栃木県大田原市黒羽探索(旧那須郡黒羽町):しんちゃんさんの旅行ブログ
黒羽城跡の山。ここ黒羽は黒羽藩として、藩主大関氏によって江戸時代に16代栄えた藩のひとつです。1万8千石、大名としては小さい方です。こんな藩と「慶安御触書」(けいあんのおふれがきしょ)の関係を知ることになりました。1700年後半農村は荒廃してきました、黒羽藩の重臣、鈴木武助(すずきぶすけ)はそれらを食い止めるため、さまざまな仕法(農村復興事業)を行いました。凶作・飢饉に備えて倹約と貯穀を勧めました。間引きを禁止し、三人目の子供からは年に米を一俵支給しました。領内にチラシ(壁書)を配布し農民に間引きがいかに悪い事かを伝え歩きました。続く
続きです。これらの仕法は後に「農喩」(のうゆ)としてまとめられました。江戸藩邸を訪れた幕府代官、広瀬伊八郎が仕法をほめて帰って、この「仕法」は全国に広まったそうです。国政に関して、老中松平定信に2度に渡って建言し寛政の改革とのつながりもあるようです。「百姓身持之覚書」甲州武田藩、「慶安御触書」美濃国岩村藩は黒羽藩出身の鈴木武助が編纂した「農喩」が参考になっているようです。二宮金次郎が藩の財政、農業の再興に尽力した50年以上前にこんな人物が黒羽に住んでいました。(栃木の人物再発見、栃木県立文書館より)
お店のご主人が帰ってきて、見つかってしまいました。しんちゃん照れ笑いして、言い訳気味に「店内がカッコ良いんで撮影していました」若旦那「良いですよ」PDCA回して企業努力しているようです。松尾芭蕉の足跡を見学している事を伝えました。
「銭室塚古墳」黒羽の中心地から南南東へ約3Km田の中に古墳が見えました。説明版からです。【那珂川左岸段丘に立地する2段築成の円墳である。直径26m、高さは4.5mあり、ほぼ中段にテラス状の平坦面を持つ。墳丘表面は、河原石の葺石で覆われている。埴輪等が伴っていた痕跡は見当たらない。…略…
…続きです… 現在、周囲には古墳は認められないが、当時は数基の円墳が群集しており、この古墳もその中のひとつであったと思われる。周囲の水田には、古墳時代後期に比定できる土器片が散布しており、銭室塚古墳もこの時期に築造されたものと推測される。未調査の古墳であるが、円墳ではなく墳形を帆立貝式とみる考え方もある。黒羽町教育委員会】
10年01月09日(土)、旅の途中のポタリングMR4Fで、そうだ!テーマ決定!これでいこう!
by てり〜(terikara テリカラ てりから、terikara_3テリカラさん)さん・写真40枚
同行者: 一人旅
旅行テーマ: 特になし・その他
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