2007/11/04 - 2007/11/04
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井上@打浦橋@上海さん
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「上海ラプソディー」と言う本があります。
戦前の上海で活躍した伝説的ダンサー・マヌエラさんの自伝です。
彼女の本名は和田妙子さん。今年の初め頃にお亡くなりになりました。
90歳近かったんじゃないでしょうか。
彼女のことは西木正明さんの「ルーズベルトの刺客」にもタップリ出てきます。
「上海ラプソディー」を読みますと、当時の彼女の周りにいた人は、殆どがユダヤ人です。
国籍はまちまち、ロシア人だったり、ポーランド人だったり、ドイツ人だったり、フランス人だったり・・・・でも、皆さんユダヤ系なんです。
彼女の踊りの先生、長く付き合った親友、彼女が踊りまくった当時の有名ないくつかのクラブのオーナー達、彼女の服のデザイナーなどなど。
とにかく、当時の上海にはユダヤ人が多く住んでいたんでしょう。そして、大金持ちもいたし、レストランやらカフェなどを経営してた人なども、数多くいたんでしょう。
上海のユダヤ人は、上海に入った時期、どの国から上海に入って来たか、で3つに分類されるそうです。
まずは、バクダッドやボンベイなどイギリス占領地域から来たユダヤ人です。 この人達は上海で不動産や阿片や競馬などで大儲けした人達です。 代表的な人はサッスーン、ハードーン、カドゥーリです。
サッスーンは和平飯店や錦江飯店などの上海の有名建築物のオーナーです。ハドーリーは上海で一番の大金持ちだったとか・・・・ カドゥーリーは香港ペニンシュラの実質的なオーナーで、当時は大理石大厦なる豪華宮殿の様な建物のオーナーでした。その他、キャセイパシフィック・グループのスワイヤとか、ジャーデン・マセソンとか有力なユダヤ人も上海で活躍してました。
このグループをセファーディック系ユダヤ人というそうです。
その次がアシュケナージ系ユダヤ人という人達です。主にロシア革命で逃げてきたユダヤ系ロシア人や、東欧から流れてきたユダヤ人のことを言うようです。彼らは、上海で小さな商売やらレストラン経営などをしていたそうです。また音楽家や芸術家も多かったそうです。
最後に流れてきましたのが、1938年から41年にかけて、ドイツとオーストリアから逃れてきました2万人のユダヤ人です。
当初は金持ち連中ですが、時代が下るほど、人数が増えてきて、惨めな生活を強いられるようになってきたのかと思います。
この3種類のユダヤ人は、住む地域も違っていました。大金持ち連中はイギリス租界の一等地、ユダヤ系ロシア人は、フランス租界、そして最後のナチに追われた人達は日本租界と言われていた地域の中に押し込まれたようです。
この日の散歩は、ユダヤ系ロシア人が住んでいたと言われてる地域の散歩です。
そこには、ユダヤクラブがあり、ユダヤ医院もありました。またロシア人に愛された詩人・プーシキンの記念碑などもある地域です。
なお、ナチに追われて流れてきたユダヤ人が住んだ地域に関しては下記をご覧ください。
「上海のユダヤ人街・提籃橋」
http://4travel.jp/traveler/dapuqiao/album/10047991/
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コレが当日の散歩コースです。
我が家がある打浦橋からは歩いてきました。
何故、このコースの散歩になったかと言いますと、上海音楽学院に行くためでした。
当学院に今年留学した人と知り合いになりまして、彼に院内を案内してもらい、院内にあるユダヤクラブを見学したかったのです。
このユダヤクラブには以前も訪れていますが、その時は、まだデジカメを持っていませんでしたので、今回は、それを画像に収めるために訪れました。
コースはジグザグコースとなりました。
案内図で黄色いラインで示したものが、そのコースです。
永嘉路⇒太原路⇒永康路⇒襄陽南路⇒復興中路⇒上海音楽学院⇒汾陽路⇒眼耳鼻喉科医院⇒汾陽路⇒プーシキンの胸像・・・と言うコースです。 -
これは永嘉路にあるお屋敷です。
永嘉路には、こういったクリーム色とチョコレート色の組み合わせの色合いの建物を多く見かけます。
永嘉路は旧フランス租界時代の呼び名はRoute Herve de Sieyesです。漢字表記は西愛咸斯路です。 -
永嘉路から太原路に入りました。
太原路の旧フランス租界時代の呼び名はRoute Delastreです。漢字表記は台拉斯脱路です。
太原路も、なかなかシットリとした静かな道です。 -
太原路にある歯医者さんです。昔からあるお屋敷を利用してるようです。
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太原小区という名の住宅地です。
中に入ってみます。 -
中は、こんな感じです。
前を行く2人は、一人が欧米人、もう一人の女性が不動産仲介業者でしょう。 -
こんな感じの家が建ち並びます。
昔は、白系ロシア人が住んでいたのかもしれません。
あるいはフランス人か・・・・・ -
太原路に出て、北に行き、永康路に入ります。
この道も、落ち着いた静かな道ですね。
永康路の旧フランス租界時代の呼び名はRoute Remiです。漢字表記は雷米路です。 -
こんな店もあります。レストランでしょうかあるいは食堂か・・・
名前はYesterday once moreです。 -
その東となりの店は蘭州正宗牛肉拉麺店です。
椅子に座ってる若い店員は、どうみても漢民族ではありません。
西方の人でしょう。 -
ここは上海第二中学です。
100年以上の歴史ある中学のようです。
現在の校舎は1933年に出来たもので、当時は雷米中学と言ったそうです。 -
ここは永康新村という小区です。
1931年にできたもので、優秀歴史建築に指定されています。 -
永康路は東へ行きますと様相が変わってきます。
この辺りからは商店が目立ち始めます。 -
ここはハンバーガー屋なのか、清水家と言う店です。
「清水」には「しむず」と振り仮名がふってあり、「漢堡屋」には「ハンバーガー」とふってあります。 -
襄陽南路手前まで来ました。
襄陽南路の向こうの永康路には市場が並んでるようです。 -
襄陽南路を超えたこの道も永康路ですが、入り込んだばかりの永康路とは全く違う世界です。
この地域の、食料品市場になってるんですね。 -
新鮮な緑の野菜がどっさり。
手前はマコモダケとセリです。 -
市場の上は普通の民家。
3階建ての、一部木造の長屋ですね。
これも、1930年代40年代のものなんでしょう。 -
この季節ですから上海蟹がどっさりです。
蟹は大きさによって、いくつかの桶に分けられて売られています。 -
日曜日の2時半と言う時間ですが、人出が結構多いです。
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手前のレンコンにもち米を詰め込んで、甘く煮込んだ料理は上海名物なのか、あるいは江南地方には、どこでもあるのか・・・なんせ、私は他の地域では見かけたことありません。
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道端のワンちゃんをパチリ。
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正宗山東特産となってました。
「桂花油 花生酥」というのが、このお菓子の名なのかもしれません。
ピーナッツを蜂蜜や麦芽糖で固めたものなんでしょう。 -
ここでは揚げ物を揚げています。
臭豆腐もありますが、他の種類の物もあります。
今、おばさんが揚げようとしてるのは大根てんぷらですね。
油燉子というもののはずです。 -
この奥には小区があるんですが、その出入り口で日向ぼっこする爺さん婆さんです。
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永康路の東端まで行き、また戻ってきて襄陽南路に出て、その道を北に行きます。
襄陽南路の旧フランス租界時代の呼び名はRoute Tenant de la Tourです。
漢字表記は拉都路です。 -
襄陽南路で見かけたお好み焼き屋です。
日式比薩となっています。つまり日本風のピザということです。
店の名は花子です。 -
襄陽南路から復興中路に出て西へ行きます。
復興中路の旧フランス租界時代の呼び名はRue Lafayetteです。
漢字表記は辣斐徳路です。 -
汾陽路との交差点手前まで来ました。
この道を渡って右に上海音楽学院の入り口があります。 -
上海音楽学院の中に入りました。
土日だったら、学生もいなくて静かで見学するには最適ということでしたが、この日はタマタマ、入学試験なのか、楽器の実地試験のようなものがあるようで、その受験者と父兄達で賑わっていました。
ここでもサキソフォンを吹く受験生と、それを見守るお母さんが見られました。
皆さん、あっちこっちで楽器の練習をしていました。 -
この方は、どなたなのか・・・
お名前は黄自となってまして、一代音楽宗士となっています。
いずれにしても上海音楽学院の創設に関わった人なんでしょう。 -
さて、コレがユダヤクラブなのか・・・・
私は、コレだと思うんですが・・・ -
こちらの建物だと言う説もあります。
日経BP企画出版の「上海歴史散歩」にはこの写真が掲載されています。
しかし、この本、ホントに間違いが多いので、イマイチあてになりません。 -
上海音楽学院を出て、汾陽路を西南方向へ行きます。
暫く行って左に見えてくるのが眼耳鼻喉科医院です。
この中に上海ユダヤ医院があるんです。 -
これがその上海ユダヤ医院です。
いや、今は違いますが・・・・。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・・
上海のユダヤ系富豪が出資して貧しいユダヤ人のために1934年に開いた上海聖裔社医院を前身として、1942年に上海ユダヤ医院が設立される。1952年、建物、機材などが第一医学院に精算売却されて、ユダヤ医院の歴史を終える。
・・・・・となっています。
ココで言うユダヤ系富豪とは初期の上海に乗り込んだユダヤ系イギリス人達のことでしょう。
アヘンや不動産や競馬で儲けた連中ですね。
そして貧しいユダヤ人とは、東欧やソ連から逃げてきたユダヤ人達のことなんでしょう。 -
そのユダヤ医院の前には広めの庭園があります。
そこに2つの銅像がありますが、これはユダヤ医院とは関係ないような・・・。 -
汾陽路に戻り少し行きますと、右に庭園付きお邸が見えてきます。
このお邸は白先勇と言う台湾の作家が少年時代に住んだお邸らしいです。
今はAmbrosa(仙炙軒)と言う高級焼肉レストランになっています。 -
また汾陽路に戻りチョイ行ったところに、こんな看板がありました。
COLABOという店ですね。
看板のメニューを見ますとイタリアン・レストランのようです。
COLABOに関しては下記をどうぞ・・・
http://jp.colabo.cn/index.html
どうも日本人が経営してるようです。 -
更に、その西隣にあるのが、昔の日本大使公邸を利用したレストランです。
その名も和平官邸です。下記が詳しいです。
http://happy.woman.excite.co.jp/garbo/extra/shanghai/restaurant02.html -
この散歩のラストスポットがココです。
ここは、北東方向からは汾陽路、西からは桃江路と東平路、そして南からは岳陽路が集まるところです。
そこにあるのが、このプーシキン像です。
なんで上海にプーシキンなのか・・・
このプーシキン紀念碑ですが、上海歴史ガイドマップによりますと・・・・
当初の像は、1937年にプーシキンの没後百年を記念して、中ソ両国の人々の募金により半身像が建てられたが、日本占領時に銅像は日本軍の手によって持ち去られる。1947年、像は再建されたが、文革の初期に像、碑とともに完全に破壊される。現在の像は、1987年8月、三たび建立されたもの。
・・・・となっています。
プーシキンは、どうも、亡命ロシア人には尊敬されていたのかもしれません。
当時は、この地域に数多くの亡命ロシア人がいたということなんでしょう。そしてユダヤ系ロシア人も多かったのかもしれません。
これで、「上海・ユダヤ系ロシア人が住んでた地域」は終わりです。 -
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