳の隊員は艦内に放り出され即死状態であったそうです。飛行機は燃え上がりましたが、すぐに消し止め大事には至りませんでした。即死した操縦士の遺体は、艦長の指示によりアメリカ軍の乗組員達が手厚く水葬して葬ったようです。この戦艦ミズーリは、すぐ隣に水没している戦艦アリゾナと、船首を向かい合わせているのが興味深く、太平洋戦争の最初と最後の「証人」が、顔を会わせながら余生をすごしていると言えます。

    戦艦ミズーリに体当たり攻撃する日本軍の零式艦上戦闘機

    この戦艦ミズーリ艦内に展示の写真は、1945年4月11日午後2時43分、沖縄海戦で戦艦ミズーリーに、上空30mで体当たり攻撃する日本海軍の零式艦上戦闘機『Kamikaze Attack 』(神風特攻機)日本の特攻隊が突っ込んだ瞬間です。爆弾は海に落ち機体(写真左上部)は主翼が甲板に接触し海へ落ち19歳の隊員は艦内に放り出され即死状態であったそうです。飛行機は燃え上がりましたが、すぐに消し止め大事には至りませんでした。即死した操縦士の遺体は、艦長の指示によりアメリカ軍の乗組員達が手厚く水葬して葬ったようです。この戦艦ミズーリは、すぐ隣に水没している戦艦アリゾナと、船首を向かい合わせているのが興味深く、太平洋戦争の最初と最後の「証人」が、顔を会わせながら余生をすごしていると言えます。

  • パールハーバー 真珠湾<br /><br />現在も太平洋の主要な軍事基地として使用されていて、凄い巨大な全方位のレーダーが設置されていました。こんなのを撮影してよいのかどうか躊躇しましたが。<br />

    パールハーバー 真珠湾

    現在も太平洋の主要な軍事基地として使用されていて、凄い巨大な全方位のレーダーが設置されていました。こんなのを撮影してよいのかどうか躊躇しましたが。

  • パールハーバー 真珠湾<br /><br />アリゾナ記念廟の公園内部に設置されていた本物のミサイルです。

    パールハーバー 真珠湾

    アリゾナ記念廟の公園内部に設置されていた本物のミサイルです。

  • パールハーバー 真珠湾<br /><br />たしか核弾頭付きの本物の魚雷だったと思います。<br />しかく放射線と放射能ってどう違うの?すべての物質はいろいろな原子というものが集まってできています。その原子の中心にある原子核が分裂して別の物質にかわるときに出すのが「放射線」です。「放射能」とは、「放射線を出してほかの物質に変わりやすい能力(性質)」のことです。ウランのように放射線を出してほかの物質に変わりやすい性質(能力を持った)の物質を「放射性物質」と言います。<br />■原子爆弾(げんしばくだん)をつくったのはアインシュタイン? 天才科学者と言われているアインシュタインが、原子爆弾をつくったのか。     <br />アインシュタインは、直接、原子爆弾(げんしばくだん)のしくみを考えついたり、製造にたずさわったりしてはいません。アインシュタインは、1930年ごろ、原子力がいかに大きなエネルギーであるかを示す公式、つまり原子爆弾を作るもとになる理論を考えついた人ですが、直接、原子爆弾を作る仕事には全くかかわっていません。しかし、原子爆弾の開発をアメリカ大統領に求める手紙に署名(しょめい)をそえ、この手紙がひとつのきっかけとなってアメリカで原子爆弾が作られることになりました。(このことについては、 「原子爆弾の開発」のところにのっているので見てくださいね。)では、どうしてアインシュタインはこのような手紙をだしたのでしょうか。このころ、ナチスが政権をとったドイツが侵略(しんりゃく)をはじめ、第二次世界大戦がはじまりました。ドイツは科学の進んだ国だったので、その他の国の科学者達は、「ドイツが原子爆弾を最初に開発したら大変なことになる」という不安を感じていました。ナチスがユダヤ人を迫害(はくがい)したことは知っていると思いますが、アインシュタインをはじめ多くのユダヤ系の科学者たちが、ナチスの迫害を受け、自由に研究のできる環境(かんきょう)を求めて、アメリカにわたりました。かれらは、その経験から、「どうしてもドイツより先に原子爆弾を作らねば」と思ったのではないでしょうか。そして、かれらのうちのひとりが書いたアメリカの大統領に原爆の開発を求める手紙に、アインシュタインも賛成したのです。

    パールハーバー 真珠湾

    たしか核弾頭付きの本物の魚雷だったと思います。
    しかく放射線と放射能ってどう違うの?すべての物質はいろいろな原子というものが集まってできています。その原子の中心にある原子核が分裂して別の物質にかわるときに出すのが「放射線」です。「放射能」とは、「放射線を出してほかの物質に変わりやすい能力(性質)」のことです。ウランのように放射線を出してほかの物質に変わりやすい性質(能力を持った)の物質を「放射性物質」と言います。
    ■原子爆弾(げんしばくだん)をつくったのはアインシュタイン? 天才科学者と言われているアインシュタインが、原子爆弾をつくったのか。  
    アインシュタインは、直接、原子爆弾(げんしばくだん)のしくみを考えついたり、製造にたずさわったりしてはいません。アインシュタインは、1930年ごろ、原子力がいかに大きなエネルギーであるかを示す公式、つまり原子爆弾を作るもとになる理論を考えついた人ですが、直接、原子爆弾を作る仕事には全くかかわっていません。しかし、原子爆弾の開発をアメリカ大統領に求める手紙に署名(しょめい)をそえ、この手紙がひとつのきっかけとなってアメリカで原子爆弾が作られることになりました。(このことについては、 「原子爆弾の開発」のところにのっているので見てくださいね。)では、どうしてアインシュタインはこのような手紙をだしたのでしょうか。このころ、ナチスが政権をとったドイツが侵略(しんりゃく)をはじめ、第二次世界大戦がはじまりました。ドイツは科学の進んだ国だったので、その他の国の科学者達は、「ドイツが原子爆弾を最初に開発したら大変なことになる」という不安を感じていました。ナチスがユダヤ人を迫害(はくがい)したことは知っていると思いますが、アインシュタインをはじめ多くのユダヤ系の科学者たちが、ナチスの迫害を受け、自由に研究のできる環境(かんきょう)を求めて、アメリカにわたりました。かれらは、その経験から、「どうしてもドイツより先に原子爆弾を作らねば」と思ったのではないでしょうか。そして、かれらのうちのひとりが書いたアメリカの大統領に原爆の開発を求める手紙に、アインシュタインも賛成したのです。

  • ボウフィン潜水艦(有料) <br /><br />パールハーバーの入り口に位置する、巨大で不気味な様相の潜水艦です。第二次大戦では、戦闘潜水艦として活躍し、沖縄からの疎開学童を乗せた対馬丸を沈め悲劇を生んだ潜水艦としても有名である。

    ボウフィン潜水艦(有料)

    パールハーバーの入り口に位置する、巨大で不気味な様相の潜水艦です。第二次大戦では、戦闘潜水艦として活躍し、沖縄からの疎開学童を乗せた対馬丸を沈め悲劇を生んだ潜水艦としても有名である。

  • ボウフィン潜水艦(有料) <br /><br />第二次大戦のバラオ級潜水艦SS-287ボウフィンは、長さ93.57m、幅 8.22m、排水トン 1526トン、潜水時排水トン 2414トン、水上速度 20.25ノット、水中速度 8.75ノット、最大潜航深度 120m、乗員 85名です。<br />

    ボウフィン潜水艦(有料)

    第二次大戦のバラオ級潜水艦SS-287ボウフィンは、長さ93.57m、幅 8.22m、排水トン 1526トン、潜水時排水トン 2414トン、水上速度 20.25ノット、水中速度 8.75ノット、最大潜航深度 120m、乗員 85名です。

  • ボウフィン潜水艦(有料) <br /><br />潜水艦のハッチ入口です。この下に潜水艦ボウフィンの操縦室やエンジンルームそれに船室や魚雷砲などがあり見学することができました。艦内は、狭くて人が1人歩ける状態で、沢山の計器が備わっていて部屋毎に分厚いハッチがあり隔離されているようでした。<br /><br />

    ボウフィン潜水艦(有料)

    潜水艦のハッチ入口です。この下に潜水艦ボウフィンの操縦室やエンジンルームそれに船室や魚雷砲などがあり見学することができました。艦内は、狭くて人が1人歩ける状態で、沢山の計器が備わっていて部屋毎に分厚いハッチがあり隔離されているようでした。

  • ボウフィン潜水艦の魚雷砲(有料) <br /><br />潜水艦ボウフィンの魚雷砲です。左右の魚雷を前方の丸い筒に入れて発射されます。上下に2問ずつ有り4つの魚雷が装填できるようでした。映画でしか見た事がないので、実際に戦闘で使われていた魚雷砲を見て驚いてしまいました。内部は、現在でもピカピカに磨かれていて整備され何時でも出動可能な状態におかれているようでした。

    ボウフィン潜水艦の魚雷砲(有料)

    潜水艦ボウフィンの魚雷砲です。左右の魚雷を前方の丸い筒に入れて発射されます。上下に2問ずつ有り4つの魚雷が装填できるようでした。映画でしか見た事がないので、実際に戦闘で使われていた魚雷砲を見て驚いてしまいました。内部は、現在でもピカピカに磨かれていて整備され何時でも出動可能な状態におかれているようでした。

  • ボウフィン潜水艦の機関砲(有料) <br /><br />潜水艦ボウフィンの甲板上部に設置されている機関砲です。自由に操作して動かせるようになっています。<br /><br />■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。<br />copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.<br /><br />

    ボウフィン潜水艦の機関砲(有料)

    潜水艦ボウフィンの甲板上部に設置されている機関砲です。自由に操作して動かせるようになっています。

    ■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
    copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.

  • 【追記】<br />日本人にとって忘れてならないのは、広島と長崎に落とされた原子爆弾です。<br />《広島に原爆が投下された理由》<br /> 原子爆弾の研究を進めていたアメリカでは、1944年(昭和19年)9月に原爆を日本に対して使用することが決められた。日本をできるだけ早く降伏させ、アメリカ軍の犠牲を少なくする、といった理由のほかに、戦後世界で優位に立つためソ連参戦以前に原子爆弾を日本に投下する必要があった、あるいは世界最初の原子爆弾を一日も早く実戦で使い、その効果を測定したいと考えた、などの理由から、原爆の使用を急いでいたといわれている。そして1945年(昭和20年)7月16日、人類史上初めての核爆発実験に成功した後、7月25日に原爆投下の命令が出された。この命令を受け、8月2日付けの野戦命令で「攻撃日を8月6日とし、その第1目標を広島とする」と指定された。原爆投下目標として広島が選ばれたのは、次のような理由からと推測されている。<br />1 都市の大きさや地形が、原爆の破壊能力を実験するのに適当であり、同時に原爆投下後の破壊効果を確認しやすかったこと。<br />2 軍隊、軍事施設、軍需工場などが集中し、しかも無傷であったこと。http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html

    【追記】
    日本人にとって忘れてならないのは、広島と長崎に落とされた原子爆弾です。
    《広島に原爆が投下された理由》
     原子爆弾の研究を進めていたアメリカでは、1944年(昭和19年)9月に原爆を日本に対して使用することが決められた。日本をできるだけ早く降伏させ、アメリカ軍の犠牲を少なくする、といった理由のほかに、戦後世界で優位に立つためソ連参戦以前に原子爆弾を日本に投下する必要があった、あるいは世界最初の原子爆弾を一日も早く実戦で使い、その効果を測定したいと考えた、などの理由から、原爆の使用を急いでいたといわれている。そして1945年(昭和20年)7月16日、人類史上初めての核爆発実験に成功した後、7月25日に原爆投下の命令が出された。この命令を受け、8月2日付けの野戦命令で「攻撃日を8月6日とし、その第1目標を広島とする」と指定された。原爆投下目標として広島が選ばれたのは、次のような理由からと推測されている。
    1 都市の大きさや地形が、原爆の破壊能力を実験するのに適当であり、同時に原爆投下後の破壊効果を確認しやすかったこと。
    2 軍隊、軍事施設、軍需工場などが集中し、しかも無傷であったこと。http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html

  • 原爆(げんばく)の投下命令書1945年7月25日■科学者(かがくしゃ)たちの願いを無視(むし)して、アメリカ大統領(だいとうりょう)は「原爆投下げんばくとうか)」の命令を出しました。 <br /><br />米国陸軍戦略(せんりゃく)航空隊司令官(しれいかん)カール・スパーツ将軍(しょうぐん)あて。<br /> 1.第20航空軍第509混成(こんせい)部隊は、1945年8月3日ごろ以降(いこう)において有視界爆撃(ゆうしかいばくげき)が可能(かのう)な天候になり次第(しだい)、広島、小倉、新潟(にいがた)、長崎(ながさき)のいずれかを目標として、最初の特殊爆弾(とくしゅばくだん)を投下する。爆弾(ばくだん)の爆発効果(ばくはつこうか)を観測(かんそく)・記録する陸軍省の軍人および民間人の科学要員を運ぶため、特別の航空機が爆弾搭載機(ばくだんとうさいき)に随行(ずいこう)する。観測機(かんそくき)は、爆発(ばくはつ)点から数マイルの距離(きょり)を保つ。<br /> 2 追加分の爆弾(ばくだん)は、計画担当者(たんとうしゃ)による準備(じゅんび)が整い次第(しだい)、前記の目標に対して投下される。前記以外の目標に関しては、あらためて指示(しじ)を発(はっ)する。<br /> 3 日本に対するこの兵器の使用に関するいっさいの情報(じょうほう)の公表は、陸軍長官ならびに米国大統領(だいとうりょう)にゆだねられる。作戦の現地指揮官(げんちしきかん)は、事前の特別許可(きょか)なしに、当該(とうがい)問題に関するいかなる公式発表(こうしきはっぴょう)または情報(じょうほう)の公開をも行わない。いかなるニュース記事も、陸軍省に送って特別の許可(きょか)を求めるものとする。<br /> 4 前記の指令は、陸軍長官ならびに米国陸軍参謀総長(さんぼうそうちょう)の指示(しじ)および承認(しょうにん)のもとに貴官(きかん)に発(はっ)せられるものである。マッカーサー将軍(しょうぐん)およびにミニッツ提督(ていとく)の参考に供(きょう)するため、この指令の写し各一部を貴官(きかん)から両名に直接渡(わた)されたい。トーマスT.ハンディ陸軍参謀総長(さんぼうそうちょう)代理<br />http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html

    原爆(げんばく)の投下命令書1945年7月25日■科学者(かがくしゃ)たちの願いを無視(むし)して、アメリカ大統領(だいとうりょう)は「原爆投下げんばくとうか)」の命令を出しました。

    米国陸軍戦略(せんりゃく)航空隊司令官(しれいかん)カール・スパーツ将軍(しょうぐん)あて。
     1.第20航空軍第509混成(こんせい)部隊は、1945年8月3日ごろ以降(いこう)において有視界爆撃(ゆうしかいばくげき)が可能(かのう)な天候になり次第(しだい)、広島、小倉、新潟(にいがた)、長崎(ながさき)のいずれかを目標として、最初の特殊爆弾(とくしゅばくだん)を投下する。爆弾(ばくだん)の爆発効果(ばくはつこうか)を観測(かんそく)・記録する陸軍省の軍人および民間人の科学要員を運ぶため、特別の航空機が爆弾搭載機(ばくだんとうさいき)に随行(ずいこう)する。観測機(かんそくき)は、爆発(ばくはつ)点から数マイルの距離(きょり)を保つ。
     2 追加分の爆弾(ばくだん)は、計画担当者(たんとうしゃ)による準備(じゅんび)が整い次第(しだい)、前記の目標に対して投下される。前記以外の目標に関しては、あらためて指示(しじ)を発(はっ)する。
     3 日本に対するこの兵器の使用に関するいっさいの情報(じょうほう)の公表は、陸軍長官ならびに米国大統領(だいとうりょう)にゆだねられる。作戦の現地指揮官(げんちしきかん)は、事前の特別許可(きょか)なしに、当該(とうがい)問題に関するいかなる公式発表(こうしきはっぴょう)または情報(じょうほう)の公開をも行わない。いかなるニュース記事も、陸軍省に送って特別の許可(きょか)を求めるものとする。
     4 前記の指令は、陸軍長官ならびに米国陸軍参謀総長(さんぼうそうちょう)の指示(しじ)および承認(しょうにん)のもとに貴官(きかん)に発(はっ)せられるものである。マッカーサー将軍(しょうぐん)およびにミニッツ提督(ていとく)の参考に供(きょう)するため、この指令の写し各一部を貴官(きかん)から両名に直接渡(わた)されたい。トーマスT.ハンディ陸軍参謀総長(さんぼうそうちょう)代理
    http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html

  • 広島市は、地球上ではじめて、原子爆弾(げんしばくだん)が落とされたまちです。その大きな悲劇をとおして、私たちは、戦争のむごたらしさ、核兵器(かくへいき)のおそろしさ、そして平和の大切さをあらためて確認(かくにん)しました。地球上のすべての人がおだやかにくらせる日まで、私たちは、ヒロシマから世界へ、平和のメッセージを発信しつづけます。<br />●「原爆(げんばく)を使わないよう」にと訴(うった)えた科学者たちの請願(せいがん)。米国大統領(べいこくだいとうりょう)あての要請書(ようせいしょ)。1945年7月17日。米国国民の知らない発見(はっけん)が、近い将来(しょうらい)においてわが国民の幸福を損(そこ)なうかもしれません。原子力の解放(かいほう)はすでに実現(じつげん)し、原子爆弾(ばくだん)は、陸軍の掌中(しょうちゅう)にゆだねられています。対日戦の現段階(げんだんかい)においてこの爆弾(ばくだん)の使用を承認(しょうにん)すべきか否(いな)かという、運命を左右する決定が、最高司令官たる閣下(かっか)の掌中(しょうちゅう)に託(たく)されているのであります。われわれ下記に署名(しょめい)した科学者は、原子力の分野にかかわる研究にたずさわってきました。われわれは、米国が今の戦争中に原子爆弾(ばくだん)による攻撃(こうげき)をこうむるかもしれず、また、米国がとりうる防御(ぼうぎょ)策は、同じ手段(しゅだん)による反撃(はんげき)以外にはなかろうとの不安を、最近はじめて抱(いだ)くにいたりました。ドイツの敗北にともない、この危険(きけん)が回避(かいひ)された今日、われわれは、あえて次のように述(の)べずにはいられません。すみやかに勝利をおさめ、戦争を終わらせなければなりません。それには、おそらく原子爆弾(ばくだん)による攻撃(こうげき)が有効(ゆうこう)な戦争遂行手段(すいこうしゅだん)でありましょう。しかし、日本に対するそのような攻撃(こうげき)は、少なくとも、戦後、日本に課される条件(じょうけん)を詳細(しょうさい)に公表するとともに、日本に降伏(こうふく)の機会を与(あた)えるのでなけれ、正当化しえないと考えます。そのような公表をつうじて、日本国民に対し、自国での平和的な生活の営(いとな)みを期待しうる保証(ほしょう)を与(あた)えたうえで、なおも日本が降伏(こうふく)を拒(こば)んだならば、わが国は、場合(ばあい)によっては原子爆弾(ばくだん)の使用に訴(うった)えざるをえなくなるかもしれません。しかし、そのような手段(しゅだん)は、それにともなう道徳的責任(どうとくてきせきにん)を真剣(しんけん)に顧慮(こりょ)することなくしては、いかなる時点においても訴(うった)えるべきものではありません。原子力の開発(かいはつ)は、諸国(しょこく)に新しい破壊手段(はかいしゅだん)をもたらすことでしょう。われわれが意のままに使用しうる原子爆弾(ばくだん)は、この方向へ踏み出す第一歩にすぎず、将来(しょうらい)の開発過程(かいはつかてい)で可能(かのう)となる破壊力(はかいりょく)は、ほとんど無限(むげん)であります。したがって、新たに解放(かいほう)されたこの自然の力を破壊(はかい)の目的で使用する前例をつくる国は、想像(そうぞう)を絶(ぜっ)する規模(きぼ)の破壊(はかい)の時代へ扉(とびら)を開くことについて責任を負わなければならないでしょう。今の戦争が終結したのち、互(たが)いに対抗(たいこう)する諸国(しょこく)がこの新しい破壊手段(はかいしゅだん)を自由勝手(かって)に保有(ほゆう)しうるような状況(じょうきょう)を放置し、世界に蔓延(まんえん)させるならば、米国のみならず他の諸国(しょこく)の都市も、突如(とつじょ)として壊滅(かいめつ)する危険(きけん)に常にさらされることになるでしょう。このような世界状況(じょうきょう)が生じないようにするため、精神的(せいしんてき)であると物質的(ぶっしつてき)であるとを問わず、米国のすべての力を結集しなければなりません。今やこれを防止(ぼうし)することは、米国が原子力の分野に占(し)めている優位(ゆうい)のゆえに、とくに米国に課された厳粛(げんしゅく)なる責任(せきにん)であります。この優位(ゆうい)が米国に与(あた)えている新しい実質的(じっしつてき)な力は、それと同時に自制(じせい)の義務(ぎむ)をも負わせるものであり、もしわれわれがこの義務(ぎむ)に背(そむ)くならば、われわれの道徳的(どうとくてき)立場は、世界の人びとの目にも、そして、われわれ自身の目にも、説得力のないものとして映(うつ)るでしょう。その結果、解(と)き放たれた破壊力(はかいりょく)を制御(せいぎょ)するというわれわれの責任(せきにん)を果(は)たすことは、いっそう困難(こんなん)になるでしょう。以上にかんがみ、われわれ下記に署名(しょめい)したものは、つつしんで次のことを要請(ようせい)いたします。第一に、日本側に課される条件(じょうけん)を詳細(しょうさい)に公表し、日本側がその条件(じょうけん)を知ったうえで、なおも降伏(こうふく)を拒(こば)んだ場合(ばあい)以外(いがい)は、この戦争において米国が原子爆弾(ばくだん)の使用に訴(うった)えないことを決定するため、最高司令官たる閣下(かっか)の権限(けんげん)を行使されること、第二として、そのような場合(ばあい)、原子爆弾(ばくだん)を使用すべきか否(いな)かについては、この要請書(ようせいしょ)に示した考慮(こうりょ)事項(じこう)のみならず、使用にともなう他のあらゆる道徳的(どうとくてき)責任(せきにん)にかんがみ、閣下(かっか)が決定されること。<br />

    広島市は、地球上ではじめて、原子爆弾(げんしばくだん)が落とされたまちです。その大きな悲劇をとおして、私たちは、戦争のむごたらしさ、核兵器(かくへいき)のおそろしさ、そして平和の大切さをあらためて確認(かくにん)しました。地球上のすべての人がおだやかにくらせる日まで、私たちは、ヒロシマから世界へ、平和のメッセージを発信しつづけます。
    ●「原爆(げんばく)を使わないよう」にと訴(うった)えた科学者たちの請願(せいがん)。米国大統領(べいこくだいとうりょう)あての要請書(ようせいしょ)。1945年7月17日。米国国民の知らない発見(はっけん)が、近い将来(しょうらい)においてわが国民の幸福を損(そこ)なうかもしれません。原子力の解放(かいほう)はすでに実現(じつげん)し、原子爆弾(ばくだん)は、陸軍の掌中(しょうちゅう)にゆだねられています。対日戦の現段階(げんだんかい)においてこの爆弾(ばくだん)の使用を承認(しょうにん)すべきか否(いな)かという、運命を左右する決定が、最高司令官たる閣下(かっか)の掌中(しょうちゅう)に託(たく)されているのであります。われわれ下記に署名(しょめい)した科学者は、原子力の分野にかかわる研究にたずさわってきました。われわれは、米国が今の戦争中に原子爆弾(ばくだん)による攻撃(こうげき)をこうむるかもしれず、また、米国がとりうる防御(ぼうぎょ)策は、同じ手段(しゅだん)による反撃(はんげき)以外にはなかろうとの不安を、最近はじめて抱(いだ)くにいたりました。ドイツの敗北にともない、この危険(きけん)が回避(かいひ)された今日、われわれは、あえて次のように述(の)べずにはいられません。すみやかに勝利をおさめ、戦争を終わらせなければなりません。それには、おそらく原子爆弾(ばくだん)による攻撃(こうげき)が有効(ゆうこう)な戦争遂行手段(すいこうしゅだん)でありましょう。しかし、日本に対するそのような攻撃(こうげき)は、少なくとも、戦後、日本に課される条件(じょうけん)を詳細(しょうさい)に公表するとともに、日本に降伏(こうふく)の機会を与(あた)えるのでなけれ、正当化しえないと考えます。そのような公表をつうじて、日本国民に対し、自国での平和的な生活の営(いとな)みを期待しうる保証(ほしょう)を与(あた)えたうえで、なおも日本が降伏(こうふく)を拒(こば)んだならば、わが国は、場合(ばあい)によっては原子爆弾(ばくだん)の使用に訴(うった)えざるをえなくなるかもしれません。しかし、そのような手段(しゅだん)は、それにともなう道徳的責任(どうとくてきせきにん)を真剣(しんけん)に顧慮(こりょ)することなくしては、いかなる時点においても訴(うった)えるべきものではありません。原子力の開発(かいはつ)は、諸国(しょこく)に新しい破壊手段(はかいしゅだん)をもたらすことでしょう。われわれが意のままに使用しうる原子爆弾(ばくだん)は、この方向へ踏み出す第一歩にすぎず、将来(しょうらい)の開発過程(かいはつかてい)で可能(かのう)となる破壊力(はかいりょく)は、ほとんど無限(むげん)であります。したがって、新たに解放(かいほう)されたこの自然の力を破壊(はかい)の目的で使用する前例をつくる国は、想像(そうぞう)を絶(ぜっ)する規模(きぼ)の破壊(はかい)の時代へ扉(とびら)を開くことについて責任を負わなければならないでしょう。今の戦争が終結したのち、互(たが)いに対抗(たいこう)する諸国(しょこく)がこの新しい破壊手段(はかいしゅだん)を自由勝手(かって)に保有(ほゆう)しうるような状況(じょうきょう)を放置し、世界に蔓延(まんえん)させるならば、米国のみならず他の諸国(しょこく)の都市も、突如(とつじょ)として壊滅(かいめつ)する危険(きけん)に常にさらされることになるでしょう。このような世界状況(じょうきょう)が生じないようにするため、精神的(せいしんてき)であると物質的(ぶっしつてき)であるとを問わず、米国のすべての力を結集しなければなりません。今やこれを防止(ぼうし)することは、米国が原子力の分野に占(し)めている優位(ゆうい)のゆえに、とくに米国に課された厳粛(げんしゅく)なる責任(せきにん)であります。この優位(ゆうい)が米国に与(あた)えている新しい実質的(じっしつてき)な力は、それと同時に自制(じせい)の義務(ぎむ)をも負わせるものであり、もしわれわれがこの義務(ぎむ)に背(そむ)くならば、われわれの道徳的(どうとくてき)立場は、世界の人びとの目にも、そして、われわれ自身の目にも、説得力のないものとして映(うつ)るでしょう。その結果、解(と)き放たれた破壊力(はかいりょく)を制御(せいぎょ)するというわれわれの責任(せきにん)を果(は)たすことは、いっそう困難(こんなん)になるでしょう。以上にかんがみ、われわれ下記に署名(しょめい)したものは、つつしんで次のことを要請(ようせい)いたします。第一に、日本側に課される条件(じょうけん)を詳細(しょうさい)に公表し、日本側がその条件(じょうけん)を知ったうえで、なおも降伏(こうふく)を拒(こば)んだ場合(ばあい)以外(いがい)は、この戦争において米国が原子爆弾(ばくだん)の使用に訴(うった)えないことを決定するため、最高司令官たる閣下(かっか)の権限(けんげん)を行使されること、第二として、そのような場合(ばあい)、原子爆弾(ばくだん)を使用すべきか否(いな)かについては、この要請書(ようせいしょ)に示した考慮(こうりょ)事項(じこう)のみならず、使用にともなう他のあらゆる道徳的(どうとくてき)責任(せきにん)にかんがみ、閣下(かっか)が決定されること。

  • ●死の斑点(はんてん)の出た兵士《撮影(さつえい):木村権一》1945(昭和20)年9月3日<br /><br />爆心(ばくしん)地から1キロメートル以内の家の中で被爆(ひばく)した人。10日以上たってから髪(かみ)の毛(け)が抜(ぬ )けはじめ、歯ぐきから血が出たりするようになりました。やがて皮膚(ひふ)の下に血がたまってむらさき色の斑点(はんてん)となって、歯ぐきからの血が止まらなくなり、被爆(ひばく)後1カ月近くたって亡(な)くなりました。<br />◆黒い雨。爆発(ばくはつ)後、巨大(きょだい)なきのこ雲が広島上空にたちのぼり、20〜30分後から西向きの風にのって形をくずしながら北西部に流れていきました。そして、その下の地域(ちいき)に「黒い雨」がふりました。この雨の中には、爆発(ばくはつ)のときにまきあげられた泥(どろ)やチリ、火事のススなどのほかに放射性物質(ほうしゃせいぶっしつ)がふくまれていました。このため、爆心(ばくしん)地から遠くはなれた地域(ちいき)の人の中にも放射線(ほうしゃせん)による障害(しょうがい)があらわれました。 <br />アメリカの子どもたちのことで質問(しつもん)します。<br />■以前アメリカで、原爆展(げんばくてん)を開こうとしたところ、反対運動が起こり、中止になったと思います。そのときか、その後、アメリカの子ども達(たち)の中から、原爆展(げんばくてん)を開こうというような動きが起こったと聞きました。でも、教えてくれた人の記憶(きおく)もはっきりせず、真偽(しんぎ)のほどはわかりません。本当にそのようなことがあったのなら、ぜひ詳(くわ)しいことを知りたいと思います。被爆(ひばく)から50年目の1995(平成7)年夏、アメリカ・ワシントンの国立航空宇宙(こうくううちゅう)博物館で広島に原子爆弾(ばくだん)を落とした「エノラ・ゲイ」号といっしょにヒロシマ・ナガサキの被爆(ひばく)の資料(しりょう)を展示(てんじ)する特別展(とくべつてん)が開かれることになっていました。この展示会(てんじかい)は退役軍人(たいえきぐんじん)会(アメリカの軍隊をやめた人たちの集まり)を中心とするさまざまなグループの反対で、実現(じつげん)することができませんでした。アメリカの子どもたちの中から、原爆展(げんばくてん)を開こうというような動きがあったことは認識(にんしき)していませんが、同じ1995(平成7)年7月8日〜27日の間、ワシントンDCにあるアメリカン大学に留学(りゅうがく)していた被爆(ひばく)二世たちの努力で、広島市とアメリカン大学が共同して「原爆展(げんばくてん)」を開催(かいさい)して反響(はんきょう)を呼よびました。なお、この後、広島市と長崎市(ながさきし)は毎年、海外の2都市程度(ていど)で原爆展(げんばくてん)を開いております。<br />●アメリカの原爆展(げんばくてん)について知る資料(しりょう)。「拒絶(きょぜつ)された原爆展(げんばくてん)」マーティン・ハーウィット著(ちょ)みすず書房(しょぼう)「葬(ほうむ)られた原爆展(げんばくてん)」フィリップ・ノビーレ他(ほか)著(ちょ)五月書房(しょぼう)<br />「アメリカの中の原爆(げんばく)論争(ろんそう)」NHK取材班(はん)ダイヤモンド社<br />http://www.pcf.city.hiroshima.jp/frame/kids_j/peacestudy.html<br />−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−<br />※You are only eligible to sign the CANT petition drive once. Please do not sign this online form if you have already signed the paper petition. Thank you. <br />(We deeply appreciate your kind cooperation with this petition drive) <br />Cities Are Not Targets (CANT) project<br />Online Petition for the Non-Targeting of Cities and the Abolition of Nuclear Weapons <br />We, the undersigned, make the following demands of the leaders of all Nuclear Weapon States.<br /> ● Do not target the cities in which we live with nuclear weapons! <br />● Do not target any cities, towns or villages anywhere in the world in which innocent children live! <br />● In accordance with the Nuclear Non-Proliferation Treaty and the Hiroshima-Nagasaki Protocol for a Nuclear Weapons Convention, please engage constructively in good-faith negotiations to abolish all nuclear weapons by the year 2020! <br />● Do not, even in war, attack cities or non-combatants!  <br />Please click here for the detailed concept of this project.<br />(out line of the CANT project petition drive) <br />■Sender of this list of signatories <br />http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html

    ●死の斑点(はんてん)の出た兵士《撮影(さつえい):木村権一》1945(昭和20)年9月3日

    爆心(ばくしん)地から1キロメートル以内の家の中で被爆(ひばく)した人。10日以上たってから髪(かみ)の毛(け)が抜(ぬ )けはじめ、歯ぐきから血が出たりするようになりました。やがて皮膚(ひふ)の下に血がたまってむらさき色の斑点(はんてん)となって、歯ぐきからの血が止まらなくなり、被爆(ひばく)後1カ月近くたって亡(な)くなりました。
    ◆黒い雨。爆発(ばくはつ)後、巨大(きょだい)なきのこ雲が広島上空にたちのぼり、20〜30分後から西向きの風にのって形をくずしながら北西部に流れていきました。そして、その下の地域(ちいき)に「黒い雨」がふりました。この雨の中には、爆発(ばくはつ)のときにまきあげられた泥(どろ)やチリ、火事のススなどのほかに放射性物質(ほうしゃせいぶっしつ)がふくまれていました。このため、爆心(ばくしん)地から遠くはなれた地域(ちいき)の人の中にも放射線(ほうしゃせん)による障害(しょうがい)があらわれました。
    アメリカの子どもたちのことで質問(しつもん)します。
    ■以前アメリカで、原爆展(げんばくてん)を開こうとしたところ、反対運動が起こり、中止になったと思います。そのときか、その後、アメリカの子ども達(たち)の中から、原爆展(げんばくてん)を開こうというような動きが起こったと聞きました。でも、教えてくれた人の記憶(きおく)もはっきりせず、真偽(しんぎ)のほどはわかりません。本当にそのようなことがあったのなら、ぜひ詳(くわ)しいことを知りたいと思います。被爆(ひばく)から50年目の1995(平成7)年夏、アメリカ・ワシントンの国立航空宇宙(こうくううちゅう)博物館で広島に原子爆弾(ばくだん)を落とした「エノラ・ゲイ」号といっしょにヒロシマ・ナガサキの被爆(ひばく)の資料(しりょう)を展示(てんじ)する特別展(とくべつてん)が開かれることになっていました。この展示会(てんじかい)は退役軍人(たいえきぐんじん)会(アメリカの軍隊をやめた人たちの集まり)を中心とするさまざまなグループの反対で、実現(じつげん)することができませんでした。アメリカの子どもたちの中から、原爆展(げんばくてん)を開こうというような動きがあったことは認識(にんしき)していませんが、同じ1995(平成7)年7月8日〜27日の間、ワシントンDCにあるアメリカン大学に留学(りゅうがく)していた被爆(ひばく)二世たちの努力で、広島市とアメリカン大学が共同して「原爆展(げんばくてん)」を開催(かいさい)して反響(はんきょう)を呼よびました。なお、この後、広島市と長崎市(ながさきし)は毎年、海外の2都市程度(ていど)で原爆展(げんばくてん)を開いております。
    ●アメリカの原爆展(げんばくてん)について知る資料(しりょう)。「拒絶(きょぜつ)された原爆展(げんばくてん)」マーティン・ハーウィット著(ちょ)みすず書房(しょぼう)「葬(ほうむ)られた原爆展(げんばくてん)」フィリップ・ノビーレ他(ほか)著(ちょ)五月書房(しょぼう)
    「アメリカの中の原爆(げんばく)論争(ろんそう)」NHK取材班(はん)ダイヤモンド社
    http://www.pcf.city.hiroshima.jp/frame/kids_j/peacestudy.html
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    ※You are only eligible to sign the CANT petition drive once. Please do not sign this online form if you have already signed the paper petition. Thank you.
    (We deeply appreciate your kind cooperation with this petition drive)
    Cities Are Not Targets (CANT) project
    Online Petition for the Non-Targeting of Cities and the Abolition of Nuclear Weapons
    We, the undersigned, make the following demands of the leaders of all Nuclear Weapon States.
    ● Do not target the cities in which we live with nuclear weapons!
    ● Do not target any cities, towns or villages anywhere in the world in which innocent children live!
    ● In accordance with the Nuclear Non-Proliferation Treaty and the Hiroshima-Nagasaki Protocol for a Nuclear Weapons Convention, please engage constructively in good-faith negotiations to abolish all nuclear weapons by the year 2020!
    ● Do not, even in war, attack cities or non-combatants!
    Please click here for the detailed concept of this project.
    (out line of the CANT project petition drive)
    ■Sender of this list of signatories
    http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html

  • アメリカ兵が、原爆(げんばく)を落とす時、どういった方法で、落としたのか。<br />  <br />アメリカは、B29という爆弾(ばくだん)を落として攻撃(こうげき)するための大型の飛行機を、原子爆弾(ばくだん)のために特別に作り変えました。この飛行機の名前を「エノラ・ゲイ」号といいます。 そして、原子爆弾(ばくだん)を落とすために、特別の訓練をした軍人たちによって操縦(そうじゅう)された「エノラ・ゲイ」号から原子爆弾(ばくだん)が投下されました。この爆弾(ばくだん)は約43秒後に爆発(ばくはつ)し、この間に、飛行機は安全なところへにげることができました。)くわしいことは、写真の「原爆(げんばく)投下と爆発(ばくはつ)のようす」をみてください。●原爆(げんばく)投下と爆発(ばくはつ)のようすです。  <br />http://www.pcf.city.hiroshima.jp/frame/kids_j/peacestudy.html<br />−−−−−−−−−−−−−−−<br />What is the Mayors for Peace?<br />In August 1945, atomic bombs instantaneously reduced the cities of Hiroshima and Nagasaki to rubble, taking hundreds of thousands of precious lives. Today, more than sixty years after the war, thousands of citizens still suffer the devastating aftereffects of radiation and unfathomable emotional pain. To prevent any repetition of the A-bomb tragedy, the cities of Hiroshima and Nagasaki have continually sought to tell the world about the inhumane cruelty of nuclear weapons and have consistently urged that nuclear weapons be abolished.<br /><br />On June 24, 1982, at the 2nd UN Special Session on Disarmament held at UN Headquarters in New York, then Mayor Takeshi Araki of Hiroshima proposed a new Program to Promote the Solidarity of Cities toward the Total Abolition of Nuclear Weapons. This proposal offered cities a way to transcend national borders and work together to press for nuclear abolition. Subsequently, the mayors of Hiroshima and Nagasaki called on mayors around the world to support this program.<br /><br />The Mayors for Peace is composed of cities around the world that have formally expressed support for the program Mayor Araki announced in 1982. As of August 1, 2008, membership stood at 2,368 cities in 131 countries and regions. In March 1990, the Mayors Conference was officially registered as a UN NGO related to the Department of Public Information. In May 1991, it became a Category II NGO(currently called a NGO in &quot;Special Consultative Status&quot;) registered with the Economic and Social Council.<br />http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html

    アメリカ兵が、原爆(げんばく)を落とす時、どういった方法で、落としたのか。

    アメリカは、B29という爆弾(ばくだん)を落として攻撃(こうげき)するための大型の飛行機を、原子爆弾(ばくだん)のために特別に作り変えました。この飛行機の名前を「エノラ・ゲイ」号といいます。 そして、原子爆弾(ばくだん)を落とすために、特別の訓練をした軍人たちによって操縦(そうじゅう)された「エノラ・ゲイ」号から原子爆弾(ばくだん)が投下されました。この爆弾(ばくだん)は約43秒後に爆発(ばくはつ)し、この間に、飛行機は安全なところへにげることができました。)くわしいことは、写真の「原爆(げんばく)投下と爆発(ばくはつ)のようす」をみてください。●原爆(げんばく)投下と爆発(ばくはつ)のようすです。
    http://www.pcf.city.hiroshima.jp/frame/kids_j/peacestudy.html
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    What is the Mayors for Peace?
    In August 1945, atomic bombs instantaneously reduced the cities of Hiroshima and Nagasaki to rubble, taking hundreds of thousands of precious lives. Today, more than sixty years after the war, thousands of citizens still suffer the devastating aftereffects of radiation and unfathomable emotional pain. To prevent any repetition of the A-bomb tragedy, the cities of Hiroshima and Nagasaki have continually sought to tell the world about the inhumane cruelty of nuclear weapons and have consistently urged that nuclear weapons be abolished.

    On June 24, 1982, at the 2nd UN Special Session on Disarmament held at UN Headquarters in New York, then Mayor Takeshi Araki of Hiroshima proposed a new Program to Promote the Solidarity of Cities toward the Total Abolition of Nuclear Weapons. This proposal offered cities a way to transcend national borders and work together to press for nuclear abolition. Subsequently, the mayors of Hiroshima and Nagasaki called on mayors around the world to support this program.

    The Mayors for Peace is composed of cities around the world that have formally expressed support for the program Mayor Araki announced in 1982. As of August 1, 2008, membership stood at 2,368 cities in 131 countries and regions. In March 1990, the Mayors Conference was officially registered as a UN NGO related to the Department of Public Information. In May 1991, it became a Category II NGO(currently called a NGO in "Special Consultative Status") registered with the Economic and Social Council.
    http://www.pcf.city.hiroshima.jp/top.html

  • 「戦争と平和展」2012年8月1日〜 於、竹取翁博物館(京都府京田辺市)<br />私たち現在生きている日本人は、先人、英霊達の尊い犠牲の上に成り立っていると言うことを知り感謝、追悼の念を送る事は大事である。<br /> ■展示内容の一部紹介<br />タイトル 国際平和に向けて「戦争と平和展」なぜ戦争(武力紛争)は起こるのか!?<br />1.パールハーバーAttack on Pearl Harbor<br />「アリゾナ記念館」第2次世界大戦のきっかけとなった、真珠湾攻撃(アリゾナ記念館)。潜水艦ボウフィン号、降伏文書調印式の戦艦ミズーリ号。<br />2.日米の激戦地(南太平洋・トラック諸島)<br />3.東西ドイツ統一のシンボル・ブランデンブルグ門とベルリンの壁<br />4.アウシュビッツ強制収容所 <br />ポーランド南部独:Das Konzentrationslager Auschwitz<br />5.ベトナム戦争の「クチ」トンネルC? Chi tunnel Vietnam Warなど

    「戦争と平和展」2012年8月1日〜 於、竹取翁博物館(京都府京田辺市)
    私たち現在生きている日本人は、先人、英霊達の尊い犠牲の上に成り立っていると言うことを知り感謝、追悼の念を送る事は大事である。
     ■展示内容の一部紹介
    タイトル 国際平和に向けて「戦争と平和展」なぜ戦争(武力紛争)は起こるのか!?
    1.パールハーバーAttack on Pearl Harbor
    「アリゾナ記念館」第2次世界大戦のきっかけとなった、真珠湾攻撃(アリゾナ記念館)。潜水艦ボウフィン号、降伏文書調印式の戦艦ミズーリ号。
    2.日米の激戦地(南太平洋・トラック諸島)
    3.東西ドイツ統一のシンボル・ブランデンブルグ門とベルリンの壁
    4.アウシュビッツ強制収容所 
    ポーランド南部独:Das Konzentrationslager Auschwitz
    5.ベトナム戦争の「クチ」トンネルC? Chi tunnel Vietnam Warなど

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