2007/02/26 - 2007/03/02
5963位(同エリア11697件中)
イスカンダル亜力山大さん
- イスカンダル亜力山大さんTOP
- 旅行記21冊
- クチコミ2件
- Q&A回答287件
- 121,998アクセス
- フォロワー5人
裏バンド~バンド~北バンド編の続編。
ゲットーは、元々中世のヨーロッパに於いて、多数派のキリスト教の勢力が及ばないユダヤ教の人々が住む地域として発生した。
しかし、ゲットーと言えば、第二次世界大戦の頃、ナチがユダヤ人の移動を制限するために囲い込んだ強制収容所のイメージが強い。
当時のユダヤ人は、第三国のビザを持たなければ、ゲットーから脱出できなかった。
ビザ発給主体の無かった上海は、ビザ無しで行けるユダヤ人たちの駆け込み寺だったようだ。
ところが、来てみれば現実は違った。
共同租界東区にユダヤ難民収容所が設けられ、「東洋のゲットー」があったのだ。
当時、共同租界の北区と東区は、実質的に日本租界が形成され、ドイツの同盟国の日本が一帯を仕切っていた。
ナチのゲットーから逃れてきたユダヤ人たちは、ここでもゲットーへ行かざるを得なかった。
- 同行者
- その他
- 航空会社
- 中国東方航空
- 旅行の手配内容
- その他
PR
-
スタッドレーパーク
現在は霍山公園
この公園に、ユダヤ難民の記念碑がある。
ラビン元イスラエル首相の訪問時に作られたそうだ。 -
かつてここにゲットー有りき
中国語、英語、ヘブライ語で記されている。
“第二次世界大戦時のユダヤ難民居留区
第二次世界大戦時、数万のユダヤ難民が
ナチの迫害を逃れて上海へ流れてきた。
日本当局はユダヤ人を無国籍者として、
ゲットーに隔離し、行動を制限した。
その地域は、西は公平路、東は通北路、
南は恵民路、北は周家嘴路に及んだ。” -
Wayside Roadウェイサイド・ロード匯山路(霍山路)界隈
何と!
ユダヤ人のお婆さんが歩いていた。
ユダヤ人は、とうの昔にアメリカやオーストラリアへ移住してもたもンじゃと勝手に思いこんでいたら、、、、、。
とんでもない。
前から一見して分かるユダヤ人のお婆さんがひょこひょこ歩いてきた。
何で上海に残ったン?
上海人と結婚でもして、脱出の機会を逸したン?
ワカランなあ、謎じゃあ、、、、、。
申し訳のうて、とてもやないけど、カメラを向けれンかった。 -
Wayside Roadウィサイド・ロード匯山路(霍山路)×舟山路の角
世界一お金の臭いに敏感なのは、ユダヤ人と言われる。
事実、ゲットーができる前、カオス混沌の上海へ来て一攫千金を当てたユダヤ人は大勢いる。
香港ペニンシュラホテルのオーナーのカドーリーや、和平飯店の基を築いた不動産王サッスーン、マーラーらは、ほんの一握りの大富豪だが、数え切れない数のユダヤ人が、魔都の表裏で大成功を納めた。
ほれは、この界隈のこととチャう。
大富豪の足跡は、明日辿る。 -
舟山路界隈
派手に成功したユダヤ人の陰に隠れて目立たないけど、上海の掃きだめに、ヨーロッパから流れ着いた難民のユダヤ人の集団が居った。
ほのなかにマイケル・ブルメンソールもいた。
このゲットーの残り香のする通りに、彼が幼少期に逃れ棲んだ家があった。
ブルメンソールって何者? -
ブルメンソールの家
現在は一般のアパート
ブルメンソールはユダヤ系アメリカ人で、ケネディ、ジョンソン両政権で通商副代表を、カーター政権では財務長官を務めた人。
意図的な円高誘導で、日本に大打撃を与えた人物として、日本の経済界からは、鬼呼ばわれされた人だ。
第二次世界大戦下のドイツ支配地域では、第三国行きのビザを持つユダヤ人のみが、ゲットー(ユダヤ人強制収容所)から脱出することが出来た。
けど、ほんなビザを発給する国は皆無だった。
自由の国アメリカでさえ、ユダヤ人にはビザを発給しなかったのである。
いや、じつはパスポートやビザ無しでも行けるところが世界に一つだけあった。
領域主権が誰の手にも存在せず、ビザ発給主体の成立していなかった場所。
ほれが租界の街、上海だったのである。
舟山路59号 -
ブルメンソールの家
国旗掲揚環?
ダビデの星が掲げられていたのか?
ワカラン!
ブルメンソールの母は、ゲシュタポに捕まった夫と家族のため、日本郵船の上海行き片道切符4人分を手に入れた。
ゲシュタポの魔の手から夫を取り戻したブルメンソール夫人は、幼いマイケル少年を連れて、船の切符をビザ代わりに、世界の掃きだめへと旅立った。
ブルメンソールは回想する。
「世界で一つだけ行けた場所は、誰一人行きたがらない土地だった。
私にとって上海で最良の日は、1947年9月8日、上海を去った日だ」
と。
円高誘導を仕掛けたとされるブルメンソール財務長官に、はたして日本への私怨はなかったか?
井上@打浦橋@上海さんの、
http://4travel.jp/traveler/dapuqiao/album/10047991/
も、ご覧いただきたい。 -
ユダヤ難民収容所
現在は一般のアパート
この建物は戦後の物と思われる。
当時の難民収容所が、一時的にせよ、こんなコンクリート造りだったとは思えない。
長陽路138号他 -
ユダヤ難民収容所
中庭に干された豚肉
このあとオーヘルモーセ教会(摩西会堂)へ行く予定だったが、うっかり通過してしまった。
教会は、当時のゲットーの様子などを後世に残す博物館になっている。
後で分かったことだが、現在改装中。
Ward Roadワード・ロード華徳路(長陽路)からMuirhead Rordミューヘッド・ロード茂海路(海門路)へ戻って、提籃橋バス停から875路のバスに乗り、日本租界の中心部を目指す。 -
吉祥路界隈
臨平北路吉祥路バス停で降りて、吉祥路へとことこ入る。
レンガ造りだが、ゲットー地区とは趣が異なる。
共同租界北区の北限はRange Roadレンジ・ロード老[革巴]子路(武進路)の北辺りまでで、ほこから北側は華界=中国人テリトリー。
しかし、日本租界の中心はもっと北。
境界線を越えて、北へ進出したんだワ。
吉祥路は、中心部に近い。
通りの右側の緑は、日本高等女学校の植え込み。 -
日本高等女学校
1923年竣工
現在は虹口区第三中心小学
日本上海居留民団により、1920年に創立。
当初は別の場所にある尋常小学校に併設されていたが、1923年に三菱社宅を買収し、この場所に独立。
その後、手狭になったので、別の広い場所へ移転。
山陰路103号
(吉祥路×山陰路の北東角) -
Scott Roadスコット・ロード施高塔路(山陰路)界隈
吉祥路よりも道幅が広く、人通りも多い。 -
魯迅の隠れ家
紹興風建築
現在は魯迅博物館
1933〜36年まで、魯迅が内山完造の庇護の下で過ごした隠れ家。
江南の紹興風の建物だが、現存するのは、近年になって建て直されたもの。
魯迅は左翼系危険分子として、国民党や日本軍部から追われ、租界内を転々としていた。
が、必ずしも追っ手は厳しくなかったようだ。
上海市文化財
山陰路132号9弄 -
魯迅の隠れ家の説明板
日本語の記載もある。
けど、ここって日本人来る?
我がグループも、中へは入らなかった。 -
尾崎秀実の自宅があった辺り
現在は一般のアパート
尾崎秀実(おざきほつみ:1901〜1944年)は、大阪朝日新聞の記者をしていた1928年(昭和3年)、特派員として上海へ赴く。
上海勤務の間に、アメリカ人ジャーナリストのアグネス・スメドレーを介してリヒャルト・ゾルゲと知り合う。
ゾルゲはドイツの新聞記者という肩書きだったが、じつはコミンテルン(共産主義の国際組織)のスパイだった。
共産主義研究に没頭していた尾崎は、ゾルゲと意気投合する。
3年余りの上海勤務を終えて、尾崎は帰国。
新聞社を辞職し、近衛内閣や満鉄調査部の嘱託として、政府中枢部の極秘情報を入手。
(尾崎の満鉄調査部時代の月給500円:今の金額にして100万円ほど)
尾崎は東京特派員として赴任していたスパイゾルゲに情報を流した。
ゾルゲは、第二次世界大戦の趨勢を左右したとされるドイツのソ連侵攻や、日本軍部の南進情報を、コミンテルンへ流した。
1944年(昭和19年)尾崎はゾルゲと共に逮捕され、同じ日に絞首刑になった。
ゾルゲ事件の原点の一つがこの辺り。
魯迅の隠れ家から目と鼻の先だが、往時の痕跡は無かった。
中国ではゾルゲ事件は知られていないのかも。
山陰路145号から花園里弄内 -
内山書店(二代目)
現在は工商銀行
内山完造(1885〜1959年)は、京都で洗礼を受け、牧師のツテで参天堂(現参天製薬)に職を得、販売員として上海へ渡る。
書店は、開店当初(1917年)は、妻の喜美子が一人でやりくりし、キリスト教関係の書籍のみを扱っていた。
市場のニーズに合わせて業務拡大とともに、1929年(昭和4年)にこの場所へ移転。
完造が店主となる。
翌1930年(昭和5年)、内山は参天堂を退職し、本格的に書店経営をする傍ら、日本や中国の左翼系文化人、知識人とも交流を深める。
当時内山書店を訪れた著名な文人に、金子光晴、横光利一、林芙美子、武者小路実篤等がいる。
内山書店の奥には喫茶スペースがあり、文化人、知識人のサロンとなっていた。
四川北路2048号 -
内山書店の記念プレート
左:内山完造 右:魯迅
1934年(昭和9年)には、官権に追われた魯迅を、書店裏の自宅や近所に、二ヶ月間もかくまっている。
これ以前から、いわゆる地下出版物も扱い、当局からは目を着けられていた。
内山書店は、内地で官権の目を逃れた左翼系文人たちの駆け込み寺にもなっていたようだが、内地に較べれば、まだまだ上海は取り締まりが手ぬるかったのか。
戦況が悪化する中、1945年(昭和20年)喜美子が病死。
完造は失意のうちに終戦を迎える。
書店は国民党に接収されるが、共産党の上海解放と共に共産党の手中に。
内山完造は1947年(昭和22年)日本へ引き揚げる。 -
日本租界の中心
北四川路(四川北路)界隈
右手ビルの奥に、上海神社の広大な境内が広がっていたが、今は跡形もない。
右前方5階建てのビルは、日本海軍特別陸戦隊本部(交通銀行)
四川北路2090号付近 -
日本海軍特別陸戦隊本部
1928年竣工
現在は中国交通銀行
日本海軍は、邦人保護を名目に陸上戦闘部隊を展開した。
海軍は1900年の北清事変を皮切りに、情勢緊迫の度に上陸。
虹口に常駐し、虹口公園近くの洋館を購入し、司令部を置く。
第一次世界大戦開戦後の1928年、洋館を潰し、現在の鉄筋コンクリート4階建てのビルを建てる。
32年の上海事変、37年の第二次上海事変の時にもここから出撃し、中国軍と市街戦を展開。
陸軍が上陸するまでの間、日本人居留地を防衛した。
戦後、5階部分が継ぎ足されたたが、継ぎ目がややいびつな感じになっている。
四川北路2180号 -
Darroch Roadダロック・ロード宝楽安路(多倫路)の北門
多倫路は近年再開発された新しい観光地。
多倫路文化名人街=多倫路文人有名人街と言う。
日本のツアーもチョイチョイ来る。
と言っても、日本人が知っているのは、やっぱし魯迅と内山完造ぐらいでしょ、たぶん。
ここからてくてくL字型の短いDarroch Roadダロック・ロード宝楽安路(多倫路)を通り抜ける。 -
知恩院=孔祥熙別邸
1924年竣工 アラブイスラム様式建築
元々はアラブ趣味のオランダ人の邸宅だった。
上部をアーチにした窓が、イスラム様式のなごりを留めている。
装飾に一切動物を描いていないのは典型的なイスラム式。
また、外からは分からないが、イスラム式の中庭もある。
戦前、日本の宗教はこぞって大陸へ進出した、神道も仏教も。
浄土宗もその中の一つ。
ただ、ここにある知恩院は、布教と言うよりも信者の心の安らぎのためにあったのかもしれない。
何故ならば、全くお寺の体裁を成していないからだ。 -
知恩院=孔祥熙別邸の窓枠とバルコニー
この屋敷は、オランダ人のオーナーを経て、一時期国民党の金庫番、孔祥熙の私邸だったことがある。
知恩院は孔祥熙からここを借りていたのかもしれない。
上海市優秀近代建築
多倫路250号 -
白祟禧邸
1920年代竣工 新古典主義様式建築
現在は中国人民解放軍第411医院理療科
元々は広東のとある実業家の持ち物だったが、白祟禧のものになり、今では白祟禧邸として知られている。
白祟禧は国民党の軍人で、国民党が上海で勢力を張っていたとき、上海市内に数軒の邸宅を所有していた。
ここはその中の一軒。
多倫路210号 -
???邸
1920年代竣工 ルネッサンス様式建築
現在は???
4本のイオニア式列柱が特徴的な洋館。
多倫路208号 -
夕拾鐘楼
現在は左翼作家連盟結成記念会館
魯迅の小説「朝花夕拾」から名付けられたそうだが、不勉強なイスカンダル亜力山は読んでないm(_ _)m
多倫路145号 -
鴻徳堂
1928年竣工
現在は虹口区文化館 -
ン?
バイクのシートに狼の毛皮?
珍しいモノを見てしまったのら
このあと、北四川路(四川北路)へ出る。 -
日本尋常高等小学校
1917年竣工
現在は虹口区教育学院実験中学
上海の日本人小学校は、1882年(明治15年)頃、上海の東本願寺(現在の武昌路×乍浦路北西角)を起源とする。
尋常小学校は、1907年に上海居留民団の小学校として創設。
1917年に、内地にはなかった鉄筋校舎を新築。
終戦までに虹口に9ヶ所の国民学校を有していた。
ここは、その最初期の尋常小学校。
当時の校舎は、通り沿いからは見えにくいが、今も現役で残っている。
四川北路1844号
このあと、せっかく上海へ来たんやけん、旅遊バス10号線で定番の南京路ホコテンへ。
ホコテン近くで早めの夕食の後、ライトアップも美しいホコテンへ繰り出した。
お目当ては、買い物と足つぼマッサージ! -
南京東路歩行者天国の夜景
大馬路(南京東路)の世紀広場東から、西方向を臨む。
左:永安百貨 中右:皇冠娯楽城&東亜飯店
今日は2月27日やけど、まだ新年快楽=あけましておめでとうの飾りつけがあるし、クラシックビル真っ正面に、不釣り合いな日本の某化粧品の宣伝があるし、、、、。
京都の景観条例や、完全に却下されるな、上海では。
ホンマに何でも有りやネ、上海は。
上海租界ぼらぼら<フランス租界の前編>へ つづく
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- 老頭児さん 2007/03/24 12:44:33
- 蘇州河ぞいの倉庫
- イスカンダル亜力山さん 日本租界の近くですが 四川倉庫と言う建物があるそうです。
北京の電視で見ました。
上海攻防戦で国民政府軍800名が立て籠もり攻める日本軍が苦戦した場所だそうです。蘇州河の南岸はイギリス租界で重火器は使えず日本軍は苦戦したとか、方や イギリス人はグラス片手 ダンスなどして見物して居たそうで。
確か今は芸術関係の建物になつてるそうです、或るいわ記念館か いずれかでしょう。
思いだして書きました。
- イスカンダル亜力山大さん からの返信 2007/03/24 15:54:02
- RE: 蘇州河ぞいの倉庫
- KK生さん、まいど!
四川倉庫ですか。
どの辺りなんでしょ?
ひょっとしたら、知らずに前を通ったかもしれません(^^)
ほな、好運常伴!
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
29