有馬温泉 【2】 古湯の歴史:ソフィさんの旅行ブログ
今回行った「太閤の湯」は、2005年4月グランドオープン。
17種類と称する湯の中で、大浴槽の金泉と銀泉をブレンドした「天下の湯」や銀泉の「くつろぎの湯」、露天の金泉「太閤の岩風呂」など、一泊で5回の入浴を楽しんだ。
有馬温泉の守護神湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)。
有馬温泉の存在が広く知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)両天皇の行幸から。
日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述がある。
その後徐々に衰退に向かった有馬を再興し、有馬温泉の基礎を開いたのが聖武天皇(701〜756)の信任あつかった名僧行基。
平安時代に入ると、多くの文人や天皇、重臣たちも有馬を訪れ、清少納言も枕草子のなかで「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と書いている。
当時すでに伊勢の榊原温泉とならんで有馬温泉が天下三大名湯の一つとして高い評価を受けていた。
しかし承徳元年(1097)、洪水があって人家を押し流し、温泉も壊滅。
この大洪水以後95年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したと考えられる。
荒廃しきっていた有馬を救ったのは、仁西(にんさい)という僧で、源平合戦で平家が滅亡した直後、吉野からやってきて有馬の再興を果たす。
ところがその後三百余年を経て、享禄元年(1528)大火に見舞われ、有馬は焦土化。
天文14年(1545)には戦渦に巻き込まれ、天正4(1576)年再度の大火があり、有馬は壊滅的なダメージをうける。
その後、天下統一の地固めに目途がついた天正11(1583)年、秀吉は、長らく続いた戦で疲れた心身を有馬の名湯で癒そうとした。
秀吉は再三有馬を訪れ、慶長2(1597)年大規模な改修工事を開始。
この直接のきっかけは、前年慶長伏見地震で、建物の被害も甚大だったが、温泉の温度が急上昇し熱湯となってしまったことだった。
以来350年間、有馬町(明治29年に湯山町から有馬町に改称)は一度も泉源の改修工事を行っていない。
秀吉は、工事が完成した慶長3年(1598)の5月に入湯の予定だったが、激しい風雨のため中止となり、同年の8月18日に没したため、ついにその成果をみることができなかった。
(参考 有馬ビューホテル ホームページ)
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