「桜町陣屋跡」「二宮尊徳資料館」栃木県芳賀郡二宮町物井2013-2:しんちゃんさんの旅行ブログ
「二宮金次郎」本名「二宮金治郎」後の「二宮尊徳」は知らない方は無いと思います。生誕地は神奈川県小田原市栢山(かやま)(旧、相模国足柄上郡栢山村)若くして両親は亡くなり、兄弟は親戚へ。田畑は酒匂川の氾濫で耕作断念、苦労苦学して生家を再興、手腕を見込まれ、小田原藩の飛地「下野国桜町領」現在の「栃木県芳賀郡二宮町」へ赴任させられました。「二宮金次郎」知れば知るほど奥が深い見学記でした。何かの“ついで”に是非見学に来て下さい。一時間もあれば充分見学可能です。多分、多くの疑問が残るはずです。写真は「桜町陣屋跡」“陣屋”とは兵士の宿営地の意ですが、この場合は“役所”と“官舎”を兼ねた建物の事です。小田原藩の飛地のため、役所の出張所を設置したそうです。栃木県の「二宮尊徳資料館」から小田原の二宮尊徳記念館まで直線距離146Kmあります。当時は歩いて三日三晩掛かったそうです。
昭和62年ごろの「桜町陣屋跡」現在の二宮町の中心街より、直線距離にて北東へ約5Km田園地帯の中にあります。二宮町の名前の由来とは、当然「二宮金次郎」の功績をたたえ、昭和29年に栃木県知事から町村の廃置分合により、栃木県芳賀郡長沼村、久下田町及び物部村を統合して二宮町となったそうです。
栃木県の南東の端。茨城県との県境もすぐ近く。3・4Kmで茨城県です。茨城県道・栃木県道45号、つくば真岡線途中にあります。
二宮町のホームページに町の歴史が載っています。「http://www.nim-net.jp/」の中の「町勢要覧」→「二宮の歴史」に二宮尊徳伝と称して概略が記載されています。町内の地図もあり名所・旧跡が分かります。参考にしてください。
「二宮尊徳資料館」前の有名な銅像。かわいい銅像でした。その昔、銅像は1mあり、先生が「1mとは二宮金次郎の銅像の高さである」と言ったとか?寸法を測るの忘れました。車にはスケールが入っていましたのに…小田原城下に、薪を売りに行った途中の姿を銅像にしましたが、実際はこんな優雅な姿ではなく、薪(まき)・柴(しば)は天秤棒(てんびんぼう)で担いで小田原城下まで売りに歩いたそうです。
館内に入りましたら、展示物品室前にて、館内の方が二宮金次郎の概略を説明してくれました。説明料金は無料です!全部暗記されており、質問にもテキパキと答えてくれました。記憶装置が良くないので、大半を忘れてしまいました。
70歳にて没しましたが、農民出身でありながら帯刀も許され、桜町の復興命令を受けたときは名主役格、36歳でした。40歳で組頭格、桜町主席。48歳で、徒士格(かちかく)に、56歳で幕府に登用(御普請役格)57歳で二宮尊徳と改名したそうです。改名当時は訓読みで“たかのり”と読んでいたそうですが、後の方が音読みで“そんとく”と読んだため現在ではソントクとなったそうです。館内の方が説明してくれました。
農家の方がいくら頑張っても自然には負けてしまします。堰を設けて田に水を引きました。現在はコンクリートですが当時はワラ等を川に沈めたり、木の杭等を埋めたりしたそうです。近くの堰跡もこの後見学にいきました。
江戸幕府では、この桜町領を禄高「四千石」と査定していました。二宮尊徳が訪れたときは、実際の禄高は千石しかありませんでした。長い歴史を宇津家は本家の小田原と奥方の実家「上杉家」からの支援によって経済をたててきました。耕すところは全部耕しても、桜町は二千石しか取れません。幕府に逆らう事は謀反のためそんなことは尊徳はしませんでした。宇津家の収入と支出を見直し“分度”として新しい作成しました。お殿様奥方のお小遣い半分、用人の給与を約四分の一、等々厳しい制約を策定しお殿様は承諾し実践して宇津家の立て直しをしました。お隣の青木村でも再生を頼まれましたが当主の青木家が“分度”を守ならかったため失敗に終わったそうです。
第二次世界大戦、終戦後「二宮金次郎」が1円紙幣になりました。本物を見せていただき、「写真に撮らせてください!」ソファーの上に置いて記念撮影しました。現在でも使用可能だそうです。
600以上の村を救ったそうです。第二次戦争前後は色々と美化され、また罪悪人化されました。戦争の掲揚に利用されたのは二宮尊徳の責任ではありません。罪悪人化されたのも二宮尊徳の責任でもありません。一生の功績を見れば誰も納得尊敬するに違いありません。
明治44年の「桜町陣屋」と「足洗池」右奥に二宮神社が見えます。敷地は広大でした。東西約90m、南北約109m、面積約1.1ヘクタール敷地内には田畑もあったようです。
吉良八郎の記念碑(宇都宮市桑島町)【元細川藩士で、元の名前を波多晃八郎。訳ありて藩より追放処分を受けた。二宮尊徳の門人となり、名前を“吉良八郎”と改名。報徳仕法の実践に尽くした。尊徳没後、宇都宮藩より鬼怒川沿岸(桑島町)の開拓を依頼され、129町歩の荒地を開拓した】説明文の概略です。
現在の桑島町の美田。この写真を現在の写真の写真に取替えたいと思います。地元の方に昭和初期にもこの地帯には沼地があり清水が沸き、鬼怒川の氾濫を防ぐために土手を構築したそうです。
写しです…「二宮金次郎墓域」二宮翁の娘文子(富田亮慶夫人)は嘉永6年(1853年)真岡東郷陣屋で難産(死胎分娩)で逝去し親子とも両親の指示により当院に葬られた。(行年三十才)【享年三十才】二宮翁は安政三年(1856年)日光神領復興仕法中今市役所で逝去され(行年七十才)今市の如来寺に葬られたが門人横山平太(桜町陣屋代官)がその遺髪を奉じて娘墓の側に葬った。
二宮尊徳が覗いた節穴を撮影したくて、玄関のブザーを押しましたが、しんちゃんの姿が怪しまれて居留守?又次回に訪問します!!
陽が沈み、暗くなりましたが「産宮神社」わきに、三ノ宮堰跡がありました。場所が分からず、通りがかりの方に聞きましたが、一人目はほんの200m近くでしたが分からず!二人目は400m離れていましたが、お年寄りで知っていました。
とうとう、暗くてフラッシュを使用しないと写らない時間になりました。もっと見学したい場所がありましたが、ログハウス製作が雨・風・寒さで断念しての見学でした、疑問一杯の見学記になってしまいました。もう一度ならずとも、二度三度訪れたい場所でした。江戸時代の後半1800年代に“桜町?”田も荒れていた、ド田舎なのに何故?小田原藩の飛び地??追々勉強したいと思います。
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