590 神楽坂(かぐらざか)探索 東京都新宿区神楽坂:しんちゃんさんの旅行ブログ
神楽坂は高級料亭が立ち並ぶイメージがありました。表通りは普通の商店街ですが、裏通りに一歩踏み入れると、おしゃれなカフェ・レストランをたくさん見つけました。もちろん代議士さんが来るような料亭もありました。「***坂」「***小路」がたくさんありました。やっぱり詳しくネットで調べてから行くべきであった。唯一調べておいた是非見てみたい場所はお世話になっている「フォートラベル」の看板であった。多分皆様見たことないでしょう!
道標説明版からです【坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏しから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。】
怖そうな狛犬です。“犬”ではなく“虎(とら)”です。【神社に奉納、設置された空想上の守護獣像です。本来は「獅子・狛犬」といい、向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬です。 阿吽の形になっているのは日本特有の形式で、中国の獅子像などは、多くは阿吽になっていません。…】色々載っています。「http://www.asahi-net.or.jp/~dw7y-szk/faq.htm」「狛犬とは何か? 100万人の狛犬講座」からコピーです。
「光照寺」説明版からです。【新宿区登録史跡 牛込城跡 所在地 新宿区袋町十五番地 登録年月日 昭和六十年十二月六日 光照寺一帯は、戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。牛込氏は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡(せたぐんおおご)の領主大胡(おおご)氏を祖とする。天文年間(1532〜55年)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文24年(1555年)重行の子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含めて領有したが、天正18年(1590年)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。現在の光照寺は正保2年(1645年)に神田から移転してきたものである。なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」、「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。平成七年八月 東京都新宿区教育委員会】
説明版からです【鐘楼堂 光照寺は慶長八年(1603年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保二年(1645年)ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。鐘楼堂は明治元年(1868年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏棄釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、60年の歳月を経て昭和12年(1937年)に復興を見ましたが、昭和20年(1945年)第二次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。平成五年(1993年)一月 浄土宗 光照寺】
日本出版会館敷地の銀杏の木の下の説明版からです。【新宿区保護樹木 樹齢250年以上のイチョウの木。戦時中、焼け野原となった街にこのイチョウが焼け残っており、それを目印に被災した人々が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の傷(裂け目)が残っており、そこからトウネズミやケヤキが生えており、生命力を感じさせます。イチョウやシンの木は水分を多く含むため、焼失せず残った木が今も数多く区内に存在しています。(新宿区平和マップより)】
説明版の概略です【明和2年(1765年)幕府は宝暦暦(ほうりゃくれき)の不備を正すため、天文方の佐々木文次郎が司り、この地に新暦調御用所(天文屋敷)を設けた。光照寺の大樹が測量の邪魔になり明和6年に浅草へ移転した。】
本殿。HPは「http://www.akagi-jinja.jp/」群馬県赤城山とやっぱり関係がありました。
「後姿で撮らせて下さい」お願いしました。神社仏閣に似合わない若い女性二人が御参りに来るのは何か訳あり?正面からも頼めばよかったかな?内気なので…5枚前の写真に正面から映っています。
戻りながら裏通りを探索。説明版からです。【寺内(じない)公園の由来 この「寺内公園」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道潅、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、三代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。江戸中期の天明八年(1788年)い境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政四年(1857年)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治四年(1871年)には行元寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和二十六年からは「神楽坂五丁目」になっています。)】
続きです。【行元寺は、明治四十年(1907年)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し大正元年(1912年)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、毘沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正四年作(1915年)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新本郎 芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました】昭和12年(1937年)フランス人ノエル・ヌエットが描いた神楽坂
某ブログからです。【昔、農作物や魚介類など生活物資を積んで隅田川や神田川をさかのぼってきた荷船の陸揚げ場。 そこから積荷を牛込方面(新宿区)へ運ぶ人足 「軽子」 が通ったという 「軽子坂」 は神楽坂と並行している上り坂。 堀部安兵衛が高田馬場決闘へ駆け上って行ったとか】と載っています。
右折禁止しようとウインカーを上げているときに「ここは右折できません」とスピーカーで言われていたが、右折してしまったために「御用」となりました。被害者でなく加害者の自動車を撮りました!ラジオとか音楽のボリュウムが大きくて警告が聞こえなかったのでしょう。残念でした。
「まかないこすめ」HPは「http://e-makanai.com/」
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